神様に触れたい

 ──昨日の記憶はあった。

 一昨日も俺は確かに職場へ向かい、確かに働いていた。

 しかし時間が滑ったのだ。瞬き1つした瞬間に27歳の1年の、その100分の1程が飛ぶように過ぎてしまった。

 まるでイベント日までスキップできるゲームのように、退屈でアンニュイな2日間がなかったかのように、俺の意識はそれを覚えていない。

 このまま何度か目を瞑れば、一切イベントが起こらないまま定年までジャンプして、後は寿命を全うするのを待つのみになる未来予想図が頭を駆け巡り、ぞわぞわと悪寒と鳥肌が身体を覆う。

 

 ──俺はそれが──そんな人生が、嫌だと思った。


 体感的にペルさんとの邂逅が、人生を変えるラストチャンスだと確信している。

 あと数年──30歳にもなれば、空虚に過ぎ去っていく時間に疑問すら呈さなくなるだろうから。

 何かを変えたいとすら思えなくなるだろうから。

「……ふあーわ」

 身体のこわばりから脳に酸素が足りなくなって、一つ欠伸をするといつの間にか俺はスーツに──”社会人”の装備へ換装していた。

 そしてビジネスバッグを取り出せばとうとう変革を求める感情は立ち消えて、社畜として人混みに紛れて生きていく選択を自然と採ってしまう。

 仕事はクソだという認識が改まることはないが、生存していくのにこれが一番省エネで合理的だと──”いらない子”認定を済ませた俺の心が言っているのだ。


 ──ポコン。


 部屋から出ようとドアノブに手を掛けた時スマホが鳴った。

 現実で友達ができなければ、SNSにも生きる場所を見いだせず、登録されているのは仕事関係の連絡先だけのスマートフォンが震えた。


『来て』


 しかし今回は人間味がないクソ上司からの呼び出しではなかった。

 ──それはペルさんからのメッセージ。

 アニメが完成したのだろうか。……なんて作業スピードだ。

 文面は彼女らしくなく、珍しく俺のことを気遣ったように”仕事終わりでも可”と入れてある。

「……チッ」

 沢山のことを考える。

 何をやっても劣等感を植え付けられた中学生まで。

 何かを変えてやると足掻いてみた高校生。

 何もかも諦めた大学生。

 そして。 


 ──何でもいいから掴みたがっている、溺れかけた社会人がここにいた。


 タイムスリップしたのはこの3日間だけではない。

 大学を卒業してから今ここに至るまで俺は何も覚えていない。

 楽しかったこと、嬉しかったことはおろか、悔しい、悲しいという感情までも抱いて生きてこなかったのだ。

 手になじむバッグをベッドに投げ捨てて、スーツをはぎ取るように脱ぐ。

 仕事終わってからペルさんに会いに行く?

 ──それで何かが変わるわけがないんだ。

 毎日マイナス1を積み上げてきた人間が、一度プラス100のイベントを起こしたってもう這い上がってくることはできない。

「それなら、家出確変でも起こすしかないだろっ」

 『月が消えた夏に』

 あの主人公も最後に”いらない子”から脱却するのだから。


 ──俺は職場とは反対側──我が家へと駆けだす。



 **********



 自宅への凱旋路はどう会社に言い訳しようか、そればかりを考えていた。

 母親の次は父親を殺すか、弟を殺すか。

 それとも架空の飼い犬を殺すか。

 衝動で飛び出してきてもう後悔に苛まれ、明日の立ち位置が不安になる。

「病欠が安牌かなぁ」

 改札にICカードをタッチして呟く。

 運動不足を振り切って足を高速回転させる。

 会社からの連絡が怖くてスマホはホテルに置いてきた。

 だから上司からの鬼電に出ることはないし、どれだけ同僚が俺を責めていようとそれに気づくことはできない。

 かまいたちが頬を切るように大股で──しかし颯爽とは言えない速度で──しかし全身全霊を尽くし足を回していく。

「はぁ、はぁ」

 そうさ、俺が大好きなロックンロールはそうだった。

「死ぬっ、はぁ、ふぅ」

 行け、行け、あの人の所まで。それだけ考えればいい。

「もうちょいっ……」

 …………。

 ──はぁ。……本当に?

