姫とぼく

川口健伍

1

「このままじゃあ、ダメだ」

 そうやって親父が頭を抱えてトイレから飛び出してくる。

 ぼくはつとめて気にしないようにする。手元のマンガに意識を集中する。電脳メガネが視線に合わせて視覚補正フォーカスをしてくれる。

 そもそも家業の問題なのだ。ぼくの家は代々続く宮司の家系だ。親父は組合から跡取りのない神社に派遣され、ぼくとふたりで暮らしている。家は山の中腹、長い石畳の階段を登った先に鬱蒼と生い茂る鎮守の森に囲まれた古き良き神社だ。静かで目にもうるさくない、そういう場所だ。

 だから広告収入がない。拡張環境保護法によって過去の景観保全が重要とされる場所での拡張現実による広告は、固く禁止されている。だから観光客目当ての収益がまったく当てにできないのだ。

 別にぼくはこの山も神社も登下校で感じる昇り降りの辛さも慣れてしまえば嫌いではなかった。

 でも親父はそうではなかったらしい。組合の中で色々あってやっぱり左遷に近い文化財系神社に来ざるを得なかったことにどこか鬱屈した思いがあったのかもしれない。

 先ほどからやばいやばいと親父は繰り返している。きっと声をかけてもらえると思っている。だから頑なに視線をマンガから動かさない。こういう時、親父はなにか厄介事をぼくに押しつけてくるに決まっているからだ。

「おい、和也」

「なに?」

「困っている人が困っていそうなそぶりをしていたら率先して助けなさい」

「困ってんの?」

「困っている」

「どれくらい?」

「来月のお小遣いがゼロになるぐらい」

 それはぼくのだよね、と確認することも億劫なので親父に向き直る。

「それで、ぼくは何をすればいいの?」

 にやりと笑って親父は胸ポケットから虹色に輝くキューブを取り出す。表面を手順通りにタップすると、キューブはしゅるしゅると糸を吐いて人の形を取り出す。ものの数秒で線の細い、のっぺりとした表情のない少女の素体が、親父の隣に立ち上がる。でもちろん実際にそこに女の子がいるわけではない。アバターだ。拡張現実上に存在する検索エージェント。メガネを外せばそこには誰もいない。

「この娘の世話を頼む」

「いやいやちょっと待って」ぼくは呆れて言った。「なんで買っちゃったのそれ。今月も苦しいって言ってなかったっけ?」

「これが火の車の解決策になる!」

「ならねーよ」

「彼女をこの神社のマスコットとして売り出そうと思う。ほらローカルアイドルが流行りだろう?」

「下積み時代が長くて目が出る前に親父が転勤にならなきゃいいけど」

「おまえの腕次第だ」

「やだよ、ぼくはやらないよ」

 その時だった。

「こんばんわー」

 家内ネットワークへのログイン音が響き、ドアを開いて彼女がやってきた。

 ぼくは慌てて居住まいを正す。

 親父にも視線を送る。にやりと笑って親父はスラックスを腰まで引き上げる。つか、いままでトランクス丸出しだったのか。

「今日の晩御飯はチンジャオロースですよー、ってあれー」

 彼女――門脇葵さんはテーブルの上にタッパーを置くと、デフォルト状態のアバターに近づく。ずれたメガネの位置を直して、仕様書を読んでいるようだ。

「どうしたんですかこれ、最新式のアバターですよね?」

「親父が」

「買いました」

 なんで誇らしげなんだ。

「触ってもいいですか?」

 どーぞーどーぞ、と親父はテーブルを回り込み、味噌汁を温め直し、炊きあがっていた白飯を茶碗に盛り始める。

 葵さんは慣れた手つきでアバターに触れている。そういえば拡張デザインの専門学校に今年から通い始めたのだ。ぼくの二つ年上で、神社の氏子総代・門脇の一人娘さんだ。男やもめのぼくのうちを見かねた門脇のお母さんが、よくおかずを持たせ晩御飯に彩りを添えてくれるのだ。

「よし、できた」

 驚いた。そこにはもうひとり、葵さんがいた。葵さんと瓜二つの姿をしたアバターがそこにいた。

「どう、似てるでしょう?」

 でもアバターはアバターだ。写真データを用いればどこまでも本人に似せることは確かにできる。そして似すぎているがために、人は些細な齟齬に敏感になってしまう。造作だけではなく動作も含めた、ほんのちょっとしたズレも気になってしまうのだ。だからアバターのデザインは、特に人型はデフォルメしたものを使うのがいまの主流だ。しかし葵さんはそれに真っ向から反したかたちをとっていた。彼女がデザインしたアバターはとても彼女に似ていた。だからといってただ写実的であるということではなかった。

