第2話 ナツキと大切な物

 拳を振ったら消える。僕らがするのはそれだけだ。


 出現の突然性とサカキさんの怪物的風貌も相まって、救済を受けた哀れな被害者は感謝を口にするどころか、せいぜい怯えて逃げ出すのが関の山である。


「チンピラをかっこよく片付けるのはいいとして、お礼も言わせないのはヒーローとしてどうなの」


「ヒーローなどではないさ」サカキは簡潔に答える。


「サカキさんにとってはそうかもしれないけど……まあいいか。それはそうと僕、今クトゥルフ神話にはまってるんだ」


 ナツキはテーブルから分厚いハードカバーを手に取り胸の前に掲げると、カバーに描かれた怪物を指差した。「これがクトゥルフ」


「……それが今の俺の姿というわけか」


 サカキ――醜悪な触手が頭部を埋め、全身を緑色の鱗で覆われた、鉤爪のある神話的生物――がかくりと肩を落とした。


「そう。『吐き気を催すような穢れた外形の人ならざるもの』なんだけど、上手くできてるかな」


「実に良くできている。その証拠に俺は今吐くほど気分が悪い」


「体調不良かな」


「早く戻してくれ」青い額の神話的生物が両手を上げる。


 パチンと小気味よい音がして、彼の輪郭が変容した。


「いいよ、目を開けても」


 反射で閉じていた瞼を恐る恐る開けた。思わず悲鳴を上げている。「おわっ⁉」


 真っ先に視界に飛び込んできたのは本の表紙にあった、先程ナツキがクトゥルフと呼んでいた怪物そのものだった。視界にあるだけで腐臭が漂ってきそうな出来栄えである。


「ごめん、冗談」本人は腹を抱えてひいひい笑っている。


 冗談冗談マイケルジョーダン、と愚にもつかない駄洒落を言いながら再び指が鳴ると、サカキは元の人にふさわしい形態に戻っている。


「五体満足とは幸せなことだな」安堵のため息を漏らし、彼は言った。


「クトゥルフだって五体満足だよ」ナツキが頬を膨らませて文句を垂れる。


 あの頃と比べて本当に元気になった、とサカキは感心とも呆れともつかない心持ちでしみじみ考えている。


「……まあね」


 ナツキは歯切れ悪く、気恥ずかしげにそっぽを向いてしまう。思ったことが無意識に口に出ていたようだ。


「……何をじろじろ見てんのさ」


「ナツキも大きくなったと思ってな。手とか」


「合わせてみる?」


「そうしよう」開いた手がナツキに向けてかざされる。


 部屋の中央、色白の指がすらりと細長い手の平と、ひび割れた岩のように堅い褐色の皮膚が触れ合った。初めて会った時、サカキの手にすっぽり収まるほど小さかったナツキの手は、ちょうど同程度の大きさにまで成長していた。


 雪原のただ中で仲間が互いの絆を確かめ合うかのようで、ナツキはくすぐったい気持ちになる。そういえば、出会ってすぐの頃は誰に対しても敵意を剥き出しにしてばかりだった。


 顔を上げると、にこやかだが、あの時より幾分穏やかになった微笑みがある。痛みを知る眼差し、という表現がしっくりくるように、脆さを秘めて、柔らかい。


 溜まりに溜まった濃すぎるくらいの過去の記憶が、栓を抜いたようにほとばしった。


 ☆   ★   ☆


 ひたすらに問いを重ねた。

 生きる意味はあるのかと。


 生まれつきこの身に宿っていた、人知を超えた「超」能力。


 他人の心を読め、あらゆる万物をこの手に瞬間移動させられ、空を飛べ、行ったこともない遠くの景色を見通すことができる力。すべてを可能にする、無限の幸福を湯水のごとく生み出す、夢みたいな力。


