第3話
どうして自分はテディベアなんぞを購入したんだと自問するが答えなんぞあるはずなく、ただ衝動的にとしか言えなかった。しかし、である。彼にとっていまこのテディベアは彼女に一泡吹かせることができる可能性を秘めているのだ。もはや戻れぬ関係なら彼女の心をくだいてしまおう、これはその一歩目である。投棄したはずのテディベアがどういうわけか手元にやってくるのだ。俺のことを一生忘れられないようにできる。
リサイクルショップの店主がサービスだと手渡してくれたウサギのぬいぐるみ、さきにこちらから渡そうかと考えた。あまり金の無い俺でもこのパッチワークのテディベアがどうしようもない廃品であることくらい分かるが、あの店主の面も貧乏に苛まれてそうだから俺という客を逃がしたくないんだろうな。パッチワークのテディベアは、長毛のテディベアとセットにしてプレゼントにすることにした。
ガールズバーに足しげく通う様になったのも、彼にとっては、木更未唯が働いているからである。
あの女は俺のおかげで良い生活もできるようになったはずだから、とこの店での関係をこえたプライベートにまで拡大するのを拒んでいる。どうもいけすかない、高い金を出して彼女の望むままに酒を飲んで、さらに高い金を出して店の女の子から彼女の鍵を盗み出してくれるように頼んだ。それなのに、彼の手元にはほとんど残らなかった。
雑居ビルの一室は異常なほど蒸し暑かった。外部から隔絶されているので、店内は羽目を外して盛り上がる男が大勢いた。
「斎川さん、本当は言いたくなかったんだけど、あなたは大事なお客さんだけれど、そういうのは嫌です」
そう言い捨てて香港なんぞに旅立ちやがる。その旅費も自分が出したようなものなのに、それを友人なんかと行くなんて。
「どういうことですか」
「だから、未唯は、その、香港旅行に行かれてお休みなんです」
「嘘はよくないですよ。彼女が既に帰ってきていることは知っています」
「いくら常連さんだからといっても、無理なものは無理なんです」
「おい」男は店内に響き渡る声で叫んだ「いるのはわかってるんだ」
「やめてください」
「なぁ、わかるだろ、おれが。ほらプレゼントももってきた。未唯ちゃんは可愛いぬいぐるみが好きなんだろ」
青ざめた顔で、木更未唯があらわれた。
男は、さぁ、受け取ってくれとぬいぐるみを差し出すと、それはテーブルに叩きつけられた。
「帰ってください」
「なにいって……」
「帰らないと、警察を呼びます。もう、一度は通報しているんです」
「あなたに鍵を売ったと申し出た子がいたんです。その子にはすでに辞めてもらいました」
「これで、最後です、帰ってください」
不毛なやり取りがしばらくつづいた。
そして店内にいる者たちは、その行く末を見守ることに必死で事態の進む方向に気が付かなかった。
数人の客たちは、何やら不穏なやり取りが行われていることに注目して店の女の子との会話をやめていた。店内はしずまりかえっていた。
そのときにはすでに、塩素のガスが充満していたのだ。
パッチワークのテディベアの腕には風船に入った塩素系洗剤と酸性洗剤が仕込まれていた。隆三はテディベアに、隙をみて混ぜろと言われていたので、その言葉通りに混ぜた。ちょうど近くにグラスもあったのが幸いだった。黄色みがかった液体のうわべに細かい泡が生じ始めた。
すると、人々は原因も分からず、ただ痛い、といったことを言って混乱し始めたのでこれはよいタイミングができたと、テディベアは喜色満面、カウンターの向こうのアイスピックで男の延髄を突き刺し呆気にとられる女二人も眼球を破壊、そして心臓や咽喉などとにかく急所をさした。
唐突に虐殺を始めたテディベアになすすべもなく仕留められた三人に、すでに酒を飲んで体に力の入らない客や従業員がテディベアの凶刃にかかるのは時間の問題であった。
テディベアはとにかく、急所をさしたりアキレス腱を突き刺すことで人間の行動を封じると、次にするべきことは解体のために完全に息の根を止めることである。しかし、血はすぐに腐敗するため、いま死にゆく人間の臓物でなければ賞味する機会がない。
この限られた、一瞬、テディベアはこの世に生を受けて以来、生半可な心構えになることがなかった。徹底して殺すのだ。
まずは、テディベアを購入した男。これを処理するのは案外容易ではない。不意打ちをしかけなければ、テディベアの発揮できる力なんて蟻も潰せない。そのためテディベアは絶好の機会を、息を潜めて待つのだ。
男は延髄、頸動脈を破壊され出血がとめどない。うつ伏せに倒れているためひっくり返すことも不可能。となれば脊椎から切り開くしかない。
脇腹を包丁で切り裂く。肋骨の下から骨盤まで、一筋の線をいれるように。
溢れだす血を飲み干すため・自分の口におさめるため、テディベアは長毛の腕を傷口にいれた。すると水を得た雑草の根のように臓物に至るまでの体内に満たされている体液が浸透してくる。打ち震える、テディベアは皮膚を強引に引き裂いて侵入しぷるんとした内臓を、食らった。酸味・臭気・えぐみ、一度に感覚を刺激される味覚体験はこれでしか味わえない。
血の塊である心臓を口に咥えて体が血の塊になる。比喩ではない、それほどまでに全身に血を含ませるのだ。
倒れている女たちや酔って酒漬けされた奴らの血肉臓物脳その他、すべてがメインディッシュだ。
―
「おかえり」
血まみれのテディベアが営業中のリサイクルショップにいるのはまずいので、早朝、1番の仕事は何としてでも血を落とすことである。洗剤はそのためにたくさん用意しているのだが、尋常ではない汚れ方をして帰ってくるのはいつものことであった。
「いやぁ隆三、アタイうれしいよ。あんなにたくさん食えたんだから」
「待ってくれ、あの男だけじゃないのか。ということはあいつ家に帰らなかったのか」
「何が言いたいんだ」
「ちなみに、どこに行ってきた」
「酒場、だなあれは」
「……」まさか、そこまで意地汚いとは思わなかったため、俺は絶句した。あんなゴミみたいなぬいぐるみを渡されれば家に置いておくとかするだろうに、あろうことかプレゼントにしてしまうとは。リサイクルショップで買った香水を渡すだけのことはあるなと、見損なう方向で感心した。
まぁ、なんでもいいや。
知らない所で知らない人がどうなろうと。
俺は、ほんの少しだけテディベアの味方をしているにすぎないのだから。
テディベアにはご用心 古新野 ま~ち @obakabanashi
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