「ちょっとずつデフォってるの。こうするとリアルに作ってもあるていどだけど見る人の違和感を抑えられるのよ。それで、これの革新的なのは」

 そう言って葵さんは黙々と晩御飯を食べている親父に問いかける。

「起動しても?」

 親父は食べる手を休めることなくうなずく。それが合図になってアバターが目を開く。

「動いている時にどうしても付きまとう違和感みたいなのを、逆によく動くことで払拭するの」

 アバターが動き出す。とてもなめらかだ。ただどこか大げさで、演技を見ているような気になる。でもどうしようもない気持ち悪さではないし、気がつくとすぐに慣れてしまった。アバターの動きは「この人はこういう動きをする人」という許容範囲に収まっているように思えた。

「もちろんそれだけ負荷がかかるから処理が大変にはなるし、デザインもまだ私を元にしたものしかできていないんだけれどね」

 でもすごいでしょう、と葵さんは笑顔を弾けさせる。

 ぼくはうなずく。見ると親父も大げさにうなずいている。ああ、味噌汁がこぼれる。慌ててテーブルを拭く。その間に立ち上がった親父は葵さんに肩を組み、ひそひそと話しかける。内緒話。聞かせたくないのはぼくかアバターかその両方か。

 そうだ、アバター。

 花が咲いたような笑顔で、彼女はこちらを見ていた。

 目が合わせられなくてうつむいてしまう。

 視線だけでもう一度確認すると、彼女もぼくを見ていて目があってしまう。

 どうかしましたか、という気遣いと、何見てんのこいつ、という猜疑とがごちゃまぜになってぼくの頭をかき乱す。

 やっぱり、ぼくには無理だ。

 アバターには鏡だ。彼女には感情は存在しない。それでも自分がどう思われたいのか、ということが彼女への態度へとあっさり表出して、ぼくは恥ずかしさに身動きが取れなくなってしまう。

 情けない。そう思うともうダメだった。

 ぼくはテーブルについて急いでごはんをかきこむ。

「和也」

「なに?」

 意識してアバターの方を見ないように親父へ返事をする。いつのまにか葵さんはいなかった。帰ったのだろうか。

「やるぞ、和也。やれる」

「だからなにを?」

「神楽だ」

「え?」

「おまえがスサノオノミコトをやるんだ」

「ええ?」

 これが、得意気な親父と盛大な間抜け面を晒すぼくの生活に、葵さんに似たアバター「姫」が加わった日だった。

 親父の言う神楽はつまりARRPGのことだった。ARRPG――拡張現実上で行われる没入型ロールプレイングゲーム。メインシナリオを神社の祭神であるクシナダヒメに絡めてヤマタノオロチ退治にしたのは、もちろん親父の発案だ。継ぎ手がおらず廃れてしまった神楽舞もARRPGなら世界中から参加者を募ることができる。その土地に行かなければ見られないという地理的な制約なしに観客も楽しむことができるのだ。ヒロインであるクシナダヒメは親父が買ってきたアバターがやることになった。いや、やることになっていた、というのが正確だろうか。アバターは「姫」という愛称をつけられ、家内ネットワーク上で検索エージェントとして活躍するだけには留まらなかった。

 すべては姫のおかげだった。ARRPGは当たった。記紀神話に限らず風土記にまで言及のある骨太の背景と、神話の持つ改変のしやすさが拡散を招き、ネットワーク上に類似したARRPGが席巻した。しかしその中で姫のアバターはその特性上、改変の難度が高かったせいか「本家」として崇められた。コピーできることが当たり前の世界で、それは一種、異様な魅力を放ったらしい。唯一無二であることがどこにでもいるネットワーク上の存在であるアバターをして、そこに行かなければ会えない存在へと変容せしめ、ファンの心を掴んでしまった――聖地巡礼の誕生だ。ARRPGのキャストだけでなく、参拝者の激増に対応するため、親父はぼくまで駆り出した。目が回るような忙しさだった。ARRPGのプレイ回数が二十を越えてからは数えるのをやめてしまった。その辺りから時間の感覚が歪んでいる。

