我らのエバラギ

ヨシダケイ

我らのエバラギ

その日は、雲一つない青空だった。


暖かな風が春を告げ、つくしは元気に顔を出し、彼方に見える筑波山は緑に萌えていた。


けれどもそんな景色とは裏腹に、

学校へ行く僕の足取りは重かった。


なぜならその日は、

雨野先生のテストだったからだ。


雨野先生の「茨城弁」の授業はとても難しい。


おまけに僕は丸っきり勉強をしていなかったので、いっそのこと「具合が悪い」と嘘でもついて休もうかと考えていた。


でも、先週「お腹が痛い」と仮病を使って休んだばかり。

そうお母さんだって何度も騙されてはくれないだろう。


もう僕には、諦めて学校へ向かうという選択肢しか残されていなかった。


ところがどっこい、

家を出て5分くらいした時のこと。


よく見ると周りの様子がいつもと違う事に気づいた。


普段なら道は、通勤中の車が渋滞を起こしているほどなのにそれが一切ない。


信号は消えていて歩道は誰一人歩いていなかった。


「こんな事ってあるのかな?」


僕が不思議に思っていると、

こちらにやってくる車が目に入った。


僕は仰天した。


その車とは、

緑色に塗装された重々しい戦車の群れだったのだ。


ガラガラとキャタピラを回しながら、

何十台も列をなし、はるか向こう2キロ先くらいまで続いている。


横に並ぶのは迷彩服に身を包んだ兵隊達で

勇ましくザッザッと行進を続けている。


「一体全体何が起きたんだ?」


僕はいつもと違う「非日常」にドキドキしてしまった。


僕にとっては戦車も兵隊も「茨城弁」の授業よりずっと興味があったし、いつまでも見ていたかった。


けれど、今は天野先生の方が大事だ。


そう、先生に叱られるのは何より怖い。


僕は何とか誘惑に打ち勝つと、大急ぎで学校へ向かうことにした。


街の中心地であるデネブ商店街を抜けると、

大勢の大人達が市役所前の巨大テレビに釘付けになっているのが見えた。


戦争が始まった僕が2年生の時から、

「撤退」とか「徴発」とか「スパイ」とかの

嫌な知らせはすべてこのテレビから知らされていた。


「今度は何が起こったのだろう?」


小走りに市役所を横切ろうとすると、

納豆屋の鷲輝さんが大声で叫んできた。


「んな急いでも無駄だべ。どうせ学校はねえっぺよ」

 

「学校がない」だって?


鷲輝さんは何を言っているんだろう?

またいつもの悪ふざけだろうか。


この前も鷲輝さんに


「茨城は戦争にまけるかもしれない」


という馬鹿げた冗談を聞かされたばかりだった。


僕は、

「いい大人なのにしつこいな」

と思い学校への道を急ぐことにした。


走ったおかげで、歩けば20分かかる道を10分程に短縮できた。

走りには自信があるんだよね。


ただ着いた先、学校の表門はすでに閉まっていた。


だけど、こんな事で諦める僕ではない。


自慢にもならないけど、遅刻ばかりしている僕は、この時間、裏門はまだ開いている事を知っている

し、どうしたら遅刻にならないかも分かっている。


サササッと忍者の様に裏門をくぐると、服部半蔵も顔負けの速さで校舎へ入っていった。


よしよし、着いたぞ。


4年3組。ここが僕の教室なのだ。


一階玄関のすぐ隣にある教室は、いつも授業前は大騒ぎ。

昨日の習い事やマンガの話やらでワイワイと盛り上がっているのが常だ。


そのため教室は隣の子の声すら聞こえない程うるさくなる。


そんな時、決まって雨野先生が大きく手を叩くと、お腹の底から響く声で叫ぶ。


「静かにしろ、このデレスケ共!」と。


遅刻しそうな時は、

この「静かにしろ、このデレスケ共!」の

怒鳴り声の前に忍び込めれば、騒ぎに紛れて席に着くことが出来る。


これが僕の遅刻をうやむやにする必殺技だった。


しかし、その日は何もかもひっそりとしていて、

まるで日曜日のようだった。


教室のドアからそっと中を覗いてみると、みんな、それぞれの席についているし、雨野先生が教室を行ったり来たりしている。


しまった遅かったか……


この静けさだともう出席もとりおわってしまったにちがいない。


となると、この静まり返った中へ、

一人で入らなければならないのか。


「ああ嫌だな」


そう思うと、溜息しか出なかった。


雨野先生の僕を叱る声はとにかくデカい。

そして怖い。


「でも行かなきゃ」


僕は意を決して教室に入っていった。


ところが雨野先生の反応は予想とは全く違ったものだった。


「日立。とっとと席に着け。オメェを待ってた」


僕は拍子抜けしてしまった。


天野先生、何かいい事でもあったのかな?


