月光
三崎伸太郎
第1話
「月光 」などと言う言葉は、古臭い言葉である。
しかし、千九百七年(明治四十年)頃の言葉とすれば、当時としては洒落た響きをもって聞く人の耳を打ったに違いない。しかも「MOON SHINE(ムーンシャイン)」と呼ばれ、「月光」と日本語で言うのであれば、ああ、これは異国の話であろう、多分アメリカであろうと誰しもが思い付くはずである。
「月光」とは、密造酒のことである。アメリカでは密造酒のことを「ムーンシヤイン」と、俗語として用いる。なかなか洒落た言葉だ。
千九百七年、ワイオミング州のロック・スプリングスと言う炭坑町には、当時三百名程の日本人が居て、ジャップ・キャンプと呼称される坑夫の集団を形成していた。
ボスと呼ばれて、この集団を取り締まっていたのは、権藤と言う福岡県出身の男である。平田一作が父に連れられてこの町に来たのは、十三歳の時だった。
シアトルから生れて初めて乗った汽車が幾つもの州をを過ぎてワイオミングと呼ばれる州に入ると、車窓からは赤茶けた山肌の広がる荒野が多く目に付くようになった。人夫斡旋業をしている日本勧業社の社員が一入、十人の日本人を引率していた。
「後、半時間ほどで炭坑に着きますけえ」と、地方訛りを残す言葉で社員が言った。
「こんなとこに人が住んどるとお?」誰かが声を上げた。森野という社員は、声のほうを振り返り「あのお日さんの下に、岩山が見えますでしょうがあ・・・」彼は上体を折り曲げて、車窓の方から夕陽に映えている荒野の一部に目線を当てた。
日本人達は席から立ち上がって森野の方に来ると、彼の向いている方向に視線を向けた。夕陽が大きな岩石のむき出た山間肌に当たり真っ赤である。 一作は、村の鍛冶屋で見たことのある鉄の赤く焼けた色を思い出した。
「あん向こう辺りですけえ」
「あんなとこね・・・」隣にいた男がぽつりとつぶやくように言った。
「なあに、ついたら驚きなさると思いますなあ。 大きな町がありますけに」
「何人ほど住んどるとね?」
森野は、人口を聞かれて心得ましたとばかり「二千人ほどでしょうかなあ」と、これで皆を安心させられるとでも言うように答えた。
「二千人も、のう・・・」皆、うなずいてこれから向かう町の大きさに感心したりした。
一作が住んでいたのは、福同県の炭坑町に近い人口五十人に満たない小さな村である。 町の大半の男子達は炭坑に職を持っていた。炭坑は、日清戦争の勝利の余波で景気も好く、一作の父も坑夫と農業を半々に動いていた。
近くの町に、アメリカのユニオン・パシフィック鉄道が経営するロック・スプリングス鉱山で、日本人坑夫のボス(監督)をしている権藤が一時帰国し、日本人坑夫を募集したのは昨年の夏のことであった。
「なにせ、アメリカでは日本の五六倍ほどの賃金だそうな」権藤から頼まれたと言う馬喰(ばくろう)の中西が一作の家を訪ねて言った。 一作は庭先で、父が牛馬を媒介する馬喰の中西を通して、田の耕作のために借りていた牛の背を藁縄(わらなわ)でこすりながら、大人達の話を開いていた。どこからかアブが飛んで来ては、牛にとまろうとする。 牛はアブがとまると、数歩後さがりしたり斜めにうごいたり、しっぽで辺りを打ったりした。一作もアブを平手で叩き落とそうと、アブの飛んでいるほうに目を向けていたが、耳は大人達の話の方に傾いていた。
「あんたが、息子とゆくと三年で千円は軽かぞ。行かんか?」馬喰(ばくろう)の中西の言葉に、父はゆっくりとキセルの煙を吹き出した。一作は、父が母と兄にアメリカ行きのことを話している時「オイを連れて行ってくれんとか? 」と、自ら切り出した。
「おまえは、まだ十三じゃあなかか」兄が言った。
「そげんこついうても、来年にはヤマ(炭坑)に働くことになっちよる。オイは、アメリカに行きたか」
父は炭坑の危険さを良く知っていた。しかし、貧乏百姓から抜け出る賭けをしたのであった。 一作を連れて行き、彼を安全なところで働かせてもらうと、自分が炭坑で事故にあっても、金銭を日本に持ち帰ることができると考えたのである。
一作は、車窓から夕日の沈むあたりに顔を向けている父の後姿を見た。
森野の言った通り、汽車が小さな峡谷を過ぎて汽笛をあげると、それが町に対する合図かのように前方に町並みが見はじめた。
「ほう・・・」誰の口からか感嘆の短い言葉が漏れた。
森野は皆を振り返って「あん町ですけのう」と言い「銭儲けですなあ」と、無事に着いたことの意味も含めてか、感慨深そうに付け加えた。 汽車は、家々のまばらに点在するあたりで速度を落とすと、軽く右にカーブをしている線路を家々の密集している方向に進んで行った。時々人影も目に付きはじめた。家々に灯りが点っている。夕方である。線路の横には街燈が並んでいた。街頭が照らし出したところに駅があった。汽車は汽笛を鳴らした。
十人の日本人は、駅に降り立つと羊のように集団を組んだ。見るものすべてが目新しい。機関車の吐き出している煙が、風にながれて構内をさまよっている。 坑夫や彼達の家族が駅構内を右往左往している。
「さ、さあ。行きましょ」と、森野は羊の集団のような日本人を急ぎ立てた。彼達は、それでも集団を崩さず、のろのろと森野の背後に従った。
駅を出ると、馬車が待っていた。森野は、目ざとく自分達を迎えに来ている馬車を見付けると「電話で連絡しちょきましたから、会社から馬車が来てますけの」と言い、一台の大きな馬車に近付いた。
御者台には日本人がいた。
「森野さん。お疲れでした」と、御者台の男が言った。集団の日本人達は耳にした日本語に、少し安堵して、ゆらゆらと馬車のほうに歩いた。
「お疲れさんでした。 ユニオン・パシフィック炭坑の者です 」と、御者台の男は集団の日本人に視線を向けて言い、帽子を軽く頭から離し元に戻した。
「大島君。それ、カウボーイ・ハットじゃな」森野が馬車に自分の荷物を載せながら聞いた。
「良いでしょうが 」
「坑夫やめて、カウボーイになるんかの?」
大島はニヤリと笑い、内緒でっせとうそぶいた。日本人達が馬車に乗り込むと、大島はゆっくりと二頭だての馬車を走らせ始めた。耳に風が来た。
一作は、大人達の間から町並に目を向けていた。駅前に並ぶ店には、電灯が店先の商品を照らし出している。 店の前を行き来している人達は、日本人の姿とは違っていた。彼の持つアメリカ人のイメージである。イメージといっても根底にあったのは、博多に出た時に見た外国人やキリスト教の神父の姿であるが漠然としたもので、実際、彼の視野にあるのは動いている人々にすぎない。
誰かが煙草(たばこ)を吸い出したようだ。煙車の匂いが馬車の中に広がった。すると、ほとんどの人が自分の煙草に手を伸ばして吸い始めた。
一作は、憐の父親が煙草入れを懐より取り出し火をつける手元に目をやった。キセルに煙草のきざみを丸めて押し込めると、隣で煙草を吸っていた男が口からキセルを離して父に差し出した。 父の音吉は馬車でゆれる相手のキセルの柄に軽く片手を添え、火のついた先に自分の煙草の先を合わせ、すぱすぱと二三度吸って火を移した。 火の小さな灯りがポッポッと狭い空間に浮かんだ。父の音吉は三十六である。坑夫としては若くもないが博多の炭坑ではまじめに良く働く坑夫として評判が良かった。
やがて、馬車は商店街を過ぎ町の外れを走る大きな道に出た。田舎の道に比べると五六倍も大きい。道の外は暗くて見えないが所々にある街灯に照らされているのは、ヨモギのような草である。
馬車のワダチの音が砂地を感じさせる。
「遠くはないですけえの」御者席に腰を落としている森野が振り返って言ったが皆無言だった。馬車がしばらく進むと、町並み以上に明りの輝いている区域が低い丘のような山のふもとに見えて来た。 山の稜線は白墨でなだらかに線を描いたように、山の黒い影と夜の空とを区切っていた。
やがて空気の中に軽く石炭の燃える香りが感じれて来た。一方の方で三本の煙突が立並んでいるのが見えた。 石炭の煙であろうか煙突からは黒い煙が小さく出ている。
「あそこに三本の煙突が見えるでしょうが?」森野が後ろを振り向いて手で方向を示した。
「あそこ近くに第七坑と第八坑がありまして、まっ、日本人の受け持ちですな」
「あそこね。こんまい(小さい〉煙突じゃあなかか」
「三池炭坑のにくらべるとこまかなあ」
「うん。こまか 」皆、煙突の大きさで三池炭坑のほうが優ると言うことを得意げに話した。
「しかし、ここの山はアメリカでは一番の高品質炭ですけえの」
「穴は長かね?」誰がか炭坑の長さを聞いた。誰もが一番重要なことを聞くこと忘れていたと、この言葉を受け止めた。森野は、少し考えているように見えたが彼は坑夫ではないので分からなかった。隣の大島が「一里半(約六キロ)程ですよ」と答えた。
「深かねえ・・・」
「日本のように深くはないです。石炭の層は地表近くに出てますからね。外からでも掘れるような山ですよ 」大島が言った。
「歩くとね?」
「なんばば言うか。一里半あると言いんしゃったたい。トロッコじやろうが」
「トロッコか・・・」
「三池は、電車じゃったとにねえ」
「最近じやろう? 一昔前までは歩いて通うたとばい」銘々が自分の知っている事を口に出した。
馬車は、コースを変えて第八坑と言われた煙突の横を抜けると、人家のような平屋の建物の並んだ所に出た。
夜なので、辺りの風景は限られた範囲で馬車の周りに広がっている。それでも次第に日本人の住む形跡が感じられる頃、馬車は平屋の角を曲がったところで止った。
「着きましたけえ」森野が言った。
馬車の止った家のドアが開いて人が出て来た。
「権藤さん。お連れしましたよ」森野が言った。着いたばかりの坑夫逮は権藤に面識がある。そもそも権藤が郷里の福岡で募集した坑夫逮だった。
「よお、きんしゃった。疲れなさったやろお」権藤は大きな恰幅に似合わないような甲高い声で皆をねぎらった。
「森野君。部屋を割り当てて、風呂に入ってもらわんか」
「部屋は? 」
「食堂の横の部屋を用意しておきました」大島が答えた。
「ああ、あそこけえの。皆良い人達だけ、あそこはええ」森野と大島は坑夫達を長屋のような建物に案内した。
「こっちは食堂です」大島が窓から光の洩れている部屋を手で示した。ガラス窓越しに、タ食を取っている日本人坑夫の姿が覗かれた。部屋は四名に一室が割当てられたが、一作と音吉には小さな二人部屋が当てられた。坑夫達は荷物を置くと、十人がかたまって風呂に行った。夜八時近くだったが風呂には誰もいなかった。
「皆、一風呂浴びたら夕飯を食べて直ぐ寝ますから」大島が説明した。
湯船は広かった。しかし、片方には如雨露(じょうろ)の口のような物が上のほうにずらりと並んでいて、一つ一つに腰ぐらいの高さで丸いレバーが付いている。数個の口からはぽたぽたと水が垂れていたので、下のレバーをまわすと水が落ちて来るだろうとは想像できた。
皆、湯につかっていたが、中の一人がレバーに近付いて動かした。水が飛び出して、回した本人に降り注いだ。 彼は驚いて身をよけたが水だと言うことに安心したのか、手で降り注ぐ水を確かめ「こりゃあ便利たい」 と感嘆すると、しばらく手だけを降り注ぐ水にかざしていたが「ありゃあ、湯になった」と一言い、身体を降り注ぐ水の下に運んだ。
「シャワーですか?」森野が湯に入って来ると、湯船に近寄り洗面器で湯を体にかけ始めた。
「シャワーな?」誰かが開いた。
森野は湯につかり「アメリカ入や他の国の連中はシャワーだけですけえの。湯船は日本人が皆で作ったんですけ」シャワーから流れる水は浅い溝(みぞ)を片方のほうに流れてゆくが、良く見ると石炭の粉のような物が溝にはへばりついていた。坑夫達は石炭で汚れた体をシャワーで流してから、湯につかるのであろう。
風呂から出ると食堂に集まった 権藤がいて、夕食と酒が用意されていた。
「遠いとこ、ご苦労さんでした。ま、二三日ゆっくりして体を慣らしてから仕事を始めるとよかでしょう」
「権藤さん。わしら休みはいらんとですよ。 明白からでも仕事したかあ、と思っとります」
「こりゃあ、せわしかなあ。ばってん、明日は休んだほどよかとでしょう」権藤はやわらかく笑って言い、皆に食事と酒を勧めた。
皆、福岡で仕事の内容は聞いていたし、一作を除いては、皆炭坑の経験者であったから、今更説明を関かなくても同じ仕事であるだろうと理解していた。ただ、賃金が数倍も良いわけである。しかし、権藤は明日九時から仕事の説明をするのでこの食堂に集まってくれるようにと言った。皆、旅の疲れからか酒の回りが速く、権藤の話を耳にしながらアメリカの国土の批評に話題を置き換えていた。
明朝、一作はたばこの匂に目を覚ました。父の音吉は既に起きていて、窓側でたばこを吸いながら外の景色を見ている。窓からは赤茶けた岩石の多い丘のような山が見えている。空が真っ青で太陽の光は強い。
「起きたとか? 」音吉が一作を見て言った。
「うん・・・」一作は福岡の家を夢に見ていたのである。ここが新しい生活の場であると、直ぐに気持ちを切り替えた。朝起きるとトイレに行きたい。
「小便な?」父親が聞いた。
「うん・・・」
「出口から見えるばい」父親がキセルをくわえたままあごで示した。一作は建物の外に出るとトイレに行き小便を済ました。トイレから出ると周囲の風景に目を向けた。平屋の建物があちこちに見える。建物の屋根には、空気抜きのファンが何本か立ててあり、風でくるくる回っている。昨夜は気付かなかったが家々は緑のペンキで塗られていた。外れのほうに縁の固まった所がある。良く見ると小さな日本庭園のようである。
一作が後ろのほうに目を移すと、炭坑の近くに立つ煙突が見えた。煙がのろのろと昇っていた。
住居から仲間の坑夫がぞろぞろと出て来た。父親も混ざっていた。
「一作。食堂に行くばい」音吉が声をかけた。
食堂には朝食が用意されていた。飯と焼いためざしが二匹、それにイリコと野菜の入った粗末な味噌汁が付いていた。
皆粗末な食事には慣れていた。誰も残すことなくきれいに食べ、お茶を飲んでいると森野と権藤が書類らしい物を抱えて入って来た。
「食事が終わったら、ちょっとサインばしてもらうと思います」権藤が言った。
「サイン? 何ね? 」
「ああ、名前かいてもらうことですけえ 」
「サインて、名前かな? 」
「名前ですが、まあ、判子のような役割をします・・・」森野が書類を配理ながら言った。書類は英語である。誰も英語が分からなかった。
「こりゃあ、よそん国の言葉じゃあなかか?」維かが言った。
「まあ、そうですが、今から書いてあることを説明しますけの。後で、名前を書いて下さい」
森野は、簡単に給料や住居費用などについて説明すると、書類を高くあげ名前を記入する場所を指で示した。皆、面倒くさそうに自分の用紙に名前を書き入れた。とにかく、日本人のボス(監督 )のことだから大丈夫だろうと考えていたことと、書類の手続などにはうとい人間ばかりだった。
「日に、なんぼもらうとか?」勇気を出した男が質問した。森野は少し上を向いて考えるような仕草をし、一日十時間労働で一ドル五十は、出ますと答えた。
「なんぼな?」ドル計算ではわからなかった。
「日本の金に直すと、三円ぐらいじゃけに・・・衣食住費などを引くと、月に五十円になりますが・・・」
森野が口を濁したのは、給料から差し引く渡航費用の立替金、一人当たり約百円を、どのように説明するかと考えたからである。
「最初は、立て替えた費用なども引きますんで、まあ、そうですな、三十円 」
三十円と聞かされて、皆満足した。実際の給料の半分以上ほどを取られているのだが、このからくりも彼らにとっては何の意味も持たなかった。三十円は、当時の日本の平均給料からすると五六倍もあるからである。そして数ヶ月後、彼達の給料は建前的には、その倍になる機会が訪れる。ニオン・パシフィック炭坑にユニオンが結成され、日本人坑夫の数が思った以上に多いことを 気にしたギブソンと言う組合組織者が、日本人坑夫の参入を働きかけて成功したからである。
ユニオンは、人種による賃金の差別を廃止していたが白人坑夫のほうが少なからず有利な賃金をもらっていた。そして又、日本人坑夫の給料はボス組織に搾取されていたので、 実際には倍にならなかった。
一作は坑夫ではなく、年が若いと言うことで雑務の仕事に就くことになった。
一日経つと、父の音吉と仲間達は働きはじめた。彼達は朝二時に起きて食堂で貧しい朝食を取ると、用意されている弁当を手にし、腰にはランプ用の油を下げ、つるはしやスコップを担いで坑道に降りて行った。坑道の口から採炭現場までの五、六キロを電車の軌道の上を歩いた。蒸気エンジンで回す空気ポンプから送られて来る空気袋の膨らみが、小刻みに坑道の上の片側で動いている。坑道と並んで 空気抗が走っている。
皆、坑内においては寡黙である。空気袋のエアーの音と靴の立てる音が坑内の音だ。新人坑夫のリーダーは野上と言う和歌山県出身の男であった。
彼は別棟に住んでいる。
「皆、炭坑の経験者ですから、炭坑がどんなものかはご存知だと思います 」と野上は坑内に入る前に皆に話した。
「炭坑に事故は付き物ですが、事故は防ぐことができます」野上は東京の言葉を使った。
「とにかく、些細な異常でも逃さないこと。直ぐに私に知らせて下さい」彼は九人の坑夫を直視した。
「事故に合わず、無事に金を儲けて日本に帰りましょう」と、最後を区切った。九人の新人坑夫は、野上の先導する初めての坑道を黙々と歩いた。炭坑の仕事には慣れていたが、初めての坑道である。距離感とか、どの位置とかと言うことがつかめないのは不安でもあった。生暖かい風や湿気を含んだ空気が顔に当たると、皆三池の炭坑を思い出した。自分達が遠く郷里を離れて、異国の地の中にいる事を忘れていた。異国と言う言葉は表層社会のものである。地に潜れば現世のすべては消え失せて、唯(ただ)モグラの気持ちに近い。
採炭現場に着くと野上の指導で仕事に就いた。時刻は五時である。八時に到着するトロッコ電車に間に合うように石炭を採掘する。アメリカ人坑夫達は、この電車で坑内に入って来た。日本人坑夫は午後の五時に現場を間引き上げて、トロッコ電車で帰路に就いた。風呂に行くと、石炭で黒くなった顔や頭をシャワーで洗ってから、湯の中にからだを浸(つ)からした。
「酷(こく)かなあ 」誰かが言った。
「直ぐ慣れますよ」野上が湯で顔を洗いながら答えた。
「三池は、もっと楽ばい」
「ここは、交代制じゃあ無いですからねえ」
「金もうけ、金もうけ」と言い、他の坑夫が湯船から上がった。坑夫達は湯を使った後に夕食を取ると、直ぐに自分の部屋に戻って床の上に横になった。慣れない土地の炭坑だけに誰もが疲れを覚えていたが、日本の炭坑で鍛え上げた体は翌朝までに疲れを取り戻した。一作は、ランタンの油を用意したり、倉庫の工具の手入れなどを大島の指示で行った。賃金は日に五十セント程であったが、一年ほどすれば坑夫になれると言うことだった。
「一作君。風呂も掃除してくれ。男風呂と女風呂の二つを頼むよ」と大島が言ったので、一作は掃除道具をつかんで男風呂に行った。昼過ぎなので、湯を使っている者は誰もいないが湯は温泉のようにわいていて、湯屋の中は温かく湿っぽい。 湯はアルカリ性で飲み水には適してなく、飲み水は列車がタンクで定期的に運んで来た。ブラシで溝にたまった石炭の粉などを水で流した。男湯が終わると女湯に行った。ここの湯屋は個人の家の湯屋より少し大きい程度とである。日本人女性は七、八人ほど住んでいるらしい。一作が掃除をしていると誰かが入って来た。
女性のようだ。彼女は湯屋のドアを開けると一作の掃除の音を聞いたのか「誰かいるの? 」と声をかけて来た。
「はい・・・」一作は動かしていたブラシを止めて声のしたほうに返事した。声の持ち主は中に入って来て一作を見ると「あら?」と言い「見られない顔ね」と言った。少し化粧が厚いが、ふくよかな体躯を持つ女である。
