神様のカラス

@NatsumeHiromoto

Brother Sun, Sister Moon


 兄は、美しい人だった。

 美しいという表現はおそらく男性には似つかわしくないのだろうが、それ以外に形容する言葉が見つからないほどだった。神様が、特別に丹精込めて創りあげたかのような、独特の美しさが兄にはあった。

 そのため私は幼いころ、兄はきっと何らかの手違いによってこの世に生れ落ちたのだと思っていた。なぜなら彼はひとりで完結していたから。美しいものはおしなべて、ほとんど孤独だ。


 色素の薄い兄はまた、影の薄い人でもあった。いつもぼんやりとしていて、そのため彼の目は常に別の世界を見つめているように人に感じさせた。現に兄は、自分と自分以外との境界線が曖昧だったのだと思う。

 兄には生まれつき軽い知的障害があった。日常生活にはほとんど問題がない程度だが、小学校の頃から成績は悪く、同級生とのコミュニケーションもあまりうまく取れなかった。要領も悪く、同じミスを何度も繰り返した。そして、自分が人よりも能力的に劣っていることに深く傷ついていた。


 学校という幼くちいさな世界では、兄のような存在はいじめの対象になりそうなものだが、私の知る限り不思議とそういった行為は一度もなかった。彼の並外れた容姿のためだろうか。それもあるかもしれないが、きっと兄が容姿の美しさ以上に優しく純粋な人だったからだと思う。

 怪我をした人がいれば一緒に泣いてあげるような人だったから。悲しむ人間にそっと寄り添って、いつまでも頭を撫でてあげるような人だったのだ。

 

 いうまでもなく私が兄が大好きだった。愛していた。兄の茶色の瞳が柔らかく弧を描いて私を見つめる時、いつも驚くほど新鮮に幸せを感じた。




 兄が私の元から去って行った時のことは今も記憶に新しい。父が亡くなった時だ。

 火葬場には十五になったばかりの私と、十七になったばかりの兄だけが居た。ゆっくりと、しかしどこか滑稽な必死さで雨雲の中を昇ってゆく白い煙を、私たちはひとつの傘の中でじっと見送った。儚いそれは、父に似ても似つかないものに思えたのを覚えている。


 父は強権的な人だった。優秀なことがこの世のすべてだった。

 国内でも三本の指に入る名問大学に進学し、何度か落ちたものの司法試験に合格し、検察官になった。検察官であることは父の誇りだったが、おそらく正義の執行者という意味合いではなく、ステータスの問題だろう。

 おそらく結婚を除けば人生のすべてが完璧だった。そして私たちにも完璧を求めた。

 父の価値観の中で、兄は完全に無価値な存在だった。男は優秀でなければならないというのが父の持論だった。


『遺伝子は選ぶべきだった』


 度々、父はそう舌打ちして兄を蔑んだ。

 もはや憎悪しているといってもいいほどの目つきで。


『わかるか? 妹にすら負けているお前のような男には何の価値もないんだ。頭は空っぽで顔と身体しか取り柄がないなんて、どこまであの女に似ているんだ?』


 そういって無造作に、石のような拳を兄の身体に振り下ろしていた。兄を産んだ人は、兄を産んですぐに姿を消したそうだ。父の暴力が原因だったのだろう。父は“教育”と呼んでいたが。

 私はというと、暴力を受けたことはなかった。それどころか、ごく普通の父娘の関係性といっても差し支えなかった。私の母もまた、私が三歳の頃に父の前から去ったというのに父は私には優しかった。私の成績が全国でもトップレベルだったからだ。


 自分が周りの人間よりも器用だということは早い段階で自覚していた。大抵のことは一度で出来たし、一度聞けば覚えた。兄や周りの子どもたちが迷ったり悩んだりしていると、 どうしてこんな簡単なことが出来ないのだろうと不思議だった。

 それでも上には上がいる。細々した家事をこなしながら全国トップレベルの成績を維持するには血が滲むような努力が必要だった。

 家事は女がするもの。これもまた父の持論だった。


 兄はいつもこっそりと手伝ってはくれていたが、そのたびに父に見つかっては殴られていた。兄が殴られるのは私にとって何よりも辛いことだ。けれど何度そう言おうとも、兄は拙い手つきで手伝ってくれるのだった。

