第3話

駐車場に車を停めて外に出る。


火葬場はとても見晴らしの良い場所だった。


紘は建物の入り口のベンチに背中を丸めて座っていた。


樹も誘ったけれど「ふたりで行ってきなよ」とほほえんだ。


その言葉の裏には、紘に対する気遣いがあるのかもしれない。


人懐っこい紘だが、樹にだけは、あからさまによそよそしかった。


そのことがわたしのおおきな気掛かりでもあった。


「お待たせ、行こう」


わたしと紘は揃って室内へと足を踏み入れた。


年配の係員に案内されるがまま、火葬炉にたどりついた。


コンクリートで打ちつけられた部屋の中央で、母はひとり眠っていた。


「点火スイッチは、どなたが押されますか」


乾いた空気に、その声はとても良く響いた。


わたしたちは顔を見合わせた。決めかねているのが表情だけで伝わった。


「喪主の美香さま、いかがでしょう」


わたしは促されるままに一歩踏み出して、おずおずと人差し指を伸ばした。


そのときだ。


「おれも」紘とわたしの肩が並んだ。


「おれも押したい」


紘が意見を通そうとするなんて珍しかった。


その両眼には強い意思が宿っている。


「それじゃあ、一緒に押そう」


店員呼び出しボタンをどちらが押すか。


ファミリーレストランでいつも喧嘩して、最後にはいつも一緒に押したよね。


母はその様子を見て「あなたたちが仲良くて嬉しいわ」とほほえんでいた。


きっとこの決断も、褒めてくれるだろう。


スイッチは拍子抜けに軽く、ガコンという音で点火の文字が赤灯した。


母が遺骨に還るまで1時間掛かるという。


わたしたちは入り口近くの待合室に戻ることにした。


結婚して実家を出てから、こうして紘とゆっくり話すのは久しぶりだった。


貧乏だったけれど楽しかった日々。


「ゴール直前で、まさか紐が切れるとは思わないじゃん」


「そうだね」


それは我が家では『幻の1位事件』と呼ばれている。


元陸上部だった紘が威信を掛けた体育大会、あと数歩でゴールというところで足がもつれて転倒した。結果、後続の人たちに追い抜かれて3位となる。


どうしたのかと足元を見たら靴の紐が切れていた。


その靴は、わたしのお下がりだった。


「ああ、これからどうするかな」紘は大袈裟おおげさ肩をすくめた。


「姉貴は誘拐犯と一緒だし、我が家がばかみたいに広くなっちゃった」


誘拐犯。弟は樹のことをそう表現する。


わたしが嫁入りして実家を出たことを拗ねているらしい。


もしかしたら。


家族というものを最も大切にしていたのは、母でもわたしでもなく、紘なのかもしれない。


「でもさ。悔しいけれど、あいつはいい奴だ。さすがは姉貴の惚れた男。今回の件で、おれたち家族のために色々手配してくれたもんな」


「だったらこれからは、樹と仲良くしてね」


「前向きに努力させて頂きます」


まるで政治家さんの答弁みたいで思わず笑ってしまった。


紘もくっくと笑みを転がし、机の下から黒い革ケースを抱えてガラス机に置いた。


片手で持てるように取手はついているが、かなり大きい。


「なにこれ」


「結婚祝い。遅れたぶんだけ、飛びっきりのやつ」


「気を遣わなくて良かったのに」


「開けてみてよ。びっくりするぜ」


「なにそれ、期待するじゃない」


紘から手渡されたとき、心臓がどきんと脈打つのが分かった。


身に覚えのある重さ。まさか、これって。


わたしは反射的に紘を見た。


そこには泣き笑いの表情があった。母のいつしかの面影が重なる。


紘はやはり、おかあさん似だ。


「母さんをこいつで送り出してよ。姉貴の演奏を着信音にするくらい、好きだったんだから」


紘がわたしにくれたもの。


それは黄金に光り輝くトランペットだった。



おかあさん。


なあに。


再婚とか、考えたことないの。


いきなりなあに。美香もおませになったわね。


からかわないでよ。紘とふたりでさみしいんじゃないかって、心配したんだから。


ふふ、ありがとう。でもその必要はないわ。可愛い天使ちゃんがそばに居てくれるもの。


おかあさんはおとうさんのこと、どう思っているの。


そうね。いま思い出しても、どうしようもない人だけれど。

……愛しているわ。



わたしは丘のうえに立ち、雲ひとつない夏空を見上げた。


俗世から解放された白い煙は、どこまでも澄み渡る空にのぼっていく。


かつてわたしだけを連れて、父の墓参りに出かけたことがある。


共同墓地のようなその場所は日当たりが悪く、ブンブンうるさい虫たちが耳のまわりをかすめていった。


蒸し暑いし帽子のゴムがむずむずして勝手悪いしで、はやく家に帰って冷房の効いた部屋で麦茶を飲みたかった。


「お花は。なんでお花を買わなかったの」


「それはね。本当に送りたいお花が、この世にはないからなの」


「どういうこと」


わたしは地団駄を踏んだ。足元に落ちていた小枝がパキッと砕けた。


母はわたしをぎゅっと抱きとめながら、バケツに汲んできた水を苔むした墓石に掛けた。


「世の中にはね、知らなくていいこともたくさんあるわ」


大人になって分かったことがある。花言葉で唯一存在しないもの。


それは『贖罪』という概念だ。


なにが本当で、なにが嘘だったか。いまとなっては分からない。


だけどひとつだけ、たしかなことがある。


母はわたしたちを心から愛し、立派に育ててくれた。


「おかあさん。フィナーレにしようか」


胸いっぱいに空気を吸い込む。


わたしだけの音色を天国まで届けられるように。


奏でるのは母が特に気に入っていた『聖者の行進』だ。響き渡る軽快な旋律。


地を這う風がすべてをまきあげながら、重力を振り払って空の彼方に消えていく。


それと同時に伸ばした前髪が舞った。


刻印のように残った額の古傷もうすくなり、ほとんど目立たなくなった。


他人の視線に怯える必要は、もう、どこにもないのだ。



さようなら、おかあさん。



火照った頬にあたたかい涙が伝った。


それはほかでもない、わたしの涙だった。


びっくりしたのが伝わったのだろう、おなかのあたりがぐりんと動いた。


そこに宿った新しい命の手触りを、あなたに伝えられたら、どんなに良かっただろう。


わたしは初夏の陽射しのなかでトランペットを響かせる。


花壇に咲いた朝顔がはかなげに揺れた。


わたしはもうじき、母になる。

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天使のトランペット 神乃木 俊 @Kaminogi-syun

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