「誰?」と、彼女は聞いた。
「一作、言います」
「ああ、あんた、今度九州から来た人でしょう?」
「はあ・・・」
「聞いてるよ。うちは床屋してるんよ」女は、屈託なさそうに笑みを浮かべて一作を見た。
「床屋ですか? 」
「そう。髪の毛伸びたら来てね。ところで、掃除はもう終わるんね 」
「はい・・・」
「そっ」と、女は言い服を脱ぎ始めた。一作は慌てて湯殿から脱衣場に出た。一作が子供だと思ったのか、裸を見せることをためらいもせずに服を脱ぐと、白い肌の前を一枚のタオルで隠しただけで湯殿に入り、湯気の中に身を置くと再び一作のほうを見て微笑んだ。一作は慌てて女風呂から外に出た。
頭の中に女の白い体がこびりついてしまったかのように、めまぐるしく動いて離れない。彼は、食堂に行って水を飲んだ。少し落ち着くと、まるで自分が悪いことをしてしまったかのようにさえ思えるのだった。
事務所に行き大島に掃除の終わったことを告げると、次にグリースをトロッコに塗る仕事が待っていた。
一作は、グリースの入った缶を手にしてトロッコを停めてある場所に行った。どこからか蒸気エンジンが吐き出す蒸気の音や、軌道を走るトロッコの音、そしてどこかで誰かがたたいているハンマーの音などが入りまざって聞こえてくる。
無造作に置いてあるトロッコに近寄ると、グリース缶に手をいれて端のほうからトロッコの車軸にグリースを塗りはじめた。グリースは指にヌルリと絡み付く。指で車軸をなぞって無駄の無いようにグリースを塗 った。
缶のグリースに手を入れていると、先ほど湯屋で見た女を思い出した。女の陰(ほと )はヌルリとしていると村の青年達か話しているのを聞いた覚えがあるし、経験もしている。実際、このような感じであろうかと思いながら、女の体がぼやけて彼の思考を揺さぶった。数台の仕事が終わると、石炭の粉で手の指が黒くなった。一作は手を砂地にこすり付けて手に付いた黒いグリースを払い落とした。次に木片を拾ってグリー スを塗りはじめたが思った以上に不手際になる。彼は再び手の指を缶の中に突き入れた。停まっているトロッコの大半にグリースを塗り終わった時、
「へーイ。 フーアーヤー 」変な言葉が、彼の耳に飛び込んできた。 一作が声のした方に顔を向けると、彼より年少な姿の少年が立っていた。
「フウー ・アー・ヤー」(Who are you?)君は誰だい? と少年は開いたのである。もちろん、英語など習ったことのない一作に、相手の言った言葉など分かるはずがなかった。女の陰などを想像しながら仕事をしていた手前、人に声をかけられて赤面したが、これが相手を安心させたようだ。年少の男の子は一作のほうに方に歩いて来ると、缶の中身を覗いて「グリース」と言い、にこりと笑った。一作も笑うしか方法を持たなかった。
「ジョン」彼は自分を指差して言った。ズボンに吊りバンド姿で、全身が石炭で黒く汚れていた。顔の一部にも石炭の粉が黒く付いている。
「ショ・ン?」一作の問いに、相手はうなずいた。ああ、名前のことかと一作に分かり「一作(いっさく)」と、彼は自分を指差した。
「イサク?」と相手に言われ、少し違うが一作はうなずいた。
「イサクって、マミー〈母ちゃん)が聖書の事を話した時に聞いたととがあるよ」とジョンは英語で言ったが、もちろん一作には分からない。ただ小さく笑っていた。
「イサク。グリース」ジョンが指差した先は、彼の肘だった。良く見るとグリースがかたまって付いている。一作は身をかがめると、砂地に肘を擦り付けた。擦り付けながらジョンの手を見ると、彼の手は荒れていた。爪などの一部が割れたり欠けているのもあった。
「どうしたとな?」一作がジョンの手を見て聞くと「ブレーカー」と言った。これは、石炭と石とを選り分ける仕事のことである。一作が首をかしげると、ジョンは近くに転がっていた数個の石炭と小石を拾い集め、中から小石を拾い上げて除けた。一作も炭坑の近くで育った少年である。ジョンがどのような仕事をしているのかが直ぐに分かった。
「でも、明日からはドア・ボーイになれるんだ」とジョンは嬉しそうに話した。一作が相手の言葉を解せずに黙っていると、ジョンは地面に小石で図を書いた。
「ここがブレスト(採掘側面)、フェイス〈採掘面 )、ギャング・ウェイ(坑道 )。ここがエアー・ウェイ(空気抗 )。ここと、ここにドアがあるんだよ」とジョンは言い、一作を見て「ドア(戸 )」と言い、閉めたり開けたりした動作をした。要するに坑道の空気の流れをドアで調節しているのである。この開け閉めの仕事がドア・ボーイと呼ばれた。
「一作!」大島の呼ぶ声が聞こえた。-作が答えると、大島が建物の影からゆっくりと現れて立ち止り 「終わったか?」と開きながら、ジョンを見て英語で何か言った。 ジョンはぺっと唾を地面に吐き出すと、一作に「シー ・ヤー(またね)」と言い、小走りで大きな建物のほうに向かって行った。
大島はジョンの姿を少しの問見送っていたが、一作に向き直ると「一作。あの小僧には、気をつけなよ」 と忠告した。
「どうしてとな? 」
「あの小僧は、悪餓鬼で良くないからさ」
「ふーん。オラにはよかったけんど」
「煙草さえ、吸うんだぜ」
「あの歳で?」
「ああ、酒も飲む。女の子に悪戯もするし・・・女湯も覗かれたことがある」 一作は、女湯で見た女の裸体をチラリと思い出して、持 っていたグリースの缶に視線を落とした。
「とにかく、グリース塗りの仕事は終わったようだね」一作が首を振ると、大島は彼に昼飯を食べるようにと言った。昼飯が終わったら、事務所に来てくれと言って立ち去った。
一作は手を洗って食堂に行った。そこには弁当が置かれていた。坑夫達は昨夜に用意された弁当を持って朝早く坑内に入って行った。一作だけが、弁当を食堂で食べるのである。飯の上に味噌が塗ってある弁当だった。煮干しが数匹に、肉の佃煮が少しだけ添えてある。一作が弁当を食べようとすると、誰かが窓をノックした。視線を音のした方に向けるとジョンの顔があった。片手に何か持っている。弁当箱のようだ。出てこいと言う仕種をした。
外に出ると、ジョンは一作に自分の弁当箱を手で示して何か言った。弁当を持ってこいと言う意味のようだ。一作は食堂の中に入り弁当のボックス(箱)を持って出て来ると、ジョンは付いてこいと言うような言葉を言い、先に立って歩きはじめた。少し小高い丘の上に登るとジョンは枯れ草の上に腰を落とし、一作にも座るようにと手で彼の横の地面を叩いた。
「どうだい? 」とジョンは日本人の若者に英語で聞いた。一作に言葉は解せなかったが、意味は通じた。
「よか、景色たい」と日本語で同意した。
ジョンは満足そうに弁当ボックスから黒っぽいパンと小さな一塊のチーズを取り出して、食べはじめた。
一作も弁当を聞けて、食べた。
彼達の眼前には、ロック・スプリングスの炭坑と遠くに町の一部が広がっていた。煙突の煙がのんびりと空間に漂っている。周囲の低い山や丘は岩石の肌をあらわにして、この町ののどかな風景を皮肉っているようだった。
一作とジョンは、ジェスチャーでお互いの家族のことなどを話した。直ぐに昼の時間は終わり、ジョンばブ レーカー(石炭選り分け )の仕事に、一作は大島のいる事務所に向かった。
弁当箱を食堂に置いて、ぶらぶらと歩いて事務所に向かっていると、建物の一部から女性の笑い声がした。 見ると「散髪」と日本語で書いた小さな看板がある建物である。 一作、は直ぐに湯屋で見た女を思い出した。
建物に近寄って小さな窓ガラスから中を見ると、あの女が男に抱きすくめられて笑い声を上げていた。一作が取り付かれたように女の仕草を見ていると偶然視線があった。ふと笑い声を止め、しっとりとした目で一作を見、にやりと微笑むと男の顔を引き寄せて唇を合わせた。
一作は、はじけるようにその場所を離れた。女の裸体と顔が頭の中でどんどん大きく膨らんで来る。彼は駆けはじめた。まっすぐに事務所に向かった。事務所のドアを開けると、森野と大島が彼を見上げた。
「食事は終わったんか?」大島が聞いた。一作が首を振ると、大島は森野に声をかけた。
「森野さん。あの、中国人坑夫達が使っていたと言う建物、あれは日本人の宿舎に改造して言い訳ですよね」
「ああ、あの古い建物ですけの。パシフィックの主任さんには許可を取ってありますんで、いつでも改造してええですよ 」
「じゃあ、一作君に家の中のかたずけをしてもらって・・・あそこでも、中国人は殺られたのですか?」
森野は大島の問いに、チラリと一作を見「大島君。 若い人もいますけえ・・・」と言葉を濁した。
大島は、軽く笑い机の上のカウボーイ・ハットをつかむと一作のほうに来て、外に出るようにあごで示した。
大島は、一作を連れて小さな倉庫に行き、掃除道具を取り出すと散髪屋の方角に向かった。
散髪震の横を通ったが、もう笑い声は聞こえなかった。散髪屋の建物の角を曲がり、小さな古い建物をすぎると、前方の外れに汚い古い建物が見えて来た。建物の一部は壊れ、ほとんどの窓ガラスは割れていた。
「こりゃあ、ひでえや」大島が言った。二棟が回廊で繋ぎ合わされている建物だったが、かなり老朽化している。入り口のドアは半部ほど壊れていた。中はクモの巣だらけで、価値のないようながらくた物が挨をかぶり床に転がっている。
「まったく、ひでえ 」大島は中に数歩入ると、プーツを履いた足で床をトントンとたたいた。乾いた音が跳ね返り、近くのがらくたから挨が立ち上がった。
「一作君。何日かかってもいいから、この建物を掃除してくれ」一作はうなずいた。
「こりゃあ、一週間ほどかかるぜ。明日からは、ここに直行だな。建物の掃除が済んだら教えてくれ」 大島が一作を振り返って言った。
「まったく、ひでえ 」大島は再び同じ言葉を繰り返し、じゃあなと言うと歩き去った。一作は、少しの問だけ建物の中でたたずんでいたが、手にした箒(ホウキ)で、挨をかぶった床を軽く掃いてみた。小さく挨が舞い上がり、動く箒の後に床の木肌が見えて来る。木肌は艶のある黒っぽい色である。ふと、事務所で大島の言った「あそこでも中国人は殺られたのですか?」と言った言葉が蘇った。
(どういったことなのだろう? )一作は思ったが、深く考え込む事でもないように思えた。彼は箒で床を掃き始めた。挨が箒の先から舞上がり、次第にズボンのすそを汚し服や頭に降り始めた。やがて、息苦しさを覚えて咳き込んだ。一作は建物の外に走り出た。部屋の中には挨が漂っている。
一作は、打ち水をして掃いたほど良いと考え、用意していたバケツを持つと水を汲みに浴場の方に向かった。 途中、散髪屋の横を通る時、やはり女のことが気になった。声は聞こえていなかったが入り口のドアが開いていて、中で椅子に腰をかけた坑夫らしき男が散髪をしているのが見えた。女は後ろから男の頭に向かっている。彼女の手にした櫛が動いていた。一作の持つバケツが軽く音を立て、女が顔を振り上げた。彼女の視線を気にしながら一作は歩調を速めた。風呂場でバケツに水を汲むと、散髪屋の側を通らずに掃除をする建物のほうに向かった。手にしたバケツの水が歩く振動で音を立てる。音は、胸の高まりのようでもある。
彼の年代は性に目覚める頃でもあるが、一作の往んでいた九州の山村は性におおらかで、いたるところに性のシンボルが神として祭ってあった。
「ちんぼ 」と男の性器を言い「おめこ」と女の性器を呼んだ。言葉は、次第に子供同士で 本物の比べ合いや、女の子と木陰で性の真似事などに発展したが性の問題が起ったことはない。
このような山村の風習が、抑圧された性をタブーとしてではなく、生活の一部とし管理していたのかもしれない。
一作は、建物の中に戻ると床に水を打った。ポソポソと小さな音を上げて、手から離れた水は床の挨の上に降りかかる。
「小使、小便」と彼は小声で言いながら水をまいて行った。バケツ半分程の水をまいた後、再び箒で掃きはじめたが挨が立つのが少なくなった分、水で濡れた床には挨が黒く付いた。箒の先が湿った挨で黒くなると、クモの巣を巻き付けて払った。箒で木の壁を叩くと乾いた音が室内にこだました。窓の割れたガラスの切れ端がぶるぶると震えている。 光がガラスに当たってキラキラと光り、やがてガラスの一部が振動に耐え兼ねて床に落ちると 音を立てた。
音は散髪屋の女の甲高い笑い声に似ている。
「おめこ、おめこ」一作はつぶやきながら箒(ほうき)を動かした。箒で楕円を挨の上に描くと、真ん中に小さな丸を描き、楕円の上から下に直線を引く。楕円の外側に短い線をを並べて描くと、女の性器である。山村の悪餓鬼どもは、この性器の図をいたるところに書き散らしては自慢していたものである。 村人は、この図に慣れていたので、子供たちの悪戯を咎めるようなことはしなかった。しかし、村の尋常小学校に赴任して来た都会育ちの新米教師には、ひどいショックを与えたようである。学校の教育問題に発展し、以来慣れ親しんだ性器の図を描くことを禁止されたのであった。一作は故郷を思い出しながら図を眺めていたが、バケツに入った残りの水を、図の上に振り掛けた。湯屋で見た女の裸体が水のなかにとけていくように思えるのだった。夕刻、大島が掃除の出来具合を見に来た。
「なかなかの出来じゃあないか」と大島は入口付近から一作に言った。
「そげんこつなかです 」
「顔が挨で真っ黒だよ。一作君 」大島の言葉に一作は慌てて服の袖で顔を拭いた。
「そで」と、大島は一作の服の袖を指さした。良く見ると服の袖は挨で真っ黒である。
「一作君。今日はこれで終わりだ。風呂に行って挨を落としたほどいいね」
「よかですか?」一作が問い直すと、大島が手を上げて答え「・・・悪いけど、明日も頼むぜ。隣の方もあるからね。 なあに、ゆっくりやってくれ。急いでないから」
大島が去った後、一作は掃除道具を片付けると湯屋に向かった。シャワーを浴びると、黒いほこりが頭や顔から筋となって体を伝わり、腹部付近でシャワーの水に流される。湯に入ったが熱いので、直ぐに上がって服を着替えると宿舎に戻った。坑夫達が炭坑内から出て来るのは午後六時である。 彼達は湯を使い、夕食を取る。 食堂で雑談した後、銘々の宿舎に帰り、直ぐに床に就くのが日課である。
一作は湯から帰った父と食堂に向かった。彼達が住んでいるのはボーデング・ハウスと呼ばれ、ボスの権藤が経営している食事付きの宿舎である。長年住んでいる坑夫達は、食事内容の不満から別の宿舎に移り、夫婦者が経営する小さな食堂で食事を取っていた。
一作達がこの宿舎で生活を始めて一週間ほど経った。 明日は日曜日で休日である。
「まずかのう 」夕食の味が良くないと口にだしたのは、一作達と一緒に福岡からやって来た坑夫である。食事は、ばさばさした飯に野菜の煮物、イリコ入りの汁である 坑夫達も慣れて来て、不満を持つ余裕が出て来たようだ。
「これじゃあ、体がもたんばい」他の者が言った。
「一杯、酒でも飲みたかねえ・・・」
「おいは、豚の足が食いたか 」
坑夫のリダーをしている野上が食堂に入って来た。洗面道具を持っているので、風呂からの帰りのようだ。
「ああ、野上しゃん」キッチンで夕食を受け取っている野上に、坑夫が声をかけた。 野上は盆に載せた粗末な夕食を運んで来ると坑夫遠のテーブルにつき「何でしょう?」と快活に言った。
「食事、まずかねえ。いつも、こんなもんね」
「はい。祝祭日には少し良い物も出ますよ」
「難儀じゃあなあ。もうちょいとうまかモン、なかとね 」
「食堂がありますが、ここの宿泊代には食事代も含まれていますからねえ・・・金を貯めるには好都合ですよ」
「外に住んじょる人らは、なんぼ払っちょるとね 」
「二ドル程ですから、まあ二日分の日当です」
「二日・・・」
「ここでは、一日分程度ですから、粗末な物しか出ないのですよ」その時、誰かが食堂に顔をだし「マイコーが来たぞ」と告げた。古株の坑夫達が腰を上げて出て行った。
「なんね?」野上にたずねると、彼は吸っていた汁の椀を置き「酒です」と答えて、飯の椀に手を伸ばした。
「酒? 」
「はい」と野上は箸で飯を口に運んだ後「イタリア人の酒売りですよ。週に一、二回やって来ます」と輿味なさそうに答えた。彼は酒を飲まないようだ。
坑夫達は腰を上げた 一作も父の後を追って食堂から出てみた。 外はまだ明るい。食堂から遠くない一角にある野外電灯の下に一台の小さな荷馬車が停まっていて、坑夫逮が取り巻いている。彼逮は次から次と酒の入ったピンを抱えて宿舎に戻って行く。
「なんぼかのう・・・」誰かが不安そうに言った。売っている老人はイタリア人だと野上が言った。すると、老人は日本語を話さないだろう。
坑夫の一人が思い切って、酒ビンを抱えて帰っている日本人坑夫を呼び止めて値段を闘いてみた。酒はウイスキーと呼ばれる物で、一本が十セントから二十セントだと言う。十セントは、日本から来たばかりの坑夫にとっては安くない価格である。 結局数人が出し合って一本のウイスキーを買う事にした。十セントを手にして、荷台にいる老人に差し出すと彼は箱から小瓶を取り出して代金と引き換えた。
マイコー老人の荷馬車の酒ビンは直ぐに売りきれ、彼は上機嫌で痩せ馬に鞭を入れた。車はぎしぎしと音を立てながら、ゆっくりと動きはじめ暗闇の中に消えて行った。
日曜日の朝、ボーデング・ハウスの朝食はホット・ケーキと呼ばれるパンのような物とバターが一切れ、それに茄でたジャガイモが付いていた。食事を済ますと、坑夫達は洗濯をしたり散髪をした。
一作は、散髪に行って来た坑夫がにやにやと笑い、女の理髪師について話しているのを耳にした。派手な女だから身持ちが悪いだろうと言うのである。女の亭主は坑夫だが人が 良いだけの男らしい。昨年に、この炭坑にやって来て女房が片手間に床屋を開業したことや、物品で身を任すと言う噂もあるらしいが、これはやっかみのようである。一作は坑夫の話を傾きながら女風呂でみた女の裸体を思い出していた。湯煙に取り囲まれた女は、肉付きの良い体をゆっくりと湯の中に沈めてゆく。
彼は、宿舎の外に出て行った。大人達の話は、彼に女の体を思い出させて苦しくさせた。一作はジョンに連れられて行った丘のほうに向かってぶらぶらと歩いた。
秋口の太陽は、夏の輝きをまだ残していて、山肌に露出している岩石に跳ね返っている。石の上に手を置いてみると熱い。靴で踏む山肌の道はザ、ザと音を立て歩くたびに小石が靴にまとわり付くような感じになる。草は既に秋の枯れ葉色で、潅木の葉の先は頼りない秋の色だ。
田舎では稲の取入れも終わり、お祭りの準備に追われているだろう。
「イサク!」どこかで彼の名を呼ぶ声がした。小さな谷をこえた丘の中腹に二人の子供の姿があった。ジョンだ。隣にいるのは友達だろう。一作が手を振ると相手は、こちらに来いと手をうごかした。一作は走るようにして岩場を抜けて谷に降りると、早足にジョンのいる丘に上って行った。
「イサク。 ハウ・ヤ・ドーイング(どうだい?)」とジョンが上ってきた一作に声をかけたが、英語の分からない彼は、笑って答えるしか方法を持たなかった。はあはあ息を弾ませていると、ジョンの横にいる人物が言葉を発した。良く見ると、同年代の女の子である。一作を見て微笑んだ。
ジョンが相手を「ジェニー」と紹介した。
家に来ないかとジョンが言った。これは、ジョンがジェスチャーを交えて話したから意味が通じた。
ジョンとジェニーが、飛び跳ねるようにして丘を下る後を一作は追った。第八坑の横を通り、第十坑を過ぎて、第四坑の手前を曲がると発電所があり、しばらく進むと小さな住宅が立ち並ぶ区域に出た。イタリアン・キャンプ(イタリア人居住区 )、グリース・キャンプ(ギリシャ人居住区 〉と呼ばれている場所である。フレンチ・キャンプも近くにあった。
