Interlude「水晶殿」
枢軸局は主に七つの省に分かれている。それはシティの北東側にあった。後期ギリシヤの神殿造りを模した、堂々たる白亜の宮殿である。何もないところに、突然土から抜き出てきたといった風情で、見るものを圧倒し錯覚を起こしたように、くらくらとさせた。
門のところにはこれまた時代錯誤の知搭載ROBOTが、守衛としてガラス張りのむこうから、礼儀正しく身分と用件を尋ねていた。日差しの照りつけるような外とうってかわって、建物内は水を打ったように静かでひややかで、飾り花のクリスタルの幾重もの屈折光が、あたりにさらに張り詰めた空気をはなっていた。足音が木管楽器のように響く大理石の床には、ところどころおおきなタイルの絵がはめ込まれていて、枢軸局の象徴である杉と大鴉が生命を保ったまま、おとなしくそこにとどまっていた。ロビーは吹き抜けで、驚くほど高く、そのてっぺんの丸天井には、フィレンツェローズとターコイズの雲がかかっていた。一見して誰の作かはわからない。しかし盗難にあわないよう、目には見えない赤外線のシールドが、時折絵の上を波のようにたゆたった。
辺りに人影のようなものはなかった。どんなに呼びかけてもひとが部屋から出てくるという雰囲気すらもなかった。なぜなら、このロビー以外に、目に見える範囲で部屋も扉もなかったからである。あるのは点在する柱と、その柱がつくる影だった。しばらくロビーを北のほうに歩くと、見間違いではないかというほど大きな水鏡がある。目にはさだかでないが、上の方から紙一枚の薄さほどの水が流れ、その水は床に流れ落ちることなく自然と消え去っていった。
「あなたのこころにうそいつわりなくうかぶものごとをのべよ」とラテン語で彫られた字が、足元の大理石に金色で流れると、正面の水鏡に扉が浮かぶ。そこから中に入るのだ。
***
スリーヴァンは頭が痛かった。かれはそれでも、日々のやるべきことというのを、おざなりにするだけの勇気がなかった。何に対しても、彼には勇気がなかったが、そのことを、誰よりも彼が残念に思っていた。
これだけひどい頭痛に合っても、診断は「健康体」で、原因はわからなかった。だが、当の彼には思い当たる節があった。
『これは、俺のゆるやかな自殺なのだ。この世に生きていたくないという、密かな抵抗。そうでなかったら、どうしてこんなに当たり前のように生きてゆけるのだ…。この病は、俺の福音なのだ。』
彼は微塵も宗教心がない人物がときおり見せる、崇高なほどの宗教心を持っていたが、これもまた残念ながら持続しない、頼りないものだった。かなしいかな、この世のありとあらゆる現象は、いつでも彼の体を通過するのみなのだ。その生来の気質が、年を追うごとに、彼の体を蝕み始めていた。それは、彼にとってある意味では幸福をもたらすのだろう。あるいは彼の予感どうりに。だが、片方で、情けないほど膨れあがった虚栄心が、むくむくと彼の中に育ちつつあった。
その日、集まった中央議会のメンバーは、右も左も年寄りばかりで、愚にもつかない論争があちらでたったかと思えばこちらにたち、いつまでたっても現実味のある議論は生まれなかった。これがこの水晶殿の日々の現実だった。ここには現実は存在せず、見掛け倒しの現実主義者が、一日中顔をつき合わせて侃々諤々議論をする。いつの世でも目にすることの出来る、権力を持つもの達の、堕落した、形骸化した姿だ。
ふとスリーヴァンは、落ち着きなかった視線を彼の姉に固定すると、そのまま彼女の一挙手一動足に、釘付けになった。彼女は歌をくちずさんでいた。正確に言うと、実際に歌っていたのでなく、声に出さずに歌っていたのだ。その曲目はすぐわかった。モーツァルトの『ドン・ジョバンニ』。
