9-1. オレンジの追悼
持て余すほどの悲しみが、先の見えない谷のようになって心に差すことがある。たとえば食器棚に一つ余るカップを見たとき。誰かが珍しくココアを選んで飲んでいるとき。テレビをつける機会が減ったのに気づいたとき。掃除機をかけていても洗濯物を干していてもはしゃぐ誰かがいないとき。星の見える部屋のベッドを、もうソファに組み戻してしまったのだと思い出したとき。
端から覗く手首でソファに夏羅サンが寝ているのに気づいて戸口で立ち止まる。昼食を一緒にとってから姿が見えないなと思ったらこんなところにいたんだ、と考えて、声をかけようか悩んでいたら向こうから「なに」という愛想のない問いかけがあった。愛想がないとは言っても夏羅サンが心置きなく話すときってむしろもっと不機嫌そうだったりするから、それに比べると随分遠慮がちだ。あんまり構われたくなさそうでもあって、その直感通りにしてやるべきところを、もう少し話したくなるのは俺のほうが心細いからかもしれない。それをこのひとを慰めないでいる罪悪感と取り違えそうなだけ、なのか。
「……夕飯に茄子使ってもいい?」
「えー……洋食にして」
「分かった。じゃあ鶏肉とケチャップ煮にしてチーズ乗せるね」
「なんで何でも作れちゃうの、馬鹿」
諦めたように起き上がってもまだ甘えるみたいに背もたれに顔を寄せていた。それでも少しだけ寄越される視線に安心して微笑んでしまうのを、煩わしそうにしつつも何も言わない。飲み物入れようかと声をかけるとわずかな間があったけど、立ちあがろうとするしぐさが見えたので全部は見届けないまま俺は階段を降り始めた。上方からぽつぽつと奏でられる音は夏の夕の寂しさに似ている。「冷たいのがいい」、「オレンジジュース」と。
今日はよく晴れていて、気温も高めだ。俺も冷たい飲み物にしておこうかなと考えながら冷蔵庫を開ける。夏羅サンは居間にいた姉ちゃんと果楽さんと話し出している。
「夏羅」
「帰ってしまったのかと思いました」
「そんなみんなで揃ってやることなんかないでしょ」
いつも、四人が揃うと身体のどこか一部が欠けているような感覚がする。痛むときもあれば、ただ静かに違和感だけを抱えているときもある。「姉ちゃんと果楽さん、何か飲む?」振り返った果楽のひとみが不思議なきらめきをして、どこか寂しげな微笑みで「オレンジジュースを」と言った。続く七花の声も静謐にひびく。「私も」
何をしていたのかと二人に問うてみると、アオスジアゲハのことを調べていたそうだ。姉ちゃんは中学生の頃から蝶のことは調べ尽くしているはずだけど、なんでいまさら、とは思わなかった。――持て余すほどの悲しみが先の見えない谷のようになって心に差すことがある。何度乗り越えたような気持ちになっても同じだけの深さが胸を穿って、どうしたらいいのかわからない。こんなに悲しかっただろうか。そう思う一方で、こんなに悲しくてよかった、と思いもする。
たいせつだった。その事実はもう、幻想に帰ったりしないのだと。
「……きれいな蝶ですね。切菜の美しさによく似ています」
ひらひらと、谷の合間で羽ばたく蝶の碧を想う。とっくの昔に君はここで羽化していたのかもしれなかった。それにもっと早く気づけていれば、あの日、君はずっと蝶だったと伝えることもできたかもしれない。
四つ分のコップを同じ色が満たしていく。暑い日の昼下がりに彼女はよく、オレンジジュースを飲んでいた。
長夏 外並由歌 @yutackt
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