第2章「ひねくれアイザック」
丘の上の晴れ上がった空には、腰の反った騎士の形をした雲があがっていた。このところ、年寄りばかりに囲まれているレイダンには、年老いた騎士の滑稽な勇姿に思えた。『ドンキ・ホーテ的雲』とレイダンは心の中でつぶやいた。
少し前の秋の入り口とうってかわって、いまは実りの秋というに相応しい、気持ちの良い気候が続いていた。散歩道は枯葉のふとんが敷かれ、辺りの景色は黄色に色ずいた葉の作る明るい絵に満たされて、おもわず手を振り足を振り歩いてしまう。しかし少々調子にのって、歩きすぎてしまったようだ。ちょっと休憩しようと、散歩道と畑を境界線づくる低い垣根のそばに腰を下ろした。やれやれ、年寄りみたいにこんなところでうずくまってしまうとは。レイダンは機械が換気を行うように、はーっと外に息を吐き出した。
とはいえ30を少し出たばかりのレイダンにとって、老いなど問題ではなかった。贅肉に悩まされたことも、持病もなかった。皮膚も乾燥で荒れることもなく、髪の毛のつやも手のつやも、熱心に手入れもしていないのにつややかだった。彼は自分の容姿に完全に無頓着な人がよくそうであるように、恵まれた体格と顔つきをしていた。ただ、それは単に美しいとか、人目を惹くとかということではない。彼は長年あまりにも自分の容姿に興味がなかったせいで、よく目をこらして見ないと、存在することにも気がつかれない人物になっていた。それは彼なりの擬態なのだ。彼の美しさというのは、横に歩いている人間にしかわからない種類のもので、それは体の動きに合わせて流れるように動いた。
彼は性格的に宙に夢を描くことはしなかったが、それでも若い頃のまま、毎日伸び上がってゆく草木のように、自分が良い方向に伸びてゆくことを確信していた。野放図な青年の心だって、まだ持ち合わせていた。だから村の暮らしによって、どんどん精力を失ってゆくことはほんとうに堪えた。そういう自分に気がつくことは、将来について、普段は考えもしないことをいやでも考えさせられた。レイダンは垣根に頭を持たせかけた。
自分だっていつかは年をとって、老いのことは避けられない。そう考えるとここの自給自足の生活だって悪くない。いつまでも官吏でいることは、仕事だけを目で追ってゆくことだ。それだって悪くない。最後まで勤め上げれば褒章金もつく。でも、とレイダンは思った。
『それでは、あまりにとんとん拍子すぎる。それはそう納得した瞬間、時間をとめることと同じだ。いずれも…』自分の考えを金繰り捨てるように、思わず急いで腰を上げた。
なんとなく気分がすっきりしないので、レイダンは珍しく荒々しく丘を降りるまねをした。枯葉の割れる音で、余計に心にさざ波が立つようだった。
偶然にもしばらく顔を合わせてなかったあの青年と、遠くのほうでお互いに気がついた。それ以上動きかねているレイダンをよそに、青年は手に持っていた畑道具か何かをさっと振りあげて合図してから、こちらに漂うように向かってきた。
「こんにちは。何か御用だったんですか?」青年は社交辞令の言葉にも、ひとつひとつ思いを込めて発音した。レイダンを気遣っているようだった。
「散歩をしていて…。思ったよりも、遠くのほうまで来てしまった。」レイダンは言い訳するように、もと来た道の方向に顔を向けた。青年はそれに対して何も言わず、ただレイダンの顔を眺めていた。それは、レイダンに思いがけない波紋をあたえた。でも、それが何なのか、すぐにはわからなかった。何かに気がついたように、青年は言った。
「ここの人間は他の人のことをいつもいつも考えていて、自分を忘れて生きています。それがかえってあっている人もいますよ。気を付けさえすれば、人との付き合いを最小限にして暮らす事だってできますからね。」彼は少しの間、考えに沈みこんだ。
「でも、僕にはどちらもどうでもいいんです。疲れようが楽しもうとしようが、僕には同じことですから。」
「きみは見かけによらず、ひねくれている。」レイダンは正直に言った。
青年は笑顔になった。人からそう言われることを楽しんでいるのだ、レイダンは思った。
帰途につく道すがら、ふと思い立ってから、レイダンはこう尋ねた。
「そういえば、君のファーストネームは何ていうんだ?」ここでは自分の名前を紹介し合うような習慣が、ないのだ。無論、レイダンは偽名を使って暮らしている。村の誰もが彼を教会の人間として認識している以上、名前などあってもなくとも同じことだったが。
「アイザック。」
青年は帽子を振り解くようにしてとり、汗をかいた額をぬぐった。
「アイザック・エリソンです。」そうしてまっすぐと雲を見た。
「あなたの本当の名前は?」
レイダンは驚きに胸を打たれた。
***
地平線のうえにちょうど足つくような格好で、太い枝にきつく縛った縄に、人の首が巻きつけられていた。首はちょうど今しがた右へ傾けたばかりに見えたが、その顔色は、灰色を通り越し、朝日のなかではほとんど黒色に見えた。雄大な日の昇りを背中に一心に受けながら、その人はそぞら散歩に出てきたひとが履くような靴をひっかけて、仕事までの時間を過ごしているかのようだった。その足が、もう決して、草の葉を踏みしめることは無くとも。
形式どうりの埋葬を済ませたひとびとが、司祭の家のそばに暮らしているものの家へ、一旦は集まって、厚いクッキーやお茶をくちにしながら、言葉少なげに――ここだと司祭の耳にでも届くと思っているのか――まずは通り一遍の感想を、それぞれが口にした。それらは誰の耳にも届かなかったかのように、言葉だけがその空間をそよ風に吹かれて通り過ぎていったが、そのときふと、その場にいた老婦人の胸に、あるひらめきが上った。彼女はそのひらめきを、はじめ輝かしい、絵がたくさんついた壷のように思えたが、すぐにその壷は、誰にもみせびらかしてはいけないものなのだと、感じとった。
彼女はこの家に長く棲む、その土地では尊敬されている人物だった。ここでは女性が宝飾品の類を身につけることはないが、彼女だけ、綺麗な彫り物を施した銀のなかに、人差し指に乗るほどの琥珀を埋め込んだうつくしい指輪を身につけていた。それは黒の繍子の手袋の下に、いまは静かに眠るように言いつけられたこどものように、誰に目に触れることなく、彼女の手の甲の下眠りに包まれていた。
その婦人はアリスという名前だった。アリスは思った。
『人には罰が必要だと、誰だったのか、あのとき誰がいいだしたのかしら?』彼女はわかいとき、仲間と過ごした夏の時間のなかで繰り広げられた、たわいも無い戯言を思い返していた。『はじめて、罪を犯したような気分がしているあの人を、私はこどものように思えて、心の中で下に見ていた。…この世のあらゆることが、そのときには、まだ、自分が手をさっとかざしさえすれば、どうとでも変化するのだと思っていた。でも、それは間違いね。変化していたのは、自分に過ぎなかったのよ。』
