独白 1.5 ブラックコーヒーと宿題

やけに水っぽい缶コーヒーを片手に、斎藤一太さいとういちたが溜息を吐いたのは、目の前で山積みになっている未整理の捜査資料のせいだけではなかった。二度とこのメーカーのコーヒーは買ってやらないと固く胸に誓い、目頭を押さえる。関係者が未曾有に膨らみ、捜査の焦点を絞るのに困難を極めるとは考えもしなかった。この状況は、未だに捜査のスタートラインにも立てていないのと同義だからだ。全ての手がかりが互いに互いに突き放し合うような、まさに謎が謎を呼ぶという言葉はこの状況のためにあるのではないか、とさえ思ってしまう。

学校側の要望により、生徒への聴取はカウンセラーが同席する、三者面談方式を採ることになった。これが曲者で、生徒や先生個人個人との信頼関係を上手く築けず、内向きに閉じた閉鎖的共同体への切り口が一向に見つからないままで、これまでの聴取でもこれといった成果は挙げられていない。それを記録したこの目の前の紙の山も、ほとんどが無意味だ。尤も、いきなりやってきた大人、しかも警察官に交友、交際関係の全てをいきなりさらけ出せる高校生なんぞ、いるはずがないのだ。佐伯さえきさんが現場に最初に入った時も、これは長丁場になりそうだぞ、ってボヤいてたっけ。いかにもな感じで。あの人の悪い予感は当たり過ぎて怖いくらいなのだが、今回も正しくそれで、今更ながら鳥肌が立っている。

その佐伯さんや、他の同僚もとっくの昔に家路に着いて、深夜1時。捜査一課には私だけが残されていた。今日もまた捜査資料と寝るのかと思うと、家なり、家族なりが恋しくなったりもするが、誰もいない真っ暗で冷えきった一人暮らしのアパートに帰るのも虚しくて、仕事に埋没できる分まだマシな気がして、気分が少し和らいだが、よくよく考えてみればそうでも無い気もして、感情のない涙が目尻に浮かんだ。働き方改革なんてクソ喰らえ!と声に出してみても、無機質な反響が己を包むだけだった。コンビニに行って、ビールでも買ってここで一杯やるか、と考えたりもしたが、もう、この時間から、この椅子から立ち上がるのも億劫になって、もう何をする気にもなれず、ああ、俺が担当した事件で最初の迷宮入りかなぁ、なんてボヤきながら捜査メモをぼうっと眺めていた。


9/6


4:30

「血液と肉片が北崎高校の駐車場の辺り一面に広がっている。」という匿名の通報からこの事件は始まった。この録音は最初の捜査会議でも流されたのだが、終始笑い声混じりに言いたいことだけ言って、こちらからの問いかけには一切答えず、最後に、じゃあねー、とだけ残し、一方的に電話は切られた。イタ電で間違いなさそうだと思われたものの、念の為、北崎高校から一番近い交番の巡査が、現場へ向かうことになった。後に判明した事だが、解析してみると素人がぱっと聞いてわからない程度に、だが確実に個人が特定できないように、加工された音声だったそうだ。


4:50

通報を受けてすぐ、近くの交番の巡査が駆けつけたが、その時には駐車場は大きな炎に包まれていた。巡査によると、火柱は3メートルを優に越えており、消火器で対応出来る限度を超えていると判断し、すぐに消防署に応援を要請。消防車が駆けつけたのはその12分後で、消火活動の開始約100分後に消火された。燃焼物の調査が行われた結果、おそらく体長1.5〜2.0メートルの、体重60キロ前後の哺乳類、おそらくヒトの身体であることがわかった。尚、火災規模の割に消火活動に時間がかかったのは、燃料がガソリンやナトリウム他、液化した可燃性ガスが混合されたものであったため、当初水と泡状消火剤のみによって消火が試みられたものの、一向に火の勢いが収まらず、むしろさらに炎上し、いくつもの消化剤を混合して効果のありそうなものを片っ端から試用する必要があったためだった。


8:30

佐伯さんからの電話で起こされた私は、朝食を食べる暇もなく、アイロンをかけていないしわしわのワイシャツで現場に向かった。眠たい目をこすりながら、なんとか学校に到着してすぐ、佐伯さんに遅刻とシャツについてのお小声を言われた後、初めて現場を見た。

「どういうことなんですかね...」

私は思わず宛のない問いを口走った。

「俺たちが思っている以上に、子供ってぇのは無邪気に冷酷だってことだろうよ」

佐伯さんはそう吐き捨てた。子供だっていうのか、これをしでかしたやつは。彼の言わんとしていることは、あまり考えたくはない可能性ではあった。だが、この敷地、つまり北崎高校にある程度詳しく、通報からの時系列的に考えて、かなりのリスクを背負いながらもわざわざ事件を劇場型に演出した、ということから導き出されるのは、この犯行はおそらく学校関係者によるもので、その割合は圧倒的に生徒が大きい。現時点では地域住民という線も捨てきれないが、昨今の厳重な警備が施された学校で、犯行が行われるとは考えにくい。

悪い予感がした。犯人探しを生徒の中から行わなければならない。警察が生徒に接触すれば大きな混乱が予想され、根も葉もない噂やでっち上げが横行することは目に見えている。犯人探しなんてものが始まった日には、もはや勉強どころではないだろう。捜査方法をかなり練らないと、見つかるはずのものも見つからず、五里霧中になってしまいかねない。

また、それと同時に、この事件が生徒、もしくは教員によるものだとするならば、燃やされたものが人である可能性が捨てきれない以上、燃やされた被害者もまた学校関係者である可能性は濃厚であるということだ。いじめ問題が取り沙汰されて、まだ日が浅いこの時期にこんな事件が怒ってみれば、マスコミさんどうぞ炎上させてくださいと言っているようなものだ。捜査が始まってもいないこの段階で、俺はもう白旗を上げたくなっていた。

「高校生を子供扱いすると、怒られますよ。」

しばらく間を置いて返事を返した時には、目の前に広がる状況の恐ろしさに、すっかり目が冴えていた。佐伯さんは言い返さなかったが、ムッとした表情で返した。冗談も言ってられない、か。

「これは長丁場になりそうだぞ」

あえて周りの人間に聞こえるように発せられたであろうその声は、現場の空気を一気に引き締める。佐伯さんの眉間の皺はいつもより深かった。


13:05

捜査会議が設置された。鑑識によると燃え跡に僅かに残っていた血液と爪の欠片が発見されたものの、サンプルとしての質が悪く個人のパターンを特定するには、まだしばらくかかるとの事。また、燃焼物は燃やされる前に粉々に砕かれていたため、歯型などによる特定もできなかったのだ。怨恨と見るべきか、被害者の特定を困難にするためか、もしくはその両方か、それとも私のような常人には想像もつかないような狂気かは、凡人のが考えは遠く及ばないが、このことから、被害者が燃焼前に殺害された場所として校外という選択肢も追加されてしまった。現場周辺の聞き込みも行われたが、時間が時間だけあって有力なものは得られなかった。犯行の推定時刻頃にもう一度聞き込みは行われるそうだが、あまり期待はできないだろう。

手がかりもなく何の指針も立たないまま手探りで進む捜査会議に、重い空気が立ちこめる。学校での捜査に乗り出すしか無かったからだ。最大限の配慮と人間関係の複雑さで、ただ精神をすり減らしていく地獄のような捜査を、誰もやりたくないからだ。それぞれがそれぞれの視線で学校の担当を押し付け合う。しかし、こういう時に手を挙げるのが

「学校での捜査、俺と斎藤にやらせてください。」

私の上司、佐伯純之介さえきじゅんのすけという男である。僕を巻き込まないでくださいよ!ここに配属されてすぐの頃には、こんなこと言ったっけ?ツッコミのような本気で怒ってるような微妙な感情だったのを、今でも覚えている。この時も佐伯さんは無言だった。その時の、捜査会議に参加する全員の冷ややかな視線を時々思い出して、未だに鳥肌が立つ。

佐伯さんは基本的に無口である。いつも口を一文字にして、何かを考えている。時々誤解されることもあるのだが、決して押し黙っているのではない。きっちりと頭の中で熟慮して、整理した事を必要な時必要なタイミングに言葉として発せられているのが、一緒に仕事をしていてわかった。言葉に確固たる信念がある。そして、佐伯さんが俺をちゃんと一人前の刑事に育ててくれようとしてくれている事も、今では十分理解している(つもり)なので、私はこんな彼の姿を誇らしく思っている。だから、今、私も彼の隣で立ち上がる。仕方ないですね、なんて言って笑いながら。


15:37

北崎高校における聞き込み及び捜査に配属された(?)私と佐伯さんは、早速、事件の最低限の説明と今後の対応に関する、学校側との協議に出席した。普段あまり利用されていなさそうな埃っぽい応接室に通され、奥から校長の前に佐伯さん、教頭の前には私が座った。よくある革張りの焦げ茶色のソファーと木製のローテーブル。かなり年季が入っている。割腹のいい校長が座っているソファーは、特に使い古されていて中のクッションがヘタっている。いつも深くどっしりと座っている姿が想像できたが、今は浅くちょこんと前のめりで座って、深刻そうに何も置いていないテーブルに目を落としている。図体の大きい生き物が萎縮している姿はどこか少し滑稽だ。

軽いノック。コーヒーをお持ちしました、と女性の声がした。入って、と教頭が促すと、失礼しますと言ってお盆にカップを4つ乗せて入ってきた。こういうことに誂向きの若い女性だった。長くしなやかな栗色の髪を垂らして、一つ一つカップを置いていく。整った凛々しさを感じさせる面立ちとそれに添えるだけのナチュラルメイク。

「あの...お砂糖とミルクは、どうなさいますか?」

「えっと、僕も佐伯さんもブラックで大丈夫です。」

瞳の奥を見つめられるような視線から思わず目を逸らしながら答えた。その一瞬のあまりにも真剣な表情を見逃さなかった。

「ありがとう野村くん。下がってくれたまえ。」

はい、表情を元の薄い笑みに戻し彼女は静かにこの部屋をあとにした。どういうことだったのだろうかと考えようにも、あまりに一瞬だった衝撃は思考から言葉を排させた。後に否が応にも退治せざるを得ない相手となるのだが。

校長は緊張を隠せない様子で、エアコンはガンガンなのにしきりに汗を拭っている。一方、教頭は恐ろしいほどに落ち着きを纏っている。教頭にしてみれば、この事件をそれなりに上手くまとめて、来年あたりに別の学校の校長のポストは固いということか。小賢しい割には楽観的な奴なのかもしれない。事件発生から10時間ほどしか経っていないが、ここまででも充分に難解な事件の様相を呈しているので、私は心の中で彼に「ご愁傷様です」と呟いた。佐伯さんが重い腰を上げて怠そうに声を上げた。

「それでは、始めさせて頂きます。斎藤、頼む。」

「はい、こちらが資料です、これに沿って話をさせていただきます。」

資料、と言ってもこの時点では通報があってからの経緯のまとめと現場の写真が数枚載った簡素なものだ。

「北崎高校放火殺人事件、以後は本件と呼称します。本件が発覚したのは本日午前4:30頃、北崎高校から南に100メートル程の所にある公衆電話からの通報でした。校内のカメラは現在解析中ですが、付近に防犯カメラはなく…」

現時点で公開できる事実をできる限り伝え、安易な推測はできるだけ省いた。関係者に先入観を持って欲しくないのと少しでも落ち着いて聞いてもらうためだった。事件の実行人物及び燃焼物が生徒もしくは教員である可能性も伏せた。教頭は表情を変えずにただ一点を見つめていたが、思った以上の状況の酷さにだんだん表情が暗くなっていくのがわかった。校長は話が進むにつれて膝の上で握られた拳をしきりに動かしたり、止まらない汗をしきりに拭うのに精一杯の様子だった。

「以上になります。何かご質問は?」

「あの...」

校長が恐る恐る手を挙げた

「なんでしょう」

「その、今回の事件の被害者、燃やされてしまった人の目星はついてるんでしょうか」

教頭は悟りきった顔で冷めきった酸っぱいコーヒーを啜った。

「現時点では、はっきりとしたことがまだ言えませんが、わざわざ学校という場所を選んで犯行に及んだことを加味しますと...」

結論を言い終える前に校長は汗ばんだ手のひらを握りしめ、項垂れた。

「ええ、わかっています。もう結構です。ですが、どうかうちの子供たちだけは...」

「私達もまず、生徒達の安全を第一に考え慎重に捜査を進めます。」

佐伯さんが校長を宥めるように優しく声をかける。同僚には決して見せない穏やかで優しい顔だ。上ともこういう態度で接せれば、もっと出世できたろうに。そんな別人の佐伯さんの話を必死に頷きながら聞く校長は、本当に生徒思いなんだな、と思った。こういうタイプは一般企業だと出世に苦労するが、教育畑ではうまい具合に信頼を得られたのだろう。それとは対照的に、教頭はそういう立ち回りが上手く、すごく冷徹に見えた。状況が状況ならこういう事件で真っ先に疑われるタイプだ。

「他には何か?」

すかさず教頭が口を開く。

「我が校では、夜間の警備をセキュリティ会社に委託しています。それが今回感知しなかったんですが、その原因としてなにか考えられませんか?」

渋く、低い声。佐伯さんが身を乗り出してゆっくりと答える。

「その事実については私共も把握しており現在調査中です。実際、警報装置が感知したのは、通報を受けた交番の巡査が校内へ立ち入った時のものでした。この時にブレーカーを落とすなどの物理的な工作の痕跡は、現時点では確認されていません。」

佐伯さんから視線を受ける。補足説明はいつも私の役割だ。

「つまり、少なくとも犯行時には警報装置は作動していたものの、感知が出来なかった。つまりこの事件の犯人、もしくはその協力者が防犯システムの抜け穴を知っている、もしくはこの学校で知った人物です。」

再び佐伯さんが口を開く。

「前者で考えられるのは警備会社の人間、その関係者の直接的又は間接的な関与、もしくは、学校の職員でこの管理を任されているあなたを含めた数名が犯人もしくはその共犯者という可能性です。現時点でキッパリ否定は出来ませんが、私共はこの線は薄いと考えています。」

可能性の羅列をしているに過ぎないとしても、やはりヒヤヒヤする。この人はこういう言動を平気でやってのける人だからこそ、ここまで刑事をやってこられたのかもしれない。

「後者は警報装置を何らかの方法で研究し、その抜け穴を見つけ出した人物、もしくはそれを知ることが出来た人物です。私共はこちらの線が濃厚だと考えており、現在過去の警報記録とその時の防犯カメラの映像を洗っています。」

「なるほど。後者の方で行くと」

教頭の表情はだんだん思い詰めたそれへと変わっていった。

「そうです。大袈裟に言ってしまえば、容疑者はこの学校の関係者全員ということになります。もっとも、怪しい動きをしている人間をある程度絞り込めますが。」

「困りましたな、校長」

「ああ…」

筆舌に尽くし難い、という言葉はこういう時のためにあるのかもしれない。教師として苦労して長い間真面目に務めあげてきて、やっとこさ校長先生にもなって、老後は悠々自適な隠居生活が待っている、そんな完璧にも思えた人生設計が一気に崩れていく、その音が聞こえた気がした。こんなどんどん事態の悪さが露呈していくタイミングで、校長に話を振るなんて、教頭も人が悪い。

「他に質問は?」

あるにはあっただろうが、もはやこの2人にはそんな気力は残っていなかった。

「なければ、続いて生徒やマスコミへの対応についてです。まだこの事件はマスコミ報道されておりませんが、夕方のワイドショーあたりでは恐らく第一報が来るでしょう。地方版なら朝の一面も十分にありうる。その後のマスコミの取材への対応として、私ども警察と学校側で公開する情報のラインをきっちりしておきたいのです。」

「まぁ、このご時世です。情報はもうびゅんびゅん飛び回っています。全てを垂れ流しにしていては、生徒や学校の将来にとって何か汚点を残すようなことになってしまうのではないか、ということです。」

佐伯さんらしい、古めかしい言い回しだった。

「それについては保護者説明会もありますし、何より教育委員会との連絡を密にしなければなりませんので、現段階では保留ということにしていただけませんか。」

今まで落胆していた教頭が、初めて焦りを見せた。そればっかりは仕方ないか。

「生徒や教員への聴取についてもそれからが良さそうですね。」

「ご理解が早く、助かります。」

「我々としても初動が大切ですので、明日の8:00迄には話をつけて下さい。情報が勝手にリークされてそれが炎上するのと、主体的に公開していくのとでは、世間受けやその後の処理がかなり違いますから、できるだけ早め早めの対応をよろしくお願いします。時間になりましたらこちらから連絡します。」

「はい」

教頭がこれまでにない深刻な表情で答えた。彼にとって気がかりなのは事件自体というよりも、教育委員会らしい。無理もないか。

「最後にですが、ここ1ヶ月の全生徒の名簿と教員の勤務記録をお借りできますか?」

この歳になって、まさか、宿題に億劫になるとは思ってもみなかった。記録のコピーを受け取り部屋から出る直前、これを処理するまで寝られないことが脳裏を過って、目の前のブラックコーヒーを一気飲みした。口いっぱいに禍々しい苦味が拡がった。

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独白 由太 @U-ta-Foevermore

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