 


 ところで父が兄を毛嫌いしていたのにはもうひとつ理由がある。

 兄は、一種異様なほど生き物に好かれる性質をしていた。街を歩けば猫が擦り寄ってくるし、林を歩けば当たり前のように小鳥がそばに降りてくる。

 その中でも特にカラスは、ほぼどこに居ても兄の周りにいたように思う。纏いつくようなことはせず、いつも少し離れた上空から、又は電信柱から、賢そうな黒い瞳で兄を見ているのだ。まるで守護するかのように。


 そんな兄を父は気味悪がり、時折蔑んだ口調で“おい、カラス”と呼んでいたりもした。そしてそう呼ばれたときには必ずと言っていいほど、殴打が兄の細い身体に降り注ぐ。

 白い皮膚に染みていた、青黒い痣と赤い腫れ痕。外からは見えぬところに、それでも絶えず、兄の身体は斑模様に染まっていた。

 『理不尽』という言葉は私にとって、まだその意味も存在も知らないうちから、身を以って理解していた単語ではないだろうか。







「父さんは、ちゃんと天国に昇って行けるかな」


 左手で私の手を握り、右手で傘を差した兄が呟いた。その目は虚空を見つめたまま、限りなく深い哀しみを浮かべていた。

 あれ程までに虐げられていたというのに、なぜなのだろう。兄はそれでも父を愛していたのだ。そのことは、私が兄に対する唯一の不満だった。


「きっと大丈夫よ、兄さん」


 あの男が天国なんかに行けるわけがないと思いつつも、私は兄の手を握り返して嘘を吐いた。その時の私の関心はとっくに父を離れ、これからの生活へと向いていた。

 兄との二人だけの生活。待ち望んでいた穏やかな日々。本当は、父のためにこんな場所に来ることすら疎ましかった。きちんと供養しなければ、という兄の言葉があったから無理やり納得して私は来たのだ。けれど、もういい。帰れば兄との生活が待っているのだから。


 しかし兄は、いつまで経ってもその場を動こうとはしなかった。灰色の雨雲のせいで時間すらあやふやな火葬場で、私たちは互いを隣に感じたまま、ただ突っ立っていた。

 冷たい雨に指先が冷え切ったころ、兄が口を開いた。


「ひとりで帰れる?」


 何を言っているのか一瞬理解できなかった。理解した次には、なぜそんなことを言うのかが理解できなかった。不吉な予感がした。


「行かなきゃならない所があるんだ。だから先に帰ってて」

「なんで? 今じゃないといけないの? 明日でいいじゃない、兄さん」

「だめなんだ、今日じゃなければ」


 どんなに言い募っても、駄々をこねても、兄は首を悲しげに振ったままだった。兄が私のわがままを聞いてくれなかった事はこれが初めてで、私がこれほど頑なに兄の意志を曲げようとしたことも初めてだった。

 しばらくして私は折れた。わかった、と泣きながら兄を見上げると彼は静かに微笑んだ。透徹した笑みだった。笑っているような、泣いているような。もしくは菩薩のような。


「すぐ帰ってくるの?」

「わからないけど、きっと帰るよ」

「絶対に? 必ずよ」

「必ず。いつの日か、きっと迎えに行くから」


 そう言い残して兄が去った後、ぼんやりと雨の中に佇んだまま空を見上げれば、木々の合間に夥しいほどのカラスが私を見ていた。

 見間違いだったのだろうか、その瞳が父の流した血のように赤く見えたのは。




 それからの私は、日がな一日彼を待ちつつ今日もこうして黄昏にまどろむ。

 果たしてもう、自分が生きているのか死んでいるのかさえ定かではない。途方もない時間が経っている気がする。世界が支柱を失って、歪んだままだ。歪んで、静止したまま。兄が来てくれさえしたら、すぐに元通りになるのに。


