三十話 「金融の破壊」

†††



 会議場で異変が起こる一五分ほど前。ついにアピュラトリスにおいて決定的な問題が発生していることを理解した男がいた。



(…!)



 男は勢いよく立ち上がり、慌てて窓のほうに駆け寄る。いくつかの建物に下層部は隠されているが、眼前には山のような富の塔がはっきりと見える。


 見た目には何の異常もない。この段階では、サカトマーク・フィールドはまだ展開されていないからだ。しかし、その男、ヘインシー・エクスペンサーには、はっきりと異変が感じられたのだ。


 それは今までのような漠然とした異変ではなく、彼にとっては、もはや目の前で起こっているに等しい現実感を持っていた。


 すでにアナイスメルに何者かが侵入したことは理解していた。それはいいだろう。もともと自分たちでは手に負えないものであり、こうして突破してくれるならば逆にありがたい面もあるからだ。


 ヘインシーほどの【ダイバー〈深き者〉】にとってみれば、いくら痕跡を消しても、あとからトレースすることはそう難しいことではない。アナイスメルの秘密を解き明かすことは、ダマスカスに大きな利益をもたらす可能性がある。だから悪く言えば、悠長に構えていることもできた。


 しかしだ。

 こればかりは彼も予想していなかった事態である。



「馬鹿な! どうやって!! ありえない!」



 アナイスメルに侵入された時でさえ(探求的興奮はあったが)平静を保っていた彼が、思わず錯乱してしまうほどの現象。


 そう、今この瞬間、アピュラトリスにおいて起動したものがあった。


 【神の脊髄】である。


 ヘインシーが管理する頂上のドームに隠されていた、アピュラトリスの心臓。もう一つの中核。あれがアナイスメルにとっての【地上側のコア】であることはヘインシーも知っていた。


 なにせ彼の存在意義の一つが、あの神の脊髄、正式名称【マザー・モエラ】を監視および解析することなのだから。


(いったいどうやって! 何をやっても反応しなかったのに!)

 マザー・モエラを起動させることは誰にもできなかった。電気や電磁波、液体、薬品、人の精子や卵子に至るまで、さまざまなものを接触させてみたが何一つ反応しなかった。


 唯一わかっているのは、その名前くらいである。石版などと一緒に発掘されたファイルに記されていた名前を現代語訳したもので、それがコアであること以外は何も記されていなかった。


 それはつまり、これが【鍵】であることを示している。

 神の脊髄はセキュリティ・ロックなのだ。


 アナイスメルが完全なる力を発揮するために必要なもう一つの鍵。石版が地上側における意思伝達のデバイスだとすれば、マザー・モエラはそれを具現化させるための媒体である。


 いわば、今までのアナイスメルは無限の演算機能を持つガラクタ。半死半生のオンボロ機械のようなもの。人間が求めたものに対して、夢うつつに回答を述べる老衰した賢者のようなもの。


 そのアナイスメルが、本来の力を発揮するために必要なものが、何よりも神の脊髄であったのだ。そこまでわかっていながら、ヘインシーはおろか今までのダマスカス人にはどうしようもなかった。


 いや、ある意味では安堵していたのだ。


 もしマザー・モエラが動いてしまえば、手に負えるものではないことは明白。ならば、眠っていてくれていてもよいのだと。そのほうが安全であると。


 ヘインシーもいつの間にか、そう考えるようになっていた。神の脊髄は、彼の知的探求心を抑えるほどに計り知れない存在であったのだ。


 それが起動した。マレンが抑えていても、間接的にアナイスメルにつながっているヘインシーにはわかってしまう。



「どうしてこんなことに! 何が起きるかわからないぞ!」



 ヘインシーは頭を抱えながら、窓を叩いて回る。ぶつぶつと呟きながら歩き回る姿はなかなかに異様である。


 そんな彼をマジマジと見つめる男がいた。

 ダマスカス国防長官のバクナイア・ゼントーベルである。


 彼はバードナー中将に連絡をし、紅茶を飲みながら状況が動くのを待っていたのだが、突然ヘインシーが立ち上がり奇妙な行動を取るので硬直していた。「やはりこの若さで技術次官ともなると気苦労が多いのだろうか」などと心配もしている。


 才能ある者は、どこの組織でも叩かれるものだ。それが若ければ若いほどやっかみを受ける。ヘインシーも例外ではないだろう。ダマスカスでもパワハラはよく見受けられるもので、実に大きな問題の一つだ。次官であっても嫌がらせは多くあるのだろう。


