フラスコ
hitoiki
フラスコとカレーパン
理科実験室の床に砕かれたフラスコが散乱している。政二は肩で息をしながら、クラスメートが頭に両手を乗せてうずくまっているのを見下ろした。あまり血が出ていないけれど、実際どれくらいダメージ入っているんだろうか、と。
最初からこうすれば良かった、こんなに大ごとになる前に分からせてやるべきだったんだ、と政二は足元のガラス片を蹴った。窓の外は冬を控えた秋空で、古いカーテンを冷ややかな風が揺らしていた。金曜日の校舎は、どこか週末を待ち遠しくしているように思えた。
騒ぎを聞きつけた担任教師によって、政二は生徒指導室に連れられた。生徒指導室には先客がいた。小学生から同じ学校に通う翔子だった。女子生徒が胡坐を組んで頬に手を当てながらスマホを触っている。茶色がかったショートヘアと、リボンを緩ませて胸元のボタンをいくつか外し(胸は薄い)、スカートはショートパンツの裾がわずかに見えている。翔子はいつもクラスの活発なグループにいたし、政二は目立たないグループに属していた。住んでいる地区も離れているから、互いにまともに口をきいたことはない。政二を引率した中年の女性教師は入り口付近で立ち止まり、指導室の四畳半に先客がいることに面食らった後で、政二をドアの境界線に立たせて誰かに相談しに行った。隣接した職員室は人影が少なく、これから雷を落とすはずの生徒指導の教師はいなかった。
政二が気まずそうに入り口でたたずんでいると、ふっ、と翔子がスマホを見て笑った。政二が翔子に恐る恐る目をやると、翔子はスマートホンを伏せて政二を横目で見た。
「何やったの?」翔子は興味なさそうな冷ややかな声で言った。
「殴った」政二は目を伏せてつま先で地面を何度かこついた。
「誰を?こっち来たらいいじゃん」
政二は上履きを脱いで畳の上に上がり、翔子の畳の境目を跨がないように座った。近くに座ったはいいものの、政二にはどう話せばいいか分からなかった。
「平内でしょ、あいつ福浦にだけは偉そうだったから」
名字で呼ばれた政二はあいまいに笑みを浮かべてうなずいた。平内、と名前を聞くと政治の脳内にガラス片の中をうずくまる姿がひとりでに思い出された。
政二は自分が黙り込んでいたのに気づき、慌てて何か言おうと試みた。
「周りからみても、俺が平内からは馬鹿にされてると思われてたんだ」
「何?」
「あっいや」
「まぁ平内は評判悪かったよ、周りからイジられてなんとか仲良くしてもらってるのに、福浦にだけは偉そうなんだったから。まぁ、福浦もやり返しゃいいのに、と思ったけどさ」
政二は目を落として、自分と平内が同じく評判が悪いんだ、と傷ついた。
翔子が、こらえきれないように笑みをこぼして、いたずらそうに政二を見やる。
「フラスコで頭カチ割ったんだって?」
「え、何で知って、知ってるの?」
「学校に残ってた連中がみんな見に行ってすごい騒ぎになってる。さっきまでここにいた指導のセンセもそれで行っちゃったみたい。救急車じゃなくて、センセの車で病院連れてったんだって。見て」
翔子はスマホを政二に向けた。いくつかの写真が写っている。理科室に散乱したガラス片、人だかりを叱りつける生徒指導の教師、ブレまくっているけれど血を流して運ばれていく平内と思しき人。政二はもう一度あいまいに微笑んだ。
「派手にやったじゃん。キレちゃった?」
「まぁ」
「何発やったの?」
「十二個」
「じゅうに!」翔子は急に大声を出し、それから小さな声で「やば」とつぶやいた。
政二が照れ笑いしながらその場を繕ったが、その後の会話がなかった。翔子はスマホを熱心に操作している。たぶん、友達に状況を伝えているんだろう。政二は腹を立てつつも、もっと話をしたくなった。どうせ後戻りできないのなら、いっそ変人扱いされてしまっていい。
「フラスコを十二個って、最初から決めてたんだ。月曜に下見して、十個くらいあるのは分かってた。木曜までは八個あれば足りたんだ。でも、今日になって四個余分に必要になった。平内の頭でフラスコを割りながら、残り数を数えて、良かった足りそうだと思ったんだ」
翔子は指をとめてスマホを見下ろし、しばらく黙った後で口を開いた。
「何で十二個?」
「あいつが俺を今週中に馬鹿にした回数」
「四個増えたのは?」
「木曜までで八回、今日になって四回からかわれた」
「サイコだね」翔子はこらえきれず笑い出した。「フラスコで殴ってやろうって決めてから、からかわれた回数数えてたんだ」