『ひどい? いいえ、そんなこと。よろこびをひきのばすのは私にもつらいのです』
ちいさなとき、幾度と両親に連れて行かれた劇場で、何度も何度もこの演目を見たものだ。スリーヴァンは、まばたきもせずうっとりとくちをあけて歌っている彼女の心の動きに、虚をつかれ、見入った。
永遠に続くかと思われた会議がとうとうお開きになったとき、午後もだいぶおそかった。スリーヴァンは胃が空なために少しちくちくとする腹を抱えて、重たい白いローブと肩からかけた赤い更紗の正装を、軽く後ろにひるがえして、歩き始めた。
何もかもが重苦しく感じた。自分の体でさえも、荷物のはいった布袋を背負っているみたいに、少しずつしか動かない。視線が定まらないまま、部屋の扉を開けると、すぐそばの中庭に、従者を従えたミィアムが、何事かつぶやいていた。スリーヴァンはぼんやりと扉の前に立ったまま、それを眺めていた。太陽の光を模した人口光線が、あたりを春だか夏だかわからない、明るい庭園に仕立てていた。
『ああ、よくあんな明るいところに立っていられる。』スリーヴァンは心の中でつぶやいた。
こんな明るいところにいたのでは、体が粉々に飛び去っていきそうだ、彼は姉に挨拶することもなく、その場を立ち去ろうとしていたが、いかんせん、彼の足の速度では、そこにいることをひとびとに宣伝しているようなものだった。
ミィアムは弟の姿を認めると、従者にもう下がるように言い伝え、中庭からまっすぐ渡り廊下までを、さっと一息で渡ってしまうと、あっという間に弟の肩に手をかけた。
「スリーヴァン! 私の弟よ。相変わらず、君はのろのろと歩いて、一体どこまで出かけるつもりなんだい?」
ミィアムは楽しい玩具を見つけたみたいに、いつも弟に対して接するのだ。スリーヴァンはそんな姉の態度が嫌いではなかったが、大人になってから、一切相手にしないことに決めていた。
「冗談はよせ、ミィアム。」
ミィアムは弟の言葉に、何事かを感じ取ったようだった。
「おや、君の顔、真っ青だよ! スリーヴァン、どこか悪いんだったら、会議なんか休めばよかったのだ。」
彼女はスリーヴァンの両腕をつかみながら、横から覗き込むように言った。これは演技ではなく、彼女がほんとうに心配をする相手は、弟の存在だけだった。でも、一般に世間が思う様な、仲の良いきょうだいでは、彼らはなかった。二人は絆で結ばれた存在でなく、血と魂を分けた、精神的な双子のきょうだいだった。それ以上に、彼らの関係を説明する言葉はなかった。
「冗談も休み休み言え。ミィアム、おまえと違って、俺はあそこの爺さんたちの機嫌を取らなければ、ここでの未来はないのだ。」スリーヴァンはそっけない言葉と裏腹に、落ち着いた目の色を見せて、姉の顔を覗き込んだ。ミィアムの独特の虹彩の目が彼のほとんど胸のほうにあるのを認めると、彼はどんどんと落ち着きを取り戻して、急に堰を切ったように饒舌に喋り出した。
「おまえはあの議会室で歌を歌っていたが、そんなことをしたら、この俺の首は、次の日の朝気がついたら、ふっとんでいることだろう。ここは旧態依然としているように見えて、若い者に対しては、厳しいほどに実力主義なのだよ。それが出来ないものは、強いものに使われるしかない。それだから、おまえも女の身でありながら、高位のポストに落ち着いてられるのだ。」
ミィアムは何も言わなかった。その代わりに、さっきまで光輝いていた目が、暗闇に慣れたかのように、ほとんど瞳孔が開いて真っ黒になった。
スリーヴァンはなおも続けた。
「おまえが日頃あちこちを跳梁跋扈してる間に、俺は着実に地歩を固めて書類の山々だけでなく、人の山々をも掻き分けて暮らしているのだよ。そんな努力など、おまえは評価しないのだろうが、ある者にとっては、俺は魅力ある存在なのだ。なにしろありとあらゆる場所で、その末席を預かる身だからね…。利用しない手はない、というわけさ。」