老婦人は密かに首のカラーのしたで、微笑んだ。それは、子どもがよくする含み笑いに、よく似ていた。
『人には罰が必要。罪には罰がいる。その違いを、いまではよくわかる。かなしいかな、人は罪を犯したとき、どうしても自分のほうで、罰がほしくなるものなのよ。誰に罰せられなくとも、ぜひともこの自分の罪に似合いの罰を、のどから手が出るほどほしくなるというのが、このかなしい人生の秘密ね。』
彼女は心の中でだけ、笑い声をもらした。
『自分は地獄のすみずみまで知っていると思い込むのは、人間の驕りね。本当の地獄というのは、最後の最後までとっておかれるものなのよ。わたしは、晩年ちかくに発狂した友人達の死を、何度も見届けた。彼らは隣人や郵便配達人となごやかに挨拶を交わしながら、ぱたん、と扉を閉めたそのさきには、彼らの地獄がもう、すぐそこまで飲み込もうとしていた。その部屋のなかで、地獄の炎が、彼らの薄くなった足をちらちらと燃やしはじめて、そのおかげで、部屋のなかを行ったりきたりしなければ、日常は過ごせなくなつていたわ。ある人たちは薬やお酒に溺れて晩年を過ごすけれど、それは幸福な死を、すぐにその人にもたらしてくれる。ともかく、神様というのは、物分りのよい気のいい人間が、かわいそうでかわいくて、仕方がないと見るわね。…もし長い間生きているのに、少しも感じがわからないでいる人間をお見つけになったならば、その人に似合いの病を、神はこしらえて、人生の苦しみが、どんなに彼を苦しめるのか、嫌というほどわからせたいものなのね。でも、彼らにわかろうはずもないわ。だって、それがわかっていたのなら、そんなことにはならないんですものね。』
彼女は老婦人から若い婦人へ、いまはほっそりとした少女時代に戻っていた。それは彼女の顔を、分別のある品の良い老婦人の顔から、ただ口の端をきゅっとあげて、その目も、その表情も、何も意味していない少女の顔に、変化させていた。彼女の綺麗にそぎ落とされたなかにも、ほほの内側にふっくらとしたものが残っている顔かたちが、男女のどちらとでもない人間にさせていた。それは、古代の若い王の姿のようでもあった。彼女は自分の思索に、少しも体を動かしていないのに、内側から灯が灯ったように熱くなった。そのあかりは、彼女にさらなるひらめきをもたらした。
『神はこのわたくしに、どんな死を与えてくださるのかしら? 女という生き物は、昔は長くは生きられなかったものだけれど、今では永遠の命を持っているようなものだわね。この村のどんな頑強な男だって、わたくしより長くは生きなかったわ。…それは特権かしら? 女達がこの世界にいて何も掠め取ることなく、じつにいろいろなものを地上のうえに落として行った、そのことに対する神の返礼なのかしら? わたくしはいまでも、朝起きると、この身が太陽と木々を欲するのを、感じ取ることができるわ。雨の日も、曇りの日も、晴れの日とおなじように、心満ち足りて、過ごすことが出来る。わたくしはそんなにも、神のおめがねにかなう人間だったのかしら? なんということだろう! 神にまともな祈りも捧げず、許しも乞わなかった、このわたくしに!』
彼女はこの場にふさわくない、不敵な笑みを覆い隠すためなのか、顔をそっと疲れ目を癒やしているかのように、両手で触った。訪問客は、それぞれのグループに分かれて、気持ちの良い若い緑の影さすテラスで行われている、このちょっとしたお茶会を、楽しみ始めていた。ときおりの抑えた笑い声を、どこかの木々に止まる鳥が仲間と間違えて、返答を返した。
彼女は机に置かれたままのソーサーをゆっくりと持ち上げると、あらゆることに通じた人の手つきで、カップの縁をまるで糸くずを持ち上げただけみたいに、指にひっかけ、まだすこしあたたかいコーヒーを、ゆっくりと時間をかけて、飲み干していった。
***
聞いたところによると、その吊るされた男は、この教会の雑役を担っている男だっだという。ひどく大人しく、おまけに酒も飲めない性質だった為、仲間や友人と呼べるような存在はなかった。村の者は、彼がいつもどこにもいかないのを、宗教者ゆえの振る舞いだと判断していた。両親は既に年老い、やや頭も足腰も、おぼつかなくなり始めていた。彼らは自分に降りかかった物事も、わからないままでいるようで、食事の時間が来ると、呼び出されて訪れていた警察の役場から、いそいそと自宅に戻っていった。もっとも、彼らの食事の支度をしてくれるものは、この世にはもういないのだが。
彼は丘を渡った先の、なだらかに地面と地平線が延びている場所に立つ、一本のおおきな橡の太い枝を伸ばしたところで、縄で首ごと結わえ付けられていた。絶命したのは、両手首から先が切りおとされて、大量に出血したからだった。着ていた着物に、血の一滴もついてなかったことから、手首を切り落としてからしばらく間をおいて、血も流れなくなったところで木に吊るされたのだろうというのが、村の警察の見立てだった。動機は何もわからなかった。ここの者は、犯人さがしでさえも、熱心でなかった。なぜなら、この村の者以外に、人目につくことなく殺害し、あの丘を渡って木に吊るすことなど、不可能だからだ。殺された者は、着物を着させてもらってるだけでなく、髪もきれいに梳ってあった。まるで何かの儀式のようだ、と誰もが悟っていた。神が殺したのでなければ、その神の使いが人を殺したとして、あの大人しい誰の目にも止まらなかったあの男にとって、これから年老いて死ぬのと、朝日を浴びてあのような死を迎えるのと、いずれかの違いがあろう? 誰もがこんな了解を胸に抱えて、ただ静かに目を伏せているようだった。ここでは死は、それが殺人であっても浄化作用なのだ。
このことは、レイダンを相当にいらだたさせた。そんなものわかりのよさは、レイダンには受け入れがたかった。その日の夕、レイダンは一人部屋にいて、ぱきんと音を立てる枯れ枝と、太い木切れを燃していると、嫌でもあの朝日とあの遺体のすがたが目に浮かんだ。レイダンが一目散に丘に駆けつけたとき、堂々たる朝日とうす闇のなかで、黒々とした銅版画のように、木にぶら下がっているあの死体を目にしたのだ。そばにいって確かめたのは、まぶしいほどの朝日があたりに差して、木の陰にでもいないと所在なかったからだった。もちろん、木のそばに行ったところで、そこに落ち着きなど無かったが。奇妙にすがすがしい風に吹かれて、その死体が時計の針のように数センチだけ動くのを見ていると、どんどんと心が無になってゆくのを感じた。
秋というに、もう既に冬のような空気のつめたさが、朝と夕に下り始めていた。レイダンにあてがわられた部屋は暖炉つきで、その目の前にちいさな一人がけソファが二脚、対に置かれていた。レイダンはその片方のソファの足元に床にじかに座り立て肘をついて、いましがた火をつけた暖炉の具合を見ていた。
