人の老化みたいな用水路のそばにある一軒家
街灯もまばらな水路沿いの住宅地、背の低い木造建築が並ぶ薄暗い通りに、その真新しい一軒家はあった。重たげな鉄柵の向こうには整った芝生と石畳の庭、白い外壁にオレンジ色の屋根、玄関の扉は明るい色の板張りでできている(取っ手まで木製だ)。玄関の明かりが暖色にあたりを照らしている。
翔子は一度チャイムを鳴らした後、返事を待たずに玄関を開け、入るよー、と中に声を掛けた。
翔子は手早く自分の靴をそろえ、玄関にいくつか出されていたスリッパの一つにつま先を突っ込むとさっさと先へ行ってしまった。
「勝手に上がって」翔子は住人の返事を待たず促した。
政二は慌てて靴を脱ぎ、後に続こうとして靴箱の隅で小指をぶつけた。
「何やってんのどんくさい」
「痛い、ごめっ」それから小声で政二はつぶやいた「どんくさいって、いま」
「いちいち傷つくな」翔子は思い直して振り返り、ちょっと茶目っ気を込めて行った。「あっ、後からフラスコで殴ったりしないでね」
リビングの扉を開けるとソファーに男が、ダイニングにある大きな背もたれの椅子に女がいた。ソファーの男はトランクスとタンクトップ姿でサッカーの日本戦を前のめりに見ていた。プレーの一つ一つに「逆サイ気を付けて」、だとか「前スペース空いてるよ」だとか「オッケー審判見てない」などと夢中で歓声を上げている。ダイニングの女性は読んでた文庫本(複雑な模様のカバーがついている)を閉じ、椅子から立ち上がってこちらを見やっている。二十台の前半くらいだろうか、つややかな黒髪で前髪はほとんどまっすぐ切りそろえられている。政二は彼女にまだ若者側に立ってくれそうな親密さをどことなく汲み取った。そしてすぐに濃紺のワンピースの中で大きな山を形作る豊満な胸に目線がくぎ付けになった。
「詩帆さんこんばんは、慎吾も」
「呼び捨てかい」と慎吾と呼ばれた男は画面を見ながらおどけた声を出した。お約束のやり取りなんだろうなと政二は察した。
「あら、新しい顔ね。どなた?」詩帆と呼ばれた女が政二を見やって尋ねた。
「こいつ福浦、福浦…下の名前何だっけ?」
「あ、政二」政二は翔子に向けて言った。
「福浦政二くん。今日学校でクラスメートをフラスコで十二発殴って停学食らったんだよね」
「え、停学、もう確定なの?」政二は慌てて気弱な声を出した。
「うるさいな、もう決まったようなもんでしょ」翔子は言ってから、詩帆に向き直った。「小学校から一緒のガッコ行ってるけど、話したことなかったんだ。けど今日は私も指導室に呼ばれてて、ばったり出くわしたんだよね」
「楽しそうに言う事じゃないでしょ。指導室って、翔子は何したの?」
「昼飯買う金なくてパン盗んだらバレちゃった。でもさっきそのうち一つ福浦にあげたから共犯なんだ」
「え、そういう」政二は口ごもったけれど、詩帆の前で言葉が出なくなってしまった。
おーい、とソファから声が掛けられた。男が振り向いている。短髪を立てたヘアースタイルで若々しい表情と声だが、ほうれい線がしっかり刻まれており、肌はがさついている。政二からしてみれば相当に年上、むしろ父親と同じような年齢かもしれなかった。
「そいつ警察沙汰になってねーだろなぁ」ちょっと迷惑そうな、率直な声だった。
「えー、大丈夫大丈夫、心配しすぎだって」翔子が軽やかな口調で答えた。
「フラスコで叩いたんでしょ、血が出たり、病院へ連れて行ったりしなかったの?」詩帆が言った。
んーまぁ、と言って翔子は腕を組んだ。「センセが自分の車で病院に連れてったみたいだけど」
「おいおい、ここに警察来たらさすがに匿えねーぞ、飯食ったら帰れよ」
「何だよ冷たいな、ちょっと寄っただけじゃんか」翔子が語気を強めて言い返す。