 また、そう誤解されがちな力。


 何でもできる。世界を手に入れたも同然。完璧な人生。

 だと思ったら大間違いだ。


 この能力のせいで一体どれだけ僕が苦しめられてきたか。

 話は僕が生後九か月の時にさかのぼる。



 クマやウサギの小さな人形がいくつも数十センチ頭上を丸い軌道を描いて舞っていた。


 フライパンで野菜の焼ける音と、食材を刻む音が断続して聞こえている。実に穏やかな昼下がりだった。


 僕はベビーベッドに寝かされていて、横を向くと、木の格子の間に、ピンク色のゴムボールが見えた。


 父は仕事に出ていて、母はキッチンで料理をしていたため、僕に背中を向けていた。


 リビングの窓が開いていて、カーテンがはためき、時折頬に風の抵抗を感じる。


 何とはなしに、ボールに手を伸ばした。もちろん届きはしない。

 僕は手を開いて、念じた。


『こっちにこい』


 ぴくりと揺れた五センチ大のボールはふわりと宙に浮き、ぱしっ、僕の手に納まった。


 初めて力を使った瞬間だった。


「ナツキくん、ご飯できたよー」


 花が咲くような笑顔で僕の元に駆け寄った母は、僕の手に握られているボールを見るなり、


「……え? あれ? 私、こんなところにボール置いたかしら……?」


 離乳食の入った皿を片手に当惑する母を見て、ぼんやりとだが唐突に、皆にはできないのだな、と察した。


 その時、何か、嫌な予感がしたのを覚えている。


 未来予知と呼べるほど大層なものではなかったけれど。

 この能力のせいでいつか、大切なものを失うような、そんな予感が心の奥底に渦巻いて起こっていた。


 僕は物心つくのが早く、二歳の後半にもなると、自分はとんでもない爆弾を抱えていて、いずれ両親に打ち明ける必要がある、と理解していた。


 爆弾とは超能力のことだ。


 幼児は主に、父母や保育士などの周囲の大人とのやり取りの中で生活している。


 超能力者とはいっても、所詮は幼児。

 力を不用意に人前で使ってしまったのは一度や二度ではない。


 その度に、散々変な顔をされ、この子大丈夫かしらと父母が心配そうに話し合うのを聞いてきた。


 自分にこんな力が無ければみんな安心できたんじゃないか、と、子供ながらに思ったものだ。


 いつか、伝えないといけない。


 当時の僕はその選択肢を選ぶ以外になかった。


 テレパシー能力で周囲の心の声は常時筒抜け。


 僕に向けられる好意、悪意はもちろんのこと、過剰な羨望から敵愾心が芽生えるさまや、残忍で冷酷な気持ちが沸き上がるさま、……など、人間の闇たる部分に嫌でも直面した。


 あらゆる人間に絶望した。信頼という感情が消え失せ、塞ぎ込むことが増えた。

 それは父母も例外ではない。


 だがそれでも真実を知らせたいと思ったのは、ひとえに、大切だったからだ。


 僕を生み、育ててくれた両親。


 感謝していないと言えば嘘になる。……が、正直恨んでもいる。


 ――なぜ僕を捨てた?


 腫れ物に触るのを避けるみたいに。なぜ奇形児のように僕を扱う。……否、扱うことさえ怠ったんだ。


 住み慣れた家に黒服と白衣の面々が押し寄せてきて、偉そうに戸を叩いた。


 テレパシーで気づいていたが、あえて何も知らないふりをした。両腕を大男に掴まれて、「痛い」「助けて」と喚いてみた。


 思いとどまってはくれないかと、半ば祈るような思いで僕は泣いた。嘘泣きに違いないけれど、心持ちとしては本気だったのだ。


 父は「どうせ嘘泣きだろう」と考えた。

 母は恐れおののいた。

 白衣の男が唇を吊り上げた。


 僕を積んだ護送車が交差点を曲がると、「良かった……」と胸を撫で下ろす二人の声が、僕を内側から容赦なく傷つけた。


 良かったのか。


 かくして、嫌な予感は現実となった。

 僕の人生から一つ、大切な物が消えた。最初にして、最後の一つだったのに。

 超能力のせいで。


 ☆   ★   ☆


 研究所で血液を検査されたりMRIに入れられたりするのは窮屈だったが、それまでの外での生活も――両親の存在の有無以前に――退屈極まりなかったから、人類の発展につながるならば少しはましかと適当にお茶を濁していた。


 その気になればいつでも自由に出られるのだ。瞬間移動、透明化、職員の服からこっそり鍵を抜き取るなど、いくらでもやりようはあった。


 それでも、僕は逃げなかった。勇気だの不安だのは問題ではない、単にのである。


 研究所の内外で僕が享受できる娯楽の差は微々たるもので(僕はもっぱら本ばかり読んでいた)、外遊びは原則として認められなかったが、その他は何不自由なく――研究所は国の極秘機関であるため資金も滞りなく供給される――健康で文化的な生活を営むことができた。


