謎を抱える決意について
詩穂は夜道をごく低速で、気持ちよさそうにマニュアル操作して運転をした。丸目ライトのまるっこい車で、リアシートは幼稚園児が一人しか座れないほど狭く、おまけに真新しいのデザインなのにエンジンは妙にバタバタと音がした。彼女同様、謎めいた車だった。
政二はどぎまぎしながらも、詩帆と住んでいる場所や翔子との関係などとりとめのない会話を交わした。時折沈黙が続くことがあったものの、不思議と詩穂との沈黙は気づまりではなかった。何度目かの短い沈黙の後で、詩帆は言った。
「私が政二君と同じぐらいの歳に、ネットで反抗期について調べたことがあったの。ある人生相談にはこう書いてあったわ。子供が反抗期を上手に抜ける為に両親がすべきことは、プライドを上手に砕いてやることだって」
政二は戸惑いながら、胸に嫌な気持ちが渦巻くのを感じた。砂糖を入れ忘れたコーヒーを飲んだみたいな心地だった。社内に沈黙が流れ、政二は何か言うべきなんだろうと察した。
「そうなんですかね、良く分からないです」
「当時、私はそれに物凄く腹を立てたわ」詩帆は穏やかに言った。政二は安心して一息ついた。詩穂はそれを聞いて少しだけ微笑み、話を続けた。
「子供に対する親の作戦って、何となく浅はかで苛々するわよね。本心では怒っていないくせに、体面とか躾のために叱ってくることに、昔は納得がいかなかった」
「わかります、まだ見抜けないって思われてるのがシャクで」
「でもね」詩帆はつぶやいた。詩帆は諦めたようにため息をついた。誕生日ケーキのろうそくだって消せないような小さな吐息だった。政二は面食らいつつ、詩帆の横顔を見つめた。その先を聞きたくなかったけれど、ここからが本題に違いなかった。
「私は今でも社会との付き合いをご遠慮している立場にあるからとても偉そうなことは言えないんだけど、それでも今になって分かることもあるのよ。砕かれた方がその人のためになるプライドもあるんだって」
「フラスコのことですか」政二は半笑いで言った。
「フラスコ?」詩帆は幾分冷たげに言った。「あなたの武勇伝は関係ないわ」
政二は口元から笑みを消して、うなだれた。これは後から思い出して奇声を上げたくなるだろうな、と政二は予感した。詩帆はユニクロの駐車場に車を停め、エンジンをかけたまま、フロントガラスの向こうは休耕中の畑が広がり、その奥には急行列車の窓がフェンス越しに流れて行った。
「福浦くん、翔子ちゃんはね、あなたに対して恋愛感情を抱いてはいないの」
「え、僕は」政二は口ごもって、次の言葉が出てこなかった。予想だにしていない指摘に、喉が詰まって息苦しかった。詩穂はただ前を見て黙っている。政二が次の言葉を発するのを待っているようだった。意外とSっ気のある人みたいだ、と政二は嫌な汗をかきながら言葉を絞り出した。
「僕は、翔子さんのことが好きなんでしょうか」
「これからそうなるのよ」
「分からないです、今はそういう気持ちないと思うけど」
政二は言いながら不安になってきた。今日、翔子は一貫して自分に優しくしてくれた。同年代から対等に親しくされたのは一体いつ振りだったろうか。
「翔子ちゃん、次に会った時は今日ほど優しくはないと思っていいわ。困惑すると思うけど、そこからが本当の関係作りと捉えて欲しいの。勘違いしてやきもきすると、すぐ火傷することになるわ。…そしてあなたはここでも居場所を失ってしまう」
詩帆の言葉は謎だらけだったが、胸中は嫌な予感で満ち溢れていた。おそらく自分が理解できない真実をいま突き付けられているのだと政二は直感した。政二はこの詩帆という女性が自分より何倍も経験豊富で洞察力のある、恐ろしい大人だという認識を持った。そこには畏怖が伴った。
「どうすればいいんでしょう」
政二は声の情けなさに嫌気がさした。雨に濡れた子犬にでもなった気分だった。
「なぜ翔子ちゃんがあなたを私たちの家に連れてきたのか考えて。彼女は面倒見がいいけど、最終的には自分を一番大切に考える人よ」
「何か僕を連れてくる理由があったんですか」
「その理由までは突き止める必要はないの。でも、何か彼女なりの謎の理由があってあなたを誘ったんだ、という事に思いをはせていれば、きっとあなたと翔子ちゃんは友達になれるわ」
「えっ翔子さん、悪い奴なんですか。え?」政二はひどく混乱して声が震えた。
「極端な子ね」詩帆が幾分呆れた声を出した。
「あっすみません。え?」
「目に見えるもの、明確なものだけで判断しないで」詩帆は言い聞かすような穏やかな声で割り込んだ。「どうして慎吾さんは一人きりで暮らしているの?どうして私は男女の関係もなく慎吾さんの家に居候できているの?翔子ちゃんが家にあまり帰らない理由は?翔子ちゃんが連れてくるのはあなたが最初かしら?」
「うわ、はい」政二は頭の中に容量オーバーのダウンロードファイルを流し込まれている心地がした。「全然わからないことばかりです」
「あなたはそれでも、翔子ちゃんが好意を持っていると思う?」
「分かりません、ええと、さっきはちょっとそういうのもあるかなと思ったけど、もう分からないです」
「それでいいのよ。一つヒントがあるとすれば、あなたはこれから私たちの家に遊びに来ていいという事よ」
詩穂はギアを入れ、車を発進させた。ユニクロの駐車場を出て、政二は自分が泣きそうになるのを必死にこらえていた。
政二が家に帰ったのは夜の八時過ぎで、父親はもちろん説教のために怒りを溜めて準備していた。瓶ビールを飲んでいたグラスを投げつけられ割れてしまったけれど、政二は怯えながらも、心中で「俺の方が十二倍割ったんだ」と強がった。叱りつけられる時間が長くなると、父親に対して侮蔑の気持ちが湧いてきた。ふと、「あなたの武勇伝は関係ないわ」と詩穂の声が聞こえた気がした。政二は顔を上げて、父親をなるべく神妙な顔つきで見返し、嵐が過ぎるのを待った。
ほどなく電話が鳴って母親が出た。父親は沈黙し、母の甲高く情けない声だけがリビングに響いた。学年主任の教諭から喧嘩相手の平内の怪我が軽傷である事とともに、政二の留年が伝えられた。
さんざん叱られた後で、母親は政二の好物ばかりを並べた夕食を用意していた(唐揚げ、餃子、海藻とサーモンのサラダ)。政二は食べてきたことは隠して「いらない」とだけ答え、さらなる父親の怒りを招いた。
自室へと解放されたのは日付が変わる直前だった。スマホを見ると、自分は平内を含むクラスメートのグループLINEからブロックされていた。政二はラジオをつけ、椅子に背中を預けながら、学習机に脚を乗せて椅子の前足を浮かせてバランスを取った。宿題のやる気がなくなると、いつもそうやって気を紛らわした。
政二は、駅からあの一軒家までの道順を思い起こした。翔子、詩帆さん、慎吾さん、と面々の顔を思い浮かべつつ、もう一度ブロックされたグループラインを眺めた。
両親にもクラスのやつらにも言うまい、と政二は強く念じた。
フラスコ hitoiki @hitoiki_
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