独白

由太

独白0.5 プロローグと読んだ方がいいまえがき

「もう出てきていいよ。」

そう呼びかけると、教育機関とはおおよそ不釣り合いの豪奢な木製クローゼットから、そっと慣れた感じで、細い体がはい出てくる。女は昼食後からそのままのメイクを整えながら、ちょっとうんざりしたようなその顔を端で見ていた。

「…お腹空いた。」

乱れた髪を手ぐしで解きながら、その細い体はカウンセリングルームのこじんまりとした冷蔵庫を漁った。

「さすがに、これは見つかったら怒られるでしょ。」

敷き詰められた大量のビール缶をかき分け、腹の足しになりそうなものを探す。

「あんたとあたし以外この冷蔵庫に触る人誰もいないからいいの~」

ぶっきらぼうに女は答える。

「だいたいさぁ、これ置いてもらうのも結構めんどくさかったんだからね。」

図星だったけれど、わざとらしく頬を膨らましておどけてみせる。

「どうせ、校長の下心に漬け込んだんだろ。」

投げやり。

「どうせとは何よ、あたしはあたしの武器をあたしのやり方で使うだけよ。それを他人に、しかもその果実を一方的に享受する人にとやかく言われる筋合いはないわ。」

奥からプリンを取り出し頬張る制服姿の細身の男。途中から女の回答に興味をなくし、ただ食欲と一心に向き合っている。

「まぁ、武器は所詮武器よ。寿命は短いわ。だからこそ、宝の持ち腐れにならないように最大限活用させて貰うつもりよ。」

男は甘ったるくなった口をブラックコーヒーで洗い流し、ソファーに寝転んでスマホを眺める。

「校長に同情すら湧いてくるね。」

男は興味がなさそうな素振り。

「まったく、そういうところだからね。ちったあ、独占欲なり執着心なりがあるところを見せてくれてもいいもんなのにね。」

心にもないことを女は呟く。

「どうせ、そんなもん向けられたところで鬱陶しがるんだろうけどさ。」

見透かされてるみたいで、女は少しゾッとした。


登山用品ブランドのバックパックを部屋の奥から引っ張り出して、女はぼやく。

「それにしても無茶するわね。」

仕切りの向こうで制服のボタンを外しながら、男は切り返す。

「上手くいきっこないって、そう言いたいの?今更?」

はいこれ。女は男の半裸を一瞥して、バックパックを手渡す。

「学校が契約してる警備会社のセキュリティシステムが1日に1回の情報送信をする午前4時30分、監視カメラの死角から校外に出るために、この教室の裏口を開ける。私にしてあげられるのはここまで。計画は完璧よ。それは私が保証するわ。」

この女に保証されたところで、どうということも無いのだけれど。

「問題はその後のことよ。」

「後?」

「新幹線を使わざるを得ないのはわかるわ。とりあえず、騒がれる前に移動距離を稼がなきゃならないからね。そんでもって、限られた時間で、なるべく人目につかないわかりにくい場所に隠れるのね。原付なんてトロ臭くて足がつくもの、最初使いたいって言い出した時は、もう片腹痛くて仕方なかったわ。」

仕切りから姿を現したのは上下黒のパーカー姿の男だった。細いシルエットはいかにも中性的にはにかんでいた。

「いいじゃん。いかにも青春っぽくて。盗んだバイクで~って曲もあるわけだし。」

軽やかな鼻歌はその風貌も相まって、どこか浮世離れした空気がある。

「尾崎がいいのはさ、青春それ自体じゃなくて、青春が終わったあとのほとばしる後悔と爽やかな恥ずかしさよ。それに多分だけど、尾崎は原付を盗むような人間じゃないと思うわ。」

男は2人がけのソファーにうつ伏せになって寝転ぶ。女はその背中を見つめる。

「やっぱり先生目線で聞いたらまた違った味わいがあるってことなの?」

「さっきのは先生としてでは無く、青春を終えた1人の大人としての感想よ。先生としては、清々しいほどの馬鹿の一言に尽きるわ。」

男女の視線は交錯する。

「これも、ただの若気の至りって言うわけ?」

「原付は大バカだって言ってんの。電車なら、常に容姿を変え続ければ駅構内の監視カメラくらいかいくぐれるわよ。」

四角いバックパックの中身は殆ど衣服だ。

「若気の至りだっていう指摘は避けようがないわ。あなたにしたって、私にしたってね。計画に1番加担した私でも、この出発直前のこの期に及んでまだ馬鹿やってるなって思うもの。でも、」

明かりの中では全身黒の男のうつ伏せはどうってことは無いのだけれど、闇夜に紛れれば危うく警察の、そうでなくとも日本不審者情報センターくらいの世話になってしまうのかもしれない。