こんな時代錯誤の、手間のかかる生活をしていながら、この村では夏以降4人目の死体さわぎだ。レイダンは昼間のうち、あちこちに聞き込みにまわって足が疲れて、夕方の冷気におされて、固く冷え始めていた。火が順調に中心のほうで確かに燃え始めると、レイダンは真後ろのソファにどっさりと腰を下ろし、そばのちいさな机に両足をのっけて、火に足をかざしてあぶった。
今夜は熱い湯船に、杉の香油でもたらして、時間をたっぷりとかけて浸かりたい気分だった。でも香油などここでは女の持ち物だし、男たちは櫛で髪をくしけずったりすることさえない。湯船はこの部屋についておらず、たまにちいさい桶で体に湯をかける程度だった。汗や汚れなど、外にいて間断なく働きつづける人々にとって、風で乾かすものなのだ。
嬰児殺しと吊るされた男。この村に滞在したことは、あたりといえばあたりなのだろう。レイダンは閉じかけていた目をうすく開けた。ここでは死にゆくものは、全ては神の御心によるものなのだ…。まったく、冗談じゃない! レイダンはひとり心の中で大声を上げた。殺された人間が出たということは、殺したのは他の人間なのだ。そう考えるのが、ふつうではないのか? レイダンは珍しく口元に手をやって、ひとさしゆびの真ん中あたりをがきり、と噛んだ。犯人はきっといまでも、ここにいて、その顔を村のものに平気で向けて、秋の収穫までのこのあたらしい日々を過ごしている。俺も人々を訪ねる道すがら、目につくものすべてのうつくしさに、通り過ぎるのがおしいほどだった。でも、レイダン、とかれは自分に言い聞かせた。『馴染むのは構わない、それでいっそう仕事はしやすくなるだろう。でも、ここの自然や、ここの神に、飼いならされてはいけない。俺の主人は、この俺だ。絶対に手綱を誰かに渡すことはしない。』レイダンは跡がつくほど、強く指をかんだ。
それをとがめ様とするかのように、レイダンの部屋の扉を、誰かが固くノックした。この突然の襲来に、レイダンはおもわず肩をびくつかせると、しばらくの間うごけなかった。
まるでそれを見ているかのように、十分な間をおいてから。アイザックの声がドアの向こう側、くぐもってこう言った。
「すみません。アイザックです。いますか?」
レイダンは、なぜいまなのかと、いぶかしんだ。
「…いま行くよ!」レイダンはようやくのことでこれだけ言うと、落ち着いて、と自分に暗示をかけながら立ち上がって、ドアのほうまで歩いてった。
扉をあけると、そこには酒瓶をひとつ手にしたアイザックがひとり立っていた。かれはレイダンの顔をまっすぐ見ると、「おやすみのところすみません。暖炉の煙が上がってるのを見て…寝酒を持ってきたんです。」と言った。
レイダンはやおら差し出されたそれを受け取ると、何のラベルも貼られていないその瓶を、何色かを確かめるように動かした。「開けるのが、もったいないな。」
「開けたらそれまでなので、さっさと飲んだほうがいいです。火酒と野苺を漬け込んだここのお酒です。」アイザックは後ろ手を組みながら、瓶に視線を投げかけて言った。この間のことは、気にしていないからだいじょぶですよ、と言わんばかりの堂々たる態度だった。それがレイダンのささやかな自尊心に、多少引っかき傷をつけた。
「よかったら、君もどうかな。夕食前だけど、かるく」レイダンは、招き入れるように、ドアを開け放った。それは反撃のチャンスを密かにうかがうのと、せっかくだから、今夜のうちにこれを飲み干してしまおうという、レイダンなりの算段からだった。
アイザックはほんの少しの間、イエスともノーともどちらともとれない顔つきをして、ただ扉の前に立っていた。それもすぐに引っ込めると、良い話を持ちかけられてそれが罠とも知らず巻き込まれるひとのように、溌剌としてレイダンの部屋に足を踏み入れた。そんな様子を見せられて、レイダンは内心、自分の打った手にまちがいはないかと、急に心配をおぼえた。
「良い部屋ですね。ここ。僕の部屋には、暖炉まではついていないんですよ。屋根裏だから暖かいけど!」アイザックは12畳ほどの部屋のなかを、ぐるりと空を見渡すかのように眺め見た。
どういうことなのだろう。レイダンはしばしの間考えに沈みこんだ。この青年は、俺が偽名を使って、この村に何かの目的で滞在していることを、知っている。それとも、教会が俺を見張るようにつけた見張りなのか? そうだったら、なぜあんなあっさりと質問できたのだ…。レイダンは考えを振り落とすように、髪をさっとうしろに撫でると、暖炉のまえに陣取っていた机を真ん中に移動させて、ソファの位置がちょうど綺麗に対になるよう整えた。この部屋に備え付けの水差しのグラスを落とさないようにふたつ手に取ると、洗面台に洗いに行った。その間アイザックは暖炉に枝切れを差し入れて、火の様子をたしかめていた。レイダンが洗面台から部屋に戻ると、二人は示し合わせたように差し向かいに座った。アイザックのグラスに酒を注いでやったあとしばらくの間、まるで厳粛な儀式がはじまったかのような雰囲気だった。しかし、レイダンがグラスに口をつけて酒をのどにくぐらせると、おもわず感嘆の声があがって、その場の重たい厳粛さがやぶれた。
「おいしい。ものすごく。」レイダンは信じられないという顔で、グラスに半分残ってる酒を、火にかざすように上に差し向けた。火酒特有の焼け付くような感覚のあと、蜂蜜か何かのような甘さがひろがった。それが水のようにあとで喉を通るのだ。
アイザックは、別になんでもないという感じで、それをただ見ていた。ここでの飲み物や食べ物は、おいしくて当然なので、おいしいだけでは喜ぶに足らないのだ。その様子をレイダンは見て取ると、なんだかこちらがおかしいことをしてるみたいに思い、あとは黙って残りをすすった。
言葉少なく、一杯をお互いに飲み終えると、すっかりくつろいだ気分になり、レイダンはついつい余計なことを口走ってしまいそうになった。日頃間断なく鍛えている自制心を、ほんの少しだけ速度を落として、今だけは気ままに振舞いた気分だ。かれはこんなことを、話したいと思った。『そう、俺の本当の名前はレイダンと言って、ここでは君もなんとなく知っている通り、ある任務の為に来ているのだ。その任務は、今世の中を密かに騒がせている、嬰児殺しを解明するためなのだ。極秘の任務で、俺の上司以外誰もそのことを知らない。ところで、あの男を殺したのは、君なのかな?』
レイダンは、おもわずソファに沈めた身を、起き上がらせてしまいそうになった。
『俺は…何を、何を今言ったんだ?』