日本人達は出稼ぎ目的であるため、個人の家などに住んでいる坑夫は少なく、しかも妻帯者は数えるほどであったが、ヨーロッパからの坑夫達は移民である。多くは妻帯者であった。木造の小さな粗末な家がひしめいて寄り集まっている地域に入ると、真ん中当たりに手漕ぎポンプがあり、太った女が水を汲み出していた。 数人の女が近くで洗濯をしているのが見えた。
ジョンは、ジェニーと並んで一作の前を歩いている。家々の周囲には、小さな子供たちが騒ぎながら遊んでいた。
やがて、ジェニーが木造の家の前で止り入り口のドアを開けた。小さな窓からの光が家の中の様子を浮かび上がらせている。ジョンがジェニーの後について軽いステップの上に立ち一作を振返ると、入れという仕種をした。
「オラもか?」日本語で言うと相手はうなずいた。
家の中に入った。ジェニーの母親だろうか、窓の下で縫物をしている婦人がジェニーを見て話しかけ、彼女の後ろにいるジョンと一作を見た。ジョンと婦人は軽く話し、ジョンが 一作を振り向いて婦人に何か話すと、婦人は縫物の手を止めると一作を見て微笑んだ。 一作はピョコンと頭を下げた。薄明りの家の中に目が慣れて来ると、片方の角にあるベットに座っている男性が目に入った。 光に当たらない顔の皮膚を見ると病人のようだ。
病人はジェニーの父殺なのであろう。 目はブルーで穏やかだったが光が無かった。
「ミスター・オーランド、どうですかお身体は? 」ジョンが聞いた。ベットの男はよわよわしく微笑むと、今日は調子が良いよと答えた。
「言われた所にジェニーと行ってきたのですが、見つかりませんでした」
「そうか・・・」
「あれは、本当のことなのですか?」
「本当だ。私は、見たのだよ」
「でも、あの茶は炭坑の中で燃えたのでしょう? バーニング・マウンテェイン(燃える山 )の話は誰も知っていますよ」
一八七五年に、白人の労働者が賃金の是正を求めてストライキを起こした折、ストライキに対抗したパシフィック鉄道炭坑社は、安い賃金でも働く中国人坑夫を使い始めた。 中国人の坑夫は次第に増加の一途をたどり、一八八五年には五百名の数にも及んだ。中国人達は中国街を形成し、自分達のコミュニティー(地域社会)を作り上げた。
一八八五年九月二日、白人労働者は中国人労働者達を襲った。事の発端は、会社の担当者が、白人の受け持つ炭坑を中国人に代えようとしたことであった。 最初はツルハシとかショベルの様な物であったが、事件はエスカレートし、ライフルや拳銃が使われた。白人坑夫達は、自分達の労働区域に、低賃金で労働を提供する中国人坑夫達を日頃から憎悪していたので、襲撃事件は中国人街にもおよび二十八名の中国人が殺された。 中国人達の財産は略奪され、一部の茶などが炭坑の中に隠された。この盗品が警察に見付かった時、略奪者達は発覚を恐れて、証拠隠滅のために茶の箱に火をつけた。火は石炭に燃え移り、山全体が燃えたのを人々は後から「燃える山 」と呼称したのである。
「・・・いや、燃えたのは一部なのだよ。他に金貨や宝石類のたぐいも隠された。これは略奪したもの達がやったのではなく、中国人坑夫相手に賭博場を開いていたギャング達が暴動から逃れる時に隠したものだ・・・」 ベットの男性は軽く弱々しい咳をした。咳はしばらく続いて、婦人が薬を飲ませるまでおさまらなかった。
ジェニーがココアの入ったカップを運んできてジョンと一作に手渡した。一作は頭を下 げて受け取ると口をつけた。初めて欽むココアだったがおいしいと思った。
「これは、うまかあ」日本語で言うと、通じたわけでもないのだろうが皆が微笑んで一作を見た。
「ジョン。彼は中国人かね?」
「第八坑で働いていましたから、ジヤパニーズでしょう」
「ジャパニーズか・・・」
「良い奴なので友達になりました 」
「そうか・・・」
「そうだ。かれにも手伝ってもらって良いですかね?」
ミスター・オーランドは弱々しく一作を見た。
「イサクは例の、中国人達の宿舎近くに住んでいますよ」
「あばら屋のほうかね」
「いえ、ボーデング・ハ・ワスですが・・・彼が掃除しているのを見ました」
「掃除?」
「はい 聞くところによると、日本人坑夫が住むようになるらしいです」
「日本人、か・・・良いだろう。彼にも話して見てくれ」
一作は、ジョンが土の上に絵を描きながら話すことを聞いていた。彼によると、逃げた中国人が隠した金貨と宝石などが炭坑のどこかに見つからずにあるらしい。それを見つけて、病気の坑夫達の援助資金にすると言う話だった。
「よか。話にのるたい」一作はきっぱりと言った。彼は、自分も肝の大きい九州男児の端くれと思っている。 ジョンに胸をたたいて見せた。この動作は、どうやら各国共通のようで「了解した。任せなさい」 と、意味が通じるもののようだ。大人になったような意識を覚えた。
既にアメリカ政府は中国に当時の金額で$149 、000の賠償金を払っていた。
月曜日の朝、一作は宿舎から真っ直ぐあばら屋の方に行き、掃除に取り掛かった。前回と違って宝物の話のことが頭にある。床の掃除に、もう「おめこ」の図などは描かなかった。どこかに宝の地図などが描かれているのではないかと思いながら掃除を進めた。
「一作君 」と彼の名を呼び、大島が現れた。
一作が頭を下げて挨拶をすると、彼は「どうだい?」と言った。
「?」
「変な跡などないかね?」
「変な、跡?」
「ああ、そうか。 君は、知らないよなあ・・・」と大島は言い、入り口のドアに片手を預けると、辺りをキョロキョロと見回した。
「なあんも、ねェよなあ。ありゃあ、嘘だろうなあ」とつぶやきながら、床などを靴でとんとんとたたき 「使えるね」と言った。
「仕事続けて、よかですか?」
「うん。よか」と大島は一作の方言を真似し、去る振りをしたが思い直したように一作に近寄ると「一作君。これは他の人には内緒だぜ 」と前置きし「ここは中国人虐殺のあった場所さ。血の跡などが残っていたら、完全に取り除いてくれよ。他の人には言うんじゃあないぞ」と念を押して帰って行った。
十三才の青年にとって「血の跡」などと言われたら、薄気味悪さがおうじて当然である。しかも虐殺のことは、昨日ジョンから絵で説明を受けていた。掃除の最中に風で戸が軋む音にも気味悪さを感じた。挨を取り除いた床が黒くなったりしていると、血の跡ではないかと思った。
一作はジェニーの家の近くで、両足のない元坑夫を見た。落盤事故で両足を失ったのだという。会社からの保証金は微々たるもので、政府からの生活手当ても十分ではないらしい。
若し、中国人ギャングの隠したと言う財宝があれば、炭坑で身体を悪くした坑夫達の役に立つとジェニーの父親が言った。
「どげんしょかねえ・・・」一作は声にした。ジョンに宝捜しを協力するとは言ってみたが、実際何をすべきか皆目見当がつかない。
箒(ほうき)で天井や壁のクモの巣を落としながら考えていると、憂欝になってきた。 箒で「エイ! ヤー!」と声を上げて壁をたたいていると、壁の一部がぽろりとはげ落ちた。 慌ててはげ落ちた破片を拾い、はがれて窪みとなった所に持って行こうとして、窪みに小さく折りたたんだ紙片を見つけた。手に取ってみると地図のような物が描かれ、漢字が並んでいる。(宝の地図? )昔話のような出来事だと思った。
一作は、紙片をポケットにしまった。 胸が少し高鳴っている。これが本当に宝の地図であればと考えるだけで、うきうきして来た。
昼食の時間、一作は急いで昼飯を食べるとジョンの働いている「ブレーカ ー(選定工場 )」の方に行ってみた。 前方に大きな煉瓦でできた建物が見える。建物は丘の上にあり、斜めに傾斜している。建物の上部に向かって、掘られた石炭が運ばれるコンベヤーがつながっている。コンベアーが運んだ石炭は四十五度になって、傾斜しているブレーカーの場所をゆつくりとずれ落ちてゆく。 十歳から十四歳の少年達が、この傾斜に向かって一日中、石炭に混ざる石などの不燃性の物を選り分けている。彼達は傾斜につけられている日本の階段のような段に、銘々が腰をかけ背を丸くして石炭のずれる斜面で手を動かし続けた。手袋をはめないまだ固まらない彼達の手は、直ぐに爪が割れ血を出した。法律では十四歳以上の者と決められていたが、親の生活費の一部とするために、彼達は年齢をごまかして働いているのである。 背後には棒を持った大人が見張っていた。ブレーカーの建物の下方部には、トロッコの入る入口が何個も開いており、線路が走っている。
一つの線路には選定された石炭をのせたトロッコが、二人の大人に押されて動いている。もう一方では馬車で引いている。あちこちが石炭の粉で黒ずんでいた。一作は、ジョンが仕事場から出て来るのを待ったが、ブ レーカー・ボーイ達が数人で寄りかたまって出てきてもジョンの姿はなかった。 少年達は外に出ると大人のように煙草を吸った。
又、お互いに罵り合うような素振りを見せた。言葉は分からなかったが少年遠の言葉は悪く聞こえた。
「ジョン・・・」と、悪餓鬼達に声をかけると、数人が一作のほうを見て何か言った。しかし、一作には分からなかった。
石炭で所々黒く汚れた二三の少年と、背の高い年長らしい少年が一作の方に来て再び何か言ったが分かるわけがない。
「ジョンを、探しとる」と一作は腹にカを込めて言った。
「ジョン?」背の高いのっぼが聞き直した。
一作がうなずくと、彼は皆を振り返って「ジョンだってよ。どっちのジョンだろう?」と声を上げた。
「髪の毛は何色だい?」と、一人が一言った。一作には通じない。のっぼが頭の毛に手を当てて何色だ?」 と開いた。
一作は茶色い髪の少年を指差した。 皆、ああ、あいつだと言った。
「ジョンは、ドア・ボーイの仕事に変わったよ」のっぼが言った。
「ド・ボイ?」
「ちがうよ。ドオア・ボウイ、ドー ア・ボーイ 」と、のっぼは一作の言葉を直し「オープン
(開く)、クローズ(閉じる)」と言いながらドアを開いたり閉めたりする仕種をして見せた。一作にも理解できた。
「どこにいるとね?」一作の日本語の問いに、のっぼは理解できたのか手のひらを開け「ファイブ(第五)」だと答えた。話の流れから意味が通じたようである。一作は、頭を軽く下げて日本語でお礼を言うと踵を返した。ブレーカー・ボーイ達も、再び仕事場のほうに向かって歩きはじめた。束の間の休息時間だったようだ。一作がしばらく歩いてブレーカーの方を振り替えると、コンベアーが動いているの見えた。黒い石炭が蠕動運動(ぜんどううんどう)する生物のように、斜めに登るコンベアーの上に見えている。
建物の近くにある小さな煙突から登る煙が風で揺れていた。あちこちから色々な音が聞こえて来る。総ては地上で動く物と音であるが、一作の歩く下の方では、坑夫がドリルの音を立てているのである。
「もぐら・・・」誰でも坑夫を、地中で動くモグラとを連想する。しかし、坑夫は人間である。地上で、太陽の光を十二分に受けて生きる生物なのだ。一作は、夏の終わりの太陽を仰ぎ見た。歩いていると額に汗をかいた。
「あつか・・・」と彼がつぶやいた持、汽車の汽笛の音が遠くに聞こえた。汽車の線路の走る山のふもとのほうを見ると、機関車の吐き出す煙のみが丘の影に見えている。ふっと郷愁が起こった。
散髪屋の前で、女がドアを開けようとしているのが見える。ドアは、何かにつかえて開かないようだ。女が両手で引っ張っているが、少し上部が開き加減のドアは押し止まったように動かない。
「どうしたとですか?」一作は、小さく声をかけてみた。女が振り返った。
「鍵が、たぶん、ね。ひかかってると思うんよ」女の鼻の頭が光っている。一作は、ドアに近寄ると鍵とドアの隙間を見た。 少し鍵の爪がひかかっているようだ。
「何か、ここに差し込めるような物・・・」と言い、一作が辺りをきょろきょろ探していると、女が手にしていた袋からハサミを取り出した。
「これで、どうかしら? 」
「よかと、思います 」
一作は、ハサミの刃先で鍵の爪を少し動かしドアを手前に引っ張った。ドアは簡単に関いて、中の緩められていた空気が化粧品の香りを載せて鼻をかすめた。
「あら? 開いた」女は驚いたようなそぶりをして笑顔を見せた。
「ハサミ・・・」一作が女にハサミを突き出すと、彼女は「ありがとうねえ。少し待っていてね」と店に入り、飴を二三持って来て一作の手に握らした。
「お・れ・い」言葉を区切るようにして言い「いつでも、散髪に来て。ただでしてあげるからね」と、付け加えた。はちきれそうな乳房の膨らみが目に入った。一作はうなずいて、足早に掃除の建物に向かった。
女の身体は丸みを帯びている。湯屋で見た女のからだが一作のからだの中に膨らんで来る。
彼は、雑巾を水でぬらすと床をふきはじめた。 雑巾を床に置き両手を添えて拭きながら、わけの分からない言葉を口にしては拭き続けた。床を濡れ雑きんで拭く事で、自分の気持ちを押さえたかった。
次の日曜日まで、一作はジョンに会う機会が無かった。 日曜日の朝、いつものように朝食を済まして宿舎の前をぶらぶらしていたが、自然に足は丘のほうを目指していた。上がると、ジ ョンが宝捜しに来ていないか辺りを見渡してみた。どこにも、人影はない。静かな朝で、どこからか教会の鐘が聞こえて来る。
一作は小さな枯れた木の株に腰を落とすと、ポケットから中国人の元宿舎で拾った紙片を取出した。今日までポケットにしまったままだったのは、誰かに見られると困るからと言う単純な子供的な考えからだった。 どこにだって、他人に気付かれないで、拾った紙片を見られる機会や場所はある。それでも、見ると、宝の地図が無くなりそうだった。何度もポ ケットのわずかな膨らみを手で確認しては、胸をわくわくさせていた。
地図を取出すと、折りたたんだ部分をゆっくり広げた。丸い山が三個描かれている。流れらしい部分もあるがこの辺に水の流れは無い。一作は、頭を上げて周囲の地形を眺めたり、地図を見たりして、ロック・スプリングスの地形に描かれた宝の地図を当てはめようと、努力していた。
「イサク!」誰かの声がした。一作は慌てて地図をポケットにしまおうとして、丘の下方にジョンの姿を見つけた。
一作が手を振ると、ジョンは駆け上がるようにして彼の前に現れた。ジョンは上がって来た後、しばらくはあはあと荒い息をしていたが 「ハーイ(やあ)」と手を上げた。一作は地図を取出して彼に見せた。ジョンは首をかしげて一作の手にある地図を眺めたが、何だろう? と言うような振りをしている。
「宝の地図じゃあなかか?」と一作は言い、お金とか首飾りの形を身振り手振りで説明した。
「宝?」とジョンは英語で言い、一作から紙片を取り上げた。
「山が三つじゃあ ・・・」一作は紙片の山を指で一つ一つ押さえて 「三つじゃあ 」と言い、周囲の山をジョンに指差して「六つじゃあ 」と首を傾けた。ジョンも地図を見たり周囲の景色を見たり、紙片を回して地形に合わそうと、一作がしたことと同じようなことをした。
しばらくの間、二人は地図を囲んで、ジョンは英語で一作は日本語でやり取りをした。
「わかった!」突然、ジョンが英語で言った。
「イサク。分かった。山は三つだよ。ほら見てごらんよ」とジョンは言い、一作に彼の手の指す方向を見るように促した。
「いいかい。この山とこの山は本物、これとこれは偽物・・・」とジョンは言い、足元の砂まじりの土を両手で拾い上げると、手から落として山のように盛り上げた。
「ああ、ぼた山かあ・・・」ぼた山とは石炭を選別した後に残る岩石や粗悪な石炭を捨てて山のようになった場所のことである。 一作は合点した。すると、この地図はこのパシフィック炭坑の地域しか描いてない。では水の流れはどこだろう? 二人は数待問ほど、この疑問を解こうとあれこれ知恵を出し合ったが分からなかった。 昼近くになり、ジョンは炭坑内の空気調整のドアを動かすために行かなければならないと言った。
ジョンは現在「ドア・ボーイ」と言う、坑内の空気を調整するドアの開け閉めを仕事にしていた。これはブレーカー・ボーイの仕事よりも坑内にいるぶん賃金が高く、少年達が希望する職種である。この後は、トロッコの運転で、次に大人の仕事として賃金の良い坑夫の仕事が与えられるのだった。
一緒に行かないかとジョンが言うので、一作は父親に友達と遊びに行くと言いジョンと坑内に入った。 ランプを手にして数キロメートル程も坑内を歩いた所に、木でできた一枚のドアが坑道をふさいでいた。 これを開けて空気の流れを変えるのだと言う。木のドアには鳥の絵がいたるところに描かれている。ジョンはランプで鳥の絵を照らし出した。石油ランプの炎に照らし出されたドアの表面は、ランプの揺れでゆらゆらを動き、 描かれている烏たちが羽音を立てて飛び上がるのではないかとさえ見える。
「うまかなあ」日本語で上手だなあと感心すると、通じたのかジョンは照れたように頭を掻いた。
「どうして、鳥だけなんじゃあ?」一作が描かれている烏を何羽も指差すと、ジョンは得意そうに「鳥が好きだからさ」と英語で答えたが、一作に通じた。
「鳥が好きとね。ふーん。こげな穴の中にいると、鳥はよかたい」
ジョンは扉を開けた。冷たい空気が一作達のほうに勢い良く流れ込んで来た。小さなつむじ風が彼達の体を打った。
石炭の壁に当たる風は、鋭い石の面に当たってヒュー、ヒューと音を上げてかけ去ってゆく。石炭のにおいが風に混ざっている。
「ゲタワト・ヒヤァ」出ようぜとジョンが言った。一作には「下駄うと冷や 」と聞こえたがジョンが歩き出したので後を追った。
「下駄うと冷や 」と一作が言うと、ジョンは首を振った。(・・・ああ、なるほど、場所から出てゆく時の言葉か)と一作は納得した。
坑内から外の景色が見えた時は、やはり安心する。太陽の光が筋となって坑道に射し込んでいる。彼達は石油ランプを吹き消した。芯から油のにおいが鼻をかすめた。
「イサク。地図なくすなよ 」とジョンがジエスチャーを交えて言った。
「心配せんでよか。だいじょぶたい」と彼は地図の入っているポケットを手でたたいた。ジョンは、一作を連れて彼の家に行った。ジョンの家は典型的な坑夫の家庭である。母親は彼達が帰ると、軽い昼食を用意した。ジョンには妹がいる。まだ十才らしい。父親は炭坑夫らしくない痩せた色白の男性であった。
「ジョン。ムーンシャインを作りに行くが一緒に行くか 」と父親が息子に開いた。
「うん。この友達も連れて行っていいかい? 父さん 」
「ああ、いいよ 」ジョンは一作にムーンシヤイン見たくないかと開いた。
「それ、なんね?」
ジョンは、妹にムーンシャインの絵を描いて友達に見せてやってくれないかと言った。ジョンの妹はうなずくと、紙と鉛筆を持って来て絵を描いた。 三日月の絵が紙の上に描かれている。 妹は一作に絵を見せムーンシャインと言った。 一作が不思議な顔をしているので、ジョンは笑った。彼は笑いながら一作に液体を飲む 振りをして見せた。
「ああ、酒とね 」一作は茄でたジャガイモを口に運びながらつぶやいた。
ジョンの父親が荷馬車を借りて来た。 この馬は、数年前まで石炭を坑道から選びだしていたと言う。手っ取り早いムーンシャインを造るなら、トウモロコシの粉に砂糖、モルト、きれいな水、そしてイースト菌が必要だ。
彼達は、前もって買い揃えられていた原料の袋を荷馬車に積込んだ。 馬車に揺られながら一作は、ジョンの父親から、ムーンシャインを造るには、きれいな小川の近くが一番だと聞いた。 小川? この近くにあるのだろうか? ふと、一作は宝の地図を思い浮かべた。 馬車は汽車の線路を横切り、川をよこぎつた。 宝の地図に描かれていたのは小川である。このような幅の広い大きな川ではなかった。 川を渡ると緑が多くなった。 緑の多い低い 丘が交差している向こうに、高い山が見えている。 山はホワイト・マウンテェン (白い山 )と呼ばれていた。
馬車は、右のほうに入っている小さく浅い谷に向かっている。小さな道だ。ジョンの父親は慎重(しんちょう)に馬を歩かせている。