 気がつくとぼくはスサノオノミコトで、高天原を追放され、西方に向かう紆余曲折の冒険を経て、いま最後の闘いに挑んでいる。

 泥酔しているからといって身を斬られる痛みには、さすがに覚醒せざるを得ないのだろうか。

 ぼくはトツカノツルギをふるい、ヤマタノオロチの尾を裂いていく。

 聞くに堪えない絶叫が響き渡り、どうやらオロチが完全に覚醒したようだ。

 おどろおどろしい暗雲が垂れ込み、周囲が夜のように暗くなる。

 今回はすでに頭を三つほど潰せているので幸先がいいほうだった。

「主様、後方へ」

 声の指示に従って跳躍。寸前まで立っていた場所にオロチの牙が弾ける。地面が砕け、石礫が飛散する。トツカノツルギを正眼に構え、油断なく見据える。鉄色に爛れた肌と八つの頭と同じ数の尾を持つ巨大な巨大な蛇。何度も相対した中でも、一番スタンダードなデザインだった。

「来ます」

 姫はいま櫛となってぼくの髪の中から指示を飛ばしている。指示はもちろん彼女自身の判断もあるが、参加者たちの反応も考慮されてよりゲームが楽しいものになるように行われているらしい。

 真正面から壁が迫ってくる。オロチの突貫。ぼくは姫の指示通りに避ける。同時に身体の回転に合わせてトツカノツルギを振るい、同時に頭を三つ、刎ね飛ばす。

「あと二つ!」

 ぼくは叫び、頭の後ろ、どこか遠くで万雷の喝采が鳴り響く。視界の隅では投げ銭のメーターも跳ね上がっていく。

「主様!」

 姫の警告。

 鼻先を掠める豪風。切り刻んだはずの尾――再生能力。頭をすべて潰さなければ際限なく再生し続けるのだ。

 距離を取る。

 残った二つの頭と尾が憤怒と強い警戒を発している。迂闊に近寄ることができない。

 ぱん、と頭上に衝撃が走ると、そばには華やかな日本衣装をまとった姫がいる。横顔が葵さんによく似ていて、思わずどきりとする。

「私が囮になります。主様がその間に」

 言うが早いかもう駆け出している。オロチの攻勢をたくみに躱しながら姫は果敢に懐に飛び込んでいくのだ。その軌跡はまるで流れる星のようで、見惚れるほどに美しかった。

 ――しかし、その舞踏にもすぐに破綻が訪れる。どうやら今日の観客は悲劇がお好みのようだ。

 目を覆いたくなるような勢いでオロチの尾が姫に激突する。衝撃にくの字に折れた身体が吹き飛んでいく。

 その様をただ漫然と見ていたわけではない。姫の言葉に従ってオロチの視界の外から回り込み――背を駆け上ってトツカノツルギを振るっている。手応えは重く、残り二つの頭が宙に舞う。鮮血のエフェクトが花火のように弾け、しかし匂いはしない。現実との混同を避けるために必ずひとつは五感が落とされて設計されているらしい。

 着地と同時に、姫に駆け寄る。

「主様……」

「大丈夫、もう終わったよ」

 姫に見つめられて顔が赤くなる。

「あ、ありがとう」

 お礼を言うのも一苦労だった。そしてまだやることが残っている。

 姫を支えて立ち上がり、オロチの死骸に向かう。範囲指定をしてトツカノツルギを振るう。死骸が切り刻まれる端から光に変わって消えていく。他の参加者と観客へのインセンティブとしてオロチのアバターデータが還元されていくのだ。

 そして――尾のひとつに刃が弾かれる。トツカノツルギが砕けて弾け、尾の中から閃光がほとばしる。

 閃光の中に手を差し込み、柄を握って引きずり出す。

 アメノムラクモノツルギ――新しい技術体系の象徴。

 天に向かって突き上げるように捧げると、暗雲が去り、陽光が差し込む。

 圧倒的な全能感。

 ぼくらはまるで旧世紀のゲームイラストのようにポーズを決めると、万雷の拍手と投げ銭の音がファンファーレのように鳴り響くのだった。

 何回繰り返してもこの時だけはARRPGの魔力を離れて現実に引き戻されてしまう。たまらなくなって姫の方を見ると、目が合う。葵さんの顔で、彼女は花が咲いたように笑い、うなずいてくれる。

 あ、ダメだ。

 これはダメだ。

 目が離せなくなってしまう前に顔をそらして、エンドマークが流れるのを待つことしかできなかった。

「なにやってんの?」

「え?」

 振り向くと、葵さんがいた。ここで――境内で会うのはずいぶん久しぶりだった。

 姫のARRPGが始まってから三ヶ月が経っていた。そして迂闊なことにその時まで、葵さんが晩御飯のおかずを持って来なくなったことに気がついていなかった。あんなに心待ちにしていたのに――それだけ姫が加わってからの生活が目まぐるしかったのだ。