スリーヴァンは本来の生き方が今見つかったのだ、といわんばかりに顔に驚きを湛えると、子どもが親にしがみついたままのようなミィアムの存在を忘れてしまったかのように、一歩前に動き出した。そのせいで、ミィアムの体制が崩れて、ほとんどスリーヴァンの肩から腕にかけて、引っかかったような形になった。それでも、ミィアムはほとんど自分に関心を失くしたひとのように、だらりと弟によっかかったままうごかなかった。
スリーヴァンは、この姉の時折訪れる虚脱状態に、なれこっだった。しかし人目につくことを心配して、彼は姉の生存を確かめるように、そっと背中を押さえた。「ミィアム?」
「いつまで人の肩にぶら下がって…」そう途中まで口にしたところで、スリーヴァンは姉の変化に気がついた。ミィアムは、声に出さず笑っていた。その微かな振動が、スリーヴァンの体全体をも、揺さぶるようだった。
次の瞬間、呵呵大笑と呼ぶに相応しい声が、その辺りに存在するありとあらゆるものを揺さぶる様に、つんざく様に、響き渡った。まるで悪魔か魔獣の化身が、その地に舞い降りたかのような、恐ろしいほどの異様さだった。
スリーヴァンが驚きに何も言えないでいるのを他所に、ずるずる、ずるずると、ミィアムは弟の肩から首にかけて、爪のある動物みたいに動いて、とうとう手を弟の首の後ろに回した。その間笑い声は、やまびこのようにスリーヴァンの耳に反響し続けた。ようやくミィアムは口を開いた。
「おまえは何の為に存在しているのか。そんなくだらない御託やしがらみは、本当はおまえには不要なのだ。…もう一度言うよ、スリーヴァン。おまえは何の為に存在しているのか。」
「そんなことを…」スリーヴァンは首から伝わるミイアムの、手の力づよさと焦げ付くような熱さに完全に気を取られて、一体何を問われているかすら、わからなかった。
ミィアムはそれが返答でなくとも、構わず話つづけた。
「そう、そんなことを考える必要さえも、おまえにはないのだよ、スリーヴァン。なぜかというに、おまえの存在している理由など、この世には一塊もないからだ。」ミィアムははじめて弟の顔を、正面からのぞきこんだ。
「…そう、そんなことはどうでよいのだ。おまえが生きている意味、ここに息をして存在している意味。心臓の音を止めないでいる意味。…その意味がわかるか?」
「は…」スリーヴァンは、まるで首を絞められている人間のように、ただ息を吐いた。
ミィアムは、その目にあらゆる無関心を詰め込んで、弟の顔をのぞきこんだ。
「それはわたしの為だよ! おまえの心臓は、わたしの為に、今動いているのだ。おまえは確かに大きな苗木として、ここで密かに根を張りつつある。でもそのこと以上に、おまえにはおおきなおおきな役割があるのだ。…わかるかい?」
ミィアムは返答など期待してなかった。彼女は弟の魂を、今しも食ってかかろうとしている、悪魔そのものだった。彼女の目と声は、黒々と泥のように、スリーヴァンのこころを埋め尽くした。
「スリーヴァン。おまえはわたしの為にこそ存在する。わたしの為にその命を使い、その心臓は私に捧げられる。おまえはいずれ老い、わたしはおまえのそばであたらしく育つ芽として、その伸びた枝でまるまる新たな木として生きる。おまえはそのそばで生きた栄養となって、枯れ朽ちてゆくことでさえも、喜びとなるだろう。おまえはさいしょから、わたしのものだ。おまえの心臓はもうすぐ私の胃の中だ。おまえはこの世では、すでに屍なのだよ。」
目ざわり つちやすばる @subarut
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