やがて小さな茂みのある平たい場所に出ると、馬車は止った。ここだと、ジ ョンの父親が言った。空気が澄んでいて、水音がまじかに聞こえている。ジョンの父親は馬を馬車から離すと、草の生えている辺りに馬を連れてゆき、手綱を木の枝に軽くしばりつけた。材料を持って小川のほとりに行くと、ムーンシャイン造りに必要な道具が置かれていた。大きな樽や、釜のような物だ。ジョンの父親は、度々ここでムーンシャインを造っているようである。彼達は小川で樽をきれいに洗った。総ての道具を水洗いした後、ジョンと一作は釜を炊く枯木を集めた。林の中は静かで、二人の立てる物音のほかには小鳥の鳴声だけである。木々の葉を通して太陽の光が射し込んでいる。
ジョンの父親が二人を呼んだ。小川から水を汲むのを手伝ってくれと言う。三人はせせ らぎの水を、バケツ・リレーしながら材料の入った樽の中に運び入れた。ジョンの父親は水をうまく調整した後、棒で中をかき混ぜはじめた。ジョンも一作も何度も使われたと見える棒を小川で洗った後、ジョンの父親に習った。 やがて樽の中は白く濁って来て、軽く泡を立てて来た。「マッシュ」は出来たと、ジョンの父親が微笑んだ。白い顔が労働で赤く染まり汗を浮かべている。ジョンの父親は小川に歩むと水を手ですくって飲み、バケツを小川できれいに洗うと、樽か ら“マツシュ”と呼ばれるかき混ぜたどろどろの液体を釜のほうに移しはじめた。これも三人でリレーして行った。
石で囲ってある釜の下に火が燃えはじめた。火は燃えはじめると火力を増して、彼達の差し入れる枯木に燃え移る。炎が石のかこいの隙間から時々外に吹き出した。ジョンの父親は慎重に液体を眺めながら、時々中をかき混ぜた。やがて甘ったるい匂いが林の中に流れはじめた。釜の中の液体は次第に茶色くなり、やがて透明になって来た。ジョンは、何度もこの仕事を手伝った経験があるらしく、次の仕事を始めた。金属の管が長く伸びて樽のなかに入り、くるくると回ってから、樽の下の方で外に出ている。この樽に水を入れはじめた。水をいれると、所々樽の継目から水がこぼれる。それでも入れ続けていると、樽の板が水を含んで膨張したためか、次第に水はこぼれなくなった。釜の中からは湯気がのぼり始めている。液体はこげ茶色で澄んで来た。 白い湯気が次第に勢いを増した。
ジョンの父親は、金属の管のつながった漏斗(じょうご)を逆さまにした蓋(ふた)のようなものを釜にかぶせた。釜と蓋の間の隙間からは蒸気が洩れた。 ジョンは、樽に溜められた水の中を通って外に出ている管の下にきれいな器を置いた。やがて器の中に液体がちょろちょろとこぼれ始めてきた。
「ムーンシャイン・・・」と、溜息を出すようにジョンが言うと微笑して一作を見た。ジョンの父親がやって来ると、小さなブリキのカップに液体を注ぎ香りをかぐと口に持って行った。ごくりと喉のなる音がカ強く聞こえた。
「うまい! 良い出きだ」と、父親は言うとカップをジョンに手渡した。ジョンも口をつけた。
ジョンはカップを一作に差し出した。欽めと言う。一作は手を出してカップを受け取ると中の匂いをかいだ。 軽い焼酎の匂いがする。
九州の一作の村では、男達は皆酒を飲んだ。お祭りなどでは村一帯に酒のにおいが漂うほどだった。子供たちも親に隠れて大人の真似をした。 十二、三になると総ての子供、が 酒を味わった経験を持 っていた。 飲食、喫煙、性的行動などに対する大人のコピーを、子 供達は大人の知らないところで経験したのである。
一作はカップの中の液体を口にした。液体が喉を通り胃の中に落ちると、小さな炎がポッと体の中で燃えたように感じた。
持って来たいろいろな形のボトル(瓶)に液体を詰めた。釜の火を消して、水を抜いた釜や樽を洗い、再び馬車で家路に向かった。既に日曜日の太陽は山の頂上近くまで傾いている。ジョンの家に着いた時は夕暮れだった。一作は一瓶(びん)の酒をもらうと宿舎の方に帰った。宿舎に父はいなかった。彼は、酒瓶(さかびん)を片隅に置くと、食堂のほうに向かった。 食堂の外れに坑夫が集まっているのが見える。何事だろうかと、近寄ってゆくと父親の姿もあった。坑夫達は、丘の斜面に思い思いにすわっている。彼達の前には小さな台が置かれており、台に向かって立っている男が「荒木又右衛門があ!」と、大きく声を上げながら講談本を朗読していた。 一作はぶらぶらと散髪屋の方に歩いた。彼の身体のなかでムーンシャインの炎が揺らめいている。身体の偶のほうで散髪屋の女の裸体がちらついていた。夕暮れだったので散髪屋の店には既に電気の明りが点(とも)っていた。日曜日なので稼ぎ時なのかもしれない。一作は何気ない風を装って、店先を歩きながら小さなガラス窓の中を覗き見た。女が散髪をしている。その横にも男が客の散髪をしている姿があった。女の亭主であろう。店の中から話声がしている。女の甘ったるい声が一作の耳をとらえた。ふと、顔をそらして炭坑の方に目をやると、黒い山の上に星が輝いて見える。
「一作!」どこからか彼を呼ぶ声がした。声のしたほうに目をやると大島である。大島は近寄って来ると 「ほら 」とビスケットを二つ一作に握らした。
「講談は、聞かんのか?と、大島が聞いた。
「大人ばっかしじゃから・・・ 」
「一作も、大人だろう? ああ、そうか。まだ、女知らんか?」と大島は言い、愉快そうに笑うと散髪屋の店に歩いて行き中に入った。
〈いつでも散髪に来て、ただでしてあげるからね)女の言葉が思い起こされた。一作は、しばらく大島の入った散髪屋の方に目を向けていたが、講談が終わり坑夫達が食堂に移動し始めた様子に歩き始めた。
食堂の近くで父親の姿を捉えると、一緒に食堂に入り日曜日の夕食を取った。夕食には 小さな煮魚が皿の上に無造作に置かれ、もう一つの皿には野菜の煮物が入っていて小さな肉片も混じっている。坑夫達は、短い日曜日の最後を夕食で終わる。夕食を取った後は風呂に入り、直ぐに床に就いた。彼達は明朝、二時過ぎには床を離れて仕事に向かわなければならないのである。
宿舎に戻ると、一作は父親に酒瓶を渡した。
「どうしたと?」父親の音吉が驚き顔で、心配そうに低くたずねた。
「もらったとお 」
「もらった?」
「うん・・・・・・」
「誰にい、もらったとや?」音吉は、恐る恐る聞いた。
「友達に、もろうたばい。仕事、手伝ったら、くれた」音吉は、酒瓶を自分のひざの上に抱えるようにして、一作の話をホウ、ホウ」と上の空で開きながら、瓶の中身を確かめていた。
「のんで、よかとや?」音吉が一作に聞いた。
「よかよか」と一作は答え、マットの毛布の上に仰向けになった。音吉は、近くの台に置いていた茶碗を取り上げると、あぐらを組み、足の聞に酒瓶を置いて栓を抜いた。ビンは日本の一升瓶より小さ目であるが、寸胴(ずんどう)であるのでかなり酒が入っているだろう。
音吉は酒瓶の栓を抜くと、瓶を口に鼻を持ってゆき匂いをかいだ。
「よかにおいたいねえ」と言い、目を細めると中の液体を茶碗の中にそそいだ。茶碗を手で持ち上げると、再びにおいを嗅ぐような仕種をして、ちびりと一口なめると「うまかあ」と声を上げ、喉を鳴らして一息に飲むフーと息を出した。
「余りの飲むと、お母あに言いつけるぞ」
「こまかこと、言うな。お母あは、九州じゃあなかか 」
「マイコー爺さんのと、どっちがうまかとね」
「こっちが、ええ。何と言う酒じゃな」
父親の音吉の言葉に一作は天井を見たまま「ムーンシャインと、言うげな」と無造作に答えた。
「『むんシャン』・・・ハイカラな名前たいねえ」と音吉は感心したように言い、再び酒を茶碗に注いだ。
一作は眠くなってきたので、毛布を集めて布団にした寝具の中に潜り込んだ。直ぐに睡魔に身を委ね、女のからだの夢を見た。
数週間が過ぎた。
九月の終わりの金耀日、一作達はアメリカに来て初めての給料を受け取った。 白人達は二週間に一回の割で給料を支給されているが、日本人坑夫は一月に一度の給料を日本式に支給されることになっている。事務所で給料をもらった日本人坑夫達は銘々の宿舎に帰ると、ドル紙幣を数えながら貯金用と自分達の小遣い用に分けて懐に入れた。一部の坑夫は、事務所が銀行代わりのような事をしているのを利用したが、これを着服するボスもいたらしい。月の終わりの土曜日と日曜日は二連休であった。この二連休の日にジヤツプ・キャンプでは賭場が開かれるのである。
権藤は、一作が掃除をした元中国人宿舎を緒場に改造した。キャンプで一番の収入は賭博である。権藤は胴元を引受け、シアトルから賭博のプロを雇った。一作達のグループも賭場が開かれることは、口コミで知らされている。
「音吉。行くとか?」昼飯の後、三池で一緒に働いていた音吉の同僚が花札をきるふりをしながら聞いた。
音吉は横にいた一作をちらりと見、渋い顔で首を横に振った。
「あんひとら、信用できん」
「だれな? 」
「博打(ばくち)うちが来よるげな」
「そげんこつか。小倉でも同じじゃあなかか。どこの緒場にも博打うちはおるたい」
音古は、手を自分の顔の前で振って、拒否した。
父親の坑夫仲間は、湯飲に残っていた茶を飲干すと席を立った。音吉は、自分の湯飲を持上げると軽く啜った。
「お父う。博打やらんとか?」一作が聞いた。
「やらん。あんもんは、勝つようにゃあ出来とらんとぞ」
「かるーく。あそびば、やらんね 」
「馬鹿もんが、何言うか。あげなものに、手え出すんじゃなかぞ」音吉の言葉に一作は頷いた。
食堂から出ると、行商の馬車がジャップ・キャンプに入って来ているのが見えた。チャンと言う中国人の行商人である。彼は週二回、野菜などの食料品を食堂や個人に売りに来る。
給料日を目当てにして、チャンの馬車には普段より多くの物が積まれていた。 食料品や日常雑貨の品物が箱から出された。 片一方には豚の肉が並び、豚足が二十個ほど積上げられた。九州出身の坑夫達は、金を出し合ってこの豚の足を買い占めた。
「これで、一杯やるばい」と、酒を飲む仕種をしながら坑夫が嬉しそうに目を細めた。 彼達はチャンからラオチュー(老酒 )も買った。
「賭博は、やらんとか?」 誰かが聞いた。
「豚足で、一杯が先ばい」
「それが、よか。どうせ、負けるたい」
一作は大人達に混ざって、砂糖菓子を一包み買った。包んでもらった紙包から小さな一欠けらの砂糖菓子を取上げると、ロに運んだ。 砂糖菓子には生姜(しょうが)の味がつけてある。甘い味が舌の上に広がると、生姜の味がじわりと甘い味に溶け込んで来る。
一作は、故郷の母を思い出した。 母の手から渡される物は総てが美味かった。母は魔法の手を持っているのだと子供の頃は思っていた。魔法のように差し出されるおにぎりや飴にお菓子、それに、母の手は一作の顔や体の汚れや衣服の乱れを、どこからかやって来て直すのである。
彼は空を見上げた。太陽が少し西に傾いている。
「一作 」父親の音吉が声をかけて来た。父親は食堂で坑夫仲間と一杯飲むと言う。
一作は、砂糖菓子の包をポケットに入れて、ぶらぶらと歩き始めた。散髪屋の横を通り、彼が掃除をした建物の方に歩いて行った
建物の入口付近には、数人の男が座ったり立ったりして煙草を吸っているのが見える。 部屋の中には大勢の男子(おとこ)達の姿がある。
一作は博打場に入ってみたくなり、入口のほうに歩んだ。誰かが彼を止めるかもしれないと思ったが、入口付近の男子達は一作の行手を阻まなかった。
五つの賭場があり、二つはサイコロで三つが花札である。博打うちの威勢のいい賭けをそそる声が響いている。綱元の権藤は椅子に座っていた。横に体の大きい男が煙草を吸っている。
彼達の目の前には箱が置かれていて、金貨が積まれていた。賭場は金貨で賭け事をしているようだ。金貨が、ガラス窓から入る光に輝いている。坑夫達の目は、金貨の山にとりつかれたように空虚だ。
金貨の山は、黒い石炭を掘る男子達の前に、山吹色の輝きを放っている。
「土佐山親方」と、誰かが権藤の隣にいた男に声をかけた。男の背後には中国人が立っている。
土佐山親方と呼ばれたのは、山本貞枝と言 い、土佐出身でアメリカ西海岸の日本人社会にいる遊人達の間では、ボス的存在の男である。元相撲カ土で、土佐山と言う四股名(しこな)を持っていた。
中国人が顔を崩した。前歯が欠け、煙草の脂で染まった茶色い歯が左右に小刻みに動いた。
男は土佐山と権藤とを連れて、片隅の方の壁に歩いて行く。壁は一作が見つけた地図のあった方である。
中国人は、地図のあった壁に近付くと軽く叩きはじめた。皆賭け事に夢中で、誰もこの叩く音に注意を示さない。
男が叩く壁は、次第に地図のあった穴のほうに動 いている。
一作は、そっと賭博湯から抜け出すと急いで宿舎に帰った。彼達の探しているのは、間違いなく一作が見 つけた地図であろう。壁を叩いていると、一部がぽろりと転げ落ち窪みに地図が隠されていた。ジョンの友達であるジェニーの父親は、宝石類が中国人達によって隠されていると話した。宝石類を見 つけて、病気の坑夫達の治療費として使いたいと言うのが彼達の希望である。一作は、坑夫達の住む粗末な家屋を思い出した。そこには石炭の粉塵で肺をやられている喘息患者と、坑内爆発や落盤で手足を失ったり怪我をしている坑夫達が暗闇にひっそりと横たわっていた。
「宝の地図は、あんひと達の物たい」一作は、小さくつぶやいて箱から地図を取り出すと 安全なところに移すことにした。
月曜日、ほとんどの坑夫は持金を博打ですっていた。早朝の三時に宿舎を出て坑内に入った坑夫達は、自分達の歩む足音を開きながら、無言で坑夫リーダーの野上の後に従っている。
「あん金あったら、直ぐに九州に帰るこつになあ・・・」誰かがつぶやくように言った。
「あん金?」野上が後ろを振り返って聞いた。
「賭博場の金たい」野上の真後ろの坑夫が代わって答えた。
「ああ・・・負けたのですか?」
「負けた。目の前に、山のこつ積まれた金貨を見ると、この金とったら、直ぐんこつ家に婦れる思うと、血迷うばい」
「カカアに会いたかねえ 」
「博打をやらずに、金を貯めることですよ 」野上が言った。誰も野上の言葉に答え返さなかった。まじめにコツコツと貯金することが、一番手っ取り早く安全な近道だとは誰でも知っていた。
「権藤さんも、悪か人たいね。賭場開いたら、坑夫は博打に狂うじゃろうに・・・」音吉が言った。
「音吉は、博打やらんから、よか 」
「博多で、懲りちょる」
「博多か・・・」皆、郷愁を覚えた。手にしているカンテラの光が暗い坑内をゆらゆら揺れながら進んで行く。 時々生温かい風や冷たい風が顔に当たる。 巨大なファンがエア・ウエイ(空気道 )と呼ばれる坑道に空気を送っている。
小さな坑内電車の走る音が聞こえて来た。坑内の空気の流れをチェックする係の電車である。坑内の空気の循環は、坑夫が仕事にかかる前に毎日点検されている。点検は重要な仕事で「ファイア-・ボス(消防主任 )」と呼ばれる検査係りが、点検を行っている。空気の循環は坑内の有毒ガスやダイナマイトの煙などを上手く坑道外に押し出し、坑夫に新鮮な空気を補給する大切な役割をしているが、それでも、坑道の奥深くでは時々空気が淀んでいた。 坑夫達はギャング・ウェイ(主要坑道 )から採炭現場に向かい、真横に掘られている石炭運搬用の坑道に入って行った。 空気抗が横切っている。しばらく進むと、坑道の支えに使う丸太などが置かれている広めの採掘現場に着いた。
彼達は無言で持場に就き、採掘のドリルが音を立て始めた。
一作が食堂で朝食を取っていると大島が入って来た。 彼がゆで卵の皮をむき、白いなめらかな卵の表面に見とれていた時だった。
「一作君。食事は終わったかい? 権藤さんがちょっと事務所に来てほしいそうだよ」と、告げた。
事務所には賭場で見た土佐山もいた。
「おお、一作 」と、権藤が笑みを見せて一作の名を呼んだ。大島が一作を権藤達の所に連れてゆくと、権藤は吸っていた煙草を吸殻入の中でもみ消し 再び笑みを浮かべて一作を見「どうかね? 」と言った。
一作が黙っていると「仕事には、慣れたとか?」と聞いた。
「慣れたとです 」
「そうかあ。来年には坑夫になれるばい」 一作はうなずいた。
「ところで、一作。前に中国人の宿舎だったとこを掃除したじやろうが?」
「うん・・・・・」
「あそこでえ、何か見つけなかったとか?」
「なあんも」
「ほうかあ・・・壁んとこ、何か落ちんかったかの」一作はかぶりを振って「しらん」と答えた。
「しらんとねえ・・・」権藤は土佐山を見た。土佐山はぎょろりと権藤を見返して、手にしていた煙草をくわえると深く吸って吐き出した。 煙が一作の横を通った。
「しらんかあ」と、土佐山は言い目を閉じて「権藤さんよ。奴の記憶に頼るしかないのう 」と言った。
「あの、中国人ですか?」土佐山が頭を二度振った。
一作は、大島から今日も元中国人の宿舎を掃除するように言われた。賭博で汚れたので、きれいにしてくれと大島は建物の前で一作に言い、自分は散髪屋の方に姿を消した。 一作は、床を箒(ほうき)で掃きながら、金貨の一枚でも転がっているのではないかと辺りを見渡したが、転がっているのは紙切れと煙草の灰である。地図のあった壁のほうを見てみると、あちこちに小さな穴があいている。多分権藤達が宝の地図を探した跡に違いない。 一作は、箒(ほうき)で床をぐるぐる掃いていたが、ふと、大島の行った方向が気になった。 散髪屋は、月曜日は休みのはずである。それに散髪屋の女の亭主は坑夫だから坑道に降りているはずだ。
一作は箒を置くと、そっと建物から出て散髪屋の裏側にまわった。薄い壁の建物に耳を近付けると、中から男女の話声が聞こえた。大島と散髪屋の女の声である。一作は節穴を見つけたので目を持って行った。大島が女の手に何か握らせている。女は、布団のような物の上にのけぞるような姿勢だ。
女の手にした物がキラキラ光った。
「お金も・・・」女が甘えるような口調で言った。 白い肌が光った。
一作は、ゆらりと立ち上がると音を立てないように散髪屋の壁から離れた。幸い、この裏のほうは誰も通らない場所である。
一作は、掃除の場所に戻ると「おめこ」の図を箒で床に描きながら、図が現実の女の陰部とかけ離れていることに戸惑いを覚えた。女は、もっと複雑な物を持っていたような気がする。
男女の営みの現場を思い起こすと、自分の性器に勃起が起って慌てた。昼に、食堂で坑夫と同じ弁当をもらい丘にのぼった。炭坑の景色を見ながら弁当を食べていると、三人の男が谷のほうで何かを探しているのが見えた。
多分権藤達である。彼達は、やはり中国人の記憶から宝を探しているのである。ポケットから地図の写しを取り出した。本物は缶に入れ埋めている。男達は宝の隠されている谷を探しているのであろうが、谷に水は流れていない。あの谷は、既に一作やジョンが探した場所である。中国人は宝を埋めた人間ではないのであろう。多分、誰からか聞いて、宝の在る場所を探しているに違いない。一作は、弁当箱の総てをきれいに食べおわった。権藤達よりも早く宝を見つけなければ ならない。一作は、弁当箱をしまいながら、散髪屋の女に大島と同じ事をしている自分を想像していたが、ふと節穴から覗き見た性器の触れ合うのを思い出してポンプを連想した。ポンプといえば古いポンプが谷の下のほうに置かれているのを見た。もう錆びていて動いてはいないが、近くに廃坑の穴もある。ポンプからも水は流れていたはずである。一作は地図の写しを再び取り出して見た。もしかすると、ポンプ場の近くにある廃坑の中かもしれない。
一作はこの思い付きをジョンに知らせようかと思ったが、今うかつに動いて権藤や土佐山に気付かれるとまずいと考えた。問題は、権藤達よりも早く宝を見つけ出すことである。
一作は昼食が終わると、掃除の仕事に戻った。
