すきま

ながる

すきま(加筆修正版)

 スマホの目覚ましが鳴りやまない。

 うるさいな。いつもは彼女が止めるのに。

 手探りでスマホを探し、画面をタッチした。そこから5分くらいうだうだとして、布団が剥がされないことにまた違和感を覚えてのっそりと起き上がった。

 半分くらいしか開かない目で部屋の中を見渡す。いつもと変わりない、俺の部屋。


 彼女がいない。


 朝も晩も、起きている間はトイレと風呂以外ならどこにでもついてきた、彼女が。

 殺風景なワンルーム。そうだ。以前はこんな景色だった。

 眼鏡をかけて、もう一度部屋の中を確認する。テーブルの上のコンビニ弁当の残骸も、埃をかぶった本棚も、干しっぱなしの洗濯物も何一つ変わることなく、昨日のままだ。

 忽然と、何の前触れもなく、何の置き土産もなく、消えた彼女以外は――


 ふざけてんのか?


 ユニットバスを覗き込んでも、クローゼットを開けてみても、常に自己主張するように目の端に入り込んでいた紺の制服が見えない。カーテンを乱暴に引き開けると、ようやく紺色が見えて、何やってんだって言ってやろうと窓を開けたら、全然違う制服の、はつらつとした女子高生で――

 無駄に爽やかな朝のひやりとした空気が、俺を撫でるように吹きこんできた。


 本当に、どこにもいない。

 ……すっきりした! これでもう厄介ごとはお終い!

 窓を閉め、もう一度部屋の中を見渡して確認してから、俺は足取りも軽く冷蔵庫を開けた。


 潰れた猫や泣くだけの赤ん坊、片足の無い犬、死んだことにさえ気づいていない人間を何度背負わされたことか。ある時なんて、それが何かさえさっぱりわからない黒い塊だった。

 頭痛はするわ、悪寒は酷いわ、酷い時は涙が止まらなかったり。

 道行く人に奇異の目で見られながら、彼女御用達の寺に向かうのがどれだけ恥ずかしかったか! これで解放される!

 菓子パンを紙パックのコーヒー飲料で流し込んで、揚々と俺は大学に向かった



 *** * *** * ***



 彼女をうっかり拾ったのはバイトに向かう繁華街の交差点だった。

 横断歩道のしましまから生えている、首だけのおっさんや歩く人々の足を掴もうとしている真っ赤な爪の手を何気なく避け、へらへら笑って向かってくるような怪しい影はひたすら無視。人のいるところに人じゃないモノは結構混じっているから、関わらないように生きてきたのに、見るとなく見た信号機の横に彼女は浮いていた。

 ばっちり合ってしまった視線に、ヤバいと思った時にはもう遅くて、彼女はつつと寄ってくると嬉しそうに俺の背中におぶさった。


「視えてるでしょ?」


 横顔を至近距離で覗き込まれてにぃ、と笑われる。

 いくら恰好がどこかの高校の制服だったとしても、視線を外した途端認識されなくなる顔の女子高生なんて関わり合いになりたくないんですけど?!

 それまで必死で被ってきた「地味で普通」の皮を彼女に捲られ、覗かれた気分だった。


 彼女は通りがかったビルとビルの隙間から黒い何かを引きずり出し、俺の背中に押し付けた。ずしりと重くなる肩にぞわぞわと悪寒も走る。数歩も行かないうちに鈍い頭痛までし出して青い顔になった俺を、彼女は何故か嬉しそうにはしゃいで褒めそやした。


 ――すごいすごい! これなら他に迷惑をかけずに運べる・・・


 そのままバイトに行かなけりゃならなかった俺を誰か慰めてはくれないだろうか? 客の何人かは店の前でこっちを見てUターンしたんだぞ?

 頭痛と悪寒に耐えて仕事を終えると、彼女は「慈楽寺に行け」というようなことを言った。知り合いが片付けて・・・・くれるから。そのままだと障るわよ、と。

 背に腹は代えられない。

 スマホで検索してみると意外と近くのようだ。今まで全く気が付かなかったが、住宅街の中でちょっと金持ちの家、くらいの顔をしてその寺はあった。表札程度の大きさの寺院名が胡散臭い。