 というかそもそも、いつでも出られるのに脱出もくそもなかった。


 頻繁に面会に訪れるお偉方を超能力を駆使してやりこめるのには痛快さがつきものだったが、愉快とまでは言えなかった。


 そこそこに楽しいが、またそこそこに退屈で。


 僕には常人のように、不可能とも思える目標の達成に情熱を注ぐということができない。

 常人には不可能と言われる事柄の大半を可能にしてしまう、それが超能力なのだから。



 そんな生活が四年ほど続いたある日。


「おうおう、しけた面してんな」


 そう暢気に言ってずかずかと部屋に押し入り、僕の読書を邪魔したのは、サカキという新人の研究員だった。


 後ろから見知った顔の職員が僕と同じく額を押さえて入ってくるのも、一種の押し入りだと思った。


「誰、お前」僕はぶっきらぼうに尋ねる。


「今年念願の第一子が生まれた、32歳の研究員だ。よろしく」


 彼がにこにこ笑顔で手を差し出してくるのを見て、まず「この人は馬鹿なんだな」と思った。


 部屋に上がる前、「親しみやすく振舞うように」と先輩に念を押されたからと言って、いくら何でもそれはないんじゃないか。


 新人研究員でなく、顔見知りの職員の方をじろりと横目で睨めつける。


 いい加減理解したらどうなのだ。僕に小細工は通用しない。元より超能力のおかげで、僕に近づく輩のどんな考えもお見通しだ。


 僕の右肩の前に出された手が、しびれてきたのか、ぷるぷる小刻みに震え始める。


「ほらほら。握手だよ、握手。するのがお決まりなんだろ」


 しびれを切らした新人が腕を上下にぶんぶんと振るのを僕は冷めた半目で眺める。


 あーくーしゅ、と間延びした声がうっとうしく、嫌々ながら手を伸ばした。


 僕は会う人間とは必ず握手をする。握手をすると、大抵の人間の本性が分かるのだ。


 大半の人間は、目の前の相手が握手に応じれば、彼は私に心を許した、信頼を得たと錯覚する。すると、どす黒い本心が心中に、沸き水さながらにとめどなく溢れ、流れ出す。


 物心ついた時から、特に施設に移ってから、幾度となく体験してきた。


 紹介されたからには、しばらく付き合うことになるのは想像に易い。ならば、何が目的か、何をさせるつもりなのか、把握しておきたい。


 さあ、本性を見せろ。新人研究員の脳内に意識を集中した。少しでも悪意を見せようものなら、部屋から叩きだしてやる。


 と、身構えたのも束の間、


「すべすべだな」


「⁉」


 新人は大きな手の平で僕の手をこねくり回している。後ろで先輩が頭を抱えていた。


 なんだこいつ。


 理解不能な奇行に戸惑っている僕と、こぼれんばかりの笑みを湛える新人のサカキとやら。


「……おじさん、バカなんだね」


「おい、馬鹿とはなんだ馬鹿とは」


「す、すまん」「おじさんとは、無礼な」耐えきれなくなった先輩職員が、僕の顔色を窺いつつ、新人を部屋の外へずるずる引きずっていった。


 扉の向こうでこっぴどくお叱りを受けているようだったが、見ないふりを決め込む。


 本心を知られまいと心中でささやかな抵抗をしてくる輩は多いが、あの男からはそれがまったく感じられなかった。


 研究所に来てからというもの、権力者をはじめとした小賢しい奴ばかりを相手にしていたので、なるほどこんな人種もいるのかと、一つ、世界を知った気分になった。


 ☆   ★   ☆


「来たね」ナツキの目が光る。


「来たか」サカキは頷いた。


「またもや渋谷、ビルの屋上で別れ話をしているカップルだ。男が女に暴力を振るいかけている。どちらもスーツを着ていて、男が女よりかなり年上に見える。不倫かもね。それにしてもさっきから男女間のトラブルばっかり、男女ってそんなに相容れないのかな」


「振るいかけている、とは?」腕組みをしたサカキが事務的に尋ねてくる。


「若い女がカツラの中年男に結婚を迫っているんだ。始めのうちはかわしていたんだけど、彼女の剣幕がものすごくてさ、ついに男が逆上しちゃった。殴る蹴るではないけど、いきなり彼女の茶色のロングヘアを引っ張って、豹変も甚だしいね。彼女は彼女の方で泣くわ叫ぶわ暴れるわ、これを修羅場と言わずして、って感じ」


「ビルの屋上か。男の方が野蛮な考えに至らなければいいんだがな」


「それなんだけど……、――うわ、やっぱりビルの下に落とすつもりみたいだ」


「予感的中か、もはや天賦の才能だ」


「超能力かもね」


 うんざりとした焦燥感がサカキの胸の内に沸き起こる。ナツキは片頬でたははと苦笑する。


 地下室が重苦しい沈黙に包まれたのも一瞬。


「男は意外と冷静だ。荒ぶる彼女を少しずつビルの隅に誘導しながら『彼女は前々から精神に異常をきたしていた』なんて言い訳にまで思いを巡らせる余裕がある。……目撃させるだけで良さそうだ。悪意が詰まったとびきり穢れた外見にしよう」


「この手の外道は自分に優位性がなくなるだけで発狂せんばかりに取り乱すからな」


 言いながら、サカキは肩を回し、足踏みし、手首回しと忙しい。


「それじゃ、行こうか。『娘』が待ってる」


「行こう」


 音が鳴る。

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ヒーロー~あなたが僕にくれた救い~ @kennsei

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