二つの建物の掃除が終わると、女湯と男湯の掃除である。女湯で掃除をしていると、再び散髪屋の女がやってきた。 女が昼間に早く湯に来る理由がおぼろげながら一作にも分かった。 坑内から夫が戻る前に、性の行為の痕跡を体から消し去る為ではなかろうか。女は一作にも慣れたのか、彼の前でも平気で服を脱ぎ湯殿に入って行った。
「ねえ 」一作が、湯屋から出てゆこうとすると女が声をかけた。
「なんね?」一作は立ち止まった。昼間、女の性行為を節穴から見た後ろめたさがあった。
「あんた、ひま?」
「暇でも、なかが・・・なんね? 」
「ちょっと背中流してよ」女が言った。
「せなか? 」
「いや? 」
「おいは、かまわんたい」
「じゃあ、お願い」女は湯から立ち上がった 白い体が湯を弾き大きな乳房が垂れ下がっている。
女は、片手で陰部を軽く隠し、湯から出ると小さな湯桶の上に腰を落とした。
「おねがい」女が再び言った。
一作は湯殿に入って女からタオルを受け取った。
石鹸をつけ女の背中をこすり始めた。白い肌がタオルの下でピンクになる。この肉ずきの良い体が男の上でうごめいていた。 一作は力を込めて女の背をこすった。
「きもち、いい」女が艶めかしい声で言った。腰のほうまでこすりおわると、臀部のほうに移るのをためら った。大きい尻が湯桶の上にあり、腹のほうには肉が二重に別れて付いている。
「太っているでしょう?」女が聞いた。
「おいの村の神社にある、女の神さんは、もっとふとっとるたい」
「あら? 神様? 」
「うん」
女は声を立てて笑った。笑い声が湯殿に響いた。
洗いおわると、女は「散髪に来なさいよ。ただでしてあげるからね」といつものようにお札を言った。女の鼻の上には汗が光っていた。
一作は掃除道具を持って男湯のほうに向かった。男湯の掃除が終わり、一作が女を思い出して散髪屋のうらに行くと、再び中から声が聞こえた。一作は節穴に目を当てた。女は他の男の上に跨っていた。金貨が五枚近くの台に置かれている。男は土佐山で上半身の刺青が見えた。
一作は、女が不思議な生き物のように思えるのだった。
その週の日曜日、空は雨模様で低く垂れ込めた雲が全天を覆っていた。 ジョンが一作の宿舎のガラス窓を叩いた。
「イサク」
「ジョン。宝の場所、分かったばい」一作は図を書いてジョンに説明した。
「オーケー。イサク、行こう 」ジョンが一作の腕を引張った。丘に上がると冷たい風が二人の顔をなでた。 ポツポツと小さな雨が風に乗って流れてくる。
「どこだい? 」とジョンが身振りでたずねた。
「あそこたい」 一作は一反対側にある丘の斜面の下辺を指で示した。炭坑が火事で焼けた山のほうである。
「行こう 」ジョンが走り始めた。二人はぴょんぴょん飛ぶように丘の斜面や山道を走った。次第に顔に当たる雨が多くなってきている。滑らないように足元に気をつけながら、ポンプのある場所まで来た。半分焼け崩れたポンプ場の跡である。 蒸気エンジンで動かしていたようで、大きな蒸気 エンジンが赤錆びて横たわっている。 雨が錆の上に降り始め、錆びの茶色は黒く変わった。
二人は、少し残るポンプ場の建物の影に入り雨を避けた。一作はポケットから写しの地図を取り出すと、他の大人達がこの宝を探していることをジョンに説明した。
ジョンは、ポケットから煙草を取り出してマッチで火をつけると、一作にも回してきた。一作もスパスパと二度ほど口の中で吸って吐き出した。煙草の乾いた味とにおいが口の中に残った。横殴りの雨が降り出してきている。雨が錆びたポンプや蒸気エンジンに当たりコンコンと響きを上げている。
「宝は、坑内に埋めてあるとじゃろうかのう」
「ジェニーのダディ(とうちゃん)は、坑内だと言ったよ」
「あれば、お茶の箱じゃろ?」
「お茶?」ジョンの間いに、一作は茶を飲む動作をして示した。
「おお、ティー・・・お茶。うん、あれは坑道の中で火をつけて焼いたらしい」
「じゃあ、宝は坑道じゃあなかよ」
「?」
「この“X”の印、川の流れの真上じゃあなかか」
「うん」ジョンが肯いた。
「おいは、この辺りじゃあなかかと思うとるたい」
「?」
「ポンプの管も水の流れと考えられんね」一作の説明にジョンはパッと顔を輝かせた。
「イサク。 この辺りか?」
「うん・・・」
稲妻が光り、雷鳴が起こった。雷鳴は再び起こり、二人の雨宿りをしているポンプ小屋の外にある壊れた蒸気エンジンに落雷した。周囲に火柱のよう物が一面に走り、爆発音がした。幸い二人のポンプ小屋は、突き出ていた鉄柱が避雷針の役割をして二人を落雷から守った。
二人の若者は、生まれて始めて目のあたりにする巨大な自然のエネルギー 現象に呆然として、しばらく自分を忘れていた。
「すごかあ 」一作の驚きの言葉に、ジョンも青ざめた顔で頷いた。稲妻と雷鳴は次第に遠のいて行ったが、二人は動こうとはしなかった。蒸気エンジンが二つに裂けているのが見える。ダイナマイトの爆破の後に残る、岩石と岩石がぶつかりあって出来る石の粉のような、きな臭いにおいが鼻を打った。二人の小年は呆気に取られ動こうとはしなかった。二人ともお互いに、相手が動くまでは動かないと思っていた。
「こわかあ・・・」一作の言葉に、ジョンは再び背いた。
「煙草でも吸うたい」一作は、大人の動作を思い出した。ジョンが煙草に火をつけて吸い、一作に手渡した。一作は思い切り煙草を吸い込んだ。とたんにむせて、せき込んだ。ジョンが笑った。二人は声を出して笑い、恐怖から解きほぐされた。
二人は、立ち上がると落雷のあった錆び付いた蒸気エンジンの方に歩んだ。蒸気エンジンの横の大きい水のタンクがぱっくりと割れている。雨で黒ずんでいる錆びたタンクの表面はめくり上がり、新しい金属がさざなみのように光ってた。
「すごかあ・・・」一作の言葉に、ジョンが領きながら金属に手を触れた。
「アウッチ!(痛い)ジョンが手を放して声を上げた。
「どうしたと?」
「ホッティ」熱いや、と彼は再び手で金属を叩くようにして言った。一作にも、ジョンの動作で錆びたタンクの表面が落雷で焼かれて熱くなっている事が分かった。
一作は古びた台のような物の上に上がり、割れたタンクの中を見た。水などはたまってなく数本のパイプが並んでいる。そこには錆びが溜まっていた。破れた大きい穴に頭を突っ込み、タンクの奥のほうに目をやった。暗くて何も見えない。
「何か、見つけた?」とジョンが英語で聞いた。
「いや、なあもなか・・・」と一作は、頭をジョンのほうに向けようとして、キラリと光る物に気付いた。
「あれ? 」
「ワーット(何?)」ジョンが一作を見返した。一作が、頭を割れ目に大きく入れて何かを探している様子に、ジョンも台の上に乗って一作の頭の横に自分の頭を置いた。
「ジョン。あれ、何か光ってるたい」ジョンは一作の指差す方向を見た。確かに、なにか光る物がある。
「入ってみよう 」
二人は曲がった管(くだ)に手をかけてタンクの底に降りた 腰をかがめなくても歩ける大きさである。二人の手や服は、赤茶けた錆びで汚れた。
足元を確認しながら光った物があったほうに歩んだ。近付くにつれ、薄暗いタンクの中に木の箱が三個積まれていて、上の方の箱が落雷の衝撃で転げ落ちたらしく斜めになり、一部が破れて光る物が飛び出してる。
「金貨だ!」「ゴールド ・コイン! 」一作とジョンは日本語と英語で同時に言い、お互いの顔を見合わせた。最初に見た一個のコインは跳ね飛んだのだろう。ジョンが箱に近寄り引張った。箱がゴトンと音を立ててタンクの底に収まった。箱を開けると小さな袋が並んでいた。箱の隅には、袋の一つが被れて金貨が散らばっている。
「すごかあ・・・」とジョンが一作の真似をして言った。一作は頭を前後に振った。袋の表面に千と書かれている。
「何?」ジョンが英語で「千 」の文字を指差した 一作には途方もない数字だったが、彼は指を立てて数えながら何とか数字をジョンに説明した。他の袋にも同じ文字が書かれている。袋は十数個あるのですごい金額だ。二人は目が薄暗闇(うすくらやみ)に慣れて来ると、次の箱を開けてみた。箱には宝石類が詰まっていた。
彼達にはこういった宝石類がどのような価値を持っているのかは分からなかったが、漠然と高価な物であることは判断できた。
「すごか、ねェ・・・」一作が言った。ジョンは次の箱の蓋を取った。ドル紙幣が詰まっていた。
二人は放心したようにタンクの底に腰を落とすと宝の箱を眺めていた。その持、外で話し声が聞こえ始めた。二人は咄嗟に箱を静かに奥のほうに引っ張り身をちぢめた。
「大きな雷さんだったですなあ 」権藤の声だ。
「この辺に落ちましたよ」大島の声もしている。
「こんどは、どこを探すんだい?」土佐山である。
「この、廃坑と、一つ先の廃坑ですばい」
「権藤さんよお。本当にあの餓鬼は地図を知らんのかのう」餓鬼とは、一作のことである。
「大島。おまえ現場にいたんじゃろう? 」権藤が聞いた。大島は、一作が掃除をしている時は散髪屋の女と逢瀬を楽しんでいたので、その時の状況を答えることはできなかった。
「はい。一作は掃除だけしていました。地図のことなど知らないですよ」 と、つじつまを合わせた。
「ほうかあ・・・」
「ああ、あのタンクに雷が落ちたみたいですよ。ほら、穴があいている」大島が雷の落ちたタンクを説明している。
足音が一作達の隠れているタンク近付いてくる。誰かが台に上がったのだろう。がたがたと物がタンクに触れる音がした。タンクの中にいると外の音が大きく聞こえる。一作とジョンは見つかるのではないかと恐れた。外に、何か物を残してこなかったかと考えてみると、煙草の吸殻に思い当たったが、ジョンが谷のほうに投げ捨てたことを思い出してほっとしたのも束の間、大島がタンクの中を覗き込んだ。
彼の頭は反対のほうの奥を見ていた。
「大島!」権藤が彼を呼んだ。大島の頭が、タンクの外に消えた。
「はい!」大島の声だ。
「なんばしちょる! 土佐山の親分さんが、廃坑に行きよんなさるたい。 おまんも手伝わんか」
大島が台から飛び降りる音がした。
「すんません。大きな穴が空いていたもんで」
大島や権藤が遠ざかる足音がしたが、ジョンも一作も、未だ動いたら駄目だと分かっていた。三人は、近くにいるのである。廃坑の入り口付近を確認した後、ここに引き返す可能性もあるのだ。
二人は、タンクの中でじっと宝の箱を見つめたまま押し黙っていた。喉がからからに渇いている。
再び遠くに雷鳴の音がした。もし、再び雷雲(らいうん)が空を覆い、タンクに雷が落ちたら二人の命はない。二人は、雷が電気であると言う知識は無かったが、雷が落ちたら命が無いことは薄々分かっていた。
一作とジョンのとる道は、二つだった。 宝をこのまま置いて逃げ出すか、それとも権藤達が宝捜しをあきらめて引き返すのを待ち、宝を持ち帰るかである。
二人は、宝が欲しかった。この宝物を手放したくなかった。一作は、手を出して数枚の金貨を手に取った。 ジョンもそれに習った。
金貨は手の中にずしりと重く、美しい。二人は手にある金貨をポケットに入れた。 二人は黙ったままだった。
一時間ほどして、廃坑から出てきた権藤達の話し声が聞こえ始めた。
「雨が降りそうですよ 」大島の声だった。
「土佐山の親分。 今日は、これで止めて例の所で一杯といきますばい」権藤だ。
「次は、どこを探すのかのう」土佐山が低く太い声で聞いた。
「この谷の向こう側です」
「地図は、よう見つけんのかい」
「大島に、中国人の宿舎の壁を全部探させたとですが・・・」
「壁、壊さんのか?」
「あれは、パシフィック炭坑会社の物ですばい。壊したら、わしらオマンマの食い上げになるとですよ」
「権藤さん。このポンプ場はどうして壊れたのですか?」大島が権藤に質問しているのが聞こえた。
「火事で燃えたげなぞ」
「火事で?」
「そうばい」
「あれは、廃坑の中のことじゃあないのですか?」
「あん前に雷でやられたァと誰かが一言うちょった」権藤達の話し声は次第に遠ざかって行ったが、一作もジョンも動こうとはしなかった。少しでも見られたら、総ては終わりである。彼達はポケットの金貨を手で触り、大きさと重さを手に感じながら耐えていた。
「もう、よかじゃあなかか?」一作が低い声をだした時は、権藤達の足音が二人の耳から遠のいて三十分程経過していた。
ジョンがうなずいて立ち上がるとタンクの破れ目のほうに行き、管(くだ)に手をかけて破れから外を見た。
「イサク・・・」と小さく言い「オッケー 」のサインを作った。一作も破れの方に行き、管をつかんで頭を外にだした。人影はなかった。二人はタンクの外に出た。頭の先からクツの先まで赤錆で汚れていた。
どこか遠くで再び雷鳴が鳴った。
一作とジョンは、錆びたタンクから宝の箱を引っ張り出した。箱が重たかったので、数度にわけて一つ一つの箱を取り出した。二人の身体は錆びの色で覆われた。一作がふとジョンの顔を見ると、鼻の先がピエロの鼻のように、赤錆に覆われていた。笑うと、ジョンも一作の顔を見て笑った。一作の鼻先も錆色であった。 笑いおわると、二人の視線は目の前の宝に落とされた。二人には、想像もつかない程の金額が箱の中でキラキラと輝いている。子供から青年に移る時期にある彼達は、お金の価値よりも、美しいと言う外形に興味が注がれる。しかし、ジョンは一作よりも少し世の中に慣れていた。
「これ、どうやってジェニーの父親のオ-ランドさんに持っていくかのう・・・」と一作が言うと、ジョンは大人のように腕組をして、しばらく黙った。彼は、しゃがみ込むと箱の中の金貨を両手ですくい上げ、一作のほうに突き出した。
「フィフティー・フィフティー(山分け)? 」とジョンは言って、彼の汚れの無い目が一作を見た。
「これを?」
「そうだよ」とジョンは英語で言い、一作が黙っていると三本の指を上げた 一本の指を片方の指で差し示しミスター・オーランド、二番目と三番目の指をイサクとミー(ジョン)でどうだろうかと言った。
「おいは、そんなにいらんたい・・・ 」一作は、大金を目の前にして落ち着かなかった。貧乏暮らしで育っている。金の使い道が分からなかった。彼の脳裏には、足の無い元炭坑夫や、肺をやられてベットに伏している元炭坑夫の事が思い出されていた。一作は、ジョンと同じように宝の箱の前にしゃがみ込んだ。金貨に手を当ててもてあそんでいると、ふと散髪屋の女のことが思い出された。あの女は男に身を任せる時に、金貨を握り締めていたではないか。この金貸さえあれば、自分も女の心を買えるのではなかろうかと考えたのである。
一作はジョンを見てコクリとうなずいた。
「俺達は、金持ちだ」とジョンが英語で言った。 一作にも意味が理解できた。
彼達は三つの箱の宝を三等分した。空が再び重く暗い色の雲で覆われて来ている。 時々、稲妻が南の方の雲間に光った。
「どうやって運ぶかなあ 」箱を運ぶ身振りをしながらジョンが言った。
箱は、一人がやっと持ち上げる事のできる重さである。ロバや馬などを借りてきて運ぶと、見つかるであろう。 それに、二人が分け前として取った物を、他の誰かに見つかるのはまずいように思われた。
二人は、取り敢えず一つの箱を再び隠すことにした。廃坑の線路がまだ残っていて、トロッコの車輪と台座だけの物が置いてある。彼達はこれに載せて廃坑に入った。入口で、坑道の柱の裂けた部分から木の端をはがして火をつけた。松ノ木の柱だったの で良く燃える。百メーターほど入ると、空気孔が小さく造られて坑道に交錯している。空気孔は土砂で半分ほどふさがっていた。しかし、ちょうど箱一つを隠せるスペースがあった。二人は箱を置き近くの岩石で穴を隠した。後は、自分遠の宝の箱をどうやって住まいに運ぶかである。迂闊に人に見られたりするとまずいことになるし、この辺りに隠して置くことも危ないように思われた。権藤や土佐山が宝を探している場所だからである。一作とジョンは、宝の箱を自分達が良く弁当を食べる丘まで移動させることにした。
丘の片面には繁みがある。 宝の籍を隠すには、人の来ない場所が必要である。
ジョンは取り敢えず繁みに隠し、父親を呼んで来ると言った。ジョンは宝の箱からポケットに入るだけの金貨を取り上げ、丘を下って行った。 一作は、箱をジョンの宝の箱から離れた所にある大きな切り株の根元の穴に一旦押し込んだが、思い直して箱を再び取り出し、札のほうを取り出した。札は軽いので容易に運べるが、金貨にも愛着がある。キラキラと光る一ドル金貨には、何ともいえない魅力があった。それに、散髪屋の女が握り締めるのは金貨であることを意識した。彼は、服を脱ぐと札束と金貨の袋を一つ、服に包み込んで肩に背負った。数個の宝石をズボンのポケットに押し込んだ。これも、散髪屋の女が喜ぶと思ったからである。 丘を下ると誰もいない場所を選んで歩き、途中誰にも会うことなく宿舎の自分の部屋に帰りついた。父親はいなかった。多分、行商人が来る日だから、豚の足を買って誰かの部屋で酒でも飲んでいるに違いない。 部屋の隅にある自分の鞄の底に札束と金貨を入れ、上に衣服などを乗せた。金勘定などの総ては、明日の月曜日、皆が坑道に入った後である。一作は、台の上に置かれていた洗面器をとりあげ、赤錆の付いた身体を洗うために浴場に行った。まだ午後の早い時間なので、浴場には誰もいなかった。彼はシャワーを浴び、湯に浸かった。湯に浸かって、身体をふわふわと湯の中で揺らしていると、宝を見つけた幸福感が蘇って来る。金銭の価値は、誰しも物心付いた時から自然に分かっているのであろう。
「金持ち・・・」 つぶやいてみた。
その時、誰か浴場に入って来た気配を感じた。湯のちょろちょろ落ちる音に混ざって、人の動作の音が聞こえている。やがて湯殿のドアが開き男が入って来た。上半身に刺青がある。男は、土佐山であった。大男の土佐山はチラリと湯の中にいる一作を見ると、シャワーも使わず湯に入った。
一作は、背中を向けて湯から出ようと立ち上がった。
「おまえ、一作か?」土佐山の太い声が一作の名前を呼んだ。
「うん・・・」一作は、恐る恐る振り向いて答えた。
「大島から、おまえのことは聞いちょる」
「・・・」
「中国人の住んじょったとこで、地図見つけんかったかのう?」土佐山の低い声が浴場に響いた。権藤の事務所で会った時、知らないと答えていた。
一作はかぶりを振った。土佐山の目が一作を射ている。身体の刺青が湯に染まり新鮮に見えた。一作は、散髪屋の女の上にいた刺青の身体を思い起こした。 ふと、嫉妬が彼の中で渦巻いた。
「明日、探しますたい・・・」
「探すや?」
「あそこ、掃除が残っているとです 」
「おお、探してえくれるか?」 一作がうなずくと、土佐山はにたりと笑った。
一作は 「出ますけん 」と言い、湯から出て急いで服を着ると宿舎に帰った。
父親は、まだ帰っていなかった。彼は鞄を引き寄せると、衣服を取り出し、鞄の中の宝を見た。札束と金貨が横たわっている。 手を入れて金貨に触ると、心地良い頼もしい感触があった。夕食時、食堂に行くと父親達は、やはり豚の足に塩を振り掛けてかじりながら酒を飲んでいた。
夕食の盆をとり、粗末な食事を大人達の近くでとっていると、博打で負けた話が耳を付いた。殆どの者が、今回の博打で多額の金をすられたらしい。
「最初から、やり直したい」と、酒で酔った坑夫がいきまいているが、次の給料日にも同じ事になるだろう。山積の金貨を自の前にして、誰も誘惑に勝てる者などいない。特に、坑道の中で生死を賭けて仕事をしている坑夫達には、賭博の丁半という単純な賭事が身近に感じられるのだった。
次の日、一作はいつものように大島に言われた仕事をしていたが、仕事の合間に散髪屋の近くを何気なく通 って、中の女に注意した。
ガラス窓の中の女は、煙草を吸っていた。客はいないようである。一作は、自分が沢山の金貨を持っていることを、女に知らせたい欲求を覚えた。女に金貨を握らすと、女は何と言うだろう?
