ぬい

三崎伸太郎

第1話




ぬい



空中に何か光るものがある。一筋、気の外気に漂うもの。 何だろう。

ぬいは、目ではなくて頭のシンでそれをとらえようとする。 糸・・・いや、違うのかしら。 変なもの。

おぼろな記憶が、わた雪のように現れては、そのものに当たって消えた。

秋の朝。 ケイロウ・ホーム。

ぬいは、しらじらと夜の明けるころ目を覚ました。 そして、限られた中庭の景色を一ツ一ツ数えるかのように、何度も視点を変えて眺めていた。

歩行が出来なくなって三年。 片方の手が自由に使えなくなって一年。 寝たっきりの生活が半年も続いていた。


ぬいの人生は・・・一人息子は第二次世界大戦、ヨーロッパの戦場で戦死。 

夫は、その後を追うかのようにアリゾナの強制収容所で病死。 これで十分だろう。

人間の一生は、個々人において、我々の持つ思考能力をはるかに越えたドラマ的なものからなりたっている。 そして、それを批評するにしても、われわれは余りにも人間自体について知らなすぎる。

他人を知ることに対して、自分を見失う人の何と多いことか。 ただ、我々にとって幸なのは、人生と言う劇場で演じられる悲劇も喜劇も、理性と感情をあわせ持つ生物の生存過程において、平等に演じられるという事だ。


ぬいは、ベットに寝ている。 身動きもせず、息ずかいさえも聞こえないほど静かに。 そして、虚空を見つめている。

一筋の光が空中に漂っていて、そのゆるやかなうねりが記憶の底をまさぐっている。

やがて、その反動でぬいの古い記憶がよび起された。


まぁ、ずいぶんにぎやかなこと・・・。


自分の姿が視覚に映っていた。 カスリの着物を着た、ぬい。 子供とたわむれている夫。 正月なのか鏡餅が床の間に飾ってあり、その上に置いてあるミカンのオレンジ色が、とても新鮮に見える。


 あなた・・・。


夫と子供がふりかえる。 微笑した顔がぬいを見つめ・・・ゆっくりと消えていった。


一筋の光が空中に漂っている。


ぬいは、それを見つめた。 今は、そのものが何であるのかと考えているのではない。

その一筋の光に祈っている。

まもなく、光は波動を作り次第に大きくなって、あたり一面を純白に変えた。 そして、その中から、浮き出るように一ツの光景が現れてきた。 船上だった。 港に停泊している船は、たくさんの人々の見送りを受けている。 子供を抱いた夫とぬいは、甲板の手摺から、その人々を眺めていた。 日の丸の小旗がたくさん見える。 それがメチャメチャにゆれる。


あの時、年老いた父と母が見送る人の間にいたのだ。 大正五年、アメリカに向けて夫二十八歳、ぬい二十三歳。

その数年まえ、夫に嫁ぐ前夜、父と母は娘に一振りの懐剣を与えて言った。


ぬい、我家は落ちぶれたといっても代々幕府直参の士族だ。 武士の誇りはすててはならん。 死ぬことをおそれるな。


ぬいの頭の中で、その言葉が生物のように動く。


そして、青い光を放つ刀が静かに見守っているのがわかる。 刀は、今までに三度鞘より抜かれ、三度ぬいを助けた。 その内の一度は、自分自身が死を希望したものだったが・・・。


