第2話

 花子はやはりさっきの音が気になって、スマホのフラッシュライトを利用して運転室の状況を覗いてみた。だが、運転士がいなかった。まるでさっきの記憶は嘘のように、何の痕跡もなく消えてしまった。さっき下車して点検をしているかなと花子は思った。

 乗客は相変わらずじっと座っている。目をつむって休んでたり、文庫本を読んでいたりして、いつもと変わらずにこの長い静寂の時間を淡々と過ごしている。

 いくら何でもこんな長い時間を平気で待っていられるのだろうかと思いきや、アナウンスが流れた。

「ただいま原因を調べているので、発車までしばらくお待ちください」

 放送が遅いよ! もう10分間停車しているのに。しかし、これで分かったこともある。列車の一番後ろにいる車掌が無事であることと、車掌も事態の原因が分からないでいたことである。

 急停車の原因と運転手の行方はともかくとして、車掌が電車の運転室に移動して列車の運転をしてくれるだろうと花子は思って、もう少しまつことにした。よくも今の状況で平然と小説を読んでいるねと思ってスマホを持ち上げたが、別にやることがなく、ただ画面をスライドしているだけだった。

 人間というのは、不思議な生き物だな。みんなが黙り込んでいたら、思わず自分も平静を装って、目立たないようにする。それは人類が進化している過程で得た特技であって、すべての人間社会の根底にあるものである。その特技によって、村・国・宗教・グループなどが成り立っている。花子もまたその一人であり、思わず平静に待つことにした。いえ、させられたのである、いにしえの本能に。

 それからさらに10分間が経った。ようやく、花子はこの静寂の空間の不自然さに気付き始めた。20分間この単調の景色に立たされることは、会社帰りでハイヒールを履いたままの花子にとって肉体的にも精神的にもある種の限界に達しただろう。

 列車の全員がおかしい。たとえいきなり騒ぐ人がいなくても、ソワソワの議論や呟きが一つ二つあってもおかしくないだろう。この人間の呼吸しか聞こえない静けさは尋常ではない。

 しかし、自分のほうではなく、世界を否定するには相当な勇気が必要である。もし列車の全員がおかしいとすれば、今まで一声も発していない自分も同様におかしいのでは? 中学時代かなりはしゃいでいた花子は大学になってから性格が急に穏やかになって、そして会社に入ってからは先輩や上司の怒鳴り声の中で、ネガティブでの性格になってしまった。今の花子には、まだ世界を疑う勇気を持っていない。その疑いを証明する材料が足りていないのだ。試しに、花子は遠慮がちに独り言を呟いた。

「どういうこと?」

 その一声が、まるで何かの引き金のように、全員がいきなり花子のほうに見た。まるで愚痴を言ってる自分が間違っているように。それは会社の上司や先輩からの目線とそっくりで、花子は思わず謝りたくなる怖い目つきである。

 全員は無言のまま花子を見続けていた。花子の足がかなり震えて、この静かな空気の中にはさっき以上にいづらくなった。顔が真っ赤になって、尿意も湧いてきた。もしかしたらわずか10秒からもしれない。あるいは1分近くになるだろうか。花子は涙を堪えながら決断をした。初めてとしては割とうまく非常ドアロックを解除し、一番前のドアを開けた。花子は迷うことなく暗闇へ飛び降りていった。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

黒花 @AmamiyaLin

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