女は、外にいる一作に気が付いたのか立ち上がるとドアを開けて、一作を呼んだ。
「ちょと、あんた!」一作は掃除道具を手にしたまま振り向いた。女は微笑んでいた。
「ねえ、散髪してあげる」女が言った。
「まだ、伸びとらんです」一作はポケットに入れていた金貨を意識した。
「そんなことないよお。時間ないの? 」
「時間は、あるばい」
「じゃあ、来なさいよ」 一作は、散髪屋のドアの方に歩いた。
「いらっしゃい」女が言った。
「頭の毛、伸びとらんですよ」
「あら、伸びてるよお」と女は、椅子に座った一作の頭の毛を手で持ち上げながら言った。
「じゃあ、お願いするとです」
「はい、はい」
女は器用に鋏と櫛を動かした。髪の毛が身体にかけられた布の土にばらばらとこぼれる。女は時々、真っ正面から一作を見た。髪の形を眺めているようである。後ろに回ると、女の体が一作の背に触れた。温かいと彼は思った。壁の節目から見た、女が男ともつれ合う姿が思い起こされてきた。
「この前は、お風呂で背中流してくれて、ありがとうね。あんた、名前は?」女の言葉に、湯で見た女の身体を思い出しながら「一作。一つ作ると書くとですよ」と、彼はぶっきらぼうに答えた。女が笑った。
「あら、ごめんなさい。一作さんの話し方が面白かったからよ 」と、女は男にこびいるような鼻声を出した。
「主人さんは、坑道ですか?」一作も大人のように話し掛けてみた。
「そ・・・」 女は、それだけ一言うと再び鋏を動かし始めた。毛がこぼれた。散髪が終わると、一作は料金を聞いた。
「ただ。お金はいらないわよ。背中を流してくれたお礼。ほら、それにドアも直してくれたじゃあない」
一作はポケットから金貨五枚を取り出して女に握らせた。女は驚いたように一作を見た。
「おいも、温かいことしたいばい」
女が再び一作を見た。
一作は、再びポケットから金貨を二枚出して女に撮らせた。これは大人の真似事である。どこかで、見た光景を演技していた。
「あんた、幾つ?」女がポツリといった。
「十六たい」咄嗟に嘘をついた。女は、ドアにゆっくり近寄るとカーテンを引いて鍵をかけた。
「いらっしゃい・・・」女は家の中に一作を誘った。壁の隙間から大島や土佐山の姿を見た部屋である。
女はするすると服を脱いで一作を振り返った。
一作は女の温もりを全身で感じていた。幸福、だった。彼が女の身体から離れても、女は床に横たわったままである。一作は服を着て、女の目が開くまでしばらく裸体を眺めていた。 色の白い大きな乳房がある。腹がこんもりと盛り上がっている。つやのある太股の間に黒い繁みがある。やっと、女が目を開けた。一作はポケットから小さな宝石を出して女に握らせた。
「これも、やるたい」
女は起き上がると服を着て、一作を裏口から外にだした。又来て。いつも月曜日が良いわと言った。
一作は、何食わぬ顔で掃除道具を取り上げ、元の仕事に戻った。
一週間が過ぎて再び日曜日が来た。
ジョンは、宝を見つけた日以来、一作の前に姿を見せていない。一作は、日曜日の朝、例の丘に上がってみた。繁みの中にジョンの宝の箱はなかった。あの日に父親と来て持ち去ったのであろう。一作は自分の宝を確認すると、種を返した。散髪屋の女には、あの 日以来気を配っている。 他の誰かが、女のもとに通うのではないかと気をもんだが、散髪目的の客以外誰も近寄らなかった。土佐山は、帰ったようだし、大島は金欠で女に近寄れないようだった。
一作は、月曜日に再び女に会った。 今度は金貨を渡す前に女の方が鼻腔を膨らまして待っていた。
「待っていたんよ」と女は一作の下で泣くような声を上げた。しかし、女の言葉は一時的なものであったのであろう。 ある日一作は、食堂で散髪屋の女は誰とでも金品で寝るげなと坑夫達が話しているのを再び耳にした。
一ヶ月が過ぎ、給料日が来ると再び賭場が関かれた。再び土佐山も子分達とやって来たが今回は娼婦もつれて来て、坑夫達から金(かね)を絞った。権藤の事務所で、一作は彼達の話している言葉を偶然耳にした。夕方、彼達はウイスキーを飲みながら、高笑いをしていた。
「土佐山親分。娼婦を連れて来るとは、すごか思い付きですたい」権藤の言葉に「坑夫に銭(ぜに)、貯めさせたら、皆国に帰ってあんたの商売あがったりじやろうがの」と、土佐山が上機嫌な声で言った。
「娼婦は何人ほど?」実直な森野の声が聞こえた。
「別嬪ばかり、五人ぞ 」と、土佐山はグラスを置いて片手を上げて見せた。
「どこもんですな? 」
「シアトルからつれて来た。 遊んでもらわんとなあ、森野さんよ」
「わしは・・・」 森野が戸惑った声を出した。
「土佐山親分は、今回も例の女で?」権藤が聞いた。
「わしは、気にいっちょる」
「今娩。女の亭主は仕事させてますばい」どうやら散髪屋の亭主を働かせて、女に土佐山の相手をさせようとしているらしい。その夜一作は、土佐山に抱かれている女を節穴から見た。かすかな明りの中で、刺青の男にまたがり腰を振る女の脂ぎった肉体を目にすると、彼は激しい嫉妬に襲われた。
博打では、再び多くの坑夫が大金を失ったようである。坑夫達は酒を飲みながら荒れた。
最初から勝てる見込みの無い賭博に手を出したのが失敗の元であろうが、皆自分の悲運をぐだまくだけで、己の迂闊さを非難しなかった。時にはピストルの音さえも聞こえるようになっていた。
一作はジョンに会うために彼の家に行ったが、空き家になっていた。家の前をうろうろしていると、近くの子供がやって来て「ジョンは引っ越したよ 」と英語で言った。
「植えん(ウエン)」何時(いつ?)と言う英語はジョンから習っていた。男の子は両手を前にあげて二度手を結んで開いた。二十か。すると宝を見つけた後、一週間で引越しをしたのであろう。鳥が好きだというジョンが、巣立ちの鳥のように飛んで行ったような気がした。
ジェニーの家に行ってみると彼女の家族はいた。ジョンは廃坑に隠した宝の一部をオ-ランドさんに教えていないのであろう。家の中から、弱々しい咳が聞こえて来る。目をそらして他の貧しい丸太小屋を見ると、各小屋の入口付近に老人や老婆、それに足や手の無い元坑夫達が短い初秋の太陽の光を貪るように受けている姿があった。
一作は、ふと、自分であの宝を運んで来ようと思った。罪の償いのような気持ちに近かった。土佐山や権藤に見つけられるまえに、この人達に渡すべきだと考えたのである。
数日後、風をひいたからと仕事を休んだ一作は、ほとんどの坑夫達が坑道に降り立つ時間を見計らって、宝の箱を隠した廃坑跡に行った。カンテラと宝を運ぶ袋を用意していた。廃坑のある山には所々茂みがあり、秋の色に染まっている。遠くの山々も秋の色である。天気の良い日だった。一作は宝を見つけたポンプ場で足を止めた。タンクは相変わらず赤錆で覆われており、雷が落ちて裂けた部分も既に錆びかかっていた。
一作は、人が周囲にいないことを確認して廃坑に入って行った。 カンテラの炎がゆらゆ 揺れながら坑道の中を映し出すのは、 崩れた柱や、あらわな岩石などである。坑道は、かなりの勾配で下っている。ジョンと宝の箱を隠す持、彼が慣れた動作でトロッコの一部を調節していたのは、ブレーキだったのであろうか 廃坑の中の空気はよどんでいる。これに炭坑特有のガスが溜まると爆発の危険がある事は、炭坑町の人間なら誰しも常識として知っていた。
廃坑を一人で歩くことは心細かった。 彼の足音だけがいやに大きく坑道に響いている。
「どこじゃったとかの・・・」一作が小さく声をあげると、彼の耳には大きくこだまして跳ね返って来た。 思わず足を止めて背後をふり返ると、廃坑の出入口は左斜め上のほうに見えていて、上下に線を引いたように外の明りが見えていた。坑道は下に傾斜しながら緩やかにカーブしているのであろう。
少し歩いて振り向くと、もう既に外の明りは見えない。一作は、ジョンとこの廃坑に宝を隠したときのことを思い出した。あの時、外の明りは見えなかった。するとまだ歩かなければならないと思った時「ドン!」という鈍い音が地下のほうから聞こえ、近くの柱がぶるぶると小刻みに揺れた。手にしているカンテラの光が揺れ、光と影が交差して乱れた。落盤だ。一作は足を止めた。ドン! ドドッと音は続いた。頭上から砂粒がパラパラと降りかかった。一作は思わず外に走り出そうとしたが、かろうじて思いとどまった。近くに空気孔が見えたからである。宝の箱は、この空気孔に隠している。一作は、しばらく動かないで坑道の中の物音に注意した。落盤は収まったようであるが、この廃坑が崩れ落ちるのは時間の問題であろう。秋になり、最近雨が多いので手入れをしない坑道の地盤が雨水で緩んできたに違いなかった。
彼は、そろりそろりと箱を隠した空気孔の石を取り除きはじめた。やがて箱が現れた。引っ張り出して箱を開けると、思った以上に大目の宝が詰まっている。ジョンは三等分したのではなく、四等分したのである。 四分のニがオーランド氏に渡り、炭坑の犠牲者に使われるようにしていたのだ。
一作は、宝の一部を持ってきた大きな袋に詰めた。一度には運び出せないので数度に分けることにした。
袋に入れたのは札束と金貨の袋が三個、大金だった。カンテラで線路の上に置いた箱の中を照らしてみると、金貨の袋はまだ十個残っており、その上に宝石類が光っていた。彼は、何を思ったのか総ての金貨の袋を開けて中の金貨を箱の中にばらまいた。自分のポケットにも一握りの金貨を押し込んだ。袋に詰めた宝を肩に担ぐと、ゆっくりと来た道を引返し始めた。再び、後ろのほうで落盤の音がした。
廃坑の出口が秋の光を一杯にして射し込んでいた。眩しかった。彼は袋を背負って、自分の足元を見ながら光のほうに歩んでいたが、彼の視線の中に影が現れた。ふと、頭を上げると人が入口に立っていた。 一作は思わず袋を投げ出した。
「おい、小僧!」 土佐山である。もう一人は大島だった。
「何だ!それは!」
二人の大人が仁王立ちで一作の前に立ちはだかった。大島が一作の投げた袋に歩んで中から札束を取り出した。
「どこで、見つけたんじゃい!」土佐山が目をぎょろりと向いて一作に詰問した。
「この先たい・・・」
「なに?」
「まだ一杯、箱の中にあるばい」土佐山は一作のカンテラを取り上げ、大島から袋を分捕る(ぶんどる)と走るようにして廃坑に入って行った。大島も後を追った。
しばらくして、彼達の宝を見つけた声が坑道の中に響いた。二人が争っているような声も聞こえて来た。
一作は坑道の外に出た。 彼の頬を冷たい風がなでた。
一作は廃坑の入口に立つと、中に向かって大きな声を張り上げた。数度ほど叫んだ時、 辺りが軋(きし)んだ。ドドン! ドドン! ドドドドッと音は続いた。一作は、思わず走って入口から離れた。坑道から粉塵が立ち昇って来た。丘の斜面からは大小の石や砂がずれ落ちてきている。
一作は丘を駆け下りた。宿舎に戻ると、毛布にもぐりこんでひざを抱えた。土佐山と大島は落盤の犠牲になったのであろうか。二人の立ちはだかった姿が思い起こされた。
「おらは、知らん。おらは、知らん 」と毛布の中でつぶやきながら、震えた。震えながら散髪屋の女のことが気になった。
一作は起き上がると鞄の底から金貨をつかみ上げた。 散髪屋に行った。窓ガラスから店の中を見ると、女はソファに横たわって居眠りをしていた。彼は、ドアを開けて鍵をかけ、カーテンをしめた。それでも女は目を覚まさなかった。
「のう・・・のう・・・」と軽く声をかけたが起きない。腹部の膨らみがゆっくりと寝息に合わせて波打っている。
一作は、女の上に身を置いた。
「あら・・・?」 女は目を覚ました「親分さん?」土佐山と間違えたようである。女は、目線をずらせて一作を見つけ 「あらァ? 」と言い、深く息を吐き出した。
「どうしたの?」しがみついている一作に声をかけた。これ、やる」一作は金貨を一握り女の手につかませた。
「どうしたの?」女が再び聞いた。一作は柔らかい女の乳や腹の上にしがみついている。
「ふふ・・・重いわ・・・」女は経く一作を引き寄せて唇を合わせて来た。
次の日も、一作は仕事を休んだ。
父親の音吉は、夜中の三時には起きて坑道に入ってゆくので一作の事を知らない。 息子は、毎日事務所の言いつけで働いていると思っているのである。一作の鞄の中には十二分のお金があった。彼には分からないような途方も無い大金である。
別に働く必要が無いわけだが、働かないと宝のことが他人にばれそうで仕事を続けていた。
数日経って、一作が事務所に顔を出すと森野が彼を呼び止めた。
「一作君。大島君を見かけんかったね?」と彼は、苛立ちをあらわにして聞いてきた。一作が知らんとかぶりを振ると「全く、仕方の無い奴じゃあなあ・・・」とため息交じりに言い、やり掛けていた帳簿に目を戻した。
「おいは今日、何をすればいいとですか?」一作が開くと、森野は帳簿から顔を上げて「風邪は、治ったんけえの?」と聞き、一作がうなずくと「風呂場の掃除と賭博場の掃除をやってくれんか?」と言った。
「賭博場の掃除は先だってやりましたとですが・・・」
「おお、そうか。そんなら、一作君もしっとるじやろうが、あそこの建物から少し離れたとこに、青い屋根の空家があるじゃろがのう。あそこ、やってくれんか 」
「人ば、いませんか?」
「おらん。今度の日曜日に土佐山親分が使うらしい」
土佐山? 生きているのであろうか? 多分、森野は廃坑であった落盤のことは知らないのであろう。
一作は事務所の外に出て、掃除道具をとるために倉庫に行った。
掃除道具を持って青い屋根の建物に行と、ドアを開けて中に入った。白粉(おしろい)臭い空気が淀んでいる。
これは「ヨシハラ 」じゃなかかと内心で思った。坑夫達が「吉原」と呼んでいた事を思い出したからだ。 土佐山が連れてきた娼婦達がいたとこである。森野は日曜日に土佐山がこの建物を使うと言っていた。
待合のような場所と、奥のほうに区切られた小部屋が並んでいた。どれにもベット呼ばれる寝床が付いている。近くには、手洗いがあったが洋式の物であった。この建物は多分、ヨーロッパの坑夫達が住んでいたに違いない。権藤と土佐山は、坑夫達から金を巻き上げるために賭場を設け、娼婦を抱かせてか坑夫の持金(もちがね)を巻き上げる仕組みを作ったようである。坑夫は金を貯めると本国に帰りたがるので、できるだけ彼達に金を貯めさせないようにしているのだ。
一作は淀んだ空気を掃き出すために、窓やドアを総て聞けて掃除に取り掛かった。娼婦達が軋ましたベットに腰をかけて部屋の雰囲気を想像してみると、単純な男女の構図が出来上がる。
散髪屋の女の事が頭をよぎった。あん女は、亭主ばいるに、他の男とおめこをするばい。
彼は「おめこ」は大人の酒や煙草のように、よかこつげなと勝手にきめつけた。すると、大島や土佐山が女の上にいた姿が思い出され、廃坑の落盤跡が気になって来た。一作は掃除道具をほっぽりだすと、廃坑のある山に登った。ポンプ場跡から廃坑の入口を見ると、完全に土砂で埋まっているのが見える。斜面のススキが傾いている。石ころは廃坑の手前のほうまで転がっていた。
これでは、助かる道はあるまい。しかし、落盤のなかった坑道があり、そこから外に逃げ出た可能性もある。落盤はおいのせいじゃあ、なか。あん人らが勝手に危ない廃坑に入ったとじゃと又、勝手に考えた。
大島がいなくなったと、坑夫達がお互いに言いはじめたのは、廃坑跡の落盤の日から一週間が過ぎた日曜日あたりからである。予定していたらしい娼婦達はロック・スプリングに来なかった。坑夫達は手持ち無沙汰に酒を飲みながら、以前に来た娼婦達のことなどを話していた。
「事務所の大島は、娼婦についていったげな」と、酔った坑夫が言った。
「『大島』言うたら、若い奴か?」
「そうじゃ。森野さんが言うとったばい」
「そげんこつなかでしょう。あん人は、散髪屋の女にいれこんどるちゅう話やったもんな 」
「一週間、事務所に顔をみせなんだと」
「あん人は、どこの宿舎な 」
「町に、アパト(アパート )ちゅうもん、かりとるげな 」
「散髪屋の亭主に殺されたじゃあなかかのう?」 誰かが冗談のように口走った。坑夫達は、いっせいに言った男を見た。
「じょうだんばい」男は否定したが皆、内心に亭主の顔を思い浮かべていた。人の良い四十近くの痩せた小男である。誰にも愛想が良く、良く働いた。休みの日は散髪屋をやり、ふだんは皆と石炭の採掘に汗をながしている。
ある時、誰かが冗談半分に、色気のあるカカァ(奥さん)を表(坑道の外に)に置いといて良いのかと開くと、亭主は顔を崩して笑いうなずくだけだった。 皆は影で、亭主の物が役にたたんらしいと噂した。この噂を耳にした一作は、実際にそうかもしれないと思った。
例の節穴から、亭主と女の睦み合う姿を見たことがなかったからである。 女は最近、一作の来るのを楽しみにしている。彼は、女に土佐山と同じ五枚の金貨を握らしたし、時々は余計に与えている。金の価値が余り分からなかったのと、女を喜ばすためだった。
十一月の終わり頃になって 「サンクス・ギビイング・ディ」(収穫祭 )と呼ばれる日が来た。昨年からアメリカに住んでいる坑夫に開くと、アメリカ人の秋祭りと言うことである。
炭坑も、木曜日から日曜日まで長い休みになった。賭場が聞かれたが土佐山の姿は無かった。噂によると伊藤、石橋という土佐山の子分が賭場などを取仕切っているらしい。娼婦達もやって来た。
土佐山や大島の事は、警察沙汰にもならなかった。アメリカの警察は、民族がかたまって住むジャツプ・キャンプ(日本入居住区 )を、治外法権区域のように考えていた。人達はアメリカ人の社会のために働かせている労働者であり、彼達は彼達の世界に住んでいるかぎり、何を起こそうが関知するところでは無いと言うような態度を取っていたのである。したがって、ある程度の犯罪なども一時的な精神錯乱として片付け、憲法で規定されていた市民の裁判を受ける権利などは、日本人による日本人同士の犯罪にほとんど適用されなかった。 日本入社会でも土佐山や大島は、自分達の利益のためにどこかに移動したとして片付けた。
一作は、大島の代わりに権藤の事務所で働くことになった。