アイザックは、空になったグラスを両手で包むようにもって、ただ火を見ていた。年中外に出ているのに、顔に斑点の類はひとつもなく、火にさらされて、白いろうそくの照りのようなものが、顔の一部にでていた。その様子から、かれが本当にごくわかいことが、よく見て取れた。目のしたのわずかなくぼみと、おでこの端あたりの生え際に生えているかるい産毛が見えた。普段はあかるい茶色い目が、いまはほとんど橙色にかわって、ほの明るく玉のように光り、目の奥が火のようにときどき揺らめいた。
『そんなわけがない。そんなことを、この若者がするはずもないのだ。…神が彼の前に現れたとしても、その神だってこの若者なら、はいそうですかと通り過ぎるだけの、しがない存在なのだ。この何に対しても落ち着き払った、この若者にとって…。ましてや殺しなどという大変な…』
レイダンは、アイザックのグラスに添えてある手から上腕までを見やった。
『…そうだ。そんなことはできないのだ。まだこんなに、細いこの腕では。』
そのとき、アイザックは、ふっと呼ばれでもしたかのように、レイダンのほうに顔を向けた。まるで一枚の絵のようだった。彼特有の無関心な目が、かえってその雰囲気を引き立てていた。レイダンはそれを見て、アイザックがいつもそうするように、あっさりとこう言ってみたかった。『君が殺したんだな?』
アイザックは、そのまま何もいわなかった。
一秒後ごとに夜になっていく時刻がやってきた。闇にはまだ足りないが、灰色の影が部屋を端からすこしずつ侵食し始めていた。青い時間。暖炉のときおりのぱちぱちとはぜる音が、遠く山の向こうのほうで起こっているみたいに、レイダンには感じられた。
アイザックはそれだけの沈黙を守ったあとなのに、ほんとうに何気なく、こう言った。
「そろそろお腹がすきませんか。よかったら、ここに簡単な食事を持ってきて、しばらくお話しませんか。」
「あ…」レイダンは喉の点検をするように、つぶやいた。アイザックはめずらしく弁解をするように、こう続けた。
「僕、暖炉から動きたくなくなってしまった。あたたかくて、いいですねここは。」彼は少しおどけたように笑った。レイダンはそれを見て、泡がはじけたように現実のこの部屋に戻ってきた。
『疲れてるんだ、俺は。疑う仕事は、これで止めだ。』
レイダンはアイザックに詫びるように微笑み返すと、ソファから立ち上がり、何か食べたいものはないかと尋ねた。
***
「僕の遠い先祖は、実はここの領地を所有する一族だったんですよ。」アイザックは自分の手の甲で、片方の手を包んだ。
「そのころは、土地の所有に対する規制が、まだ国中には広まっていないときでした。それぞれ自治をまかされた地方が、その独善的な占有と経済に対する無関心さでもって、徐々に村の人の生活にも影を落とし始めたころでしたけど、まだそんな認識などどの人のこころにもない時期でした。」かれは一呼吸おいてから、こう続けた。
「でも当時虫の息だった教会の力がにわかに息を吹き返して、あるひとびとにとっては、共同体の理想を提供してくれ、寄る辺ない村の未来をなんとかしてくれる存在に、ひそかになりかわっていました。当然国中の貴族は非難され、迫害されるまでそんなに時間はかかりませんでした。僕の一族ははやくから教会の足元に跪いていたので、追いやられることもなく、辱めにあう事もありませんでした。今では一族の結束などありませんが、それでもこの村の歴史を書いたひとが僕の叔父だったこともあって、その一端を僕も知ることができたんです。」
レイダンは先をうながすよう、静かにあいずちをうった。
「ここは元々、貴族達やかつてその庇護を受けて、爛々たる大聖堂を打ち立てていた教会とは、ほとんどかかわりのない地方でした。農業と観光がいまでは経済の基盤ですが、当時はどちらも村の根幹ではなかったんです。」
「では、どのように食べていたんだ?」レイダンは思わず尋ねた。
「正確に言うと、ここは村の自治さえおぼつかない、ただ集落と森が広がっているだけの、荒地だったんです。僕の一族は、古くから住んでいるということと土地の多くを所有してるということでブルジョワでしたが、生活自体は村の貧しい人々と、そんなに大差はありませんでした。ここは貨幣ではなく物々交換と、わずかな食料を自給自足して暮らす、進歩や発展とはおよそかかわりのないところでした。」
「村に変化の波をもたらしたのは、ほんのささいな出来事からでした。村の人の多くはその日暮しというに等しい生活でしたから、何かをしようという意欲も、あるいはこの生活を変えようという意力も、持ち合わせていませんでした。今日があれば明日、そのまた明日とつづいてくだけです。何かを組織しようなど、そんな余力ややる気を持って夕方や夜に集まれるだけの胆力が、決定的に欠けていました。村には本も、壁に飾る絵も、たえようもない音色を奏でる楽器でさえ、ほとんどのひとにとって必要のないものでした。あるのは自然の流れにそって生きる暮らしだけです。怠惰なものはとことん怠惰でした。でもそんな暮らしは、簡単に疑い深い暮らしに変化してゆくものです。」
「きっかけは単純でした。村に唯一の寄り合い所で、夜のうちに三人もの人が殺された事件がありました。その夜は夏至でした。いつもは夜になればそうそうに寝床に包まってしまう村の人びとでさえ、夕方から祭りごとをたのしみました。簡単にしつらえた、ダンスパーティです。老いもわかきもそこに集まり、踊ったりそれを眺めたり、お酒を飲んだりしました。寄り合い所は、そこからそう遠くない場所にありました。祭りの後の短い夜が明けたあと、朝方三人の死体が見つかりました。殺された人々はその土地に住む年代もばらばらな女性達でした。犯人はやはりその日いちばん近くにいた、そのパーティに参加したものだろうと思われましたが、そんなことは誰の目にも明らかなうえ、きっとあいつがやったに違いないと、ひとり決め付けるものまで現れました。その夜は星が綺麗に見える星月夜でした。誰もがその夜をたのしんで、たっぷり満足してから家路につきました。」
「ひとびとはその事件によって、言い知れぬ衝撃と傷を受けました。誰もが失望して、神経質になり、日々の暮らしはいぜんにはあった生彩が、どんどんと翳りを帯びて、空から重い蓋がかぶさっているような雰囲気が、村に立ち込めていました。誰もが家に頑丈な鍵をつけ、昼間でもぴったりと窓を閉め切っているものもいました。時折村のもの同士でお互いに顔をあわせても、だんだんに反応でさえ引き出せなくなっていきました。急速に内側に引きこもるようになって、それからある態度が、誰の身にも現れるようになりました。」
「それは懐疑の姿勢と、自分が何か損なったり脅威に合うという、不安神経症的な態度です。この村は誰もが顔見知りで、その出自も明らかな人ばかりです。よそ者に対しても、静かに黙するという態度を、村の人たちはとっていたものです。信頼や安全など、わざわざことさらに持ち出さなくとも、ここではそれらは空気のように当たり前にあるものでした。」アイザックは祈るように、しばし目を伏せた。