「ちょっと来て」

 葵さんに手を引っ張られて社務所の裏側に連れて行かれる。声でわかった。葵さんは怒っている。

「ねぇなにやってんの?」

「なにって親父の手伝いだよ。バイト代も出るし……」

「そういうことじゃないの」

 有無を言わせない口調だった。しかし情けないことにぼくはここに至ってまだ何を怒られているのかわからなかった。

「あれはなに」

 葵さんが指さした先には、こちらの様子を窺っている姫の姿があった。

「姫だよ」

「何が姫よ。いい和也くん。あれは物なの。感情があるように振る舞っているけれど、状況に合わせてプログラムがそう判断しているように見せかけているだけの、中身のないただの人形なの」

「そんな――」

「確かにARRPGは成功したみたいね。聖地巡礼で観光客も増えたんじゃないかしら」

「なんだよ、いいことばっかりじゃないか。それも全部姫のおかげだよ? そんな悪しざまに言わなくたっていいじゃんか。葵さんだって姫のデザインをしてくれたわけだろ。自分の作品なんだし、愛着だって……」

 自分でも驚いた。尻すぼみだったけれど葵さんに意見できるなんて。

「違うのよ、和也くん。いい? それはあなたのお父さんが考えたことなの。そのためにアバターは購入されたし、あなたはいいように使われてるの。そして――私もそう」

「え?」

「アバターをデザインしたのは取引だったの」

 ほとんど表情を変えなかったけれども、葵さんは怒っていた。

「私は氏子総代の娘だから。親はやっぱりオヤシロさんとは仲良くしておきたいらしいの。それが余所からやってきた宮司さんでも一緒。年の近い男の子がいるって聞いたら、おばあちゃんもママもそれが当たり前みたいにおかずを持っていくのは私の役目だって。ねぇわかる? こんなの前世紀でも通用しないよ。嫌だったけど仕方がなかった。学費は出してもらってるしまだまだ勉強したかったから。そんな時だった。あなたのお父さんが言ったのよ。今度アバターを買ってくる、デザインしてくれたら無理して通ってくれなくてもいい、って。嫌々通ってたの、わかってたんだろうね。私は自分の力も試せるし、渡りに船の取引だった」

 メガネの奥にあるのは強い視線だった。逃げられないし、逃げないという意志がそこにはあった。

「親の言いなりになるのはやめなさい。前からそう。今に始まったことじゃない。あなたはただ状況に流されているだけ。あなたを見てるとイライラするの。私のことが好きなら人形遊びぐらいやめてみなさいよ」

 葵さんの言葉が脳みそに染み込んでくるまでには思いの外、時間がかかった。言葉の意味を理解した途端、丸裸にされたような羞恥心が背中を駆け上って、どうしてか姫の視線を探した。こんなカッコ悪い自分は別に誰にだって見られたくなかったのに、まず姫の視線を探してしまった。なんだそれ。バレバレだったのか。当たり前か。でももっとデリカシーのある言い方ができないのかな。ってか葵さんだってそれただの八つ当たりじゃないか――あっさりと脳みそがパンクして口を開けども音にはならなかった。

 葵さんはぼくの返事を待たずに帰ってしまった。最初から期待してなかったのかもしれない。

「主様……?」

 びくりと肩が震えた。振り返ると視界の中に心配そうにこちらを窺っている姫の姿があった。

 マスター権限で設定パネルを開き、スクロールする。一番下に「リセット」の文字を見つける。思考がまとまらない。ぼんやりとリセットの四文字を見続けることしかできない。その文字を指でなぞる。警告と確認のポップアップがひらめき、ぼくは「はい」に指を這わせる。

 その時だった。

「主様、大丈夫?」

 ぼくの手を支えるように姫が寄り添ってきた。誓って言うが倫理的にもアバターには設定パネルが見えないようになっている。姫にはぼくがやろうとしていることはわかっていない。ただ純粋にぼくの様子が心配になっての行動だ。

 殴られたような衝撃に、身体の震えが止まらなくなる。ぼくはこんなに身勝手なのにどうして、どうして姫はそんな風に振る舞えるんだよ。

 ぼくは気づいてしまった――なんだこれ、こんなのただ状況に流されてるだけじゃないか。

 ぼくは姫の顔を見る。何度も繰り返してきたARRPGでの冒険と、姫の笑顔が重なって見える。葵さんに言われたから、ただのモノ扱いして姫の消すのか――、無理だった。なによりそれでは、いままでと何も変わらなかった。

 不意に甘い匂いが鼻をついた。季節が巡っていた。懐かしい冬の匂いに泣き出したくなるのをこらえて、設定パネルを閉じた。何が正しいのかぼくにはわからなかった。ただぼくにはもう姫を消すことはできない――それだけは確かにわかることだった。




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姫とぼく 川口健伍 @KA3UKA

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