 サンボマスターが身体を一周回ったところで、汗がやけに冷えてきた。

 俺がこんなことをするにも金が必要だ。金を得るためには労働現実が必要だ。

 肌寒い風を切って走るのもどうやら限界が来たようで、心拍数200を優に超えたであろう心臓を抑えて立ち止まる。

 駆け上がったワンルームマンション


 靄がかった心と共にドアノブへ手を掛けた。


 

 **********



 玄関らしくない玄関を上がると、室内灯は点いてこそいたが静寂に包まれた──しかし見慣れたワンルームが奥で待っていた。

 革靴を脱ぎながら見えたのはペルさんの横に伸びた足先だけで、その細い細い足が青白く、そしてピクリとも動かなかったことから俺は”ペルさんが倒れている!” と直感した。

「おい、帰って来たぞ」

 たった一つの狭い室内に入れば、ペルさんは一糸まとわぬ姿で横たわっていて、まるで濡れた雑巾を絞り切ったかのように表情が上を向いていた。

 俺が彼女の為に置いておいた食料類には──やはりというか一切手を付けられておらず、この3日間彼女が何も食していなかったことを悟る。

「ペルさん?」

 微塵すら反応しないペルさんの肩を揺すると、ほんのりとした温かみが掌に伝わって想定した”最悪の状況”は避けることができたとほっとする。

 ──ならば、少しくらい寝かせといてやるか。俺は毛布を彼女の裸体にかけた。

 そして静寂が部屋を襲えば、寝てるだけならわざわざ俺が仕事をサボる意味すらなかったことを思い返し、更に仕事をサボったこと自体に冷静になってきて、どうしようもない不安に襲われる。

 この不安というのは避けようがないのだ。

 ペルさんからのメールに一瞬の気の迷い(或いは情熱の点火)をしてから、その波が収まってきてしまえば、やっぱり俺は安定に服従してしまう。

事の収支すら考えられない能力のなさと、乗り掛かった舟にオールインすらできない甲斐性のなさに心を抉られる。

 …………。

 ……。

「ん……」

 湧き上がる焦燥でライターを取り出してはしまい、タバコを取り出してはしまう動作を10数回繰り返し──時間にすれば15分くらい経っただろうか。

 ペルさんが俺の気配に気が付いたのかぱちくり目を開いた。

「……」

 なんだかその雰囲気は神様の覚醒のようで、無暗に触れられずただペルさんの言動を見守ると、『くぅ』と可愛らしい音が響いた。

「お腹空いた」

 それから目を擦り起き上がるとはらりと毛布が捲れて、くすんだ肢体を晒すこととになる。

「お兄ちゃん、ごはん」

 そして何の恥じらいもなく言う。

「お、俺はご飯じゃないけどなあ」

 寧ろお前がご飯っていうか。一瞬浮かんだそのセリフは脳内で握りつぶした。

「ん? お腹空いてるって言ってるんだけど」

「あ、りょうかい……」

 ぽいぽーいと、ペルさんにパーカーを投げつけて、買い置いておいたご飯パックを電子レンジで温める。粉末味噌汁の為にお湯を沸かし、彼女が着替えたのを見計らってベッドへ腰掛ける。

「……で、アニメは。できたのか?」

 完成したから呼んだのだろう。

 解ってはいたが、しかし会話へ綺麗に入るためにそう訊いた。

「いや、あと一つ。大切なことが残ってる」

 しかしペルさんは首を横に振った。

「あ、そうなの?」

 小さなテーブルの上で光るiPadには

『  Writer:透明少年

  Animator:Persephone』

 と、こじゃれた文字で書かれた──恐らく最終ページであろう絵が残っていて、もう作業は終わっているように見えるのだが。

 ──チンっ。

 ペルさんは電子レンジからご飯パックと箸を取り出すと封を開けて食べる。

「ん……んしょ」

 当然彼女の手は塞がっているので、雑に足をiPadの上で左右に動かしページを捲ると、もう一枚真の最終ページが出てきた。

 そのページは背景が真っ白で、とてもアニメーションに使えそうなものではなかったが、たった1ワード真ん中よりちょっと左上に──。

「──author原作者?」

 と書かれていた。

「ふんす! はむ、はむ……」

 もごもごと口を動かしながら首肯するペルさんは、何かを言いたげに無理やり口の中のモノを飲み込もうとして。

「……ゲッホ! うぅぅぇ!」

「うわ、ばっちい!」

 盛大にむせた。

 『ばっちい』なんて単語を使ったのはいつぶりだったか。

 しかし米粒にまみれたペルさんの服と、床の惨状を見てつい口をついた。

「……そこさ、お兄ちゃんのサイン書くところ」

 彼女は汚れたパーカーを気にも留めずiPadに指をさす。

 ──俺の?

