生きている僕と、死んでいる君の夏。
三上 エル
ベランダの外へ踏み出して
「やめときなよ」
聞き覚えのない女の子の声がして、自室のベランダから眼下の景色を見つめていた僕は思わず顔をあげる。僕一人しかいないはずのベランダには、落下防止用のてすりの上に腰掛ける、高校生くらいの年頃の少女がいた。
「……は?」
「ここから飛び降りるつもりでしょ。やめときなよ」
風になびく彼女の白いワンピースは、夕焼けの光を浴びてオレンジ色に染まっている。それはあまりに綺麗で、とても現世の物とは思えない。
「わたしみたいになっちゃうからさ」
あっさりと自分の正体を告げた彼女との不思議な夏は、その瞬間から始まった。
夏は大嫌いだ。血を吐くような、なんてどこかの詩人が言っていたように、死を近くに感じる季節。ドロドロの蜂蜜みたいな甘い匂いのする夏の夜は、息ができなくなるような感覚に襲われる。
その夜、安アパートの大して効きもしないちゃちなエアコンは、がこんと悲劇的な音を立てて息を引き取った。無性にイライラして、僕は家を飛び出す。近所のコンビニで一番安いアイスを買って帰宅すれば、ささやかな夏への抵抗として開け放したベランダの窓の向こうに、彼女の白いワンピースが揺れるのが見えた。
「なんで窓開けっぱなしにしてるの」
可愛らしく首を傾げる彼女に、僕は一言壊れた、と告げる。
「ああ、エアコン? 可哀想」
「黙れ」
「はいはい」
僕と彼女はまるでずっと前から知り合いだったかのようにラフな会話を繰り広げる。実のところ、彼女と出会ったのが何日前のことだったのか、あまりよく覚えていない。死ぬことを決意して邪魔されたあの日から、毎日が夢のようにぼんやりしていた。今日の朝何を食べたのかも、もう思い出せない。けれど、彼女の存在だけははっきり覚えていて、彼女と交わした言葉だけが頭に残る全てだった。
「アイス、好きなの?」
そう聞かれてようやく、僕は腕に下げたままのビニール袋の存在を思い出す。ただ苛立ちをぶつけるためだけに買った安物のアイスは、もう既に少し柔らかくなっていた。
「別に。食べる気はなかった」
「何それ。じゃあなんで買ったの」
「無性にイライラしたから」
「へえ、ガキっぽいところもあるんだね」
「うるさい」
「さっきから黙れとかうるさいとか、語彙力皆無じゃん。だっさ」
ベランダにしか現れず、家の中には決して入ってこない彼女との会話にほとほとうんざりしているはずなのに、毎日ベランダに出てしまう僕は頭がおかしいと我ながら思う。けれど、息苦しいはずの夏の空気が、彼女と話している時だけは澄んでいるように感じられてしまうのだ。
「大学はどうだったの」
「別にどうということもないよ」
「友達と話した?」
「昼休みにね」
「研究室の教授とはうまくいってる?」
「それなりに」
「嫌なことはあった?」
「何も。強いていうなら、帰ってきてエアコンをつけた瞬間あいつが死んだことくらい」
「そっか。いつも通りだね」
「まあ、いつも通りだったよ」
いつも通りの会話の展開に、僕はため息をつく。この後に続く問答は、もう予想出来てしまうから。
「なんで死のうとしたの」
出会った日から何度も問いかけられるその質問に、僕は今日も同じ答えを返す。
「死にたかったから」
「なんで死にたかったの」
何日考えても、返せる答えはいつも同じ。
「さあ、わからないよ」
「そっか」
数え切れないほどに交わした問いかけと答え。決して進むことはない、僕と彼女の現在地。
「じゃあ君はなんで死んだの」