いや今はそんな事はどうでもいい。


とくかく叱られずに済んだんだ。


余計な事は考えず、席に着こう。


僕はそそくさと自分の席に着いた。


ただ、緊張が収まってくると、

ようやくいつもと様子が違うのが分かってきた。


それは天野先生の服装だった。


驚く事に雨野先生は、卒業式とか大切な式典の時にしか着ない茨城人の正装、からし色の着物に頭巾、野袴と紫の羽織という「水戸黄門装」をしていたのだ。


教卓には、葵の御紋の刻まれた印籠が置いてあり、おまけに先生の手には木製の杖まで握られていた。


それに教室全体に何か異様なおごそかさがあった。


一番驚かされたのは、普段は絶対、学校に来ることがない偉い人達が廊下を歩いている事だった。


市長、教育委員長、その他大勢の大人達。


皆、悲しそうな顔をしていた。


小学校にいる大人は「先生」だけで、

こんな大勢の大人が来ることは運動会でもなかった。


大人達のあとには、

迷彩服を着た険しい顔の兵隊達がついて歩いている。


僕が奇妙に思っていると雨野先生は教壇に上り、

優しい重みのある声で僕達に語りかけはじめた。


「オメェ等。オラの授業は今日で最後だんべ。こん学校では、標準語しか教えてなんねえって命令が、埼玉からきたんべよ。明日っから新しい先生がくんだとよ」


なんだって?


先生の言葉に僕だけでなくクラス中が驚いていた。


ああ、そうか…


市役所前のテレビはこの事を言っていたのか。


先生はかいつまんで説明してくれた。

つまりこういう事だった。


「茨城は埼玉との戦争に負けた」


そのため関東のど真ん中にあり埼玉と接する僕たちの街は、埼玉に占領されることになったのだ。


登校中に見た戦車や兵隊たち、

市役所前で鷲輝さんが話した事、

すべて合点がいくものになった。


廊下を歩く迷彩服の兵隊は埼玉軍人で、

僕達や大人達を監視にきたのだろう。


「今日は茨城弁の最後の授業。よーぐ聞いとげよ」


僕は天野先生の言葉にショックを隠せなかった。


茨城弁の最後の授業!!


茨城弁。


僕はやっと話せるくらいなのに、

もう勉強が出来ないなんて。


僕は、無味乾燥な標準語のテレビにうつつを抜かしていた事を、今となってはどんなに恨めしい事かと思った。


さっきまであんなに邪魔で面倒だと思っていた「茨城弁」の教科書が、今では別れる事がつらい親友のように思えてきた。


それは雨野先生も同じだった。

もう二度と会えないかもしれない。

そう思うと叱られた事すらも懐かしく思えてきた。


雨野先生はこの最後の授業のために、

「水戸黄門装」をしてきたのだ。


そしてなぜ大人達が学校に来ていたかも分かった。


それは雨野先生に対して、

三十年間よく尽くしてくれた事を感謝し、

去り行く祖国、茨城に対して敬意を表すためでもあったのだ。


僕が悲嘆にくれ肩を落としていると、

天野先生の声がした。


「日立。日立」


慌てて僕が起立すると、天野先生は


「『けつめど』って何のことか分かっか?」


と質問をしてきた。


僕はまごついてしまった。


確か、何回も先生が説明してくれ、

よく覚えるように注意してくれたはずだった。


それにも関わらず僕は忘れてしまっていた。  


僕は悲しい気持ちで頭もあげられず、身体を震わせた。雨野先生はため息をつくと僕に言った。


「『肛門』の事だべよ。けつは尻、めどは穴。だから『けつめど』。先生、何度も授業で言ったべ?」


怯える僕に雨野先生は優しい声で続けた。


「日立。そんなに怯えんな。オラはオメェを叱んね。『なに、暇ならいつでもあっから、勉強は明日でいいべよ』って、勉強を明日に伸ばすのが茨城人のダメなトコだったんだ」


天野先生は、廊下に立つ埼玉兵を指さして続けた。


「今、あの『海がねえ埼玉人』にこう言われたって仕方ねえんだかんな。『オメェ等、自分を茨城人と言ってたくせに茨城弁、話せねえべよ!何が茨城人だ』ってな」


僕は先生の話を聞きながら涙がこぼれそうになってしまった。


「日立。何もおめえが悪いとはいってねえ。オラ達全員に責任があんのかもしんね。それにオメェ等の親も茨城弁の勉強をさせなかったべ?ちっちぇ金や偏差値にセコセコして、頭ん中は塾や受験の事だけ。標準語や英語の勉強しかさせてこなかったんだからよ。それにオラもワリィかもしんね。茨城の誇りをオメェ等にキチンと教えてこなかったんだから」