一筋の光がゆれている。


アメリカの国旗が見える。 汽車が走る。 広大な大陸。 一面に広がる枯れ草の上を風が走る。


夫がたたずむ。


この土地だ。山肌の露出している、山とも丘とも形容しがたいそのふもと。 夫の希望に満ちた顔が見える。 

シュガービート。 その新芽があたりを黄緑色にした朝、夫と妻は手を取り合って泣いた。

荒野の開墾は、小額のお金と若さだけが頼りだった。 

馬車の手綱を取り、子供をひざに置き、ぬいは働く。

夫の日焼けした顔が見送る。

ヒズメと車輪の音が、遠くに聞こえたり近くに聞こえたりする。

それを楽しむかのように耳を澄ましていると、何か異質な音が混ざって来て、耳をとらえた。

廊下を歩く音。


 ――ケイロウ・ホームの中庭に秋の陽がまぶしい。


ぬいは、顔を上向きに直した。 

白い壁の表面に二、三筋の亀裂が見える。


廊下を歩く人の足音が、少しずつ多くなって来た。 そのうち物を引っぱる音が近ずいて来て、ぬい達の部屋に、エイドさんと呼ばれる看護助手が入って来た。

この二人部屋の相手は、年は七十歳。 食欲もあり、良くしゃべる老人だが少し耳が遠く、歩行が殆んど出来ない。

ボーイさん、と呼ばれるオーダアリイの青年が、服を着せて車イスに乗せ、食堂や風呂に連れて行く。


エイドが言う。

「ぬいさん。 今日も食欲がないわね。 どうしたの? ほら、少し食べなさい」


ぬいは弱く首を振る。 ジャムを塗ったパンが口もとに運ばれる。 しかし、口は固く結ばれて開かない。 ジャムがくちびるのはしにつく。


「ほら、おくちをあけて・・・ほら、パン」パンという固形物がくちびるを分けて押入ろうとするが、それは歯茎で止まる。


「――しかたないわねぇ。 じゃ、ミルクは?」


 ぬいは首をふる。


エイドは「ここに置いときますから、後で飲みなさいね」と言うと、片方の老人の食事姿をチラリと見て、あたふたと次の部屋に向けて出て行った。


ぬいは、再び顔を横に向けて中庭の一筋の光を求めた。 中庭は、潅木の葉が頼りない秋の色。 


一筋の光は、木の葉先近くに見えたのだったが、再びそれをとらえようとするぬいの目は、秋の陽の輝きに耐える力を、すでになくしていた。 しかし、ぬいは見つめ続けた。


すると、一筋の光はぬいの頭のシンに現れた。 長く、柔らかく、優しくなびく一筋の光。


 ――街の風景。


第二次世界大戦。 日系人の強制立退と強制収容所。

夫が家具SALEの立札を立てている。 SALEの文字がいやに大きく見える。 今までの努力が、その四ツのアルファベットの中に、総て入っていた。

しかし「SALE」は、その値打の「五十分の一」程に変えてしまった。 ぬい達は、数個のスーツケースに限られた身の回りの品を入れて、家を離れた。 その時、終戦後にぬい一人が生きていて、他人のものとなってしまっていた家と土地を眺めることになろうとは、誰に想像できただろうか。


砂漠の中につくられた収容所の乾いた空気が、ノドにいがらっぽい。


星条旗の下で、一人息子が軍隊に志願した。


父と母は、賛成も反対もせず、父は、アメリカの為に立派に戦え、と言った。


母は、死ぬことをおそれてはならない、と言った。


「死」ぬいは、おそれない。 戦争で早死にした息子に代わって、生きて来た命だと思っている。 今、ぬいは息子に聞かせるようにつぶやく。


 ――この程度で十分・・・ママは、お前の代わりに生きすぎました・・・。


一筋の光がソヨリとゆれた。 ふと、ぬいの耳に懐かしい息子の声が聞こえたように感じた。

部屋に、二人のオーダアリイが朝の挨拶をしながら、元気よく入ってきた。

一人は新しくオーダアリイになる青年のようで、他の一人から色々と教わっている。


「このように・・・服を着せて。 まァ、暇があったら簡単にでも髪を櫛ですいて下さい。 一人で二十人以上も受持つんですから、朝は時間がありませんからね。 そして、ほら、こうやって車イスにのせるんです」


オーダアリイは、老人をかかえて車椅子に移した。


「ねッ、簡単でしょう。 このようにソックスとクツをはかせてッと。 髪をすいて――もう、自分では、何も出来ないんですからね。ていねいに、わかりました?」


「こちらの方は?」


「ああ、ぬいさん・・・彼女は、そのまま。 もう半年ほど寝たっきりなんですよ。 週二回、フロの時にだけ起します」


ナースが入って来て、ぬいの検診をはじめた。


「そちらのオバアチャン、どこか悪いんですか?」新しいオーダアリイの青年がたずねた。

「別に。 でも、オバアチャン、オジイチャンという言葉は、なるべく使用しないで下さいね」

「はァ・・・又、どうしてです?」

「その家族の方達が、肉親でもないのにッて怒るのよ」

「わかりました・・・」青年はとまどったように答えた。 ナースは満足顔で出て行った。


「ボーイさん・・・」


青年は自分を呼ぶ声を耳にして、その方に近寄った。


「気にしなくていいのよ・・・私はオバァチャンと呼ばれるのが好きだから・・・その言葉がなつかしくてね・・・」老人の声はかすれていた。 「ボーイさん・・・そとの・・・木の上のほう・・・イトのようなものが・・・光ってみえるのだけど・・・何だか、教えてくれませんか・・・」


青年は、ガラス越に目をこらして外の景色を眺めた。 しばらく見続けた後、彼は木の葉先から流れるように一筋、純白に光るクモの糸を見つけた。


「ああ! クモの糸です。 あれは、クモのイトですよ、オバアチャン」


「そう・・・ありがとう・・・」


 一筋の光は、クモの糸だった。 ぬいは、その糸に感謝した。


目を閉じると、光は、晴天の空に長く尾を引いて漂っていた。 その端に、青く光る刀がむすばれている。 やがて、それがぬいの手に届くところまで近寄ってきた。


ぬいは作法通り死の儀式を行った。 魂は肉体を離れ、無限の宇宙空間を、懐かしい人々の方向に流れて行った。 (終わり)




 


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ぬい 三崎伸太郎 @ss55

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