たまには僕から質問したっていいはずだ。軽い気持ちで投げかけたその問いに、彼女はくしゃりと顔を歪めて笑う。それは今まで見たことのないような、あまりにも痛々しい笑顔。
「死にたかったからだよ」
「……なんで死にたかったの」
返ってきた答えは、僕の予想した通りで。
「さあ、わからないよ」
気づけば、コンビニの安物アイスはドロドロに溶けていた。
別に、嫌なことなんて一つもないのだ。両親は優しくて温かくて、僕をいつも応援してくれる。高校時代の友人は今でも定期的に連絡をとっているし、大学の友人との関係も良好だ。成績も悪くはないから、教授との関係もそこそこうまくいっている。
これ以上何を望むべきなのかわからないくらい満たされていて、それなのに僕の心はいつも何かを求めていた。いつも何かが足りなくて、でも何が足りないのかはわからなくて。
気づけば、死にたいと思うようになっていた。
「珍しいね。今日は早起きじゃん」
青空の下で見る彼女はいつもより生き生きしているように見える。夜更かし気味の僕の生活では、朝の清々しい空気に包まれた彼女を見ることは今まで一度もなかった。
「暑くて、変に目が覚めてしまったんだ。二度寝しようとしたけど、眠れなかった」
「そっか、まだエアコン生き返ってないんだもんね」
「残念ながらね」
「死なないでよ?」
「熱中症で死ぬくらいならここから飛び降りたいかな」
僕の言葉に、彼女は苦笑いをする。死んでいる彼女からしたら、死に方の選定なんてナンセンスなのかもしれない。
「君は、僕がいない間もずっとここにいるのか?」
「さあ、どうなんだろうね?」
「なんだよそれ」
「だって本当にわからないんだもん」
その答えに首を傾げれば、彼女もまた困ったように眉を下げた。
「君と話している以外の時間のことはよく覚えていないんだ。ぼんやりしていて、夢を見ているみたいな感じ。だから、もしかしたら君がいない時はわたしなんて存在してないのかもしれない」
なんだそれ。なんて馬鹿げた話なんだと思ったけれど、そもそも彼女は死んでいるのだ。死んでいる彼女と生きている僕がこうして普通に話をしていること自体、あまりに馬鹿げた御伽噺だった。
「じゃあ、僕が死んだら君も消えるのか。だから、君は僕に死んで欲しくないのか」
すると彼女は目を見開いて。少し黙った後、ひまわりのような笑顔を浮かべる。
「違うよ。わたしのためじゃない。なんだ、拗ねてるの? かわいいとこあるじゃん」
そして彼女は白くて細いその腕で、優しく僕の頭を撫でた。その感触は人の手に触られた時とは全く違っていて。僕の頭の上で爽やかなそよ風が吹いたような、そんなように感じた。それが、彼女がもう死んでいるということを思い知らせるかのようで、僕は無性に寂しくなる。それを見て、彼女はみょうに大人びた様子で微笑んだ。
「君が死んだら、みんな今の君みたいな気持ちになるんだよ。だから死んじゃだめだよ。君がわたしにそういう気持ちを抱くうちは、だめなの」
そんな彼女の優しい、けれどどこか有無を言わせない口調に僕はその場に立ち尽くす。朝の風に吹かれてなびく彼女の長い髪の毛とワンピースを茫然と見つめていたら、いつの間にか大学へ向かう時間になっていた。
どうして人間は辛かったことや苦しかったこと、悲しかったことばかりを覚えているのだろうか。
僕の覚えている一番古い記憶は、幼稚園に入るか入らないかの頃のこと。おもちゃ売り場で夢中になってロボットの人形を眺めていた僕は、両親だと思い込んで背後にいた若い夫婦の間に入り込み、二人の手をとって必死に話しかけた。坊や、お父さんお母さんと間違えてるよ、と言われて初めて、僕は自分の過ちに気づいたのだ。顔から火が出るかというほど恥ずかしくて、慌てて両親のもとへと走り寄ったことを覚えている。