 バクナイアはヘインシーの真っ青な顔を見て、さまざまな想像をめぐらす。思えば自分も出世した頃はヘソで茶を沸かせだの、血文字で書類を提出しろなどと無茶を言われたものだ。


 ただし、そこはさすがバクナイアである。ヘソという名前の木を遠国から輸入し、見事茶を沸かせ、血文字は足の血豆を潰した陸軍兵士(水虫あり)から徴収することで仕上げた。


 が、こうしたトンチを利かせられる者もそうは多くないだろう。真面目なヘインシーには荷が重いに違いない。



「ヘインシー君、力になれるかわからないが、悩みがあるなら私のトンチを頼りたまえ!」



 そうバクナイアが切り出すと、ようやくにしてヘインシーはバクナイアがいることを思い出す。「そういえば長官もいたな」くらいな感じの視線である。



「長官、急いで軍を突入させてください! いや、もう間に合わない。こうなれば、私が直接行くしか…!」



 詰め寄るようにまくし立てるヘインシーを、バクナイアは慌てて止める。



「ま、待ちたまえ。いったいどうなったのだ?」



 これが最近の若者に多いという「自分の中で盛り上がって、他人への説明を怠る病か!?」などと思いながら問いただす。


 こうも語気を荒げるヘインシーを見たのは初めてである。それほどまでに切羽詰まっていたのだ。ヘインシーほどの冷静な人間が我を忘れるほどに。それそのものが異常を示している。


 ただ、普段接点があまりないバクナイアは、彼もまだまだ若いな、くらいにしか思っていない。ここにまだ温度差があった。これは仕方のないことなのかもしれない。


 現実的な軍という武力を扱う、いわば軍人側のバクナイアと、実態のない概念上のものを扱わねばならない知識人のヘインシーでは、物の考え方や捉え方に違いが出て当然なのだ。


 それに加えて、立場はバクナイアのほうが上。そこに説明という時間を要しなければいけないもどかしさがある。これが致命的な遅れとなったことは事実であるが、誰も責めることはできないだろう。今起きていることがあまりに異常なのだから。


 ヘインシーは、一回深呼吸して気を落ち着け、今度はしっかりとした声で述べる。



「長官、【敵】の狙いがわかりました」



 その言葉に、バクナイアは驚愕の眼差しを浮かべる。今までヘインシーは、ハッキングしている存在のことを曖昧に表現していた。しかし、今ははっきりと【敵】と述べた。明確な意思をもって。



「敵…かね」



 バクナイアは改めてそう問う。敵とは、こちらに危害を与えるものを指す。ヘインシーにその認識が生まれた証拠である。



「はい。【彼ら】は、ダマスカスを滅ぼすつもりかもしれません」



 ヘインシーは同時に【彼ら】という言葉を使った。もはや相手が単独犯である可能性はゼロに近い。


 これはただのハッキングではない。流れの天才ハッカーが、面白おかしく連盟会議中に騒ぎを起こすことが目的ではない。むろん、知的探求心からでもない。




「これは【テロ】です」




 ヘインシーは断言した。それだけの確証があるからだ。ただし、マザー・モエラを起動できるほどの組織だとすれば、それはもはやテロリズムというものではなく【粛正】。


 アナイスメルをアピュラトリス〈富の塔〉に変えてしまった愚かな人間に対する、天からの罰であり粛正。ヘインシーにはそう思えて仕方がないのだ。



「それで、敵の目的とは?」



 そんなヘインシーの動揺を理解したバクナイアの目が鋭く光る。事はすでに、より緊急かつ重大になりつつあるようだ。ここで動きを間違えれば、もう手遅れどころでは済まない。


 バクナイアも修羅場を潜ってきた人間である。いざ緊急事態となれば何でもする覚悟だ。ヘインシーは頭の中で自己の感覚を言語に訳したあと、こう答える。



「まず一つは、アナイスメルの解放でしょう。つまりは、現在の金融システムの破壊です」



 アナイスメルの解放。

 ダマスカスに富の塔として縛られてしまった存在を【本来の姿】に戻すこと。それだけ聞けば問題がないように思えるが、それすなわち【金融の破壊】を意味する。


 仮にアナイスメルに蓄積された情報がロストあるいはロックされれば、全世界の金融データが消失するのだ。全世界の金融機関の個人情報が消える。すべてのセキュリティが消えてしまう。誰がどれだけの資産を持っていたかもわからなくなる。これは恐ろしいことだ。