「それがやぶられてしまったんだね?」レイダンは言った。
「ええ。そうなったらまた次に起こることは、自明のことです。まず村の初老を迎えたばかりの男性から、それははじまりました。彼が言うには、彼の隣人の静かに立てる物音が、彼に対する抗議だと言うのです。奇妙なきちがいと見える言動です。そんなことは、この村のひとびとにとって、洪水が起こるより以前にも以後にもなかった出来事です。村のひとびとは、それをしるしとみました。」
「世界が終わる、予兆と見たのだね?」レイダンは静かに合いの手を入れた。
「そうです。ここでは教会への信仰はなくとも、神への信仰はありました。彼らは幼いときに親が寝るまえに聞かせてくれた、古いものがたりを、大人になるまですみずみまで覚えていました。」アイザックはそこまで言うと、ひとつ息を吸った。
「なんだかはるか1千年も前の話を聞いているようだな。」レイダンはかすかにわらいをもらして言った。
「そのくらいにはなるでしょう。2千年代の話ですから。」アイザックはレイダンの顔を見た。「もうお終いにしましょうか?」
「いや、そのさきがどうなったのか、気になるな。」レイダンはこのものがたりを楽しみはじめていた。「続きを、聞かせてくれよ。」
アイザックはつづきをこう始めた。
「この村のひとびとは、その老人を文字どうりなんとかしなければならない、と考えました。でも殺人を行うことは、誰かがその手を汚さなくてはいけないことです。では、誰の手を汚すことなくこの場合うてうるかぎりもっともよい手は何か。村の人々は、人の弱さがどんなものか、すみずみまでよく知っていました。人はこころひとつで、いかようにも変化します。人の体を支配しているのは、その器官ではなく、こころです。」
レイダンは同意の意思を表すように、深く頷いた。
「かれらの取った行動は、驚くべきことにすべて無意識でした。世界の終わりに対して、ちいさな人間たちにできることなど、絶望以外ありません。しかしかれらは、絶望するほどに現実の物事をありありと感じ取る能力がありませんでしたし、世界中のどんなひとひとびとも、かれらより賢いこころを持っていませんでした。」
「かれらは終わりが来るべきときが来たなら、それは終わるべき時なのだろうし、終わりがきたら、またはじまりが来るのだと、簡単に考えるひとびとでした。でもそれは、蟻が春や夏のはじめにつくる巣穴に似ていました。人の足で踏み鳴らしてしまえば、それまでですし、何よりも外に対して、あけっぴろげすぎるのです。そこに目をつける人が出てきて、それをうまく利用しようと考える間もなく、簡単に利用できてしまうのは当然のことでした。賢い村のひとびとは、それよりも少し賢いといった程度のひとに、この村の運命を託しました。そのものは、ここで眼医者と学者の真似事をして暮らしている男でした。男はあるとき、皆を集めて、こう切り出しました。今この場にいるものたちのなかで、なにか心苦しいことがあるものは、この自分に申し出るように言いました。ある種の選民です。」
「……どういうことだろう?」レイダンはたずねた。
「つまり、区別と判別を行ったのです。それはかなりの効果をあげました。村の人々は、その男に告白をしたのです。自分がいままでどんなことをしてきて、今どんな風に思っていて、どんなことが問題なのか。その男は、聞くことに長けた人物でした。かれは村の人に対して、ほんとうに真剣に思いやっていました。そのことにうそなどなかったのです。でもかれは、ある欠点がありました。それは、人のこころを知り、人を助けたいという、強すぎる思いです。」
「どうしてかれがそんなに強い思いをもつにいたったかは、わかりません。かれは確かにほかの誰よりも賢かった。でも、その賢さは、かれの絶対にだまされないという、これまた執念深く強い思いからくるものでした。かれの前に立つものは、常に小首をかしげているか、そっと顔をふせているかでもしてないと、かれのこころはあっという間にかき乱されてしまうのです。それはかれ自身の問題でした。かれは自己や自我が自分に存在することを、あやゆる機会を蹴って否認していました。ある明白さは、かれには度し難い恐怖でした。ほんとうは、かれは村の人々のたしかな信仰が、心のそこでは恐怖そのものだったのです。」
「かれはあるとき、単なる思いつき以上のことをおもいつき、それを確実に実行するために、あることをはじめました。ある晩、ひとりの若者が、かれにこう告げました。自分はとんでもない過ちをおかしてしまって、今そのことでとても苦しい、と。その若者は未婚でしたが、以前に若い娘を妊娠させ、挙句の果てに見捨てて、失意のうちにその娘が死ぬと、また新しい相手をつくっていました。執着しないかれをつなぎとめようとその相手は病的になり、ひどい言い争いと絶え間ない話し合いがつづいていました。そのころかれは21か2といった年齢でしたが、すでにもう疲れ果てていました。かれには一切悪意はなく、ただの疲れた、気まぐれに人を犯す若者でした。気まぐれな天使です。ほとんど顔に傷やしわの類がなく、15か16くらいにしか見えませんでした。その月夜の晩には、闇にともったあかりのように、ほの暗く光輝いて見えました。かれは言いました。自分はほんとうは女のことなどどうでもいい。自分にとって必要なのは、安定だ。それが女だと思っていたのだが見当はずれで、もうほとんど女のことは憎たらしいと思っているのに、相手はそれを執着や愛と勘違いする。もうこんな争いごとの人生は、おしまいにしたい。おきまりどうりの文句です。あなたが自分をどう思うのか聞きたかった、とかれは最後にいいました。かれは新しい安定を見つけようとしていたのです。かれにとってその男は、女たちとは違う、なだらかに広がった大地のように思ったのです。ふりかえって考えてみれば、非常にしたたかな狙いの的を、その若者は打っていました。確かにその男は、かれにそういったものをもたらしてくれるでしょう。でもひとつだけ思い違いをしていたのです。その新しい土地は、けしてなだらかな草原の広がる場所ではなく、雪とわずかな緑の、険しく切り立った山々でした。その男はいいました。君は無邪気に罪を犯したが、その罪は君のものではないのだ、と。その罪はこれからいかようにも洗い清められるし、事実君の心は、清水のようだ。しかし、清水に魚は住まない。君はこれからの現実から、それを魚のすむ池にしなくちゃならない、と。その男にとって、その若者は活きの良い魚でした。活きのよい魚は、その日のうちにとって食べなければなりません。」