 私にとっての苦しみは、兄が痛んでいること。

 私にとっての喜びは、兄が笑っていること。


 兄さん、私の世界はいたってシンプルです。昔も、今も。

 早く迎えに来て。最近、時々あなたの声が思い出せない。

 これ以上は待てないかもしれない。

 だから兄さん、お願いだから早く―――。







 その日は、何の前触れもなしに訪れた。

 私はいつもの日課で、昼食を終えたあと裏庭のベンチで絵を描いていた。最近は、雨でなければほぼ毎日こうやって裏庭で絵を描きながら時を過ごす。本当は雨の日だって傘を差しながらそうしたいのだけれど、葉月さんを困らせてしまうことになるので、しない。


 葉月さんは、先月から私の世話をしてくれている女性だ。ふわふわのパーマをかけた長い髪をしていて、いつもバニラの香りを纏わせている。ちょっとおしゃべりなのが玉に疵だが、厭味のない快活な人だ。絵のことに詳しくて、油絵の描き方や絵の具の混ぜ方なんかを教えてくれたのも葉月さんだ。おかげで私は最近、絵に熱中している。


 先週から取り掛かっている金木犀の絵に、仕上げの色を足しているときだった。手元がふと翳って、私は顔を上げた。



 「綺麗な絵だね、上手だ」



 今日の陽だまりのような、柔らかい笑みを浮かべた兄が居た。

 色素の薄い瞳と、髪。記憶の兄の姿と一寸違わず。


 「……遅いよ、兄さん」

 「ごめん。思ったよりも時間がかかって」

 「ずっと待ってたの」

 「うん、知ってるよ」

 「もう来てくれないかと思った」

 「ごめんね」


 でもいいわ、と呟くと同時に涙が零れた。もういい。来てくれたから。

 兄の手がそっと伸びて、頬を撫でてくれた。

 柔らかな掌は記憶の中よりも小さく、けれど暖かかった。






********************





 ひとりの女が、窓ガラスからそっと裏庭を見ていた。ウェーブがかった茶髪を腰ほどまで伸ばした女だ。金木犀の木を見詰めながら熱心に絵筆を動かす少女を見守っている。

 ―――とても、あの陰惨な事件の当事者とは思えないわね。

 五年前の事件を思い返し、女は顔を翳らせた。


 惨い事件だった。十五歳の少女が、父と兄を刺殺したのだ。

 発端は、使われていない筈の火葬場から煙が上がっているのを不思議に思った住職が、様子を見に行ったところから始まる。


 寺のすぐ脇にある昔ながらの窯入れ式の火葬場には、ひとりの少女がぼんやりと立っていた。着ていたワンピースには、殆ど雨に流されていたとはいえ血のような赤黒い染みがあり、また少女の様子が抜け殻のようだったのを不審に思った住職は警察に通報した。


 程なくして少女の身元が判明し、またその時には彼女の服に付着していた染みが血液だと判明していたこともあり、警察は武装して少女の自宅に踏み込んだ。家の居間は少女の兄と思われる死体があった。死因は出血多量。死亡時刻は少女が発見された時刻の前後とされた。


 更に、少女の居た火葬場からは彼女の父と思われる人間の焼死体が発見され、この田舎町で起きたセンセーショナルな事件は一気にマスコミに取り上げられた。

 犯行の動機は父親による兄への暴力とされているが、途中でもみ合いになったのか、兄も誤って死亡してしまったらしい。刺し傷が背中にあることなどから、おそらく父親をかばったものとされているが、定かではない。

 少女の供述が不確かすぎたためだ。彼女は父親の殺害は認めながらも、兄である少年は生きていると主張し続けた。


 未成年の彼女の精神が平常ではないことに疑問の余地はなく、事件は少女を精神病棟へと送ることで終結した。 ――ただひとつの謎を残して。


 父親は、一般的な成人男性よりも体格のいい人物だった。 にも関わらず、少女は彼を火葬場まで運んで火を付けている。 ゆえに当初は、共犯者がいるのではないかと虱潰しに捜査がされていたが、不思議と目撃者も該当する人物もおらず、結局その線は未解決のまま事件は忘れ去られていった。




 知らず俯いていたのか髪が頬をすべり、女は気を取り直したように頭を上げた。裏庭の少女に再び目をやれば、キャンバスの縁に一羽のカラスがとまっている。

 いや、カラスにしては少し羽根が茶色い気がする。

 そう女が首をかしげたとき、その鳥が彼女の方を見た。


 カラスは一声 カァ と啼くと、少女の頬に擦り寄った。





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