事務所で働きはじめて数日経った時「一作君。これ、覚えてくれるかのう」と、森野が一枚のカードを手渡した。 自いカードに文字が英語で書かれている。
〔Y O K O H A M A,J A P A N〕
「ヨコハマ ジャパン」とカナ、がうってある。
「アメリカの言葉な?」
一作の問に、森野は笑って「ヨコハマ、ジャパン言うて書いてあるんぞ」と言った。
「横浜は、分かるたい。ジャパンは、たぶん日本 」
「よう知っとるのう。若い人には、簡単じゃなあ 」
「なんで、覚えんといけんな?」
「この事務所は、坑夫の金、預かっとるけえの。坑夫が日本に金を送る時、封筒に書いちゃらんといけん」
実際、ジャツプ・キャンプで簡単な英語の文字を書ける者は、数人しかいなかった。皆、英語を習おうとしなかったし、習う必要の無いほど、日本人坑夫は日本人集団の中でのみ生活していたのである。この英語の文字が書けると、少なからず金になった。一作は尋常小学校と高等小学校を出ている。村の大半の子供が尋常小学校で終わり、福岡で丁稚奉公などの仕事に就いたが、父親の音吉は一作を高等小学校まですすませた。一作の小学校の成績が良かったのと、日清戦争で勝利した日本が清から取った戦争賠償金のおかげで軍需産業が拡大し、日本は好景気であった。音吉も稼ぎが良く、長男も働きはじめたので、次男の一作が高等小学校に進学できたと言うわけである。
一作は、余り頑健なほうではない。どちらかと言うと考えることのほうが好きなタイプである。尋常小学校の蔵書を全部読破して教師を驚かせたことがある程だ。権藤の事務所で働きはじめると、英語の必要性が応じて来た。一作は一週間に一度、町に英語を習いに行くことにした。
千九百五年(1905年)。
「日本がロシアに勝ったバイ! 」と大声を張り上げて権藤が食堂に入って来た。彼は、片手に邦字新開を持っている。
「勝ったとや!」皆口々に叫んで権藤を取巻いた。
「日本艦隊がロシア艦隊を全滅させたげな」
「やったかあ!」皆万歳を叫んでいた。
「こりゃあ、わしら日本人の意気込み言うもんを、アメリカ人に見せんとね」
「そりゃあ、よか考えたい」
権藤が酒をみんなに振舞った。
坑夫達は、早速日露戦争の勝利を祝して酒を酌み交した。ロシアと戦争をしていた日本は、五月二十七日、東郷平八郎元帥の率いる日本艦隊が当時世界最強と言われていたロシアのバルチック艦隊を日本海で撃破した。これを好機と見た日本は戦費の先行き不安から、アメリカ大統領ルーズベルトにロシアとの講和の仲介を依頼した。八月十日にアメリカのポーツマスで講和会議が開かれ、九月には講和条約の調印が行われた。 日露戦争に勝利した日本人達は、不利益な戦争終結だったにも関わらず狂喜して戦争の勝利を祝ったのである。ロック・スプリングのジャツプ・キャンプの日本人坑夫達は、その月の終わりにパシフィッ ク鉄道炭坑社から、三十頭以上の馬を借出して武者行列をやろうと言うことになった。彼達は仕事の合間に武者の具足を作ったり、馬に引かす花車の用意を一団として行った。皆、田舎出身なので、牛や馬に騎乗した経験を持っている。
馬を繰(あやつる)るのは、何でもないことであったから、兵足の用意が出来上がると、次には手にする槍とか刀のイミテーションを作った。武者行列の日、二列に並んだ騎馬隊を先頭に花車が炭坑を出発し、町に向かった。このお祭り騒ぎを見た白人坑夫達は、初めて目にする日本人の武者行列に驚いた。一作の父親の音吉も、武者姿で馬に乗り行列に加わった。その日の夜は日本人全員が食堂に集まって日露戦争勝利の祝賀を行った。次の日、一作は床の上にあぐらをかいて煙草を吸っている父親の音吉に声をかけた。
「お父う・・・」音吉はゆっくりと一作を振り返った。
「お母(かあ )が恋しくないとね?」
「お母は器量良しばい。 村の男がほっとかんばい・・・」
一作は、村に残る夜這(よばい)いの風習を知っている。大人を真似て村の後家のところに忍んで行き、性の手ほどきを受けたのである。
「ばかたれ。 大人を虚仮(こけ )にするもんじゃあなか」
「いつごろ、帰るとね? 」
「いつごろかの・・・」
「千円、あったら帰るか? お父う 」
「一作、未だ三十円程しか貯めてなかぞ 一作は鞄から札束を取出して音吉の前に並べた。音吉は、札束をぼんやりと見ていた。まさか本物のドル紙幣とは思わなかったようである。音吉の手にする煙草の煙が筋となって立ちのぼり、上のほうでクネクネと渦を巻いていた。
「どげんしたと?」
「どげんも、こげんもなか。オイの銭ばい」
「おまんの、銭とか?」
「宝を、見つけたんじゃあ。おかしな銭じゃあなかぞ」
「宝・・・? 」
「中国人が隠した宝だと」音吉は一つの札束を手に持ち上げると、手にしていた煙草を空缶の中に入れ、札を手でパラパラとしごいた。
「すごかなあ・・・千ドル、あるばい・・・」三つ持って九州に帰らんね、お父う」
「三つ言うて、三千ドルか?」
「そうじゃあ 」音吉はコクリと首を振った。
「来週に、森野さんがシアトルに行きなるげな。あの人に、お父うのこと頼んじょくばい」音吉は、札を握り締めたまま再びコクリコクリとうなずくばかりだった。一作は父親の音吉に、三千ドルと母親のための首飾りを手渡した。森野には、音吉のためにシアトルで船の切符を買ってもらう金銭と五ドルの礼金を渡した。 彼は、既にこういった事ができるようになっていたのである。
父親が日本に帰ると、一作は町に部屋を借りて住みはじめた。この国で生きてゆくには、英語がしゃべれなくてはならないと実感していたからである。英語を本格的に習うためにはジャツプ・キャンプの宿舎に住んでいるよりも町中がよかった。彼は坑夫ではなく事務所で働いているので、英語を習う時間がとれた。事務職の給料の安さも、一作には問題ではなかった。彼は、ゆくゆく自分が坑夫のボスになろうと計画をたてていた。
数年が経つと、一作は英語の会話に不自由しなくなってきた。 読書もある程度でき始め、彼が英語を習得すると、仕事が増えた。坑夫が「写真結婚 」と呼ばれる方法で、自分達の田舎から「妻」を呼び寄せ始めたからである。これは、アメリカの日本人社会において以前から少なからず行われていた事だが、渡航が規制されてからは「写真結婚 」と言う、日本の「御見合 」の風習を延長するような方法が頻繁に取られるようになって来た。千九百八年にアメリカは、急増する日本人の移民に懸念する世論を考慮して、日本国が自主的に移民を規制する紳士協約を結んだ。その結果、独身青年が日本人の妻をめとり、アメリ カで生活するための手段となったのは、紳士協約で規制されていない妻子の呼び寄せの自由である。既に結婚している妻子と言う名目で、日本人の妻をアメリカに迎い入れるために二つの方法が取られた。一つは、日本に帰って結婚しアメリカに新妻を連れて来る方法である。しかし、経済的負担が大きかった。そこで経済的に負担を軽くする二つ目の方法が取られた。手紙で郷里の親戚縁者に結婚適齢期の娘を紹介してもらい、お互いの写真を交換して相手を選び、正式に日本の法律で定められた結婚手続を取った後、新妻が一人で渡米する「写真結婚 」と呼称されたやり方だ。この方法は、日本に帰って結婚し、妻を連れて来る経済的余裕のない独身の青年男子に流行した。
アメリカの移民局はこういった日本人の「写真結婚 」を法的に規制する事はしなかったが、 移民局の検査を厳しくした。
アメリカ人には、日本人の「写真結婚 」と言う方法は非文明に思われた。 お互いに実際の相手を知らない者同士が、法的に結婚したと認知される事が個人の人権侵害に関わると判断したのである。
坑夫が呼び寄せる「写真結婚 」の相手を無事にアメリカに入国させるのは、坑夫を抱える事務所の仕事でもあった。
一作は「写真花嫁 」を迎える坑夫に伴って、しばしばシアトルの移民局に足を遼ばなければならなかった。 移民局では、日本の法律で夫と妻とされた者達の身元を調べた後、シアトルのキング群裁判所に証人一人を伴って出頭し「マリッジ・ライセンス」(結婚証明書)を発行してもらうとようにと掲示した。そして、再び移民局に出向き正式な入国の手続を取らなければならなかった。
この過程では、一作の英語の能力が重大な役割を果たした。移民局は日本人の通訳を有していたが数が少なかったので、通訳を待っていると時間かかかる。一作は、自分が通訳の仕事も引き受けた。彼の英語は、アメリカ人に直接習ったので通訳より上手いとさえ言われた。
一作はアメリカの移民局にも次第に顔が利くようになった。
一作が町に住み始めた時から、散髪屋の女は過に一二度は訪ねて来ていた。相変わらず、来るたびに濃厚な性の営みを持った。
「うちを、嫌いにならんといて」と言うのが女の口癖である。女の名前が八重子と言うのを知ったのは、ずいぶん経ってからだ。八重子が来た日は、一日中性の香りが部屋の中に漂った。一作は、彼女の飽く事のない性の動きに身体をあずけていた。
「あんた、将来何になるん?」 ある日、八重子が聞いた。
一作は身体を八重子のほうに向けた。彼女は目をつむっていた。きめの細かい白い皮膚に油がうかんでいる。 絞れば油がこぼれそうだと思った。唇の上と口元に小さな黒子が浮いたように見えている。
「おいは、ボスになるばい」
ボスというのは、日本人労働者の管理者の事である。鉱山や鉄道、そして農園などに日本人労働者を斡旋するのが彼遠の仕事で、中には数千人を配下に抱えるボスもいた。一作の一言葉に、八重子は微笑みながら目を開けた。
「うちは、いろんな男と寝たけど、あんたのような人、初めてやわ 」
「・・・」
「初めて男を気に入ったと言うとるんよ」八重子が言った。
「おいがか? 」
八重子は、言葉の代わりに一作の顔を両手で引き寄せた。街(まち)ではクリスマスの飾付けが始まっていた。彼女は一作の所に来た後は、必ず市内の岡野鶴治商店と言う日本人の店によった。亭主の好きな酒と、食料の買出しのためだと聞いている。ジャツプ・キャンプから街(まち)に出るときは歩いて来て、帰りは馬車を拾った。 かいがいしく夫に尽くす女が、なぜ他の男に身を任すのだろうか。こういった問いを持った事があった。
「うちの、からだなんよ」と八重子がつぶやいた。彼女の目の光は、拡散しているかのように四方に散らばって見えた。要するに目の焦点が定まっていないのである。狂気を秘めているような目だった。男に抱かれる時の潤んだ目ではない。乾燥した目線が一作の問いに突き刺さった。
「冗談ばい・・・」彼は、自分の問いが愚かだった事を痛感した。
八重子は一作よりも一回り程年上だ。社会経験も豊富である。彼女の身体を抱えていると、豊かな母性の安らぎが伝わって来るのである。八重子が一作の部屋を出て、岡野商店の方に向う後姿を見ていて思い出した。
「おいは、八重子シャン、好きばい・・・ 」一作はつぶやいた。雪空が街を覆っていた。
正月が近付いて来た。 坑夫達は、テキサス州ガルベストの魚市場やシアトルから正月用の商品を買い揃えた。
鯛や餅、蒲鉾(かまぼこ)などであった。そして正月は二日から通常の仕事に戻った。
「一作君。近い内にシアトル行ってもらう事になるかもしれんのう」と、森野が反対側の机にいる一作に言葉を投げて来た。
「又、写真花嫁が来るとですか?」
「いや、次の給料日に賭場を関くけえの。権藤さんもワシもが忙しゅうて行けんので、一作君に行ってもらおうと権藤さんが言いなさったんよ」
「はあ、何にですな?」
「ほら、あれじゃがの。あれ・・・」と森野は片手をぶらぶらと振った。
「何ですか? 」
「賭博なんじゃが・・・」と森野は申し分けなさそうに続けた。
「賭博ですとな?」
「何、手紙を持って行ってくれたら、ぜーんぶ分かっちょるけに」
「電話では、だめとですか 」
「いろいろ事情があってのう・・・」
「よか、です。行きます」
「坑夫達の金が溜まってきたけえの、ここらでえ少し吐いてもらわんとなあ・・・ 」胴元の権藤は緒博で儲けていた。とにかく坑夫が金銭を貯めて日本に婦られては困るのである。坑夫にできるだけ金を貯めさせないようにする方法は、賭博と女に遣わす事であった。翌週、一作はシアトルに向った。 シアトル市内にある「東洋倶楽部」と言う賭博場のボスに、権藤の手紙を届けて、ロック・スプリングのジャツプ・キャンプに賭場を開いてもらうためである。封筒の中にはドル紙幣が入っているようだった。
一作の乗った汽車は、雪の山野をのろのろと走った。
ロック・スプリングの駅からシアトルの駅まで、周囲の総ては雪に覆われていた。機関車の吐出す石炭の煙は、白い雪の平原に流れて行くと、雪に包まれるかのように静かに消えてなくなる。一作は温暖差で曇る車窓を手で拭きながら、車窓の外に広がる冬景色に見入った。
おそらく九州の自分の田舎も雪であろう。お父うとお母あは元気じゃろうか。金はあれで足りたんじゃろうかと考えながら、汽車の揺れに身を任した。汽車がシアトルに着くと、いつものホテルに宿を取った。森野から渡される旅費は常に小額である。彼は自分で不足分を補っていた。
一作は今回、シアトルで買物の目的を持っていた。「タイプライター 」と呼ばれる器械を買おうと思っている。
英語が理解できるようになると、読み書きの必要性を痛感した。日本人労働者のボスになるためには、色々なことを勉強しなければならないと思っている。元来読み書きは好きなほうである。英語を習っていた学校の事務所に小さな黒色の器械が置いてあり、時々事務員が器械を使っているのを目にした。器械は「タイプライター」と呼ばれる物で、キーと呼ばれているアルファベットのボタンを指で押すと、前面のロールに挟んだ紙の上に字がプレスされてインク文字を写した。
「こりゃあ、便利たい」と一作は思うと、学校でタイプライターのコースを取った。 ほとんどが女性であり、将来はタイピストとしての職を持った。タイピングに慣れて来ると、面白いように文章が早く書ける。 当然、自分用のタイプライターが欲しくなっていたのである。
シアトル市内の事務機器の店に行くと 「レミングトン」「アンダーウッド 」「バーロウズ 」などと金文字で描かれたタイプライターが並んでいた。
デモンストレーション用のタイプ・ライターに近付くと、丸いキーに指を下ろしてみた。「パチン」と小さく音がして「H」がタイプされた。一作は椅子に腰を下ろすと、両手をキーにかけ、用意されていた目の前の文章を数行ほどタイプしてみた。タイピングの音がスムーズに流れると、店員が近寄ってきた。
「タイプライターをお求めですか?」
「はい」
「こちらに並んでいますのは、最新式のものですよ」彼は並んでいる数種類のタイプライターを手で示した。
「価格は? 」
「今日お買い求めになります十パーセントお安くいたします 」
「なるほど・・・」
店員は、後一歩だと思ったのか話題を変えた。
「失礼ですが、お客様は日本人ですか?」
「ええ、そうですが・・・」
「先だって、日本人の方がいらっしゃいまして、お買求めいただきましたよ。確か、古谷商会と言う会社の方でした」
「ほう・・・」
「男性ですか 」
「いえ、ご夫婦で来られまして、ご主人が婦人に買ってさしあげられたのです」
「なるほど・・・シアトルでは、日本人が増えているようですねえ」
「ええ、増えています。しかし、タイプライターをお求めいただいた日本人は、まだ一人ですが、あなた様がお買いただきますと、二人目になります」
「なるほど、興味のある話だ 」
「私は、期待いたしております 」と店員は微笑んだ。
「では、二人目になりましょう。アンダーウッドをいただきます」店員が一作に握手を求めた。
一作は、次に時計店に足を止めた。
八重子が時計を欲しいといっていたからだ。時計も、最近はぶら下げるのではなく、腕首に巻く物が流行(はやり)だしている。価格は二十ドルほどしていた。自分用の物と八重子の物を買った。
翌日、一作は「東洋倶楽部 」のある富士屋という飲食店に行った。富士屋は古い煉瓦造りの二階家である。入口近くの看板に「ビリヤード」と日本語のカタカナで書いてある。これが、森野の言った滝沢と言う飲食街の元締めのいるとこであろう。要するにここが「東京倶楽部」である。
滝沢に権藤の手紙を渡した。
滝沢は封筒の中身を確認した後「権藤さんに、よろしく言っておいてくれ 」と、一作を見た。 土佐山に似た顔付きをしている。 酒のためか顔が赤い。部屋を出て一階に降りると、勝沼と言う男が一作に声をかけた。
「あんた、権藤さんのところで働いているのか?」と彼は聞いた。
「そうですばい」
「九州者のようだな」
「はあ、そうですたい」
「そうか。 英語はできるか?」
「勉強したとです」
「ふむ。 頼みがあるのだが・・・」と、勝沼は言い一作を近くのテーブルに座らせた。
「あんたは、人夫を動かせるかい?」
「・・・」
「要するに、アメリカ人と交渉して、人夫を働かすってえことだよ」
「将来は、ボスになりたいとおもちょりますが」
「おお、そうか。 だったら、別に将来じゃあ無くてもいいじゃあねえか」
「はあ・・・・・・」
「じつはな。七人ほど仕事の欲しいやつがいるんだがね・・・何、心配いらん。 変な奴等じゃあねえ。堅気だ 」勝沼の目が一作を見た。
勝沼によるとワイオミングのキャマーにある炭坑で坑夫のストライキがあり、坑夫を欲しがっていると言う。
「スト破りじゃあなかですか・・・」
「みな、同じじゃあねえか。スト破りも糞もねえよ」
「・・・」
「やってくれねえか。これに成功したら、次からおまえのところに人夫を回すようにしてやるが、どうだい?」一作は頭の中で迷いながらも、一つのチャンスだと思った。
「やってみますたい」
勝沼が一作の肩をたたいて「たのむぜ」と言った。
一作は七人の坑夫を率いて、キヤマーの駅に降りた。彼は、七人をホテルに治めておき、自らキャマーの炭坑事務所に向かった。街は余り大きくないようだが活気がある。辻馬車の御者の話によると、ジェームス・キャッシュ・ぺニーと言う青年実業家がゴールデン・ルール・ストアと言う店を拡大させ、今では三十四店まで広げたと言う。一作は、ロック・スプリングにも店があったことを思い出した。