僕もクラスの皆も真剣に天野先生の話を聞いていた。


それから雨野先生は、茨城弁について次から次へと話を始めた。


茨城弁は世界中でいちばん美しい、

いちばんはっきりした、

いちばん力強い『言葉』であること。


ある民族が奴隷になったとしても、

その国語を保っているかぎりは、

その牢獄の鍵を握っているようなもの。


だからこそ僕達の間で茨城弁をよく守って、

決して忘れてはならないという事を話してくれた。


そして先生は茨城弁の教科書を取り上げて読みはじめた。


僕は今日ほど一生懸命「茨城弁」の授業を聞いたことは無かったし、先生がこれほど力を入れて説明したこともなかったかもしれない。


僕もクラスのみんなも雨野先生の一言一言を頭の中で咬み締めていた。


文法が終わると、次は発音になった。


天野先生は「茨城」の正しい発音を教えてくれた。


「東京、埼玉の奴等は、『いばらぎ』が間違いで『いばらき』が正解。『ぎ』じゃなくて『き』が正しいみてえなこと言ってんだろ。アレ、標準語の陰謀だかんな。茨城弁じゃ『えばらぎ』があってんだかんな」


「えばらぎ、えばらぎ、えばらぎ」


天野先生が何度も美しい茨城弁を繰り返す。


続けて僕達も続けた。


「えばらぎ、えばらぎ、えばらぎ・・・」


僕は授業に夢中で気付かなかったけど、

窓の外を見ると鳩が木にとまっているのが見えた。


鳩はいつものように

「クルッペヨ、クルッペヨ」と鳴いていた。


「これからは鳩も、標準語で鳴くのかな」


雨野先生は時々、教科書から目をあげると、

教壇に座ってじっと周囲を見つめていた。


まるで校舎の姿をすべて眼に写し取ろうとしているようだった。無理もない。


三十年、

この校舎で、この校庭で、この教室で

「茨城弁」を教え続けたのだから。


どれだけ寂しく悲しく悔しいだろうか。


明日には永遠にこの地を去らねばならないのだ。


それでも雨野先生は悲しみを堪えながら、

堂々とした声で授業を続けた。


発音の次は歴史だった。


平安時代。


搾取され続けた関東を救わんと立ち上がった英雄、平将門公はどこを拠点にしたか?


幕末。


桜田門外の変で独裁者を倒したのは誰だったか?


江戸城無血開城という世界史にも稀な偉業を成し遂げた最後の将軍、徳川慶喜はどこの産だったか?


すべては茨城のおかげたったのだ、


しかし茨城の最大の不幸は、

団結をせず足の引っ張り合いばかりをしてきた事だった。


47県のうち、最も魅力が無い県、茨城。


誰か優秀な人間が出ても、盛り立てようとせず、嫉妬しかしない。


そのため優秀な政治家は現れず、

広い国土を横切る鉄道は作られず、

総理大臣を輩出出来なかった。


明治維新の頃、

尊皇の魁となりながら

薩摩と長州に勝利の果実を奪われたのも、

すべては茨城人同士の内ゲバで殺し合い、

人材がいなくなってしまったからだった。


本来なら明治新政府には、

茨城人が数多く入るはずだったのに…


天野先生は、

茨城の誇りと悔しさを交えながら滔々と語り続けた。


そんな中、

誰かが小さい声で歌っているのが聞こえた。


聞き覚えたメロディ。このメロディは・・・


「空にはつくば、白い雲。野には緑を写す水………」


そう。

茨城人なら誰でも歌える「茨城県民の歌」だった。


「この美しい大地に生まれ 明るく生きる喜びが」


クラスの皆も一緒になって歌いはじめた。


監視していた埼玉兵はあわてて歌を止めようとするが、僕達生徒の中で誰一人、歌を止めるものはいなかった。


「明日の希望を招くのだ!」


外にいた大人達、

はては他のクラスからも一緒に歌う声が響く。


「茨城、茨城、我らの茨城!」


学校中の大合唱が、辺りに響き渡った。


先生の声は感激に震えていた。


ちょっと変な声だったからあまりにも滑稽で痛ましくて、僕もクラスの皆も笑いたくなり、泣きたくなった。


「僕たちの街は埼玉に占領された。けれどいつか必ず茨城に戻る」


そう心に誓いながら、

僕達は力いっぱい「茨城県民の歌」を歌い続けたのだった。

〈了〉


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