「でも、若い時にしかできないことって言うのがあるのもまたそれはそれで正しいから、私はそのバランスの悪い正しさに縋るしかないってだけの話。」

男の視線の先には机の上で乱雑に組まれた女の両脚。

「逃走先で原付はダメかな?」

「警察とか保護者とかその他もろもろを巻いた後はどうしようとあんたの勝手だけどさ、くれぐれも私の計画をおじゃんにするような真似はやめなさいよね。っていうか、どうしてそこまで原付にこだわるわけ?」

「そうだな…個人的には尾崎よりも旅に出よう、滅びゆく世界の果まで、かな。」

女は思う。

「あんた北海道に逃げる気?冬になったら自分の軽率さに自分で呆れるわよ。そもそも、あんたらその世代じゃないでしょ?」

多分これは寂しさなのだと。

「先生も尾崎の世代じゃないくせに」

そしてそれを隠すためのつよがりなのだと。

「全く、これから追われる身になるってのになんとも気の抜けた会話ね。」

私は私の強がりを貫くまでだ。

「こうでもしないと、正気でいられないんだよ。」

男は少しだけ語気を強くした。


正気、ね。然り、と思う反面、最初っからそんなもんあるかどうか怪しいところだ、とも思う。女は思う。少なくとも現時点でこの件に関わりを持つ人間に正気な者はいない。つまり、元々おツムのイカれた人間かその人間のせいで人生や精神を狂わされた人間かのいずれかである。以前に男は女に言った。

「正気ってそもそも何?」

女にとってその質問の意味がわからなかった。なぜなら、今の今まで女は男に抱かれていたのだから。いや、これは理由になっていないか。実際のところ女はよく覚えていないのだ。あなた正気じゃないわよ、くらいのことは言ったか?しかし、これは大した問題ではない。その時の印象としてあまりに脈絡がなかったことだけは覚えている。それだけで十分だ。

「僕がある程度周りの人間と逸脱した行動をとっているのは肯定する。だけど、それは僕がおかしいのではなく、周りが正しくないだけだよ。」

男は続ける。

「そもそも正しさなんて突き詰めれば自分の中にしか存在しないわけだからさ、そう意味では誰もが誰もにとって正しくないというのが正しいし、もしその正しさが正当に行使されているのであれば、人間同士の集まりに逸脱という概念は生じるはずはないし、生じるべきではないんだ。」

主体的真理、か。男は体を翻す。

「それでも人間の集まり、つまり社会には常に何らかの方向付けがなされているし、それに無自覚な人もかなりいる。かく言う僕だって、気づける部分に気づいているというだけで、気づいていない部分の方が多いんだと思うよ。もちろん、方向づけされていないにもかかわらず大部分の人間が似通ってしまう部分はあるんだろう、同種の生物として、ヒトとして。しかしそうであっても、その例外を逸脱と表現してしまうのは正しくない。人間が理性の持ち主である限りね。」

男は女の目を見る。

「いつだって社会は、誰かによって恣意的に方向づけさせられてきた。それを主義、主張と言ったり、正義と言ったり、あるいは政治や法と言ったり、言い方は様々だし、細かな差異は否定しないけれど、やってることは全て同じ、人間の人間による人為的操作でしかない。」

中学2年生のそれを拗らせまくったようなロジックだと、女は感じた。

「つまり、社会自体は否定しないけど、社会を方向づけるその意志に従う義理はないってことね。理想的で厳格な個人主義の世界とも言えるのかな。」

「うん。社会が人間ベースでつくられるなら、そこに逸脱という概念は正しい形で存在してはならないんだ。」

やることやって、言いたいことも言えて、スッキリした表情。自分ひとりで勝手に満足しやがって、女は宥めるように、あやすように啖呵を切る。

「わかってる。そうなんだよ。あなたの言ってることは、正しい。正しいのよ。いつだって。今だって。そんなあなたを私は好きだし、必要としているのは確かだわ。でも、こんな話を決してピロートークとしてするべきではない、少なくともそれを理解できない限りさっきの議論についての説得力を持たせることは出来ないわ。」

女は大きな溜息をわざとついてみる。

「既にそれについては自覚的なのかもしれないけれど、俎上に載せないのはやっぱり少し違和感があるのよね。」

それは自明だった。

「端的に言えば、社会の構成員が全員あなたならその理論は正しいのかもしれないし、実現していない今が異常、あなたの言うところの正しくない、になるのでしょうけど、現実はそうじゃない。自分で自分のことについて決断できない人間なんてごまんといるし、むしろその方が多いのよ。判断力の強い人には、弱い人が近寄ってくる。それに追従する。あわよくば責任を押し付けようとする。判断力の強い人にだって孤独が苦手な人もいるから、それを安易に受け入れる。それが優しさだと信じてね。全ての判断を孤独に貫徹できる、可能でなくともそうであると信じられる人間なんてあなたくらいなものよ。そういう歪な共生関係が暗黙のうちに構築されていて、その総体を私たちは社会と呼んでいるのよ。意識しないためのラベリングにしか過ぎないわ。あなたの言う方向づけも、無責任な判断の委任がひとつのものに集まりすぎることで出来上がっていくものなんだと思うわ。」