翌年になると店の名前を「J ・C・ペニー 」と変更し、全米に広がることになる。
炭坑の事務所では、一作の連れてきた労働者を待っていたかのように、雇いいれることを了承した。
「みてくれ、静かだろう?」炭坑の責任者が言った。
「何日ほどですか?」
「もう二週間になる。労働者逮は団結して宿舎から出てこないんだよ」
「二週間も・・・」
「このままストを続けられると、大変なことになるんだ」
「大変なこと?」
「軍隊に頼むことになる」
「軍隊ですか・・・」
「仕方ないさ。我々の手におえんのでね。とにかく君の労働者を直ぐにでも働かせてくれ。どうしても仕事を続けなければならない」一作は担当者と仮契約書を作成し、労働者達を宿舎に入れると、現場の主任を決めて仕事に就労させた。炭坑にはチラチラと雪が降っていたが、良い給料を坑夫達に約束したので、彼達は喜んで仕事を引受けた。
一作はホテルから電話で勝沼に、人夫をキャマー炭坑に供給したことを報告した。
「なかなか、やるじゃねえか。よし、約束は守るぜ。必要な人夫があったら連絡してこい」と、荒っぽいながら頼もしい言葉が返って来た。
一作は勝沼の言葉を関きながら、キャマーの街に降る雪を窓越しに見ていた。この炭坑には既に日本人坑失が働いていたはずであるが、彼達も恐らくストライキに加わっているに違いない。いずれ、この坑夫達を自分のほうに引寄せようと考えた。ロック・スプリングの自分のアパートに帰ったのは午後遅くだった。
早速買ってきたタイプライターを机の上に置いた。黒い器械には威厳がある。これがあれば、自分のビジネスが成功するように思えるのだった。一作は十九になっていた。宝は、全て山から自分の部屋に移してあった。 彼は権藤の事務所の仕事を止めて、キャマ ーに移る決心をした。
翌日、権藤の事務所に出勤し、森野に結果を報告した後「頭の髪が伸びましたけんと言 い、時間をもらって散髪屋に行った。
八重子は相変わらずのんびりと椅子に座っていた。
一作が入ってゆくと「あら!」と、声を上げ性を求める顔つきになった。
「目を、つむりな」
「なんでやの?」
「且那は? 」
「山よ」
「ふーん。目を閉じると、良いことがあるばい」
八重子は、一作に近付いてきて軽くキッスをして目を閉じた。彼は八重子の手に小さな箱を握らせた。
「目を開いたらビックリするばい」
「なあに? これ・・・」八重子はゆっくりと目を開いて自分の手の物を見た。 熟した女のはちきれそうな身体が服に包まれている。八重子は最近きれいになった。
彼女は箱を開いて「マッ! 」と小さな驚きの声を上げた。
「時計、ほしがったとじゃろ? 」
「宝石みたい・・・」
「最新の時計たい。ほら 」一作は自分の腕首にした時計を八重子に見せた。
「まあ、腕につけるん」
「流行しとると、時計屋が言うとった」八重子は、恐る恐る箱の中から時計を取り出すと腕にはめた。 一作は時間の合わし方と、ゼンマイのまき方を、一回り歳の違う女に教えてやった。八重子は子供のように喜んだ。
「でも、主人に見られたらどうしょう・・・」
「拾ったといえばよかとよ」
「そんなこと言えんわよ」
「じゃあ、買ったといったらよか」
「それでも、だめやわ・・・それに、この炭坑でこんな時計やっているの貴方しかいないから、仲を疑われそうやもん」
「ああ、おいは大丈夫ばい。ここを止めることにしたんじゃ」
「えっ?」八重子の目が大きく開いて一作を見た。
「キャマーに移るつもりたい」
「キャマー? 」
「直ぐ近くの町たい。ロック・スプリングより街に活気がある・・・そうじゃ、八重子さん。あん街に店ださんね。おいが資金だしちゃるがあ ・・・・・どうね? 」
八重子は何も答えなかった。 一作は椅子に座ると、散髪してくれと言った。
八重子は黙って鋏を動かしている。時々一作の顔をいつものように正面から見た。性の時にのけぞる顔を覚えている一作は、八重子の色気に身体が熱くなるのを覚えていた。 鋏で切られる髪の毛の落ちる音が、大きく聞こえて来る。
二週間ほどして、一作はキャマー市内に家を借りた。事務所兼住居である。炭坑では、炭坑会社の小さな一室をあてがってもらった。連れてきた坑夫達、はまじめに仕事をこなした。一作は、自分の配下の坑夫に対して、アメリカ人と同じように月に二度の給料制にした。自分の取り分を少なくして坑夫に回したので、坑夫達は白人並みの給料を稼げるようになった。
こう言った情報は、直ぐに坑夫仲間に伝わるものだ。一人二人と日本人坑夫が一作の事務所を訪ねてきて彼の配下に入って来た。一作が以前のボス達と違う手腕を見せたのは、炭坑会社との交渉である。
彼は、坑夫達の住居などや厚生にも気を配った。これは、ロック・スプリングのビジネス・スクールで教わったことを実行したに過ぎないが従来のボス・システムでは、有り得なかったことなのである。彼の配下は次第に増え始め、一ヶ月程経つと三十人以上に増えていた。これに驚いたのは、ストをしている坑夫の組合である。彼達のストが「スト破り 」によって崩れそうになってきたからだった。
ある日、ストが長引くのに業を煮やした会社側は、州に軍隊の派遣を依頼した。ストをしていた労働者達は軍隊のスト解除命令にも従わず、一部の労働者は坑夫の宿舎にバリケードを築き、武器を持ってたてこもった。 騒ぎは拡大し、とうとう軍隊は宿舎に火を付け、武器で抵抗する者に対して射撃を始めた。これが、坑夫組合の労働者達を激怒させ、彼達の鉾先は「スト破り 」に向けられた。
一作は、ほとんどの配下をキャマー市内に非難させていた。しかし、数人の現場監督とともに坑夫宿舎に残って今後の事を話し合っている時、一人の白人が訪ねてきた。
「イサクはあんたかい? 」目の鋭い男である。
「おいだ、が。あんた、誰ね?」 自分を「イサク」と呼んだのは、かつての友達であるジョンしかいない。
「ここに、何人いるんだい?」男が聞いた。腰にピストルを下げていたが、彼達日本人を殺害に来た様子ではない。第一、男は坑夫の姿ではなかった。その時、銃声がして窓ガラスが砕け飛んだ。
「ちっ! 来やがった 」と男は言い、窓に近寄ると外の様子を伺った。 日本人達は机の下
に身を隠していた。
「みんな、こちらに来い」と男が言い、一作が日本人達に伝えた。
「一体、なにごとだ?」一作の英語の問いかけに男は「ぺっ!」と唾を窓側に吐き捨て「あんた逮は、狙われているんだぜ 」と低く答えた。
「狙われている? 誰に?」
「炭坑野郎によッ」
「何だって?」
「静かにしてろ」男は宿舎内を見渡し、裏側の窓を指差した。再び銃声がして弾のうなりが天井の方に聞こえた。威嚇しているようである。
「出てこい」と言う声が遠くから関こえて来た。
「あの、窓から出て俺を待て」と男は言い、反対側の外れの窓に近付くと外に向かってピストルを発射した。
一作と日本人達は窓から脱出した。 銃の撃ち合いがあったあと、男が出てきて「こっちだ」と日本人達を誘導した。
「逃げ出したぞ」と言う声が聞こえた。
一作達は男の後を追って走った。射撃の音がした。男は、数軒先の倉庫のようなところにたどり着くと、中に彼達を入れた。
「さあて・・・」男はポツリといい、日本人達を見るとニタリと笑った。
「一体、どうなるのですか?」坑夫の一人が一作に聞いた。
「なあも、分からんばい・・・」一作は、この不気味な男に頼るしか生き延びるすべが無いことは察していた。しかし、一体この男はなぜ彼達を助けに来たのだろう。男は二挺のピストルに弾を込めながら、これから起こることを予知しているようにも伺えた。
再び射撃の音がして弾が天井の板を貫いた。皆、積んであった板材の後ろに身を隠した。男が小さな窓から外に向かってピストルを連発した。相手も応戦した。
「まるで、戦争ですな・・・」青ざめた顔で日本人坑夫が一作に言った。その時、火の点いた松明(たいまつ)が窓から飛び込んできた。
「ケッ! 来やがった」男が言った。
「焼き殺す気だ。降参して出よう」一作の英語の言葉に、男は「出たら撃たれるぞ」と忠告した。
「撃たれる? 俺達は、何も悪いことなどしていない。撃たれる理由など、ない」
「おめえは、分かってねえ。奴等は、仲間が軍隊に殺されたのは、あんたらのセイだと思っているんだぜ」
「俺達の?」
「奴等は、仕返しをしょうとしている」
「仕返し・・・・・・」
その時、天井から火の粉が落ちて来た。屋根が燃えているようである。
「どうする?」 一作の問いに男は黙っている。外から「出てこい」と声がした。煙が次第に倉庫の中に充満してきて、坑夫達がむせはじめた。男は再び窓から外に向かってピストルを乱射し、一作達のほうに帰ってきた。
「よし、こっちに来い」男が言って動いた。
男は、倉庫の外れにあった箱のような物を動かした。床に穴が空いていた。入口にカンテラまで用意されている。男は、天井から落ちて来て燃えている木片を拾い上げると、カンテラに火を点けて日本人達に渡し「入れ 」と言った。火は既に彼達の背後まで来ている。皆、穴の中に急いで降りて行った。
最後に降り立った男は、穴の入り口をうまく塞いで穴が見付からないようにした。 かなりこういった事には慣れているようである。
「こっちだ」男の後にしたがって這うように小さな穴を数十メートルほど進むと、前方に明りが見えて来た。 向こうのはうにも誰かがいるようである。しかし、男は銃を構える様子でもなくゆっくりと進んでゆく。
やがて、彼達は炭坑の坑道に出た。 坑道の中では、他の男がトロッコで待っていた。彼達は一作達を載せると、トロッコを走らせ始めた。
トロッコはかなりの距離を走った。この迷路のような坑内を自在に操るトロッコの運転手は、多分現役の坑夫であろうが、なぜ「スト破り 」の日本人坑夫達を助けるのであろうか。トロッコがどこかの坑道の出口から出ると、トラックが停まっていた。男は日本人達をトラックに載せると、ドライバーが車を発進させた。 辺りは既に夕暮れになっていた。
トラックはキャマー市内に入り、やがて煉瓦造りの大きな建物の前で止った。
男が一作達に降りるように指示した。
建物はどうやら酒造工場のようである。男について建物の中に入ると酒のにおいが漂っていた。
男は二階にある部屋のドアを開いて一作達に入れと言った。
「連れてきましたぜ」と、男は中の紳士に伝えた。紳士が一作達を振り返った。どこかで見た覚えのある顔である。
「無事で、よかった」と紳士は言い、男は部屋から出て行った。
「イサク。 覚えているかね?」 紳士が言った。
一作は改めて紳士を見た。鼻の下に髭をたくわえているがジョンの父親である。
「ミスター・ブラウン」
紳士が微笑んだ。
「久しぶりだねえ」ムーンシヤインを造っていたジョンの父親が皮張りの椅子を背にしていた。
「お驚きました。ジョンも、いるのですか 」
「直ぐ来る」
ミスター・ブラウンの言ったとおり、直ぐにジョンが現れた。
「イサク!」ジョンが笑って一作を迎えた。ジョンは背広を着、青年実業家のような身振りである。
「酒造販売を始めたんだ 」と、彼は言った。
ジョンの話によると、偶然に一作がキャマーにいて「スト破り 」の坑夫を炭坑に供給し始めたことを知ったらしい。しかも、彼達が労働組合員から襲われることを知ったジョンと父親は、大金を出してプロの救助家を雇った。
「ジョン。ありがとう」
「礼なんかいらないよ、イサク。どちらかと言うと、僕たちが君に礼を言いたいぐらいだ」とジョンは言い、手短に今までのことを話した。
一作は、ジョンと彼の父親に何度もお礼を言い、日本人達を連れて市内のホテルに帰った。
一作は、日本人労働者を安全なところに動かすために、シアトルにある古屋商店の楠本安吉という人物と連絡を取った。楠本は温厚な人物で、社会活動家としても日本入社会に知られていた。
橋本安吉は、一作にワシントン州のルーズヴェルトで保線工夫を監督している熊本県出身の山根良章のところに行ったらどうかと薦めた。山根は、千九百十九年にルーズヴェルトで鉄道保線工組合を結成した男である。ポス組織による賃金のピンはねを阻止し、会社から直接賃金が支払われるように改善するなど、保線工夫達の労働条件の向上に努めた。彼の配下であれば安全である。
一作は、ボスとしての夢を失うことになるわけだが楠本の言葉によれば、いずれ中間搾取をしているボス組織や人夫斡旋業者はなくなるであろうと言うことであった。
「君は、まだ若いのだから、アメリカの大学で、もっと勉学に励んだらどうかね?」と、締本安吉は一作を励ました。
一作は、坑夫達を山根に託すことにした。
一作は、坑夫達を連れてワシントン州のルーズヴェルト行って帰って来ると、再び学校に行きはじめた。
八重子は、夫が落盤で足を怪我をしたために、やはり本格的に散髪屋を開業したいと一作に告げた。彼は、八重子にJ・C・ペニーのような「バーパー・ショップ〈床屋 )」のチエーン展開をしようと持ちかけた。
「散髪屋の?」八重子は驚いて一作を見た。
「毛は、直ぐ伸びる。これは、商売になる」一作の夢は膨らんだ。先ず一号店を八重子にキャマーに出店させ、J・C・ペニーの後を追う。J・C・ペニーの店のあるところ、総てに「散髪屋 」を出店しよう。
「名前は、アメリカの名前がよか。『ミラクル・カット 』で行くばい」彼は自分の思い付きに、驚くほど名案だと思った。
ジョンとも、たびたび会った。彼の家族の事業は順調に伸びていると言うことである。
一作は、ある日ジョンの幼友達であったジェニーの事を聞いてみた。ジョンは顔を曇らせて、彼女の家族は、まだ丸木小屋に住んでいると言った。
「オーランドさんの身体の具合は、どうなのだろう?」
「悪いらしい・・・」
「そうか・・・どうする? 」
「どうするって?」 一作の関いにジョンが顔を上げた。
「助けてけてあげようじゃあないか」
「・・・」
「何か、まずいことでもあるのかい?」
「いや、今までにも、何度か救いの手をだそうとしたのだが宝のことがばれそうでね・・・」
「宝か・・・」
「まだ、半分ほど残してはいるのだが・・・君は?」
「ぼくもだ。父親に渡した分や、遊んだけど、半分ほど残っている」
「ところで、僕たちが隠した宝はどうなったろう?」 ジョンの問いかけに一作は、今までの成行きを話して聞かせた。
「じゃあ、落盤跡を掘返せば、宝が見付かるじゃあないか」ジョンが言った。
「しかし・・・」今度は一作が言葉を詰まらせた。
「ああ、君が大声を上げて落盤を起こさせたと思っている事かい?」
一作は頷いた。
「心配ないよ。坑道は人が叫んだ程度で落盤は起きない」
「えっ? 本当かい?」
「本当だ。周囲の壁が音を吸収するからね。これは、習ったんだ。そうでないとトロッコが通ったり、ダイナマイトを使うたびに落盤さ」
「でも、雨で地盤が緩んでいたんだよ」
「同じだ。心配ない」
ジョンと一作はジェニーの家を訪ね、ベットに伏していたオーランド氏に宝のことを話した。話を聞きおわったオーランド氏は、娘のジェニーに坑夫労働組合のリーダーを呼んで来るように言った。
リーダーから指示を受けた坑夫達は、落盤のあった廃坑跡をゆっくりと宝に向かって掘りはじめた。ジョンと一作もこの発掘に加わっていた。
坑夫達は慣れた手つきで土を掘り、補強の柱を立ててゆく。坑内は総てが落盤で埋まっていたわけではなかった。 所々であったが、一作とジョンが宝を埋めた付近ではひどい落盤を引起こしたようである。 抗道内のほとんどが岩石と土砂に埋まっていた。
坑夫達が少しずつ堆積物を除けてゆくと、やはり人間の骨が出てきた。 服装からすると土佐山である。骨は柱を抱えていた。柱の先にもう一つの人間の骨があった。大島であろう。土佐山の手から伸びる柱は、大島の頭を一撃したようである。 頭の骨が損傷している。まわりに打 撃を与えるような石が落ちていないところを見ると、二人は争ったと思われた。大島の骨が、宝の箱を抱えており金貨が散らばっていた。坑夫達の照らすカンテラの光を受けて、骨の隙間に金貨が輝いている。
彼達は、二人の死者の骨を箱に入れ廃坑の手前に埋葬した。木で組んだ小さな十字架が立てられた。
落盤は、彼達が宝石を争う時に、土佐山が咄嗟に手に取った柱が要因となって引起こされたようである。
宝石は、坑夫組合が管理することになった。そして、資金は坑夫達の医療費や子供達の教育資金として使われることになった。
この資金のおかげで十二分な治療を受けたジェニーの父親も、やがて健康が回復し、組合の事務所で働きはじめた。
千九百十七年十二月、アメリカ合衆国憲法修正第十八条が設定された。これにより、過去半世紀ほど争われてきた禁酒法が法令で定められた。そして、アルコールの製造、運搬、販売が全面的に禁止された。
一作は、ブラウン氏の酒造工場を訪ねた。工場は普通通りに動いていた。
「ジョン。大変なことになったなあ」一作が言うと、彼と父親は平然として「これからが儲かる」と、答えた。
「でも、禁酒法が設定されたと言うことは、製造もできなくなるわけだから・・・ 」
「既に、シカゴから多量の注文が入っていてね」
「シカゴ?」
「ああ、どうやら闇黒街からの発注のようだが、受けた」とブラウン氏が言った。
「警察沙汰になりませんか? 」
「しばらくは、大丈夫だろう。警察にも金をつかましているかね」
「イサク。儲けは危ないことをすればするほど、危険な坑道にいる坑夫のように金を稼げるわけさ」ジョンが口をはさんだ。
「でも、どうやって運ぶんだい? 運搬も規制されているらしい」
「ソーダーもかね?」
「ソーダー? いや・・・」
「この工場では、ソiーダーを製造している。『ムーン・シヤイン』と言うソーダーだよ」
一作は、森の中の小川のほどりで「ムーンシャイン」を造った光景を思い出した。
「ほら」ジョンが机の上のビンを取り上げて、中の液体をグラスに注ぐと一作に手渡した。グラスの液体は、キラキラ輝きながら一作の口に運ばれた。ムーン・シヤインは、森の中の味がした。
了
月光 三崎伸太郎 @ss55
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