「その男はその若者を手いれるべく、かなり周到に罠を張りました。どうしてかれがほしいと思ったかというと、使えるからです。その男は使えるものならなんにでも戸棚に閉まっておこうとする性質の人間でした。それに若い人間は、かれの目となり足となってくれるはずでした。それは以前言ったかれのおもいつきに、ぜひとも必要不可欠なものでした。かれは自分の生来の個性を生かそうと、常に努力する人でした。あるときから、この村を丘から見下ろす城の城主となって、ひとびとを上から見守りたいと願うようになっていました。ひとびとのささやかな暮らしの足跡を、はるかうえから見下ろすよろこびです。征服者の幸福です。それこそが、かれのこころを満たしてくれる、この世に存在する唯一のものだったのです。それがかれの人生の念願となるのに、そう時間はかからなかったと思います。なぜならかれは、さいしょから何もかも用意周到だったからです。わずかな失敗でさえも、かれの汚点どころか傷にもならず、広大な城を築くための足がかりとさえなりましたから。」
「その男とその若者は、いつでもぴったりと一緒にいて、行動するようになりました。村のひとびとは、それを未来の希望と見ました。実を言うと、この若者は誰からでも愛されていたので、村の人々に完全に甘やかされて育っていました。かれの起こした粗相も、かれなりの苦しみあってのことだろうと、偏った見方がなされていました。でもいまでは、優秀なアシスタントです。誰もがかれの転身をよろこびました。二人が歩いている姿を見たものは、立派な師弟が緊張とおごそかさを持って行動を共にしているように見ました。実際かれらはそうでした。若者は、完全にその男にのしかかっていました。かれはそのことは無意識でしたが、自分がついていくべき相手はきちんと決めていました。その男はいつでも若者を気にかけてやり、何か問題がおころうものなら、まっさきに駆けつける始末です。それはほとんど同性愛関係に見えました。また事実そうだったのでしょう。その男にとって、その若者のある種の愚かさは、かれにとってやすらぎを与えてくれるものでした。その若者は、独善的で、断定的でした。なんでもかんでもナイフのように切れるのが、かれの特性でした。ある意味で、とても抜け目なく冷静でしたが、どうしようもなくなると、とたんに我を忘れてとり乱す癖がありました。その男はそういった若者のばねのようにはねる感情の起伏に、自分にはないものを見出していたと思います。かれににとっては感情など、すでにからからに干からびて、わずかな枝しか残っていない、枯れ朽ちた木そのものでしたから。」
「その男は、自分でも思いもしなかった、ささやかな幸福を手に入れました。自分を必要とする人間の存在と、その人が放つ自分の人生に投げかける存在感は、かれが得ようと思って得てきたもののなかにはない、ある確かさと永久さがありました。その黄金を、かれはぜひとも保存したいと考えるようになりました。かれらは、ある意味では、お互いに必要としていましたが、ある意味では、それはアンバランスで危うい均衡を保っていました。なぜかというに、その若者にとって愛されることなど、当たり前すぎるほどに当たり前で、べつに価値あるものと思えなかったし、ほんとうはかれは、あらゆることがどうでもいいという人間でした。自分たちの時間が黄金などとは、かれには思いつきもしなかったことでしょう。でも、その男は違いました。そこが亀裂の始まりでした。」
レイダンは下世話な話題とおもいつつも、こう振った。「かれらは、肉体関係にあったんだろうか…?」
「さあ、どうでしょう。」アイザックはくすりと、ほとんど息をはきかけるみたいにして笑った。「そこまでは、わかりませんよ。でも、どんな関係だろうと、思いだけでは足りませんよね?」
「その通りだね。精神的な愛など、じっさい詭弁だと思うよ。」レイダンは色々なものごとを思い浮かべて言った。「すまない。話の腰を折って。それから…?」
アイザックは視線を上にあげ、つづきを思い返した。
「彼らの間がらは、しばらくのあいだ、凪のようにおだやかなものでした。もうそのころには、その男は彼を使おうなどとは、思いもしてなかったでしょう。かれはいつでも偶然の産物に焦がれていましたから、この幸福は、かれにとって人生の中でもっともよい日々だったと言えます。かれは日記をしたためるようになっていました。たいていは日々の些事に対する、かれなりの考えをつづっていましたが、そんな凡庸なことよりも、もっとすばらしいものが目の前にひかえているのに、少しもこれを語らないわけにはいきませんでした。かれは自分の恋心というものを、まったく歯牙にもかけていませんでしたが、あきらかに舞い上がってはいました。少々血の気も多くなっていて、自分の偉大なる人生への布石の仕事にも、ますます精を出すようにもなっていました。中年期にちょうどさしかかっていたこともあり、それにますます拍車がかかりました。」
「そのころ若者には、ある問題がありました。元々憂鬱な気質でしたが、それはかれを壊すほどには至らないものでした。かれの憂鬱は、冗談やちょっとした娯楽のようなものでした。かれはそれをたっぷり楽しむと、朝になったらそれをすっかり忘れているか、湯船に浸かったらさっぱり洗い流されているか、そのどちらかでした。しかしこんどのは、そのメランコリーに二、三滴、あるものが降りかかったことによって起こりました。なにがかれをそうさせたかは自明でしたが、傍からみれば、完全に藪から棒の出来事でした。それは怒りでした。どこから湧き上がっているのかもわからない、途方もない、冷たく熱い怒りの感情です。かれは誰かのものになることが、まったく我慢のならない人間でした。かれがほしいのは、ゆったりと深く座ることの出来るおおきな椅子であり、ましてその椅子から手が伸びて自分を愛撫したり、ぴっちりと締め付けられ羽交い絞めにあうことなど、耐え難い試練そのものでした。ほとんど死の雰囲気を、かれはそこに見ました。若者にとってその男は、ときおり現れて楽しむだけでいい憂鬱でした。自分があまりにも長く生きているような気分が、その若者に取り巻いてはなれませんでした。」
「あるとき、二人でいるときに、かれはこうきりだしました。自分は遠くに行きたいとおもっているが、いくらか金を都合してくれないか、と。その男は、村ではそこそこの資産家でした。かれはすぐに自分のお金を、その若者に使ってもいい、と考えました。自分の時間を使うか、自分の金を使うか、かれにとって、人を愛するということは、そういうことでした。かれはこういいました。「それはいいが、どこへ行くのか。」、と。これはおおきな引き金になりました。なぜその若者が、その言葉に強く反応したのかは、わかりません。おそらく、そこがかれの限界だったのでしょう。かれはすぐさまこうかえしました。「ここでなかったら、どこへでも!」。あまりにあっけなくものたりない、終りのはじまりでした。」