男は無言を貫く。

「こんな社会おかしい、壊れてしまえって思う?そりゃあ、私だって1度くらいは考えたことがあるよ。あんたくらいの歳の時にね。でも、私たちみたいに自己判断を貫徹できる人間も、結局のところ社会のミクロな一部分にしか過ぎないわけだから、社会から離脱して外側からそれを批判することもできない。社会を批判するには、そのための新しい社会を構築せざるを得ないの。社会の逸脱を否定するために自らが逸脱になって新たな社会を作り出す、ミイラ取りがミイラになるとはこの事ね。こういう堂々巡りの中で自己嫌悪を繰り返して呆気なく死んでいく存在なんだよ。私たちみたいな人間は。」

男はゆっくりと口を開く。

「社会を、人間の社会性を否定することはすなわち人間そのものを否定することになる。人間はポリス的動物である、か。ここでは悪い意味でってことになるのかな。」

男は少し笑って見せて、それ以上何も言わなかった。


「もうそろそろ出るよ。」

男は体よりも分厚いバックパックを大仰に背負う。

「これからは、いや、これからも僕達は自由だ。」

「そうだね、私は私なりにこの状況を楽しんでみることにするよ。」

笑顔で送り出そう、そう女は決めていた。これが今生の別れになろうとも、だ。

「ないとは思うけど、変に出しゃばってこれがバレるなんてことないようにな。」

「他人の心配してる場合じゃないでしょ。」

精一杯、笑ってみる。

「確かに。」

その時の男は今までで一番穏やかな顔をしていた。女は熱くなった目頭を見せまいと必死で、彼の顔をゆっくり見ることは出来なかったが、一瞬目に入ったこの表情だけはいつまでも忘れられなかった。

いつもより恐る恐る扉を開ける。さびた金属どうしが擦れ合う嫌な音がした。

「それじゃあ、穂果ほのかせんせ、また。」

「そうね、拓真たくまくん、いつかまた会える日まで。」

そして、男は夜の闇に消えていった。今夜は長い夜になりそうだ、女は鈍い喪失感とともに新しいタバコに火を付けた。


この文書は小説である。フィクションである。最近は様々な大人の事情を回避するために乱用されてしまっているこの「フィクションである。」だが、そもそも真の実在、真実を事実として認識するのは一個人の主観であって、その担い手が人間である限り完全に客観視することは出来ない。全ての人間の全ての捉えようによって事実は如何様にも変化する。これの指す所は、とどのつまり、完全なノンフィクションなど存在しないということだ。しかし、フィクション、つまり虚構もまた、現実と比較して初めてそれが虚構足りうるのであって、それはつまり、完全なフィクションも存在しないということになる。以上を踏まえれば、全ての表出は現実を元にしたフィクションということになる。そうすると、このような表示はすごく滑稽でそれでいて真摯なものだと言えよう。

だからこそ、ここでもう一度言わせてもらおう。この小説はフィクションである。この小説は事実に基づかないという意味と、もうひとつ、この小説は登場人物の独白のみによって構成されているという意味の両方を包摂した表現として、この物語はフィクションなのだ。

時々小説に登場する、いや、正確には登場してはいないのだが、そういう人格がある。登場人物のどの人物の視点でもなく、客観的事実をただ地の文に表す、神の視点をもたらす、作者の人格。これをこの小説の作者である私は酷く毛嫌いをしている。はっきり言ってなんの意味があるのかさっぱりわからない。ここでそれについて議論する気は無いが、いずれにせよこの小説には神は登場しない。

時々、医療技術の発展に対して倫理的観点から述べられる、人は神の領域を犯してしまった、という表現があるが、実際のところこれまで私たちが世界三大宗教等で想定していた神には、もう人間は近づきすぎているのかもしれない。こうなってくると、もっとスケールの大きな神様を新たに創り出さなくてはならないのかもしれない。そんな風にして創られた神のどこに意味があるのかは見当もつかないが、カルト教団の小銭稼ぎにはうってつけなのだろう。少なくとも、この小説の世界にはそんな気休めのための神はいらない。


この章の前半の文章もまたこの小説の主たる登場人物、野村穂果のざきほのかによる独白である。彼女なりに必死に男、女などという表現を使い第三者視点を試みているものの、突如回想パートが入っていたり、地の文に感情を出してしまっている。この2点をクリアすればかなりそれっぽくなるのではなかろうか。私の大嫌いな文体そっくりに。

いずれにせよ、この小説のこれから続くいづれの章も、ずっと登場人物による独白である。読者諸君には彼らの心の声に耳を傾け、そして自分なりの結論を導き出してもらいたい。それは私だけでなく、彼らもきっと望んでいることだろう。

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