第8話 濡れ鼠
「例え話をしようじゃないか」
少女の提案に、少年は小さく頷いた。
が、どうしても確認しておかなければならないことがあったため、少女が話し始めるのを遮るように言った。
「話す前に、お前の身に何があったのか教えてくれ。できれば簡潔に」
「君の言わんとしていることは分かるぞ。何せ今の私は、下着の下まで見えそうなくらいにスッケスケだからな。自分ではなかなかに煽情的であると思っているのだが、どうだろうか」
「……いいから質問に答えろ」
端的に言うと、少女はずぶ濡れだった。そして、外は土砂降りの大雨だった。この時点で答えは出ているようなものなのだが、ここは教室で、校内だ。少年の通う学校に、一度外に出なければ移動できない意地悪な場所は存在しない。つまり少女は、何かしらの理由で意図的に濡れに行ったということになる。
透けた服を見せびらかすように近寄ってくる少女から、少年は露骨に目を逸らす。面白がっている気配を感じるので徹底的に無視。断じて反応などしてやるものかと唇を噛む。
「理由としてはまことにどうしようもないもので、少々恥ずかしいんだが」
言葉の割には恥ずかしさなど微塵も感じさせない声色と表情で、少女は言った。
「今日はご覧の空模様だろう。私はあまり雨が好きではないんだが、異常気象は好きなほうなんだ。そして、雨と暴風といえば西川アニキじゃないか」
少年は目を棒にした。仮にも美人が、そんな理由でずぶ濡れになってくるほど、馬鹿げた出来事もないだろう。確かに少女は元々奇行の目立つ類の人間ではあるが、まさかこれほどまでとは思っていなかった。
ちなみに、少女はその長髪からぼとぼとと雫を滴らせている。タオルで体を拭こうという素振りすら見せないありさまだ。おかげで教室の床は、少女のたどった道筋がくっきり浮かび上がるくらいびしょ濡れになっていっている。教師に見つかったら確実に怒られることだろう。そういう意味でも、少年は少女を責めた目で睨みつけるのだが、相変わらず気にするつもりのない少女は、迷惑もはばからずに少年の机にどっしりと座り込んできた。
「そう怒るなよ、私だってたまには羽目を外したくなるときくらいあるってものさ。ついでに君へ色仕掛けをするチャンスでもあると思って」
「思って、じゃなくて、そっちが主目的だろ」
「分かっているんじゃないか」
少女は机の上で身をよじり、自分の体を見ろと言わんばかりに、少年に近づいてくる。
少年だって、男の本能的な反応を除けば、少女のあられもない姿を見ることはあまりに目に毒だ。何より、いくら少女のほうが見せようとしているといっても、そして透けている下着が黒色でもう明らかに狙いすましているとしか思えないものだといっても、ただ単純に恥ずかしいのだ。
頬を染めたりしてやるものかと、少年は頑張った。何か反応すればその時点で負けである。ここはさっさと話を進めてしまうのがいいだろう。
「それで、今日の例え話はなんだ」
「おお、珍しく乗り気じゃないか。何か心境の変化でもあったのかい?」
「うるさい」
そっぽを向いたまま強い言葉を使うことの、なんと浅ましいことか。しかし、そうするしかないのが歯がゆかった。
「話、話ねぇ。なんだったかな。いや、考えていたのは考えていたのだが、アニキごっこを慣行しようと思った時点で、私の全興味がそっちにそそがれてしまってね。忘れてしまったんだ、これが」
「……例え話をしようと、最初に言ったのはお前のはずだが」
「決まり文句というものさ。私と君の、この放課後の時間は、いつもそうやって始まっていただろう。ルーティーンを崩すのは、日本人としてあまり好むものではないからな」
少年は眉間に皺を寄せた。呆れと怒りが半分といったところ。要するに少女は、今日はただ色仕掛けをしにやってきただけということだ。
そう理解するのと同時に、なんだか色々なものが冷めてしまった少年は、ガタンと音を立てて椅子から立ち上がった。音に驚いて少女が硬直したのを尻目に、自分の体操着入れの中からタオルを取り出すと、それを少女の頭に乗せる。
「わっぷ。何だい、藪から棒に」
「せめて拭け」
「これから帰るんなら、この雨の中だ、傘を差したとしてもどうせ濡れるぞ」
「お前がずぶ濡れだと、俺が変な目で見られるだろうが」
少女はきょとんとした目で少年を見上げてきた。それには何も答えずに、少年は自分の鞄を拾い上げて教室を出ようと歩き始める。
自分の髪をタオルで拭きながら、少女はごく自然な足取りで、少年の横に並んで歩き始めた。
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