「その返答は、その男にじわじわと、ある変化をもたらしました。かれは女を愛するときでも、この場合はこの位、と常に分量を量りにかけて見てから愛するひとでした。つまり、かれにとって人を愛するということでさえも、きちんと均整が取れていなければ、それはたいして自分にとって重要でない、というひとでした。こういうときにはこうする、この状況では愛はこのくらいの分量、それ以上は余分である。いつもそんな具合でした。」
「かれははじめて自分に起こった変化を、冷や水を浴びせられたひとのように、しばしぼんやりと立っているだけしか出来ませんでした。そのうちに、かれのこころの中で、あるものが沸き起こりました。傍目には、かれはいつも以上に冷静沈着でした。また、かれは日常はなるべくそのように努めました。こんなときでもかれの不断の努力の成果は発揮されましたが、今回は逆にそれに油を注ぐようなものでした。それは激情です。ほとんど狂ってしまうくらいの、とてつもない嵐です。そんなものがこの世に存在するとは、かれは思いもしなかったでしょう。かれは力の限り、それに必死に抵抗していましたが、そんな抵抗が虚しいことでさえも、かれはその年になるまで知らなかったのです。はじめて、かれは自分の長年使い込んだ道具である、思考という術を見失いました。考えたって、ますます泥沼にはまるだけです。かれは完全に、その若者が生み出した迷宮に、すっぽりとはめられてしまいました。その迷宮に、正しい通り抜け方などありません。こうすれば通り抜けられる。こうすれば助かる。そんなものはありません。また、出口でさえないのです。そこにいる人間にできることというのは、ただひとつです。空に向かって、助けを呼ぶことです。その声を聞き入れるのは、その若者です。でも、かれにそんなことが出来るのでしょうか。」
「二人の関係性にとって、こういう危機は、うれしい誤算のはずでした。また、普通の恋愛なら、きっとそうなったでしょう。けれどふたりは、普通の恋愛どころか、本人たちすら普通ではありませんでした。普通の人々が喜びを見出すものを、かれらは一度か二度眺めたあと、簡単に外へ投げ捨ててしまえるほどでしたから。しかし、かれらは自分たちのしていることが、愛などという世迷い言に犯されるほど、鈍感ではありませんでした、愛の世界は、語られるものがたりにはない、死の世界が控えています。ふたりはいっしょに、死の世界に深く潜っていってしまっていたのです。それは無意識の世界とも言っていいでしょう。ふたりは女と共にいるとき、常にある思いがこころに生まれる人でした。どんなにうつくしく素晴らしい女だろうと、かれらにはどうしようもなく、巨大な退屈さが、付きまとって離れませんでした。でも、今度のはどうでしょう。たしかにふたりは人よりも恵まれて、若者は傍目には綺麗でしたし、その男は才知と可能性にみなぎっていました。でもそれは、ただの表層です。そんなことは、二人にとってほとんどどうでもよかったのです。二人が望んでいたのは、飽くことのない渇望でした。二人はおおきな特徴がありました。自分が破滅の道を選んでようと、まったく気にしないという尋常ならざる点です。それが密かにふたりを結び付けているかれらの接点でした。そうして、気がついたときには、かなり水を飲み込んで、息することすら難しくなっていました。足元には、暗い藻がゆらめいて、足先を冷たくしました。一艘の船でさえ、辺りにはありません。文字どうり、ときおり両手を動かして、ただそこに浮かんでいるしかありません。しかし、若者は愛されるものが持ちうる鍵を、その手に持っていました。」
「この苦々しく熟した日々は、その男の体にも変化をもたらしました。元々痩せ方でしたが、そこからさらにやせ細ってしまったのです。いままでのものでは大きすぎ、下着やズボンのサイズをすべて変えなくてはいけないほどでした。かれは常に疲れたそぶりやつらそうな素振りを一切ひとには見せないひとでしたが、ひとりで歩いているときの姿には、苦渋がにじみこんで、土を踏みしめる足取りも重々しくなっていました。まるでそこだけなにか違う重力が働いているようでした。このことは、若者のこころにもある変化をもたらしました。かれはきづいたのです。自分がその手にしているものは、羊飼いが羊を追うときに使う鞭だと。それははじめての経験でした。いつもかれは誰に対しても受身でしたし、いつも何かによりかかって、何かにあらゆることを決めてもらってました。その鞭の使い道を、かれは一切知らずに通してきたのです。あの賢い弟は、羊飼いでした。神への贈り物も気遣いと心配りにみちていたので、神は弟の贈り物を褒め、それによって愚かな兄の嫉妬をかってしまい、兄は弟を、簡単に殺してしまいました。でも、かれはどちらかというと、羊飼いではなく、かといって農夫でもなく、ただ人々のそばにいて愛でてもらうだけの、特別に飼われているちいさな生き物でした。そういう生き物は、ときおりとんでもないことをしでかすものです。」
「ある晩春のことでした。人の足音がすぐそこまで聞えてくるような夜でした。その日は朝からどんよりと曇りがちで、夕には分厚く黒炭いろの雲が遠くの空で待ち構えていました。夜になりきらないうちに、空がごろごろと鳴りはじめ、ぽつんと雨音がしたかと思うと、あっという間に矢のような雨が地面に降り注ぎました。ときおりぱっとあたりが金色に光りました。そのとき、若者の姿は、夜の闇の中で消えたり現れたりしながら、その男の家に向かっていました。手には何か袋に入った細長いものを持ち胸に抱えていました。雨具も長靴も履かず、かれにしては一心不乱に、まっすぐ前へと足を踏みしめて進んでいました。その男の家につくと、ほとんどなだれ込むように中へ入ってきました。男は、今夜若者が来るとは思いもしていなかったので、驚いたそぶりの向こうでは、はねだしたいほどの喜びを感じました。その男は言いました。「いったいなぜこんな晩に、そんなにあわてて家へ来たのか」と。若者は顔を上げて男の顔をまっすぐ見ました。血の気がひいて、真っ白い顔がそこに浮かんでいました。そのとき、ちかくで雷が激しく打ち付けた音を立ててどこかに落ちました。嵐はますます激しくなりだしました。男は扉をしっかりと閉めると、若者が抱きしめて離さないでいる袋を、塗れた上着と一緒に引き剥がそうとしました。でも、なかなか離そうとはしません。しかたがないので、ぬれねずみのまま自分の部屋の中に引き入れ、体を温めるためにお湯を沸かして、戸棚から強い酒を取り出して、若者に飲ませました。しかしまったくのどを通らず、吐き出してしまいました。ほとんど放心状態のようでした。時間をかけてどうにかして酒をグラスの底分飲ませると、うらの扉が開いたり閉まったりする音が聞えました。ぼんやりと床か床の底でも見ているのか、若者はこころここにあらずの状態でした。男は嵐でうら手の扉が開いてしまったようだから、見に行くあいだ、ここで待っているように言いました。目を見て話しても、どこか遠い国の言葉を聞いたみたいな顔をしていました。」
「裏手の扉は、簡単な木戸で出来た勝手口でした。いつでも誰でも気兼ねなく訪ねることのできるように、鍵の類はつけていません。だから強い風で開いたり閉まったりしているのだろうと、男は何か支えになるものを後ろに立てようと、ちいさな椅子を持ち出してからそちらに向かいました。行ってみると、たしかに扉が風で開いたり閉まったりしていました。雨風と一緒に、雨や草の葉や木切れもいっしょになだれ込んできそうになってきました。これは板を打ち付けたほうがいいかもな、男は冷静に考えました。そこで、すぐそばの部屋にいって、釘や木の端などを取りに行こうと後ろを振り向きました。後ろには、若者が焦点の定まった顔をして、ただ立っていました。驚いた男は言いました。「どうしたのだ。そんなところにいるよりも、寝台で休んでなさい。扉はすぐ直る。」若者はいわく言いがたい顔を一瞬よぎらせました。「どうやって?」若者はちいさく低く聞き返しました。「木の切れ端と釘で扉を打ちつけるんだ。いいから今は休んでなさい。あとで着替えをもってゆくから。」男は単純な事務しごとを行うように、こういいました。しかし、その男の言うことは、若者には対して響かなかったようでした。かれはめずらしく言葉の上にも自分の態度をはっきり示しました。だからなんなのだといった具合にかれはこう言いました。「雨はここの土間までは濡らさない。扉はそのままにしておけばいい。」若者は少しずつそばの壁によっかかりました。男は怪訝に思いながらこう返しました。「おまえ、あの抱えていたものは、どうした? あの中身はなんなのだ?」しかし、その言葉はかき消されてしまいました。ごろごろと、空が大きな音を立てました。そのとき、雷がおこした光で、男のうしろが一瞬照らし出されました。こんな嵐は何かが揺り起こされたかのような異様さがありました。男は胸にある懸念がよぎりました。「いま自分の目の前にいるのは、誰なのだろう。あの顔色を見ろ。まるで」そこまで考えたところで、かれは自分の言葉よりもさきに、はっとあることを悟りました。それはこういうことでした。かれはいちどきに悟ったのです。若者は自分を殺しにやってきたのだと。この白い天使は、実は赤黒い血糊のついた口をした、悪魔なのだと。」
「その男は冷静な人間でしたけれども、まさか自分が目をかけてやって育てているつもりの人間に、うしろから指される日が来るとは、かれにとっても衝撃でした。なんとかしようと思う間もありません。完全な形勢逆転でした。若者はこの男をさっと殺して金と貴重品を奪って逃げれば良いだけです。こんな簡単さに満ちたことを、誰かが思いつかないわけがありません。それに、そうすれば簡単に逃げられるのです。この男の圧し掛かるような支配から。その男は愕然としてただ立ち尽くしていました。若者はこう思いました。食われる前に食うのがこの世界の原則なのだと。この若者でさえ、理解してました。のんびりと二人で長いすで寝そべっているうちに、気がついたときには何もかもが終わっているものなのです。この気まぐれな若者に、そんなことが選べると思えません。かれは、ただ、銃で脅しをつけて、お金をせびるつもりでした。あるいは自分の首に銃口を向けて、自分がどうしようもなく疲れていることを男のまえに示すつもりでした。この若者に、人など殺せません。なぜならかれは、人を殺そうと思えるほどの気力でさえ、元々備わっていないのです。かれがほしいのは、すみやかな終わりでした。」
「嵐の夜が過ぎると、少しずつ晴れ間の広がる朝がゆっくりと来ました。その日、心配しに駆けつけた村人がその男の家の様子を覗くと、嵐で荒れきった庭の様子と奇妙な静寂がそこにはありました。開け放ったままの木戸へ向かうと、そこには二人の遺体が折り重なるようにありました。男は心臓を撃たれ即死でしたが、その男に覆いかぶさられるように倒れている若者には、傷らしい傷はひとつもありませんでした。まるで静かに眠りについているかのようでした。」
***
「…男は殺されるまえに、なんらかの方法でその若者を殺し、そして自分も死んだ、ということなのかな…?」レイダンはあごに手をやりった。
「とんでもない早とちりをしたんだな。」
「…そうですね。でも、ほんとうのことはわかりません。肺炎で眠るように死んだのかもしれないし、心臓を撃たれていたということは、誰かほかの人間がやった可能性もありますよね。」アイザックは首を回しながら言った。先ほどまでとは打って変わった人間がそこにいるかのようだった。
「そうだな…。なんだかこちらの息までつまったよ。君はなかなか話し上手だね。」
レイダンはふーっと息を吐いて両手で首を覆った。
「僕はただ叔父から聞いたとおりにしゃべっただけです。」アイザックはグラスの残りを飲み干した。
「叔父なりの歴史の記述法ですけど。その場の人間になりきる、ですね。」
「変わった学問をなさっているんだね。……たいへん失礼ながら、あまり日の目をみそうにもないが。」レイダンは正直に言った。
「何しろ同性愛の表現まであるとなれば、あまり公にも出来ないのじゃないかな。特殊な表現というのか…」
「でも、同性愛なんてありふれたものですよね。」アイザックはけろりとして言った。
レイダンはそのことを認めたくない気持ちから、急いでこう言った。
「君もそのうちわかるよ。年を取ると、いっしょに家庭を築けない相手など眼中に置かなくなるものなんだ。さびしいんだよ」
「さびしい。孤独という意味ですか?」アイザックはすかさず言った。
「まあ、そう、それを解消したい。そう思うものなんだ。」
レイダンは情けない笑みを浮かべたが、アイザックは気がつかなかったようだった。堰を切るようにしてかれはこう言った。
「人はそれぞれの惑星のひとりきりの住民じゃないですか。僕はそれも楽しいと思います。ひととずっといっしょにいることが助けになるわけでもないですし。いっしょに幻想の国に行っても、けんかばかりでそれが愛なんて言われたら、僕は逃げます。だって、依存が愛なんて、いくら時間があるとはいえやってられないです。」
かれはめずらしく、実感のないことをしゃべった。レイダンはそのことに一瞬何か言いかけたか、それもすぐに引っ込めるとまたいつもの仏頂面へと戻っていった。
「さあ、もうそろそろ休もう。…明日はいそがしくなりそうだ。」
「なんでですか?」
「ぼくだって、中央の人間だよ。」とは言えなかったが、もうほとんどこころを打ち明けてこう言った。
「そろそろやるべきことをしなくちゃならないんでね。」
アイザックは子どものようにひざを抱えて不思議そうにしていた。
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