 だが、これは序章にすぎない。


 問題は、【その人間が誰かすら特定できなくなる】ことである。


 仮にその人間が「自分は誰々だ」と名乗ったとしても、証明するものがなくなってしまう。アナイスメルは、DNAなどの遺伝子データもすべて蓄積している。顔も指紋も、当人が知らない癖さえも。


 それらが凍結すればどうなるのか。

 考えるだけでも未曾有の危機である。


 戸籍が証明できない。身分が立証できない。自分が誰かすらもわからなくなる。そんな状況が本当にやってきてしまうのだ。


 誰かが「彼は私の家族だ」と言っても、それが証明できない。改めてDNA検査の結果を待たねばならない。そのDNA検査の結果すら、改ざんされていればどうなるか?


 もはや人間には何一つ立証できないのだ。


 ダマスカスと直接のつながりのない小規模国家や辺境国家ならばまだしも、主要各国に与えるダメージは計り知れない。データが消えても紙媒体での記録は残るだろうが、復元には軽く数十年以上の時間はかかる。


 敵の狙いは【金融の破壊】であり【人間社会の破壊】。


 実はヘインシーには、漠然とその予感はあった。この国際連盟会議自体、今回の世界金融異変から起こったものである。この会議に合わせて動く存在がいるとなれば、そこに関わった者である可能が高いのは明白であった。


 ただ、これまではヘインシーも確信がなかった。金融市場の異変も、システム障害の可能性がありえたからである。ハッキング説もあったが、そう簡単にできるものではない。できたとしても、まぐれということもある。


 現に、システムが混乱した以上のことは起こらなかったのだ。ハッキングした者がその混乱に乗じて利益を得たかもしれないが、そんなものは微々たるものであるし、多くのハッカーは自分の流儀を持っている。現体制を混乱させただけで満足だったのかもしれないとも考えられた。


 が、マザー・モエラが起動した瞬間、すべてがヘインシーの中でつながった。


 現在、アナイスメルをハッキングしている人間と、金融市場をハッキングした人間が同じであること。そして、彼らの目的は最初からアナイスメルであったこと。東西の金融市場を混乱させたのは、今日という場を整えるための準備にすぎなかったこと。


 彼らは明確な目的をもってそれを行っている。今この瞬間、すべてが彼らによって仕組まれたことであったことを悟った。


 それは酔狂ではない。


 完全なる【強者】が、ダマスカスに【罰】を与える目的で行っている【粛正】なのだ。その強者はマザー・モエラのことも知っており、起動させる方法も知っている。


 それすなわち【賢人】。


 少なくとも彼らとは、賢人の力を利用できる存在であることを示していた。



「そしてもう一つは…」



 ヘインシーは彼ら、ゼッカーたちのもう一つの目的に気がついた。目的は金融の破壊だけではないと。アナイスメルにダイブした目的は、さらにそれよりも上位であると気がつく。


 ヘインシーの思考が恐るべき冴えを見せ、どんどんと意識が拡大していく。肉体の神経を超え、すべての事象が感覚で理解できるようになっていく。まるでアナイスメルにダイブしている時のような感覚である。


 これはアナイスメルが、すでに半分覚醒した状態になったことを意味した。こうして離れている状態でも、ヘインシーには巨大な意識の流れが理解できるようになってきたのだ。マザー・モエラが、その力を具現化しつつある証拠である。


(アナイスメル上層階には、今回の事件の【マスターキー】となるものが存在するのだろう)

 すでに敵はアナイスメルの深部に潜りつつある。その先がどこまで続いているかヘインシーにもわからないが、もっと深い場所に何かがある。それだけは間違いない。


 おそらく彼らの【真の目的】にとって、一番大切なもの。金融の破壊、社会の破壊などは、所詮そのための手段にすぎない。それがもう明確な意思として伝わってくるのだ。


(恐るべき存在だ。こんなことができるのは、神か悪魔かのどちらかだ)

 もし敵が神であり、より高潔なものであったとすれば自分たちはその逆、悪であり不正であることになる。それが今は何より恐ろしい。


 今まで自分たちは正義だと思っていた。

 経済を維持することは、平和を維持することだと思い込んでいた。


 だがもし、それが違ったら?


