奇妙な祭祀

高柴沙紀

第1話 日本・昭和の漫画家

「……へえー。この時代って、本当に全部手で描いてるんだー」


 やけに可愛らしい声が聞こえた。

 ので、ぐらぐらする頭をあげたのは、殆ど無意識のうちの動作だった。

 ずっと途切れずに流れているだろうはずのアニソンやアイドルソングも、アシスタント達の話し声も、とっくに耳に入らなくなっていたのだから、突然意識に切り込んできた声に、びっくりしたからだろう。


 もっとも、朦朧としている頭には、勝手に驚いた自身の体の反応に対してすら、何が起きているのか全く了解出来ていないという有様で、彼女はぼんやりと目の前に立つ二人組を眺めるばかりだった。


「全部じゃないよ? この時代にもトーン用紙ぐらいはあるし」

 感嘆するような片割れに応えたのは、十歳くらいの少女だった。

 否、並んで大きな作業机越しに……主線を入れている途中の原稿越しにこちらを覗き込んでいたのは、そっくりな十歳くらいの少女達だった。

 小造りな人形めいた整った造作の一方は、青い瞳に金色の髪。もう一方は黒い瞳に黒髪。色彩だけ違う一卵性双生児、といったところか。

 おまけに身に纏っているのが、まるで『不思議の国のアリス』かよ、とツッコミを入れたくなるようなクラシカルなエプロンドレスときては、現実感など最初からありはしない。


 ───ああ。とうとう幻覚を見るようになったのかなあ。


 ぼんやりと、思う。

 大体、この大きな作業机を誕席として、その前には二列に向かい合って並べられたアシスタント達の机があるはずなのに、少女達はすぐ目の前に立っている。

 無邪気に興味深そうに描きかけの原稿を覗き込んでいる姿は、さながら善と悪、ふたつに分裂した人格などという、ホラー漫画のチープなキャラクターみたいだ。


「ひどいなあ。別に分裂なんてしてないし、そもそも善悪って何よ?」

 金髪の方が、口を尖らせる。

「そうねえ。自分に危害を加えない方が善で、危害を加える方が悪じゃない? それとか、自分に都合の良い方と悪い方とかさ」

 黒髪の方が、小首を傾げる。


 そんなもんかなあ、と彼女はぼんやり思った。


 ともかく、どこからともなく現れた───彼女の脳みそのどこかが生み出したらしい───双子には、こちらの邪魔をするつもりはないらしい。


 それなら、別に問題にすることもないか。


 ぼんやりと上げていた視線を再び紙の上に戻して、彼女はペンを素早く動かし始める。

 双子の少女は大きな作業机の上、原稿に触れない位置に並んで頬杖をついた。


 主線を入れた原稿を作業机の右端に滑らせる。

 彼女の視界にはすでに入ってなどいないが、チーフアシスタントがそれをすかさず受け取って、他のアシスタント達に采配する。修羅場が始まった当初は賑やかに喋っていた彼女達も、今となってはそんな余裕などないだろう。

 次々に主線を入れる彼女の原稿に追われるように、黙々と……というよりは殺気立つほどに必死になって、背景を入れ、トーンを貼り、ベタを塗り、消しゴムをかける。

 締め切りは数時間後。

 隣の部屋では、担当編集者が時折電話連絡を入れながら、今か今かと原稿の仕上がりを待っている。


 彼女の作品は、今や数百万人のファンを生み出した、大ヒット漫画だ。

 週刊漫画雑誌の大黒柱として堂々とその立ち位置を築いている作品である以上、決してわけにはいかないのだ。


「この部屋に籠っている人が、全員手作業かあ。パソコンで描けばよっぽど便利だし、合理的なのにねえ」

「まだ、パソコンで描くためのソフトなんてほぼ出てないんだもん。しょうがないよ」

「大変だねえ」

「大変よねえ」


 頬杖をついて、原稿を見下ろしたまま双子は歌うように言葉を紡ぐ。

 ペンにインクを付けながら、彼女はそれを聞くともなしに聞いていた。


 双子の言う言葉の意味は、よくわからない。大体、パソコンでどうやって絵を描くというのだ。

 ぼんやりと、それでも殆ど数時間ぶりに反応した意識で、彼女は考える。

 ずいぶん前に友人が「パソコン通信が面白いよー」と言っていたけれど、そんなものかあ、と思う程度の彼女には、全く別世界の話にしか思えない。

 パソコンなんて、彼女の世界に関係のある物だとは思えなかった。


「でもさ」

 黒髪の少女が、面白そうに口角を吊り上げた。

「不便で不合理だからこそ、この装置が出来上がったのよね」


 ───装置?


