狼見上げる月と星空
譜楽士
月と星の消えた世界で
夜の森を、黒づくめの青年が歩いていた。
手にはカンテラ、照らし出される黒髪黒目、黒の外套。
うっそうとした木々と夜闇にまぎれて、明かりがなければそこにいるのも分からないほどだ。
月もなく、頭上からは光も差し込んでこない。
しかし青年は戸惑う様子もなく進んでいた。木々をかき分け、森の中心へ――すると。
とん、と音がして、彼の足元に矢が刺さった。
「動くな」
声のした方向を、青年が見れば。
そこには、弓に矢をつがえた人狼の少女が、こちらをにらみつけていた。
☆
「それ以上進めば、当てる。この森から立ち去れ」
「別に、この森で悪さをするつもりはないぞ」
牙を見せる人狼の少女に、青年は落ち着いた調子で応えた。何もない森に唯一、形をもって存在する個体。
痩せた身体に頭から生えた耳、後ろに生えた灰色の尻尾。
そんな小さきものに、青年はカンテラを持ったまま言う。
「むしろ頼みごとをされて、ここに来たんだ。それが済んだらさっさと消えるよ」
「黙れニンゲン。そう言っておまえらは、森のみんなを連れ去っていったろう」
青年の言葉に、人狼の少女はだが警戒を解くことなく応える。森の中に、彼女以外の気配はない。あるのは物言わぬ、植物たちが揺れる音だけ。
かつては精霊も妖精も、そして神もいた神秘の森は、既に光を無くしている。
夜の森に残されたのは、人狼の少女だけだった。小さく、弱き彼女だけ――
しかし少女は、それでも抵抗の意を示す。
「ニンゲンは嘘つきだ。自分たちの住処が豊かになれば返してくれると言ったのに、ディアナさまを返してくれなかった。たくさんの家を建ててまぶしい暮らしをして、それでも足りないと他のみんなも連れて行った。この上、わたしたちから何を奪おうというんだ。ニンゲンのことなんて信じないぞ……!」
「なるほどな。おまえは引き出せる力もないから、見逃されてたってわけか」
「黙れ……!」
青年の正鵠を得た一言に、人狼の少女は躊躇なく矢を放つ。
鋭く飛び出した一撃は、青年の胴を貫くかと思われたが――彼はカンテラを持ったまま、ひらりとかわした。
力なきものの攻撃は、あるものには届かない。悔しげに唇をかみしめ、さらなる矢を放とうとする人狼の少女に、青年は淡々とした調子で言う。
「なあ。俺は本当に誰かをかどわかしたりとか、妙な真似をするつもりはない。なんなら、目的を達成するまで監視してもらっても構わない。それが終わったらさっさと出ていくよ」
「目的……?」
「ああ。さっきも言ったろう。頼まれごとをされたからここに来た、って」
うなる少女に、青年はうなずいた。
カンテラを掲げ――その中にある月のような輝きを見つめながら。
「この森の奥にある、一番開けたところに行きたいんだ。そこまで行ったら、目的は達成だ。なんなら迅速に済ますために、案内を頼まれてくれないか、人狼よ」
★
おおまかな森の構造は把握していたが、やはり勝手知ったる者がいれば話は早い。
用事が済めばさっさと去る、と言った青年の発言をうけ、人狼の少女は渋々と案内という提案をのんだ。むろん、何かあればすぐに矢を放つという条件付きであるが――厄介者を追い払うため、彼女は青年と共に森の中を進んでいた。
「……この先は沢になっている。渡れそうなところまで迂回していくぞ」
「了解」
森の最奥であり、中心部――そこにたどり着くまでには、真っすぐ伸びる道ばかりではない。
時には大回りをしなければならないこともある。月も星の明かりもない森の中だ。そんな真正の暗闇に近い空間を、しかしカンテラの明かりに照らされて二人は進んでいく。
小さな川のある場所まで出れば、頭上の木々はわずかにとぎれて。
そこから覗く空も、やはり何の輝きもない真っ暗だった。
「……昔は、この沢でみなと水遊びなどしたものだ」
そして、前方にある小さな川を見つめ。
人狼の少女は、ぽつりと思い出をこぼす。
