天使のトランペット

神乃木 俊

第1話

告別式の朝、わたしの住む南方町に梅雨明けが宣言された。


今日は絶好のおでかけ日和です。熱中症に注意して、良い週末を送りましょう。


天気予報士はにこやかにそう告げた。


半袖の喪服にして正解だったと思う。そうでなければ、この暑さにはきっと耐えられなかった。


わたしは首筋にハンカチをあてがいながら、参列者がべる焼香しょうこうの煙をながめていた。


その向こうに母の遺影が飾られている。


昨年の春、弟のひろの就職祝いで撮影した家族写真を、業者さんに拡大してもらったものだ。


意思の強さを感じさせる切れ長の眼、不敵なほほえみ。


それはまさに妖艶ようえんの一言で、50歳を超えているようにはとても見えない。


「女性はね、美しく育つの」


それが母の口癖だった。


オードリー・ヘップバーンという女優がお気に入りで、「わたしは綺麗きれい」と鏡に映る自分に言い聞かせて美女になった逸話いつわを固く信じていた。


「美しい言葉で育った植物は、きれいな花を咲かせるものよ」


母は言霊を信じていた。文字通り心から。


やがて母の信念通りに愛らしく育つ弟を見て、思春期っただなかにいたわたしは口をとがらせた。


おかあさんの言いつけを守っているのに、なんでわたしは美しく育たないの。


母はそんなわたしを一笑にふした。


美香みかだって美しいわ」


「そんなことない」


「あるわよ」母は断固として譲らなかった。


「自分に自信を持ちなさい。あなたには素晴らしいトランペットの才能だってあるじゃない。わたしが思わず嫉妬しまうほどの、ね」


そんなのうそだ、親馬鹿だ。


わたしはまともに取り合うのをやめて、高級ファンデーションを拝借してお肌の保湿にいそしんだものだ。


「姉貴」


思い出に浸っていたわたしを現実に引き戻したのは紘だった。


お通夜で泣き濡れたせいか、まぶたは腫れぼったく頬はけている。


まだまだ垢抜けないリクルートスーツ。


希望に満ちた新生活の一張羅いっちょうらが、こんな場面で役に立つなんて、ひどく物悲しい。


「母さん、しあわせだったよな」


ほとんど泣いている声だった。


わたしは親戚のおばさんに用意してもらった数珠じゅずを握りしめた。


ご近所さんから行きつけの居酒屋さん、それから母の仕事場の人々が沈痛な面持ちでいたんでくれている。


これだけ多くの人たちが見送りにきてくれたのだ。


きっと幸せだった。そう信じたい。


「結月さん、乳がんだったんですって」


そんな心ない言葉がわたしの耳に飛び込んできたのは、紘が親戚に呼ばれて席を外した矢先のことだ。


最前列を見遣みやると、黒いレースの被り物をした見慣れない老女三人組がひそひそ話をしていた。


田舎の自治体に所属していると、名も知らない人々も参列に並ぶ。


「検査で見つかったときには手遅れだったんですって」


「お気の毒ね。旦那さんに先立たれて大変だったのに」


「紘くんも社会人になったばかりじゃない。しかしあれね、彼は今風の可愛い顔をしているわ。どこの大学なの」


「たしか隣の県の公立大学で経済学部だったかしら」


「わりとむずかしいらしいわね」


こんな人前で家庭の話をされるのは、あまり気持ちの良いものではない。


どうか、やめてくれませんか。


抗議の視線にはまったく取りあってもらえず、それどころか、続く言葉に背筋が凍った。


結月ゆづきさんの旦那さん、本当は事故じゃなくて、自殺だったんでしょう」


前髪で隠している左額の傷がうずいた。


胸のまんなかからいやな感覚がじわりじわりと広がり、手足の感覚がうすらいでいく。


わたしは立っていられず、すぐ後ろにあったパイプ椅子に座り込んだ。


「おい美香。大丈夫か」


「へ、平気よ。ちょっと眩暈めまいがしただけ」


夫のいつきが背中をさすってくれたおかげで、人心地につくことができた。


わたしはやおら立ちあがる。


告別式の挨拶を徹夜てつやで考えたのが、こたえたのかもしれない。


だけど喪主もしゅはわたしだ。倒れるわけにはいかない。


「みなさま、お集まり頂き、まことにありがとうございます」


そこで告別式のアナウンスが響き渡った。お喋りがやんで心の底からほっとした。


やがてお坊さんの読経から説教、そして喪主であるわたしが母に向けて手紙を読む番となる。


わたしは会場のまんなかに移動してスタンドマイクに向き直った。


母のひつぎは白い百合ゆりの花に囲まれ、やわらかい光で照らされていた。


「おかあさんへ。こんなふうに手紙を書くなんて、夢にも思いませんでした」


わたしが思い浮かべる母は、いつも颯爽さっそうとしていた。


舞台女優を目指していたこともあり、歩き方や身のこなし、それからご飯を食べる所作まで完璧だった。


そんな自慢の母も可愛い失敗をしでかしたものだ。


「高校生のお昼休みに2段弁当を開いてみたら、どっちもご飯だったことがあったね。とても寒い冬の日、ガス代を払い忘れて氷みたいに冷たいシャワーを浴びたこともあった」


会場からあたたかな笑いが起きた。完璧だった母のおっちょこちょいな一面。


それも演技の一部だったんじゃないの。そう尋ねるのは、さすがに意地が悪いか。


わたしは一呼吸おいて、母の遺影を見据えた。


「おとうさんがいない日常は、きっと言葉じゃ言い表せない苦悩や葛藤の連続だったと思います。だけどおかあさんは女手ひとつでわたしたちを育ててくれた。心から、ありがとう」


紘が俯き加減になるのが視界の隅に映った。会場からもすんすんと鼻を鳴らす音が聞こえる。


わたしは純白の百合を眺めながら、生前の母が花屋さんで百合を勧められたときの断り文句を思い出した。


「わたしに、百合の花は、似合わないわ」


百合の花言葉は、たしか『純粋』だっけ。


母はやはり、不世出の女優だった。

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