猫を轢いた

煙 亜月

第1話

 猫を轢いた。とっさのブレーキは遅く、浅かった。ここで止まれば追突される――そのまま交差点に進入し、角のコンビニへ停める。車に血痕らしきものはついておらず、店内でホットコーヒーと骨なしチキンを買い、運転席に戻る。指の震えが落ち着いたところで、熱々のコーヒーとチキンを火傷しそうになりながら腹におさめる。

 会社のロゴが入っている社用車はしかし、最低三回は目で見るなり耳で聞くなりしないと憶えられないような、マイナーな製薬卸の企業のものだ。

「くそ」声に出していって、「ほんと、くそだ」コーヒーを飲む。「だれがだよ、くそ」と追い討ちをかける。


 エンジンをかけ直し、冷房を利かせて車を離れる。横断歩道を渡りながら、信号待ちの車の三、四台向こうで手を大きく振って車道へ出てゆくふたりの子どもの姿が目に入る。面倒になる、と直感が告げる。


 女子中学生だろうか。そのふたりのうちひとりは道路にしゃがみ込み、もうひとりは背伸びして手を振り、車に向かって自身らの存在をアピールしていた。しゃがみ込んでいた子が立ちあがると、かの女らはふたりでそれを歩道まで運ぶ。


 かの女らはそれを歩道に置いた。同時にわたしも現場へ着いた。

 今にも泣きだしそうなふたりはそれ――猫のなきがらを見る。手も、制服も白いスニーカーも、なにもかも真っ赤だ。

「あなたたち」

 わたしが声をかけると、かの女らは「ごめんなさい、猫、なんべんも轢かれてて、かわいそうで」と涙ながらに答え、顔を拭こうと顔に手をやる。

「やめて!」自分でも驚くほど大きな声が出た。


「あ、いや、ごめん。ごめんね、でもそんな手で目なんか触ったらその、えらいことになるから、ええと、そこのガソスタで水借りて、手洗おう、ね?」と幾分優しい口調で話す。


 三人で連れ立って歩いたガソリンスタンドのアルバイトは大層びっくりしていたが、その子に呼ばれた年かさの店員は慣れた様子だった。なにかファイルを取り出して、学校や、女子生徒に番号を聞いて保護者に連絡を取った。


「まあ、ここ、こどもかけこみ一一〇番の店舗ですからね」といい、「ふたりとも鍵っ子なんで、学校の先生が来るようです」と続け、「一応、所在の問題とかもあるんでね、先生来るのを待ってあげてもいいかと。まあ、その方がいいでしょう」と結んだ。まじかよ。帰れねえのかよ。血まみれの中学生とアラサーOLは、なにを話すでもなく、ただ所在なげにガソリンスタンドの奥で待っていた。ああもう、煙草が吸いたい。


「でも、ふつうは我関せずと通り過ぎるでしょ? それをここまで連れてきてねえ。お仕事中でしょ? 昼休憩? さいきんはああいう、地域の子どもへの配慮ができない大人が多いのに、お姉さん、大したもんですよ。あのままだと間違いなく警察沙汰ですもんね」

 とても、自分で轢いた猫が気になって、などとはいえなかった。

 でもたぶん、この子らがいなかったらわたしもぐちゃぐちゃの猫(だったもの)を目で見て素知らぬ顔で引き返しただろう。


 準備がいいことに女子生徒らの体操服を持って迎えに来た教諭は、恐縮して幾度も頭を下げ、名刺だけ交換してふたりを乗せて走り去っていった。


 薬剤や点滴バッグ、キットを配る時間も大幅に遅らせた。病医院、薬局に配り終え、社に戻るとどっと疲れが出た。帰社前に連絡した上司には、帰ってから事情を話すとその場で口頭注意を受けた。社用車をコンビニに置いたままだったことも加味し、厳重注意以上のものと受け取ってくれ、と加えた。

 ほんと、笑えるくらい、くそ中のくそだ。

「まあ、それでも」と上司はいう。「社会的責任ってあるじゃないですか」


 つまり、その意味では中学生を得体の知れぬ感染症から守り、さらにはこどもかけこみ一一〇番のガソリンスタンドまで保護同行したのは社会的責任を全うしたこととなる。現に、さきほど中学校、および保護者からの謝意が社の代表電話に伝えられた。

 以上により、処分どころか賞賛されるべきなのかもしれない。


 やり取りの後で上司は着席していった。

「おれもね、動物飼ってるんですけどね。あなたのサポート、一個人としてよかったと思いますよ。だって、その子らの事故や感染症のリスクとか、ばかでかいですからね。だから前提条件からして美談には出来ないんですけどね。次善の策っていうか、フォローがよかった。だから、まあ、気にしないでいいと思います。いや、よくはないか。でもまあ、この話をあえて上にまで上げるまでもない、と、おれは判断しておきます」

 いえないよね、自分で轢いた猫だった、ってのは。


 アパートのドアを開ける。

「疲れた」とひとことだけ発し、ベッドに倒れこむ。完璧にくそったれだよなあ、ほんと。

 食事の袋を開けろと飼い猫がベッドに上がってくる。「あんたって能天気だよね。ベッドに上がっちゃダメっていったでしょ?」

 わたしは餌を皿に出し、飼い猫がぽりぽりと食べるさまを見る。「どこから話そうかね。きょうはいろいろ、盛りだくさんすぎた。ひとことでいえば、くそ」

 食べ終えた猫は顔を洗っている。


 ベッドであおむけになる。

「なんかさ、仕事中なんだけどね。なんていうか、猫、轢いちゃってさ。でもその後のフォローがいいって上司にいわれてさ、まさかね、自分で轢いたとかはね、いえないよね」

 猫はきょとんとした表情をしたが、前足を前に突き出し伸びをする。ほんと、こいつは能天気だ。

「それで、なんか、その――」だめだ。

「目が、合っちゃっ、た、轢くとき、その、猫と、目が――」いっちゃ、だめだ。

「あ――」

 世間一般の猫ならどうするだろうか、仲間を轢き殺した人間が、目の前で泣いているときに。猫はまたベッドに上がる。

 遊んでほしいといっているのだろうか。そばの猫じゃらしを手に取り、振ってみせる。食らいついてきたので、猫じゃらしを泣きながら振った。


「ごめんなさい」

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