第2話 蜘蛛の糸
呼吸を整え、ようやく落ち着くまでに要した時間はきっかり5分。
スーツ姿に戻った私は社長室でもある32階にある凛の部屋で彼と向かいあって仕事の話をしている。
琴坂 凛は今年で16歳になる……はずだ。
本人の自主申告なので本当のところはわからない。見た目は少年、中学生か下手をすれば小学生に見られてもおかしくない姿をしている。
凛は生まれつき色素を持たない
そのせいか身体も弱く、この部屋から外に出ることは叶わない。
彼がそんな体質の代償として授かったのは、並外れた頭脳だった。
僅か3歳で日本語、英語を理解し6歳になった頃には8カ国を自在に操る様になる。
10歳でアメリカの超一流大学に飛び級で入学し1年あまりで全ての過程を履修、その後この琴坂ISを創業した。
ネットを検索すればすぐに出てくる程有名な話だ。
それをこの部屋から出れない彼は全てをインターネットでやってのけたのだ。
当然、疑う者も多数いたらしいがその内の──凛曰く信用に足る相手を数名ここに招いて証明したそうだ。
だがネット上に凛を示すような画像は何ひとつない。
一体凛という存在は男性なのか、女性なのか。
どこに住んでいてどんな生活をしているのか。
そもそも国籍は本当に日本なのか。
数々の謎を残したまま、凛は未だにその正体を
いや、少し語弊がある。
前述の数名、そして私以外にはだ。
「じゃあ、こことここは買収ね。で、これは売っちゃっていいから」
「はい。かしこまりました」
「うん。他には……そうだねぇ……わこは海と山ならどっちが好き?」
「私ですか?そうですね……海でしょうか」
「そっか、じゃあこれも買収でっと」
「し、社長!?」
「ん?わこは海が好きなんでしょ?あげるよ」
「頂けません。先日も申し上げたはずです」
「ええ〜っ!?」
凛はこの部屋以外の世界を知らない。
生まれた時から、この真っ白で何もない空間で生活している。
知っているのは何もかもネットを通してみたモノとこの部屋から見える景色だけ。
故に、凛の頭の中にある世界は
凛がやっているのはゲーム。
そこにはただの数字が並んでいるだけのゲームだ。
企業や株の売買はもとより、下手をすれば小さな国を買収してしまうだけの財力が彼にはある。
ただ盤石の上の駒を動かすように、楽しむ。
「いつも言ってますように、もう少し配慮をお願い致します」
「配慮?誰に?」
「そこに住む人に……です」
私が何度もこうして凛を諭してはきたが、彼にはそういったものが決定的に欠落している。
凛の中には、自分と私、そして僅かな顔見知りしか人間は存在していない。
そしてその僅かな顔見知りも今ではもう彼の中にはいないのかもしれない。
自分の采配でどれだけの人が不幸に、或いは幸福になっても関心はないのだ。
今も彼は不思議そうに小首を傾げて私を見ている。
「ぼくにはわこがいるから平気だよ?」
そして堂々巡りの会話になる。
「わこはぼくがキライ?」
「そんなことはありません」
「じゃあ好き?」
「は、はい」
「好き?」
「……好きです」
凛は神が創った様な美しい顔を綻ばせて私の胸に顔を埋める。
そして私はそんな彼の絹糸のようにきめ細やかな髪を撫でるのだ。
そんな風に私はもう10年近い年月をこの無邪気で残酷な少年の側で過ごしている。
それは蜘蛛の糸に囚われた蝶のように、決して逃れる事の出来ない甘美な誘惑だ。
この美しい少年を私は独占出来るのだから。
「わこにあげるね」
「ありがとうございます」
心の中の理性と倫理が乗った天秤はいとも簡単に均衡を崩す。
一体誰が逃れることが出来ようか。
そして私と凛はまたひとつになり甘く痺れ、底の見えない沼に沈んでいく。
深く。
深く。
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