「……みながいて、平和だった時代だ。何も悩むことなく、笑い合っていた、満ち足りた時代だった。なあニンゲン。なぜおまえたちは、それ以上を望む? 目が潰れるほどの光と、身の丈に合わぬ大きな住処を望む? わたしには分からない」
「知らん。ニンゲンにも色々いる。光を望む者もいれば、望まない者もいる。そんなものだ」
「……そうか」
青年の実に淡泊な回答に、戸惑ったのだろう。
人狼の少女は、わずかばかり足を止めた。自分の考えていた『ニンゲン』の像と、青年の言うことがズレていたから――憎悪していたニンゲンというものの定義が、心の中でブレて困ってしまった。
森の中で生まれ育った彼女は、外の世界を知らない。
知っているのはこの森と、そしてほんのわずかに垣間見た、仲間が連れ去られた場所のみだ。
この森とはまるで違う『街』というものを思い出し、人狼の少女は青年に言う。
「……われらの力を貸してほしいと、ニンゲンたちは最初に頼んできた。慈悲深きディアナ様はその呼びかけに応え、外の世界に赴き、そして戻らなかった。そのうち、まだ足りぬと、ニンゲンたちはこの森を襲った」
「精霊や妖精から力を引き出し、エネルギーにする術を編み出したんだな。生命を動力源にして駆動させるものを作り上げたんだろう。つながれたものは枯れ果てるまで、使われる」
「なあ、ニンゲン。おまえはこの森の外から来たのだろう。『街』とやらはどうなっていた? みなは無事なのか? 生きているのか?」
青年の口にしたおぞましき術式に、少女はたまらずそう尋ねた。
生命を吸い出して輝く、魔法の明かり。
自らを飲み込みそうなほどの、膨張した住処。
その中で、仲間たちは生きているのだろうか、それとも――
必死の彼女の問いかけに、青年は変わらぬ調子で答える。
「滅んだよ」
この森にやって来る前、彼はその街に立ち寄った。
そこにあったのは、ガレキと化した街並みと、かつて駆動していた機械たちだった。
「生命を取り込み過ぎて、術が壊れたんだな。ニンゲンはみんな死んでいた。静かなものだった」
墓標のように立ち尽くす建物の群れに。
青年は祈り――そしてここで、カンテラを掲げている。
☆
「……ここだ」
やがて、森で一番開けた場所にたどり着き。
人狼の少女は小さな声で、青年へと言った。
うっそうとした木々から抜け、急に視界が開ける。
そこは広場のような場所だった。
言うなれば、森の住人たちの集会場――といったところだろうか。広々とした円形の草原は、森の中でぽっかりと浮かぶように存在している。
そして上空には、やはり月も星もなく――ただの黒い色だけがあった。
滅びた森の、滅びた光景。
かつては賑やかであったのだろうここも、今ではあまりにも静かなものだった。
「……もう、いいだろう。案内はしたんだ、さっさと去れ。ひとりにしてくれ……」
「ああ。あと少しだ」
仲間たちの最期を聞き、ひどく衝撃を受けたのであろう。
人狼の少女は顔を蒼白にし、うつむいている。対する青年はといえば、その場にひざまずき、カンテラを地面に置いた。
炎ではなく、月のように浮かぶ魔法の明かり。
それを解放するため――青年はカンテラをそっと開ける。
「おいで。
その呼びかけに。
ふわり、と辺りを照らしていた光は、外に出た。
形を取ることも既に叶わず、故に声を出すこともできなかったその輝きは――
「ディアナ……様……⁉」
かつてのこの森の主。
存在を他の生命に分け与え続け、なおも辺りを照らす女神の魂。
漂う柔らかい光は、ゆっくりと人狼の少女の周囲を舞った。
まるで、再会を喜ぶかのように。
「どういう……こどだ⁉ ニンゲン⁉ おまえの仕業か⁉」
「頼まれたんだよ。通りすがった街で。擦り切れて動けなくなってた彼女に言われたんだ」
ディアナ、と呼ばれた女神は願った。
そして、彼女に従った者たちは祈った。
「『森に帰りたい』ってな」
その言葉が呼び水になったのだろうか、青年の周りから、小さな光の欠片たちが浮き上がった。
ぶわり――と、蛍のように儚い光が辺りを照らし出す。
月の女神に付き従うよう、星の従者たちが宙を舞う。
草むらの中を喜ぶように。清浄な空気を楽しむように。
