第2話

告別式が終わり、火葬場へと向かうことになった。


多くの人々に見守られながら、母が眠る棺は霊柩車れいきゅうしゃに乗せられる。


助手席に座る役は紘に頼んだ。


遺影を胸元にぎゅっと携える姿を見て、それが正しい選択に思えた。


参列者に向けてお別れの合図が鳴り響く。


その音色はトランペットに似ていて、音階は聞いたままの『ファ』だった。


わたしと樹はローンで買った軽自動車でリムジンの後ろをぴたりとついていく。


「おつかれさま」樹は労いの言葉を掛けてくれた。


「感動的な挨拶だったよ」


「……ありがとう」


緊張が解けて疲れがどっと押し寄せてきたのか、眠気が足元からじわりじわりと立ち上ってきた。


会話ですら気力がいる。すこし休みたい。


「ちょっと眠らせて」


「どうぞ」


信号や渋滞に捕まらなければ、火葬場まで10分とかからない。


わたしは窓に額をあずけて仮眠をとろうとした。


身体は休息を求めているものの頭は環状線のようにおなじ場所をぐるぐる回り続けている。


外界ではしあわせそうな家族がおおきなリュックを背負い、ピクニックを満喫していた。


眼を瞑ると浮かんでくる記憶。振り切れない過去。


それはいまでもわたしの現在をじっと見つめている。


「ねえ」


「なんだ、起きていたのか」


「あの人たちの会話、聞いていたでしょう」


「だれのこと」


「最前列で話をしていた人たち」


「ああ、あの無神経な人たちか。どこにでもああいう連中はいるから、気にしたら負けだよ」


「……こう言ったら驚くかしら。おとうさんは事故死どころか、自殺でもなかったって」


ハンドルを握る彼はまっすぐ見据えたままだった。


いつもとなんら変わらない様子で耳をそばだててくれる。


だからこそわたしも自然体で、紘にも喋ったことがない我が家の秘密を打ち明けることができた。


「わたしのおとうさんね、暴力を振るう人だったの」


昨日の晩御飯すら思い出せないわたしなのに、20年以上前のことを鮮明に覚えているのは、どうしてだろう。


わたしの記憶に宿る父。


その人は細身で背が高くて温和な顔つきをしている。一見すると優しそうだけれども、そのじつ、家のなかでは暴君のように恐ろしかった。


気性が荒く怒鳴りつけられることは日常茶飯で、髪の毛を鷲掴みにされることもたびたびあった。


何事もなく一日を終えられるだけで神様に感謝した。


きっと仕事がうまくいっていなかったのだろう、家計簿を厳しい顔で睨んでいる両親をなんども目撃した。


喧嘩が絶えない日々で、部屋の隅っこで泣いている紘におしゃぶりを突っ込みながら、わたしも一緒に震えたものだ。


その日は特にひどかった。


かくれんぼで鬼に見つからないようにするみたいに、自分の部屋から居間をのぞいた。


仁王立ちした父の背中は汗びっしょりで、握りしめられた左拳には蛇みたいな血管が浮かんでいた。


母はダイニングチェアに座って頭を抱えていた。


父を睨みあげたかと思うと「ぶつけたければ、ぶつけなさいよ」と唇を真一文字に結んだ。


父は左手に食器を握っていた。結婚祝いにもらった母のお気に入りの小鉢。


青い基調で植物の模様がキレイなやつだ。


耳を真っ赤に染めた父はおおきく振り被るなり、床に小鉢を叩きつけた。


すごい衝撃と金属音で部屋が揺れた。


小鉢は無残に砕け散り、父は床をどすどす踏み鳴らしてアパートの扉を乱暴に閉じた。


母は空気の抜けた風船みたいに身体をちいさくし、しばらくすると破片を拾いはじめた。


そこではじめてわたしの存在に気づいた。


「見ていたの」


わたしは首を振った。絶対に認めちゃだめ。


なぜなら母はそのとき、ほほえみながら泣いていた。


母が泣いているのを見たのは、それが最後だった。


ただでさえ不安定だった我が家は、坂道を転げ落ちるように崩壊した。


父の暴力の矛先が母にも向けられるようになった。


母は長袖長ズボンを手放せなくなった。


台所に並ぶお酒の瓶がみるみる増える。


どれだけ換気してもアルコールとタバコの匂いが消えない。


ご飯が食べられない日が何日も続く。


紘もなかなか泣きやまなくなった。


うるさい、すこし黙って。