あまりに幼い、罪にもならないような失敗でさえ、僕は鮮明に覚えていて。今でもその過ちを責めているのだ。馬鹿げている話だけれど。
年中の頃、お遊戯会で登場するタイミングを間違えた。小学四年生の運動会、クラス代表として出場した対抗リレーで盛大にコケた。中学二年生の冬、学校の機材を誤って壊した。高校二年生の文化祭、準備中にカッターで指を切った。
覚えている必要もないようなそうした失敗はみんな、僕にとって許されざる罪だ。本当は、そんな失敗体験など覆い隠せるほどの成功体験だって積み重ねているはずなのだ。それなのに、成功の甘い喜びはほとんど思い出せなくて。失敗の苦い後悔だけが脳裏に浮かぶ。
楽しいことはすぐに忘れてしまって、悲しいことばかり一生引きずって生きていくのなら。生きていくことに、いったいなんの意味があるのだろうか。
「君はさ。生きてる間に、楽しいことはあったのか」
初めて会ったあの日のような夕焼けを見つめながら、僕はソーダアイスバーを口にする。久しぶりに口にしたそれは、幼少時代の象徴みたいに切ない爽やかさを残して僕の胃のなかへ消えていった。
「あったよ。友達はたくさんいたし、勉強は嫌いじゃなかった。両親もいい人だったし。でも」
彼女もまた夕焼けを見つめている。僕の見ているそれと彼女の目に映るそれが、同じかどうかはわからないのだと僕は気づき始めていた。僕は彼女がこちら側の世界にはみ出してきてしまっていると思っているが、もしかするとはみ出しているのは彼女ではなく僕なのかもしれない。あちら側に片足を突っ込んで、少しずつ死へと引っ張られているのかも。
「夢は、なかったかな」
僕と彼女は似すぎていた。彼女の抱える孤独は僕の孤独で、彼女の心に空いた欠落は僕の欠落だった。たまにわからなくなる。彼女は本当に存在しているのだろうか。彼女は僕が作り出した幻に過ぎないのだろうか。
「卒業した後、やりたいことなんて何一つなかった。大学受験のために勉強してたけど、未来のために今を消費したって意味がないような気がして、嫌になった自分に気づいちゃったんだ」
「だから死んだのか」
「さあ、どうなんだろうね。わからないや。それだけが理由じゃないと思うけど」
「なるほどね」
死にたい理由も、死んだ理由も、どれだけ考えても答えは出ない。答えが出ないことに苦しんでいる一方で、答えが出ないからこそまだ僕は生きているのかもしれないと思っていた。
「ただ、あの日はとても夕焼けが綺麗だったから。今なら、その一部になれるかもしれないと思っただけ。ベランダの外へ踏み出すのは、びっくりするくらい簡単だった」
ソーダアイスバーが跡形も無くなって、僕はアイスの棒を口から出す。そこにはくっきりとした文字で「はずれ」と書いてあって、僕はそれを部屋の中のゴミ箱へ投げ入れた。
今なら、僕も簡単に踏み出せそうな気がした。ベランダのその先の、美しい夕焼け色の空へ。
次の日、なかなか巨大な台風が日本列島を直撃してきて、僕の住む安アパートの一室も例外なく自然の怒りに飲み込まれた。窓を開けることもできないような暴風と豪雨に、つい昨日エアコンが直ったのはラッキーだったと安堵する。今日もベランダに彼女はいるのだろうか。僕がベランダに行けば、彼女はいつも通りの笑顔で待っているのだろうか。この暴力的な嵐の中で?