そして、かつての仲間を懐かしむように――人狼の少女の周りをひとしきり飛び回り、細かな光たちは広場に満ちた。
「おやすみ、ディアナ。いい夢を」
それは、真正の夜を終わらせる魔法の呪文であったのだろうか。
青年の言葉に伴い、辺りを漂っていた光はゆっくりと空に上っていく。安らかに――元の場所へ返るように。あるべき場所へ戻るように。
けれども。
「待って……!」
それを追って、少女は駆け出した。
光の渦を追いかけて。もう触れられない彼らに手を伸ばして。
「待って、待って、待って……! ミューシャ、カイ、サム、リルカ……!」
かつての仲間たちの名を呼んで、人狼の少女は走る。
いつかあった、思い出たちを胸に。
「いや……! みんな、置いてかないで、置いてかないでえっ……!」
小さな存在の必死の叫びに、応える声はなく。
しかし最後に、少女の周りを月が回り――そこに全員が続いて、一瞬だけ彼女の周囲に、夜空が満ちた。
光が凝縮したような光景は、まばたきをする間に天に上り。
真っ暗だった空は、満天の星空に変わる。
「あ……」
輝く月と、きらめく星々。
それを見上げて、人狼の少女はへたり込んだ。
もはやその手は空に届かず、また彼女はひとりになる。
住人たちが戻り、滅んだ森は再び照らし出された。ただ――人狼の少女に、声をかける者はいない。
たったひとりを除いては。
「ああ。ちゃんと帰れたみたいだな。これで目的は果たした」
「きさま……」
隣に佇む黒づくめの青年に、人狼の少女は涙を流したままの顔を向けた。
動じない態度。手に持つ尋常ではないカンテラ。
そして何より、女神に頼まれごとをされ、かつかの柱を親しげに呼んだ、あの口調からして――
「きさま……ニンゲンではない、な?」
彼が憎むべき敵ではないことは明らかだ。
どれほどの格なのかも分からぬ。だが確実に女神ディアナと同じか、さらに上。
そんな存在は、肩をすくめて少女の問いに答える。
「ようやく気付いたか。そんなんだから、おまえだけ無事だったんだ――弱かったから、連れ去られなかったんだよ。無事でいてくれた。それがディアナの、最後の喜びだった」
「黙れ……!」
しかしどんな偉大な者であろうとも、神経を逆なでされれば牙をむく。
それが人狼の少女の生き方だった。目の前に、身近に、ずっと仲間たちはいたのにそれに気づけなかった。
弱いから。
そんな自身への悔しさにむせび泣きつつ。
小さき存在は、心のままをぶちまける。
「わたしは……! 連れていってほしかった、どんなに頼りない存在であろうとも、ひとりにしないでほしかった……置いていかれたくなんて、なかったんだ……! それをおまえに分かったような顔で言われて、たまるか……!」
「ああ、そうだなあ……」
少女の叫びに、青年は息をつく。
その吐息は、見かけによらぬ老人のような雰囲気を帯びていた。
まるで、今目の前で見たような、古き友人を見送る経験を何度もしてきたような――
「俺も似たようなもんだよ。置いていかれて、取り残されて――そんなんばっかりだ」
そんな彼は、森に残された少女に手を差し伸べる。
「それでもよければ、一緒に来るか?」
月を背に、星を散りばめ。
言ってくる黒づくめの青年のことを、人狼の少女は呆然と見上げた。
この森にはもう、誰もいない。
守るべきものも、果たすべき約束もなくなった。全ては滅んで、彼女は自由になった。
ひとりに、なった。
物言わぬ月と星は頭上で輝き。
見るものを等しく照らし出している。
その光の中で、仲間たちに見守られ、解き放たれた彼女は――
「……わたしの名前は、レティシアナ。……レティ、と呼んでくれ」
おずおずと手を伸ばし、青年の指先に触れる。
それは《古きもの》と呼ばれる青年の、長い長い旅路の一節。
小さく儚い輝きと共に、彼らを見つめる物語。
狼見上げる月と星空 譜楽士 @fugakushi
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