「え、さっき書いてあったじゃん。……透明少年って」

 透明少年というペンネームが恥ずかしくなって、ティッシュで床に散らばった米粒を拾い集めながら小声で言った。

「そこまではだよ。これはボクの作品に欠かせない……いや実際はどうでもいいことかもしれないけど、”儀式”みたいなものなんだよね」

「”儀式”?」

「そうそう、人柱みたいな」

「物騒過ぎない?」

 沈められるんか? 鎮められるんか?

「でもちゃんと埋まってたんだよ? ボクの動画の中に」

 慣れた手つきでタッチペンを動かすとペルさんは見覚えのある絵──数日前に観た彼女のアニメを表示させた。これが原画(?)なのだろう。

「お兄ちゃんも見たでしょ? この動画」

「おう。再生数、すごかったな」

 基になった曲を作ったボカロPも、元々名の知れてた人だったらしいし。

 ……最近の曲を聞かないから知らなかったけれど。

「あれねー。ほんの一瞬だけ、このサインのコマが入ってたんだよ」

 親指と人差し指を近づけてペルさんは”ほんの少し”を表現する。

 それに合わせて目を細めるのが可愛らしくて、思わず口角が上がってしまう。

「……気づかなかった」

「0コンマ0数秒だからね。気づく人なんていないよ~」

 ペルさんは俺にタッチペンを渡す。

 この作品──俺たちの契約はこのサインで終わる。

 ロクなサインなんて考えてもいなかったから、『透明少年』を適度に崩したロゴをくしゃくしゃっと書いた。意外と呆気なかった。

「じゃあ、これで終わりだね」

 携帯メモリにデータを転送し始めると、ペルさんはそう呟いた。

「……だな」

 明日どうやって会社に言い訳しようか。

 俺はそんなことを考えた。

 上司は怒ってないだろうか。

 同僚を困らせていないだろうか。

 後輩たちに陰口を叩かれていないだろうか。

 来年も再来年も順調に仕事ができているだろうか。

 俺はやってしまった罪を数えた。

 魔法が解けたシンデレラのように、自分がなんでもないただの1貧民であることを思い出した。

「いやあ! 楽しかったなあ」

 ペルさんが唐突に両腕を突き上げる。

 コピーの進行度が50%に到達しようとしていた。

「そっか」

「……2週間ぶりのマック──というか食料。本当に美味しかった」

「そりゃよかった」

 急にお礼とかやめてくれよ。

「スパイごっことか。あの人無茶苦茶怖かったね」

「ああ。もう二度と御免だ」

 俺もちょっと楽しんでたとか、そういうのは言わないけどな。

 進行度、80%。

「あとあの星。月の話も。すごく綺麗だった」

「だな」

 いつもは80%から俺をじらすように進まないコピー作業も、今日はなぜだかすんなりと100%へ向かっていく。

「──楽しかったよ、お兄ちゃん。じゃあ、元気でね」

 当然なんのイベントも起こらずすんなりとコピーが完了し、iPadだけを抱えたペルさんは一仕事を終えた職人のように、俺の下を去ろうと腰を上げる。

 契約はここで履行され、俺とペルさんの関係はここで断ち切れる。

 神様に触れた一週間はこうもすんなりと終わってしまうのだ。

 ──キキィ。

 少し錆びたドアを開けるその時。


「──も、もう少しだけ。ここに残れないのか?」


 できれば、一生。

 そんなことはとても言えなかったが、何とか俺の口はペルさんを引き留めることに成功した。意思を持ってこの言葉を口に出したのだ。

「……どうして?」

 彼女は疑問をそのまま俺に問う。

「いや……」

 だって。俺はたった一週間の間に観てしまったのだ。

 真っ黒な世界に現れた一筋の光明。神様の施しを。

 閃光発音筒の如く俺の人生に飛び込んできたペルさんは、今までの5年間に相当する──それ以上のものを俺にもたらしてくれた。

「……ペルさんといれば、楽しかったんだ」

「なるほどね」

 アニメの完成を待つこの3日間、一体俺は何をしていたのか全く思い出せない。

 それはこれまで生きてきた5年──いや27年間がそうだ。

 でもペルさんと出会ってからの4日間の、その1ページ1ページを俺は克明にはぐっていける。彼女がいれば『退屈』なんて文字とは無縁であったのだ。

「あと数日とか……。ダメか?」


「──じゃあ。お兄ちゃんはボクを楽しませることができる?」


 挑戦的な視線でペルさんは切り返してきた。

 上目遣いで彼女は俺を試している。

「楽しみ?」

「うん、ボクの楽しみ。──アニメを創ること」

「それは……?」

「ボクを冥界から救ってくれるのかい? ……ボクがを、お兄ちゃんは提供できるのかい?」

「……」

 ”生”のエネルギーを使い果たしたペルさんにまだアニメを創らせられるような、そんな小説を書けるのか。そう問われているのだ。

 今の俺にそんな小説は書けない。これから先、一生努力してもどうだろうか。

 渋々首を横に振ると、やっぱりかという表情で彼女は俺を慰める。

「そう、残念だね。……まあそんな気を落とさないでよ。いつかまた会うことも……多分ないけど」

「そうだろうな」

 100%ないだろう。

 ──俺がただの会社員を続けて、凡庸な小説を書き続ける限りは。

 だとしたら俺は、どうすればいい?

 助けを乞うようにペルさんを見ると、彼女は答えを指し示すように見つめ返す。

「でもどんなことになっても応援してるよっ。本当に。ずっと、ずっと──」

 そして一呼吸おいてから銀鈴のような声で云う。

「──お兄ちゃんはずっとボクの、たった1人のお兄ちゃんだからさ」

「……?」

 ……ずっと?

 首を傾げた瞬間にはもう──小さな腕が俺の腰に巻き付いていた。

 ギューッと。俺にエネルギーを供給するように。

「……知ってた? ハグするとストレスの3分の1が無くなるんだってさ」

「本当か?」

 そう言いながらも俺は頭の中を雁字搦めにする迷いが、すーっとほどけていくような感覚を得る。生きる理由──そんな大げさなものまで見えた気がした。

「色々あると思うけど。頑張れ、お兄ちゃん。じゃあねっ」

「……おう」

 ペルさんは俺から離れて背を向け歩き出す。

 もう引き留めるつもりはなかった。

 彼女はこれから冥界へと向かっていく。

 これからの時期もっと冷え込み、夜を超すのも難しくなっていくであろう。しかし彼女はその苦しさを糧にして生きていく。一度地獄の門に触れ、そこから助走をつけてまたこの世界にやってくる。──アニメーションを創るためだけに。

「ふう」

 腰にじんじんとくる神様の──もとい24歳の女の子の感触はまだ残っている。

 彼女の破天荒な行動も、チャーミングな笑顔も、傷んだ髪の毛や肌も、小さな肢体の美しさも、何もかももうここにはないが哀愁と共に覚えていよう。

 ふと胸元に手をやると、タバコとライターが消えていることに気が付いた。

 恐らくペルさんがハグした隙にくすねていったのだろう。

 ──器用な娘だ。

 しかしそんなものはもういらなかった。

 俺はもう決めたのだ。

 死なない作業を続けるのは今日きりでおしまいだ。

 死ぬまで死にたくないとぼんやり考えながら死んでいくのはもうおしまいだ。

 これからは生きる理由を追いかけて生きていく。

 もう一度ペルさんに会うために。……一生ペルさんと暮らすために。

 必要なのは情熱。全身全霊の情熱が必要なのだ。

 センスが無かったら? その時は死ぬだけだ。

「ついに俺もニートか……。ペルさんと変わんねーな」

 『執筆して昼夜を過ごす』

 ──聞こえはいいがただの引きこもりだ。収入もないし。

 ただ、俺には貯金があった。本来はペルさんに支払う予定だった金が。

「まあ……」

 行けるところまで行ってやるよ。とりあえずこの軍資金が尽きるまで。

 ──だって、小説書きという趣味はとても安上がりなのだから。

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神様に触れた一週間 花井たま @hanaitama

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