「だっ、大丈夫です」政二は大声を出した。「どうせもみ消すために救急車を呼ばなかったんです。サイレンが鳴ると注目が集まって変な噂で学校の評判悪くなるから。それにフラスコはなるべく薄いのを選んだし、殴った奴は馬鹿だから石頭だし」
政二の声は次第に小さくなっていった。慎吾がソファから振り向いた体制のまま、政二を見つめた。
「なら、良し」慎吾は唐突に大声を上げてテレビへ向き直った。「でも俺忙しいから、部屋の案内は詩帆ちゃんよろしく」
政二はあっけに取られ、翔子と詩穂を交互に見た。
「脅すなよばーか」翔子があけすけと言った。そして政二に向けてそれぞれの住人を指さした。
「ソファーに座っているのが家主の慎吾。家買ったのに奥さんと息子が出てっちゃったの、愛想つかして」
「複雑な事情って言えよ」とソファーから気楽な声が聞こえた。
「こっちが詩帆さん。とっても美人さん。いつもこの家にいて料理や洗濯をしてくれているけど、よくわからないの。不倫じゃないって言うし、慎吾の親族でもないって言うし」
「謎なの。よろしく」詩帆が言った。
政二は詩帆から向けられた視線をまともに受けることが出来ず、目線を落とした。そこには豊満な胸があった。
「ひとつ、確かめておきたいんだけど」詩帆は探るように政二に言った。「フラスコで十二回ぶったって本当かしら」
「そうみたいです」政二は言った。
「それは、一つのフラスコで十二回ぶったの?それとも、一回ずつぶっては割って、十二個のフラスコを粉々にしたの」
「ちゃんと十二個割りました」
詩穂は微笑んだ。
「なら、いいの。よかった」
政二もあいまいに笑って、初めて詩帆の顔を見た。何となく意気が合いそうな人だった。
「これが詩帆さん」翔子が言い直した。「とっても変な、美人なの」
詩穂は政二と翔子を連れ立って家主に代わり一軒家を一通り案内した。外から見る以上に内装は真新しく、四人家族がゆとりを持って過ごせるリビングと、それぞれの自室を振り分けられるだけの部屋数を備えていた。階下では慎吾の興奮した声がひとり響いている。
二階のベランダからあたりを見回すと、背の低い廃屋目前の屋根から闇夜に立ち上る煙がうすぼんやり見え、なんとなく焼き魚や芋煮のようなにおいがした。
「冬の天気のいい日は」詩帆は穏やかに言った。「水路の上流から下流へと眺めるもしみじみとして良いものよ。上流はいかにも雪解け水といった感じで澄んでいるんだけど、下流に行くにつれ老人たちの生活排水で泡立った濁りへ変わっていくの」
「それってオツなんですか」政二は言った。
「人の老化みたいじゃない?」詩帆が言った。
「ほら変な美人」詩帆がいたずらそうに横やりを入れた。
詩穂は部屋の案内を終えると、手早くエビとイカとブロッコリーの塩あんかけを作り、卵のスープと梅肉の乗ったお粥を添えて振る舞ってくれた。政二は人の家で食事をとるのは小学校以来だろうか、と思い返した。特別母親の料理に不満を覚えたことはないが、詩帆の料理は目を見張るばかりに美味しく感じた。
「詩帆さんの料理、うまいだろ」と翔子は政二をこついた。
「おいしい、です」
「ありがとうくらい言え」
「あ、ありがとうございます」
「どういたしまして」詩帆が微笑んでいった。
政二は、エプロンの上からでもわかる胸の豊満さをしっかりと目に焼き付けた。
夕食後、詩帆が車で家の近くまで送ってくれるというので、政二は言われるまま乗せてもらうことにした。翔子が玄関の外まで見送りにきた(彼女は今夜泊っていくのだろう)。詩穂がスイッチを操作して助手席の窓を開けると、翔子が明るく声を掛けてきた。
「じゃ、親の説教頑張って。しんどくなったら抜け出してこの家に来なよ」
政二は車が動き出してから、窓から首を出して詩帆に言った。
「カレーパンもおいしかったよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます