時間を司る現代人よ
「手になじむビジネスバッグ……嫌だなあ」
我が家のそれより一等柔らかいビジネスホテルのベッドで起床した俺は、いつも通りスーツに腕を通し出勤準備を完了させていた。
既に菓子折りは買い込んで、3日間も休んでしまったことを謝らねばならない。
そんな現実的な憂鬱が襲ってくると、一昨日見た満点の星空が恋しくなる。
俺がどうして愛するワンルームではなく、こんな無機質なホテルの一室で目を醒ましたかというのは、またもペルさんの突拍子もない提案──命令によるものだった。
仲たがいしたとかそういうわけではなく、要約すれば『3日間で描き上げるからその間家から出てって』と告げられたのだ。
さながら現代版『鶴の恩返し』である。
別に覗いたから何かあるというわけではないと思うが、「覗くな」と言われたモノを覗くような教育は受けて育っていないので、こうして久々に清潔な部屋で寝泊まりしている。
当然ペルさんが家事をこなせるなどとは思っていないので、コンビニで大量に食料を買ってきた。
これくらいしか貢献出来ないのが歯がゆいが、現場にいたほうが邪魔なのは確かな事実なのだろう。いいものを創るために、俺はいつも通りの日常に戻るのだ。
**********
俺の母が死んだ。
──そういう設定を思い出したのは、同僚に「ご愁傷様」と事務的に告げられてからだった。マジで危ないところだったわ。
「ええ、本当にすみません。部長もお体にはお気をつけて。では失礼します」
書き入れ時ではないのが功を奏して──身内の不幸にも関わらず3日間のみの休暇だったことも相まって、意外とすんなり職場には戻れた。
社内の喫煙所で胸元から取り出したシガレットにどうも違和感があると思えば、この3日間一本たりとも吸っていないことを思い出す。
確かに初日は初対面のペルさんに遠慮して止めていたのだが、それからは喫煙ということ自体を忘れていたのだ。
禁煙複数回成功者としても、無意識のうちに吸わなくなるということは初めてだった。
「……」
俺は少しでも彼女との間にできたモノをなくしたくなくて──吐き出した白煙にまみれて思い出が消えてしまうような気がして、何もせず煙草の箱を仕舞いスマホを開くと、俺が書いたネット小説──『月が消えた夏に』のPVが2から3に1PV増えていた。
──申し訳ないなあ。
当然ペルさんの裏事情──”創作の為に生死を彷徨う”ということを知らず、興味本位で頼んでしまったから、彼女の苦しい2週間の集大成とも言えるアニメ制作が、ここまで知名度のない無名の作家からの依頼だと思うと、少し胸が苦しくなる。
自分の作品がつまらないとは思っていないけれど、本気で創作の為に生きている人間に釣り合う作品かと問われれば──素直に頷けはしないだろう。
「はぁ。……考えるのやめよう」
今ペルさんがどんな顔をして、どんなことを想って、どんなものを観ているのか俺に知る術はない。例え”こんなクソ小説にどうアニメつけろってんだ”と貶されていたとしても、それを今解決することはできないのだ。
しかし喉につっかえたような懊悩は終業してもついに取り除けず、パソコンの前に戻ってみても、クライアントに電話を掛けても、満員電車に押し込められる帰路についても俺にまとわりつくのだった。
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シャワーを浴びてふかふかのベットに倒れ込んだ時、俺は日常の安心感を得た。
sin波のように波打った”異常な”3日間が収束され始めると、27歳の俺はそこに堅実性を見出し枕を高くしてしまうらしい。
最悪な傾向だ。ビールの栓を開ける。
ペルさんとの短い生活は毎日新しいナニかが得られる冒険と共に、地に足がつかないような不安定性を伴っていた。それが深層心理に悪い影響をもたらしたのだ。
口ではこの退屈な人生に吹く”最後の風”を待ちわびているなどと言いながら、いざくだらない職場に戻ってみれば「これでいい」とホッとする。
──俺はそれが──そんな人生が──。
窓枠からぼーっと街を見渡すといい感じに酔いが回ってきて、スーツを脱ぎ捨ててそのままうつぶせになる。こんな時に思い出すのはペルさんの顔で、彼女の顔を思い出すと更に酔いが回る。
ゆっくりと閉じられていく瞼。切断される意識。
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車の走る音が聞こえる。
カーテンの隙間から淡い光が垣間見えて、俺は朝を認識した。
そして寝ぼけまなこでスマホを開き時刻を確認する──。
「……?」
ナニカがおかしいぞ。
無言で立ち上がり洗面所へ向かう。
まだ夢の中かもしれない。
目を擦り顔を洗い、頭を軽く二度叩いてからもう一度スマホに注目する。
「……嘘だろ?」
しかし驚愕の事実が変わることはなかった。
──日付が3つ──ペルさんが指定した日の朝まで進んでいたのだ。
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