「今日の四回は、ちょっと判定厳しかったかもしれない」
翔子は一瞬分からない表情をした後、急に大笑いした。政二は歓喜に近い喜びで胸が震えた。
病院から戻った生徒指導の教師から一喝が飛んできたのは、その直後だった。
日が暮れるまで説教を食らい自宅待機を命じられた帰り道、政二は翔子と町工場の路地を歩いた。風が強くて翔子の短いスカートが良く揺れた。薄い胸は気崩した制服にどことなく清潔感を与えていた。
自宅待機は最低でも停学、最悪退学だと翔子は言った。翔子は二回目の停学だから、二年生にしてあと一回停学相当のことをしでかせば退学になるとのことだった。
「家に帰ったら、親に怒られる?」翔子が言った。
「めっちゃ怒られる。親父、こういうときばっかり強く出てくるから」政二は言った。
ふうん、どこもおんなじ、と翔子は苛立ちながらつぶやいた。政二は怯んだが、少したってからそれが自分へ向けられた共感かもしれないと思い直した。
二人はほとんど翔子を前にして前後に並ぶように歩いたが、翔子が話しかけるときだけ歩くペースを落として政二に並んだ。
「家、すぐ帰らなきゃいけない?」翔子が前を向いたまま言った。
「べつに。出来れば帰りたくない。え?」政二は背中越しに戸惑って答えた。
「塾とか?」
「ない。え?」
「スイミングスクールとか」
「ない。え?」
「え?って聞きなおすのキモいからやめた方がいいよ」
「あ、え、ごめん」
翔子は酒屋の自販機の前で立ち止まった。酒屋の屋根には巨大なワインボトルの看板があり、LED電球に輪郭を縁取られていた。政二は翔子の目線をまっすぐ受け取れず、屋根の巨大なワインや、自販機のペプシコーラを眺めた。
「私、親切だから言ってあげるんだけど」と翔子は前置きした。
「私は週に二、三日しか実家に帰ってなくて、知り合いの家に半居候しているの。これから寄ってけば?」
政二は背筋を伸ばした後、何となく自販機のペプシコーラのボタンを押した。入金訴える電子音が短く鳴った。
「そんな急に言われても、泊まる用意もしてないし」
「誰が泊っていいなんて言ったのよ。ずうずうしいヤツね」
「うっ、その、人見知りだし」
「あんたどうせ家に帰ったらこっぴどく怒られて停学くらって家で自粛してるうちにそのまま引きこもりになるでしょ」
「引きこもり」翔子の早口に政二はうろたえた。極端だけれど、その通りかもしれない。もうクラスにも家庭にも居場所はないし、大学推薦をもらうのは無理だろう。
翔子はため息を小さくついた後、つま先を遊ばせながらつぶやいた。
「停学中に逃げ場所がないとしんどいんじゃないのって言ってんの」それから足元のオロナミンCの金属キャップを蹴飛ばした。「別に無理に来いとは言わないけど」
「あ、行く、行きます」
「あっそ、じゃあ」翔子は声色を明るく変えて、親指で自販機を指した。「お礼になんか買ってよ」
政二はしどろもどろになりながら、翔子に甘いホットコーヒーを買い、自分はペプシコーラを買った。ずうずうしいのはどちらだろう、と政二はコーラを飲みながら翔子の後を歩いていると、翔子は代わりにカレーパンを差し出してきた。
「これなに?」政二が訪ねた。
「私の停学」翔子が言った。「とうとう売店で万引きしてたのばれちゃったんだよね」
翔子は流行のラップソングを口ずさみながら、早足で歩道ブロックの上を歩き渡っていく。政二はしばらくカレーパンの端をてあそんでいたが、観念して脇にペプシコーラを挟んで封を開けた。普通の味のカレーパンだった。
「その曲知ってる」政二が言った。
「へー意外、chelmicoなんて知ってるんだ」
「深夜ラジオでよく掛かってる。この前King Gnuの番組でゲストに来てた」
ふうん?と翔子は深入りしたくなさそうな相槌をし、今度はKing Gnuの「白日」を口ずさみ始めた。政二は翔子の後を歩きながら、胸の中が浮ついて落ち着かなくなっているのに気が付いた。それが嬉しさだと気づいた後で、政二は翔子には決して聞き取れない小声で、同じように鼻歌を口ずさむことにした。
翔子は駅に向かって歩き続け、政二はただ後ろをついて行った。電車に乗ると、翔子は耳にイヤホンを突っ込んでスマホを触り続けた。政二は一言も話すことなく電車に揺られた。その時間が三駅分続いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます