独白1 ライアーズ・バラッド
「ありがとう。また、お話させていただくかもしれないのでその時はよろしくお願いします。」
立ち上がり深深と頭を下げた若い男、
嫌な顔を必死でこらえて、軽く会釈で返す。
「先生もありがとうございました。今後とも彼女の心のケアをよろしくお願いします。」
若い男は私の隣に座っている白衣姿の女にも礼をする。どうも礼儀だけはいいらしい。まぁ、鼻の下を伸ばしてる男ほどそういう振る舞いをしたりするものだから、好感は1ミリもない。女もわざとらしく急に立ち上がり、彼の後を追う。お見送りします、いいえお気遣いなさらず、校長先生にもご挨拶させて頂きたいので、、、
扉によって声は遮られ、カウンセリングルームに私一人が残される。去年、軟派してきた同い歳くらいの男の三人組をボコボコにして警察沙汰になった時も、似たような対応だったと思い出す。その時通された応接室は、普段あまり使用されている形跡もなく掃除は行き届いているので、おそらくこの学校のどの部屋よりも美しいのだろうとぼんやりそう思った記憶がある。その部屋の赤茶色の革の擦り切れた貧相なソファーに座ると、目線の先に数年前展覧会で生徒が賞を獲得した、という風景画が飾られている。学校の東側から見える山々をスケッチしたものだ。明け方の紫雲と太陽と山の深い緑が溶け合う感じが、実際そんな光景を見たことの無い私にも伝わってきて、素人目に見ても上手いと感じた。普段から美術館で絵を見るような性でもないが、それ以外にこれと言った調度品はないのと、ご立派な先生方の有難いお話に飽き飽きしていたから、それしか見るものがなかったのだ。周りの人間の異様な圧迫感と、そんなショールームのような不自然な綺麗さが気になって、男達と対峙した時よりも緊張した。それでかえって警察のみなさんから、在らぬ疑いをかけられたのは苦い記憶だ。
それとは対照的に、このカウンセリングルームは、旅館の部屋に備え付けられているような小さな冷蔵庫、洋館にありそうな古びたクローゼット、使い込まれた元々透明であったろう灰皿、木彫りの熊、電気ケトル、急須、コーヒーメーカー、部屋のそこかしこに生活感があって居心地がいい。本来ひとつの部屋にあるはずのないものが集まって、新しい調和を作り出している。染み付いたタバコの匂いも、本来ひとつの部屋にあるはずのないものが集まって、新しい調和を作り出している。この空間の学校の中での異様さを、悪意を全く感じさせない絶妙なバランスがここにはある。こういうものを見ると、美しさとはあくまでひとつの価値基準であって、それだけが秀でていてもあまり意味は無いのだ、と思い知らされる。こんなことがなければここには来ることはなかっただろうが、校内にこんな部屋があるならもっと早く知りたかった。不思議な魅力のある部屋だ。なるほど、私の数少ない友達から噂には聞いていたが、この場所でリラックスして小一時間だべれば、心の内に秘めたことのひとつやふたつ、漏らしてしまうのも無理はない。1度立ち上がって伸びをしたあと、ツルツルして座りにくい赤茶色のソファー(おそらく応接室のそれと同型のもの)にもう一度座り直して、誰も口をつけずにすっかり冷えてしまった煎茶の、自分のものを手に取って、少し口に含んでゆっくりと喉を通し、思わずため息をついた。張り詰めていた精神が少しだけ解れる。
嘘をつき続けるのは決して楽じゃない。それがクラスメイトや先生ではなく、警察の人間相手なら尚更だ。何かを装い取り繕うことに普段から慣れていないせいだ。同じクラスの女子から白い目で見られる以外には、この自分のポリシーが日常生活に害をなすことはないだろうと思っていたが、まさかこんな所で苦労する羽目になるとは思ってもみなかった。聴取はこれで2回目で、1回目の場所は教室で私の隣に担任の先生も座っていた。担任はあまり生徒のプライベートに深く干渉するような人ではなかったから、早々にこの場から席がなくなったのだった。教育者としての姿勢如何は別にして、私にとって、いや、私たちにとって、これは好都合であった。この事件への他者の干渉を少しでも遅らせることが出来たのだから。
もちろん、心身衰弱を装って聴取を断ることもできたし、学校のカウンセラー、先程の白衣姿の女にもそれは提言されていた。だが、あえて受け入れることで、私たちへの詮索を一定に抑え、さらに、捜査の進捗を彼の話しぶりから推測することもできるのではないか、と考えた。上手くいったかどうか分からない、というか、やったことの無いことなので成功の基準すらわからない。やはり、刑事もカウンセラーもプロということだけあって、なかなかしっぽは掴ませてくれなかったが、刑事のしっくりきていないような中途半端な作り笑いから察するに、私は変なことを漏らしていないということだけは、確認できて、そこだけはほっとしていた。
全ては私たちだけの世界を守るための献身と犠牲であり、私の全神経はそのことにだけ向けられている。平穏と安寧を願う私たちの祈りがようやく叶おうとしている。救いはもうすぐ、私たちの前に具体的な形をもって現れる。今、そのための最後の砦が私の目の前に立ちはだかっている。ねぇ、その先はどんな景色なの?私も早く知りたい。早くそっちに行きたいんだ。もう少しなんだ。もう少しだから、もう少しだけ待っててね。私もすぐに追いつくから。
ハイヒールの、乾いたリズミカルな足音が徐々に大きくなり、扉が開く。
「おまたせ。何度も申し訳ないわね、こんなことさせちゃって。まだ事件から1週間しか経ってないのに警察ってのは無神経ったらありゃしないわね。」
私の斜め前のカップを手に取り、中の液体を勢いで全て飲み込む。
「こういうご時世ですし、先生方がこういうことに敏感になるのは理解しています。それに、私も抱えている感情を吐き出せる場ができて嬉しいです。」
神妙な面持ちの後、少しだけ口角を上げる。それっぽかっただろうか。
「大丈夫?無理してない?
やっぱり多少は見透かされていたかもしれない。これまでもこれからも注意すべきは、どこぞのボンクラ刑事ではなく、この女だ。私と話している時、いつも決まって彼女は笑顔なのだが、時々鋭い視線、何か私の心の奥を抉ろうとするような暴力的な眼差しをこちらに向けてくる。彼女はおそらく賢い、少なくとも先程までいた下っ端刑事よりは。臨床心理の専門知識だけでなく独特の嗅覚と推察力を持ち合わせている。もちろん彼女はおくびにも出さないが、私に、私たちに何らかの秘密があることくらいは悟っているのかもしれない。しかし、それ以上のことはわからないはずだし、私の観察眼を以てこう考えることが出来ている時点で、対策は容易に立てられる。
「いつもありがとうございます、
「何かあったらいつでも相談に来てちょうだいね。」
変な間があった。
「大丈夫。多分私はあなたの味方だから。」
多分?味方?どういう意味なんだろうか?扉の前で立ち止まって、半身で振り返る。
「ひとつだけ、いいですか。」
「どうしたの?」
言葉の意味を単刀直入に聞こうとした寸前で、やめた。何故か少し怖かったから。気がつけば鳥肌が立っていて、震える右手を左手で抑えるのが精一杯だった。それでも、話しかけた手前、何か他の話題を出さないといけないと焦りを感じ始めていた時、もうひとつ彼女に抱いた微かな違和感があった。
「先生って校内でもヒールですよね、大人の女性っぽくてかっこいいなって。」
思いつくまま言葉が出てきて、小学生みたいな口振りになってしまい、少し恥ずかしくなった。
「ああ、これね、本当は規則違反なんだけど、私教員じゃないし特別に許して貰ってるの。」
その艶やかな黒を見せつけるように足を組みかえる。それに見蕩れる自分がいる。
「まぁ、女の意地みたいなものよ」
女の意地、何に対して張っているのだろうか?その時は皆目見当もつかなかったが、後日、私はこれを聞いたこの日の私に感謝することになる。
「私も大人になれば、意地、張りたくなるんですかね?」
女はニヤリとして、こちらを見る。
「さぁ、どうかしら?大人になってみればわかるんじゃない。」
はぐらかされたのは判ったが、何となくそれで満足してしまった。丁寧にお辞儀をして踵を返す。失礼しました、頭を下げたあと部屋の扉を閉じる。もう一度深い溜息。他人と話すのにこれだけ体力も気力も使ったのはこれが初めてかもしれない。あの部屋にいる時は自分でも気づけなかったが、空腹と疲労は割と限界の手前まで来ていた。
廊下の窓を見ると、赤い夕焼けが私を包み込んでいた。そうか、これも私の意地、プライドみたいなものかもしれない。彼が敢えて遺したものと、彼の生を、死を受け止めて、彼の望んだとおりに消化しなければならない。彼の現実存在を限りなく抽象化しなくてはいけない。それが彼の生きる意味であり、死の意味なのだから。もう少しだよ 、拓眞。夕陽を睨みつけながら私は小さく呟いた。
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