第9話 王女

「例え話をしようじゃないか」


 少女の提案に、少年は小さく頷いた。


「私は亡国の王女で、身分を隠してこの学校に潜伏していたんだ。もちろん、君にも素性を明かさないまま接していた。高貴な身分ではあるが、私はご存じの通りの奔放な性格だ。怪しまれることもなく、日々を平穏に過ごしていたのだが」


 以前にも似たような話を聞いたことがある気がしたが、少年は黙って続きを促した。


「ある日、死んだと思っていた私の一族が、どうにかして私を見つけて迎えに来た。私は帰りたくなかったから隠れることにしたんだが、学校側は金をちらつかされ、私を売り渡す気満々だ。これは参った……と、いったところで、偶然にも君と遭遇する」


 さて、とでもいう雰囲気で、少女は目を細めた。いたずらな微笑みを浮かべ、撫でるような声で言う。


「私は君に提案するんだ。共に逃げよう、と。無論、とてつもなく打算込みの提案なわけだが、そんなとき、君はどうするかな?」


 またずいぶんと投げっぱなしてくれる。少年はあからさまにため息を吐き、言った。


「提案を受け入れなかった場合はどうなる?」


 すると、少女は顎に指を当てて少し考えてから、


「無難に、金でどうだろうか。学校に渡そうとしている金を全額受け取れるとか」

「……いろいろと釣り合ってなくないか?」

「そんなことはないだろう。絶世の美少女の愛と、巨万の富。本来、てんびんにかけられるはずもないものだが、あえてかけるとしたら、まあまあ釣り合うんじゃないかと思うが。富は富でしかないが、愛は無限大だ。富に匹敵する愛を授けられると、私は自負しているぞ」


 少年はいぶかしむ。形あるものと形なきものは決して比べられないと信じているからだが、何より自分にとって、金ほど無価値なものもないのだ。少女の例え話の中の自分がどういう立場なのかは知らない。けれど、少年が金には反応しないことを、少女はよく知っているはずなのだ。

 少年の表情をどう読み取ったのか、少女はしたり顔で笑った。


「気づいたかい? 恐らく、君にとってはどちらも無価値だ。だが、どちらかを選ばなければならない」

「ああ……」


 我ながら、金という言葉に捉われてしまっていたと反省する。少女の話の本質を見抜けなかったことは今まであまりなかったのだが、少女は気にした様子もなく少年の顔をじっと見つめていた。


「そうだな、無価値だ。どちらも、等しく。俺にはもう必要のないもの」

「どうだろうな。君がそう思い込んでいるだけかもしれない。富はいつか消え、愛は与えられなくなるものだ。もしいずれかを失うとしたら、君は……」


 少女が手を重ねようとしてきたのを、避けた。それから、いつもよりやや強く、しかし高圧的にならないように気をつけて、言い放った。


「いらないと言ったら、いらないんだ。ありすぎるのも、なさすぎるのも、もう慣れた。もう、いいんだ」


 それを聞き、少女は少し、ほんの少しだけ、悲しそうな顔をした。目の前で小鳥が死んでしまうのを見届けるときのように、愛情の込められた悲しい顔を。

 少年は、その少女の顔に愛情を見出したことに気づかないフリをして、自分の鞄を拾い上げ、席を立った。いつもならごく自然な足取りで横に並ぼうとしてくる少女は、今日は椅子に座ったまま動かない。

 気にせず歩いた少年が教室の引き戸に手をかけた、そのとき。背後から突然、抱きつかれた。


「……おい」


 腰にぎゅうっと腕を巻きつけられ、むやみに引きはがすこともできず、少年は立ち尽くす。苛立ち混じりに発した言葉は、少女に届いたのかどうか。


「残念なんだ」


 少年の背中に顔を押しつけ、少女は言う。もごもごとくぐもった声だ。


「愛が届かないことが、じゃない。そんな私本位の感情で悲しくなるほど、うぬぼれた性格はしていない。そうじゃなく……私という存在が、君に何もしてあげられていないことが、こんなにも残念なんだ。結局、うぬぼれか? 何でもいいさ」


 少女は少しも離れようとはしない。それどころか、言葉を続ければ続けるほど、抱きつく力は強くなっていく。

 少年は離れてほしいと思っていた。しかし、どう言えばいいのか分からなかった。離れろと素直に伝えたって、何にもならないことは分かる。じゃあ、どうすればいいのか。


「私の気持ちは変わらない。きっと、この先、永劫に。それでも駄目だと、足りないと、君は言うのだろう?」

「……違う」


 とりあえず、と少年は言った。少女の勘違いをひとつ、正しておくべきだと思った。


「俺が本当に何も変わっていなかったら、今こうして、お前と話すことさえしなかった。お前は確実に、俺の何かを変えている。それだけは、信じていい。……お前の望む形じゃ、ないのかもしれないが」


 言い終わってしばらく、少女は身動きを取らなかった。離れもせず、かといって力を強くすることもなかった。

 やっと離れたと思ったら、そそくさと自分の鞄を持ってきて、いつものようにごく自然な足取りで、少年の隣に並んだ。そこには、やや目じりの赤くなった笑顔があったのは、言うまでもないことだろう。

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少年と少女と例え話 御堂鳴子 @mitounaruko

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