あやしてもあやしてもわめくばかりで、紘の首に手を添えようとした自分に気がついてぞっとして泣いた。


「泣かないで、わたしの天使ちゃん」


母はわたしたちをあやしながら子守唄を歌ってくれた。


色々な才能に恵まれた母も、音楽の神様には会ったことがないのか、お世辞にも上手とは言えなかった。


だけど鼻歌を聞いている時間だけは、暴力のこととか空腹のこととか、好きに外出できないことを忘れられた。


そうして気分が落ち着くと、わたしと母は紘を挟むようにして川の字になり、植物図鑑を眺めた。


春夏秋冬に咲く色とりどりの花々。


それらは通学路でもひょっこり顔を出し、遊園地や動物園と違って、お金も掛からずに楽しめた。


「植物って強いのね。つらいことにもじっと耐え、地面にしっかりと根っこを伸ばしていく」


母がぼそりと呟いた言葉がひどく印象的だった。


そして年中さんのとき、朝顔を育ててみようという宿題が出た。


母は父に頼みこんで、植木鉢と肥料、それからコーヒー豆みたいに真っ黒な種を買ってきた。


わたしは朝顔を育てたい気持ちよりも父の機嫌を損ねる恐怖がまさっていた。


「無駄なものに金を使いやがって」


父の低い声がわたしの心の表面をざらりと撫でた。


身体中が冷たく硬まっていく。そんなわたしを母が強いまなざしで支えた。


「いいこと、美香。大切に育てましょうね」


暴力は人の思考回路までも支配する。


世界には黒い雲が立ち込め、2度と晴れることはない。導火線に火がつくことに怯える日々が永遠に続く。そう思っていた。


だけど解放の日は、突然訪れた。


わたしは久しぶりにだれにも起こされずに目が覚めた。


ズキズキと左額が痛む。手をやると指先にガーゼが触れた。


そうだ、昨日の夜、お酒に酔った父に絡まれて、机に額をぶつけたんだった。


お腹の虫がぐうっと鳴いた。


わたしは机の一番下に隠してある食パン袋を取り出してミミをかじった。


数日前のものでしけてしまって、口のなかがもそもそした。


家のなかは信じられないくらい静かで、わたしは朝顔にお水をやろうと立ち上がった。


ゆっくり居間をのぞいてみる。だれもいなかった。


テーブルには食器と酒ビンが散らかっている。


ベランダ側から風が吹いた。そこには裸足のまま柵の下を見下ろす母がいた。


どうしたのだろう。ぺたぺたとフローリングを渡って声を掛けるようとした。


「絶対に、来ちゃダメ」


その声はぴんと張り詰めいていた。ベランダ下から悲鳴が聞こえた。


どこからかサイレンの音が響いてきた。


その日が、父の命日となった。


「わたしが種をまいた朝顔はね、芽すら出さなかった。母は『水のやり過ぎね』って結論づけた。だけどそうじゃないと思う。朝顔の種には、幻覚作用がある」


「えっと、つまりだ。結月さんは朝顔の種を使って、旦那さんを事故死に見せかけて殺害した。そう言いたいの」


樹はあきらかに狼狽していた。無理もない。


わたし自身、なぜこんな根も葉もないことを考えているのか分からなかった。


父が誤って転落したと警察は判断したわけだし、アルコールの取りすぎで幻覚をみることだってある。


ちゃんとした食事を摂っていなかった影響もあるかもしれない。


だけど不審死した父と不世出の女優の母。そして芽すら出さなかった朝顔。


それらを結ぶと、キレイな一本の線になってしまう。


あまりにも出来すぎているほどに。

「いままで黙っていて、ごめんなさい」


「……そんなつらい体験をしたんだ、言えなくてあたりまえだよ」


樹はわたしの手を包むように握ってくれた。まるで守るように、鼓舞するように。


やがて窓の外に火葬場の門が見えてきた。


坂道に差し掛かると勾配で眼の焦点が変わり、わたしは窓に映る自分と対面した。


その透明な顔は鼻筋が低くて唇もうすく、あまり印象に残らない顔だちだった。


わたしは視線を逸らした。


気づいていたことがある。わたしが紘のように美しく育たなかった理由。


それは母のことを、心から信じることができなかったからだ。


朝顔が芽を出さなかった、あの日から。

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