その姿を見たいような、見たくないような、いずれにしても勇気は出なくて、それから数日間、僕は彼女に会うことなく過ごした。とても空虚で無意味な時間が流れていく。僕はその時初めて気づいた。いつの間にか、彼女と話す時間は僕にとって生きがいになっていたのだと。彼女と話す時間だけが、僕が本当に生きている時間だった。
彼女はいつまで僕の前に現れるのだろうか。ずっと、この先の未来もずっと、ベランダにいてくれるのだろうか。
きっとそうではないことを、僕は知っていた。彼女に出会ったあの日から、僕はずっと分かっていたのだ。知らないふりを、したかっただけで。
夏の終わりがいつなのかなんて、誰にもはっきり言うことはできないはずだけど。暑苦しいドロドロの空気の向こう側に、冷たい枯れ葉の匂いを感じるようになって、僕はそれが近づいていることを知った。そしてきっと、彼女もわかっていたのだろう。その日の彼女はいつもと少し違っていた。
「なんで、君とわたしだったんだろうね」
いつも空ばかり見つめていたはずの彼女は、何故だかずっと僕を見つめている。その目に焼き付けようとでも言うかのように。
「このベランダから飛び降りたんじゃなかったのか」
「違うよ。わたし、自分の家のマンションのベランダから飛び降りたもん。ここからずっとずっと遠くだよ」
「じゃあなんで」
「さあ、なんでだったんだろうね」
台風が過ぎ去って、その日は一日中空は晴れ渡っていた。休日だったから出ようと思えばいつでもベランダに出られたけれど、怖くて夜になるまでできなくて。空は美しい星で満たされていた。隙間もないほど輝く星の光は、僕たちの心の欠落さえも埋めてくれそうなほど優しかった。
「これは、なんの意味もない出来事だったんだ。だから、忘れてもいいよ。わたしのこと」
確かに、なんの意味もなかった。僕らは取り留めのない話をして、夏の暑さの中で必死に息をしただけ。でも。
「僕が死なないで、君のことを覚えていたら、いつか君はまた現れるのかな」
すると、彼女はきょとんと目を丸くした。それから、おかしそうに笑って。
「さあ、どうだろうね」
いつも通りの返事を返す。僕らは何一つ理解していない。僕らが出会えた理由も、僕らが死にたかった理由も、生きたかった理由も、生きていくことの意味も。
でも、僕らはきっと、それでもいいんだ。
「じゃあ、わかるまでは生きてるよ。君を忘れるまでは、生きてみてもいいような気になってきた」
「何それ。意味わかんない」
「わかんなくていいよ。僕にもわからないから」
彼女が鈴のような声で笑う。僕もつられて微笑む。夏の終わりが近づき、蜂蜜のような夜は息がしやすい透明な空気に入れ替わっていく。
「これで終わりだね」
「そうだね。楽しかった?」
いつしか、彼女はぼうっと妖しく光を放っていた。儚く、切ないその光の向こうで彼女が問いかける。僕は迷わず答えた。
「楽しかったよ。ありがとう」
なんの意味もない、何が変わったわけでもない、ただ一夏が過ぎ去っただけだけど。僕は迷いなくそう思えた。そして、そんな自分を少しだけ好きになれた気がした。
「わたしも楽しかったよ。ありがとう」
そして、彼女はベランダの手すりの上に立ち上がる。無数の星が彼女を呼んでいた。
「前は夕焼けに溶けたけれど、今度は星になるんだ、わたし。ねえ、綺麗でしょう?」
最後の夏の風が、彼女の長い髪と真っ白なワンピースを揺らす。キラキラと輝く瞳が、真っ直ぐに僕を見つめていた。その笑顔を目に焼き付けながら、僕は告げる。
「ああ、とっても綺麗だよ。さようなら」
その時の彼女の微笑みは、まるで恋する少女のようで。思わず胸がどきりとする。僕の心に消えない楔を打ち込みながら、彼女はベランダの外へ踏み出した。
「さようなら。またね」
しゅわりと炭酸の泡が弾けるように、彼女の体が光となって消えていく。それは無数の星が浮かぶ夜空に吸い込まれていって、やがて見えなくなった。
その夜、僕は朝が来るまでベランダから空を眺めていた。朝焼けの向こうに消えていく星を惜しみながら、僕は最後まで彼女の名前を聞かなかったことを思い出す。きっとそれでよかったのだ。彼女の名前は、次に会えたときに聞けばいい。そう思うと、生きていくのがとても楽しいことのように思えてきた。
気づけば、もう大学へ向かう時間で。僕はいつも通り朝ご飯を頬張りながら、リュックを背負って部屋を出る。何も変わらない秋の一日が始まろうとしていた。
これは、夏が大嫌いだった僕がほんの少しだけ、夏を好きになった話。
生きている僕と、死んでいる君の夏。 三上 エル @Mikamieru_8
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