 今まで正しいと思っていたことが実は間違っていた。それを知った時の人間の顔は、きっと今のヘインシーと同じになるだろう。困惑、動揺、自己弁護。それを見て笑うのは神か悪魔か。


(私ならば止められるかもしれない)

 ヘインシーには、まだ間に合う予感があった。条件はかなり厳しいが、このまま相手側の好きにさせるわけにはいかない。もしヘインシーの予想が当たれば、ダマスカスはただでは済まないのだ。


 しかし、それをバクナイアに伝えようとした瞬間、ヘインシーの神経に強く焼けたような痛みが走った。その痛みにヘインシーは戦慄する。


(まさか! サカトマーク・フィールドも展開させているのか!)

 外を見るが、まだフィールドは展開されていない。しかし、アナイスメルの仮想領域において起動されたのが、ヘインシーにはわかった。ということは、もはや展開されることが明確な事実として存在を立証されたことを意味する。



「やられた…!」



 ヘインシーは、完全に相手のほうが一枚も二枚も上だったことを認めるしかなかった。惜しむらくは、自己の予感を軽く見たこと。もっと強行手段に訴えていればとも思う。


 だが、相手はかなり前から準備を進めていたはずだ。そのような相手に、慢心したダマスカスが対応できたかどうかは疑問である。ヘインシーが訴えたところで、やはり変わり者なのだと奇異の目で見られるのが関の山であっただろう。


 そして、ヘインシーは決断する。



「長官、大統領に報告しましょう」



 間違いなく失態である。これによって自己の立場も危うくなるだろう。だが、それ以上に深刻な状況でもある。それは個人の問題を超え、ダマスカスという国を超え、世界全体に影響を及ぼす大事件となってしまう可能性を持っているのだから。



「わかった。軍も突入させる」



 バクナイアも覚悟を決める。この場だけのやりとりで見れば、あくまでヘインシーの勝手な考えであり、彼の妄想に近い立証である。


 だが、バクナイアはヘインシーが嘘をついたり(変わり者だが)精神に異常をきたしているとは思えなかった。彼は極めて正常であり、心の底からダマスカスとアナイスメルのことを危惧している。


 それは国防を預かるバクナイアも同じ気持ちである。それだけは両者に共通する絶対の絆なのだ。それを見誤ることはありえない。


 ただ、軍の突入はもう無意味であった。

 彼らが部屋を出る直前、サカトマーク・フィールドが展開されるのだから。


 余談であるが、その後サカトマーク・フィールド展開の余波を受けたヘインシーの部屋は揺れ、天井にぶら下げてあった「教えて君」が落下したことを付け加えておく。


 池から上がったバクナイア婦人は、入浴をして気持ちを抑えようと必死だった。入浴後、改めて自分のプロポーションを確認する。バクナイアと同じく齢六十に至るものの、武人の血が濃いために老化が遅れて、見た目は四十代前半に見える。


 「張りはなくなったが、まだまだイケる」と若干気が緩んだ時、鏡が爆発した。教えて君に反応した爆弾が爆発したのだ。飛び散った破片は戦気によって防御したが、鏡はここで割れてよかったのかもしれない。


 なぜならば、怒りで膨れ上がった戦気によって久々に甦ったのは、かつて陸軍で【激情鬼】と呼ばれた陸軍屈指の女性戦士の姿である。


 女の兵士はあまり多くない。特にダマスカスでは、他国と比べてかなり少ない割合である。女性特有の問題で、さまざまな問題が発生することもあり、せっかく入っても辞める者が大半である。


 しかし、彼女はバクナイアと同期の中で、たった一人残った女性兵士であった。性別で馬鹿にされた時などは、男たち八十人を半殺しにしたこともある。(ちなみにその八十人は、あまりのショックで除隊している。恐怖を刻み付けられた兵士に行き場はない―――が、そのうちの七十人は無関係の巻き添えである)


 一度激怒したら手がつけられないことから、激情鬼という名が付けられ、以後上官からも恐れられていたものである。それは歳を取っても変わらない。もし鏡が健在ならば、真っ赤に燃えた鬼を見ることになっただろう。


 激情鬼は怒り狂いながら自宅倉庫に向かい、



「あの馬鹿はどこだ!!」



 そう言いながらMGに乗り込んだ。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

十二英雄伝 園島義船(ぷるっと企画) @puruttokikaku

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