 坊主がまたらしくない、ちょっとガタイのいいおっさんで、初めて会った時はカップ麺を啜っていた。俺を見て吹き出したから良く覚えている。

 本堂(?)の仏様の前で何だか適当に背中をバシバシ叩かれ、終わったから帰れと追い払われた。半信半疑だったが背中は軽くなったし、頭痛も治まっていた。


「まこっちゃんの特技なの」


 一緒に片付けられもせず、俺についてくる彼女がにっこりと笑った。後日聞いてみたところ、彼女は彼が「片付けちゃマズイタイプ」らしい。何がどうマズイのかはさっぱり分からなかったけれど、それから毎日のように『運び屋』をさせられると知っていたら、俺は無理やりにでも『片付け』を頼んでいたかもしれない。



 *** * *** * ***



 2限を終えたあと、俺はバイト先に電話していた。なんでだろう。朝はすっきりさっぱりすると思っていたのに、時間が経つにつれてそわそわと落ち着かなくなった。店長は珍しいねと笑いながら、休みを承諾してくれる。

 そのまま俺の足は慈楽寺へと向いた。ガタイのいい、坊主の元へ。


「ああ……やっと帰ったんだな。良かったな。もう振り回されんで済む」


 作務衣で黄色っぽいヤカンからお茶をついでくれながら、彼は素っ気なく言った。

 彼女と付き合いは長そうだったのに、それ以上のことは何もない。


「彼女とはいつから……」


 だからなのか、その質問に彼は意外そうに俺を見た。彼女がいた時はゆっくり話すなんてことはなくて、いつも追い立てられるように寺を後にしていたのだ。


「あいつが子供のころからさ。家が隣同士だったんだ」


 家? と思わず壁を見ると、坊主は笑った。


「ここじゃないぞ。坊主になる前の話だ。あいつは小さい頃から入退院繰り返しててな。俺は無駄に体力だけはあったから、いつもお目付け役を言い渡されて……ま、そんな感じだ」


 幼馴染ということらしい。坊主になったのは、もしかすると彼女の為だったのかもしれない。


「せっかくあいつの『運び屋』をしなくて良くなったんだから、あいつみたいに色々拾おうなんて思うなよ? 自覚のあるなしに関わらず、この世に留まってるモノは生者に惹かれる。関わっていい影響はほとんどない」

「思いませんよ。今までだって避けてきた」


 こくこくと頷いて、坊主はじゃあなと犬でも追い払うみたいに手を振った。


「あ。そうそう。今度片付ける時は有料だから。格安にはしてやるが」


 立ち上がった俺に、彼は上目遣いでにやりと笑う。

 まるで、俺がまたここに来ることを予言するように。


「……もう来ませんよ」

「そうか。まぁ、あいつはお前さんを気に行ってたみたいだったからな。迷惑だったろうが、たまに思い出してやってくれ」


 雑踏は誰も彼も急ぎ足で、何だか取り残された気分になる。

 彼女と出会った交差点でうっかり共に過ごした時間を計算して、舌打ちが出た。薄情者め。書置きくらい残せばいいのに。

 ビルとビルの隙間の狭っちい空を一度見上げてから、俺はみんなのように足元に視線を落として足早に横断歩道を渡った。



 *** * *** * ***



 季節がひとつ移ろって、薄着の女子に世の中が浮かれはじめる頃、俺は冷房の効いたバイト先に急いでいた。

 建物自体が傾いた家のちゃんと閉じても細く開いてしまう障子やふすまみたいに、隙間に忙しさという詰め物を無理矢理詰め込んで吹き込む風を誤魔化していたけど、歪みは勝手に直ってはくれなくて、苛立ち紛れに横断歩道に生えてる手を蹴っ飛ばした。

 もちろん俺の足はその手をすり抜けて、その手にも自分にもダメージはない。

 この交差点を渡る時、いつもどこかがスースーしている。無意味に何度も信号機を見上げてしまう自分が嫌だった。


 人波に押し出されるように交差点を渡りきった時、背後から誰かが駆けてくる気配がした。信号が点滅してから渡り始めたのかもしれない。良くある話だ。

 その気配は俺の横を通り過ぎ、ひらりひらりと人混みを抜けていく。

 紺色の、蝶のようだった。


「…………あ……」


 思わず上げた声は音を立てた心臓より小さかったのかもしれない。誰も、振り返りもしなかった。

 一歩、二歩と足を出す度、早足になっていく。人の波に乗るのは慣れていても、それを越えていくのは難しかった。

 視線の先を行く紺色はだんだん見えなくなっていく。


 人と人との隙間に身を滑り込ませるときに翻るスカート。


 リズミカルな足取りに拍を刻むようなセーラーの襟。


 サラサラと風に流れる肩までの髪――


 顔は見えない。でも、顔は知らない。追いかけて、追いついて、それで?

 同じ学校ってだけだろう。名前だって知らない。それで、何を聞くのか――

 ようやく人混みを抜け出すと、開けた視界に三つ向こうの角に消えていくスカートの裾が見えた。

 その道は知っている。何度も通った。心臓がうるさいのは、走っているせいだけじゃない。また追いかける。

 角を曲がると、もう彼女は見えなかった。見えないことにまた心臓が騒ぐ。だって。

 だって、彼女と通った寺はすぐそこだ。


 控えめな門を潜り、引き戸を力任せに開ける。

 驚く坊主の顔と、振り返る女子高生の顔が、端に当たって戻ってきたドアに遮られて見えなくなった。



 *** * *** * ***



 入り口横の寺務所でこぽこぽと黄色っぽいヤカンから茶が注がれている。

 勢いに任せてここまで来てしまったが、気まずくて結局黙り込んでいた。

 ことりことりと全員の前に湯呑を置いて、坊主がにやにやと先陣を切った。


「で? お前さんは何しに来たんだ? 『片付け』なら、五百円な」


 ひょいと出された掌を恨めしげに眺めていると、その手に色白の手が重ねられた。ぺちりと可愛らしい音が響く。


「……その、」


 何と言っていいかわからずに、そっと彼女を見てしまう。

 色白で滑らかな肌は少し人形っぽい。勝気そうな瞳はお嬢様校のものらしい制服とその佇まいに少し似合わなかった。目が合ってにやりと笑われて、その口元には既視感しか感じない。


「――制服が、似てて」


 あぁ……全然理由になってない。

 坊主は少し黙ったかと思うと、耐え切れないというように吹き出した。げたげたと笑う坊主に少女が勝ち誇ったような顔を向ける。


「ね? 掴まえておくべきだと思わない?」


 その一言で、もしかしたら俺は間違いを犯したのかも、とは思った。笑いながら、憐れむような視線をくれる坊主にも不穏な気配を感じて、思わず腰を浮かせ掛ける。


「馬鹿だなぁ」


 馬鹿にされても全く気にならなかった。逃げた方がいい。本能はそう言ってる。

 けれど、彼女が笑うから――嬉しそうに笑って、狭い寺務所の中をひらりと俺の後ろに回り込んで、そのまま座った俺の背中に覆いかぶさると、横から俺の顔を覗きこんだ。さらりと彼女の髪が流れる。


「お久しぶり。私の『運び屋』さん」


 にぃ、と笑う唇に跳ねた心臓は恐怖からだったのか、それとも――


「ユイ、あんまりはしゃぐとまたすっ転んで入院する羽目になるぞ」

「さすがに転んだくらいじゃ入院しないわよ。彼が運んでくれれば、今までよりはずっと安全だし!」

「彼の同意はまだだぞ」


 期待満々の瞳でじっと見つめられて困惑する。


「……本人?」

「私立華山はなやま高等学校三年、館脇たてわき ゆい。先月まで入院していました! 特技は意識不明からの幽体離脱と――拾いものをまこっちゃんに届けること!」


 ビシッと敬礼して軽い調子で言ってるけど、あんまり良いことじゃないのはなんとなく察せられた。


「無理に拾うなって言ってるだろ」

「や、今回ホント危なかった。最先端医療に感謝だよねー」


 腕を組んでうんうんと頷く姿に呆れる。

 つまり、彼女はこんなことを繰り返してるわけで……


「ほら、腰が引けたんなら、早く帰れ。帰って忘れた方がいい」


 犬でも追い払うような手つきは、慣れると優しくも見える。

 ここで、立ち上がれなかった俺はやっぱり馬鹿なのかもしれない。だけど、笑顔でよろしくとは言えなかった。


「……時給、いくら? 次からは有料って言われたし、タダでこき使われるのは、ちょっと。今のバイトにも迷惑は――」


 きらきらと輝いていく瞳が嬉しいとか、恥ずかしいことを考えながら口にしてて、はたと俺は気付く。慌てて立ち上がると丸椅子が音を立てて転がった。


「――バイト!!」


 身を翻しながらスマホを取り出して店に電話を入れる。


「ねぇ、今のOKだよね?」

「どうかな。まぁ、次に会うのは嫌がってないんじゃないか」


 お気楽な会話を背に、俺は駆け出す。

 バイト、クビになったら本気で時給請求してやる!!




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すきま ながる @nagal

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