 ペンが紙の上を滑る手応えだけを感じながら、彼女は。意識しなければ聞きそびれてしまう鳥の声に、ふいに気付いた時のように。

 ぼんやりと。


「この部屋は、祭場じゃない? ここが祭壇。この人が巫女」

 とんとんと、少女の細い指が大きな作業机を叩く。

「こうして時間に追われて食うや食わず、それこそ切羽詰まるまでトイレにも行かず、祝詞をあげる代わりにひたすら漫画を描いている。それって、物忌やお籠りと同じでしょ? それも、ここにいる全員が。

 立派な宗教密儀じゃない?」

「ああ。神降ろしの儀式!」

 片割れが、ぱちんと手を打つ。

「そう。閉め切られた空間で、この巫女ひとの発した託宣マンガを、助勤の巫女アシスタント達がすぐに幾重にも伝達して、歌唱の輪を広げて増幅させていく。集団でトランス状態になるまで踊り狂う儀式もあるけど、基本的に似たカタチでしょう?」

「そうかあ、なるほどねえ。それじゃあ、隣の部屋にいる人が審神者サニワかしら?」

「そうでしょ。どんどんどんどん焚きつけて、早く乗り移れ乗り移れってお膳立てをする、典儀の役割をするんだから」


 主人公の瞳にペンを入れる。

 そうしながら、彼女はぼんやりと考える。


 このストーリーが閃いた時。

 これは絶対に面白くなる! という確信が───根拠のない確信が、確かに湧いたものだ。

 プロローグからエピローグまで、綺麗にひとつの道筋が描けたそれを、担当編集者に自信なさげに……内心の自信満々な気持ちを悟らせないように語った彼女に、彼は興奮も露わに口にしたのだ。


「それ、凄い面白いです! 絶対人気出ますよ! 描いて下さい! 僕、週刊誌での連載に入れるよう、頑張って編集長に捻じ込んでみせますから!」


 びっくりした。

 面白いという自信はあったけれど、まさか週刊で連載するようなことになるとは、思ってもみなかったからだ。

 彼女としては、せいぜい月刊誌で連載が持てればいいなあ、という希望があっただけで……毎週脱稿していくはめになるなんて、考えたこともなかったからだ。


 それからは、まさに嵐が始まった。

 基本的なストーリーの流れはきっちりあったけれど、常に時間に追われながら、新たなエピソードを増やしていかなければならなかった。

 たった七日の間に、次々と枝葉を伸ばすようにエピソードを作り出し、先の展開を決めていかなければならない。描きあげた原稿を担当編集者に預けて気絶するように眠れば、翌日には次回の原稿に取りかからなければならない。

 だからといって───頭でわかっていても、そうそう簡単に新たなエピソードを生み出すことなど容易ではない。


 彼女は、常に追われるようになった。

 煽られるようになった。

 手元の原稿を描きながら、頭の半分で次の原稿の構想を練らなければならなかった。


 走り続けて───止まれなくなった。


 脱稿した翌日、そのまた翌日は、まだいい。

 いや、まだアシスタントを入れず、プロットと下絵を同時進行している……ひとりで走っている分、まだペースが幾分か緩やかだというだけの話ではあるが。


 そして三日目ともなれば、予定通りやって来るアシスタント達に囲まれて、彼女の執筆ペースは加速し始めるのだ。分担される仕事を待ち構えるアシスタント達のためにも。

 加速せざるを得ない。

 締め切りは刻一刻と迫ってくるのだから。


 そんな状態で繰り返される修羅場に、熱に浮かされるようなその最中に、自分の意識りせいがどれだけ残っているのか、もはや彼女にもわからなかった。


「そうよ。もちろん、そのイマジネーションは間違いなくあなたの中から生まれたものだけどね」

 初めて少女が、彼女に向かって語りかけた。


「普通に、人並みに暮らしていたら、決して出てこないなの。そうでしょう?」

「とことん追いこまれて、短期間に目まぐるしいスピードで次々に原稿を仕上げていく。もう人の言う集中力、とかいう範疇の話じゃないよね。

 便利に逃げられる方法もなく、ただただ走り続けて、熱量をあげて。ほぼトランス状態……神がかりと言ってもいい状態で、ようやく引き摺り出されるもの。

 神降ろしと言われるもの。

 それが、あなたの託宣さくひんというわけ」


「そしてその託宣を、魂を削らせてでも引き出すための装置が、この修羅場システムというわけ」


 いつしかペンを持つ手が止まっていた。

 呆然と、僅かな正気を宿らせた眼差しで、彼女は笑みを刻む双子を見つめる。

 晴れやかに、少女達は宣言した。


「だってあなた、遂に私達が見えるようになったじゃない!」


「隣の部屋にいる編集者サニワの手腕は確かよね。あなたを焚きつけ、あなたというシャーマンを突き動かし、次々に

 まさにを乗り移らせて、あなたの魂を削りださせ、その欠片の中から生み出させる託宣は、単なる発想から作られたものとは全くの別物。雲泥の差があるわ」

「それは、あっという間に何百万部ものコピーとなって氏子どくしゃに伝達される。あなたの熱量が何百万の人間に伝わって、新たな熱量を増幅させる。

 それを祭祀と言わずして何と言うのかしら?」


 何を言っているの?

 私の漫画は、そんなものじゃない。


 ぼんやりと未だ霞がかった意識の中で、彼女は異を唱えようとする。

 もちろん口を開くことさえ、今の彼女には出来はしないのだが。


 それでもその彼女に、金の髪の少女は答えた。

「あなたの託宣はたくさんのお金を動かして、商業主義を祀る。

 あなたの託宣はたくさんの読者の精神こころを動かして、集合無意識を少しだけ変える。その熱量が、『神様』を祀る」

 黒髪の少女が、歌うように続ける。

「『神様』を祀る儀式は、宗教のそればかりじゃないってことよ」


 そんなつもりなんて、ない。


「うん、そうでしょうね。結果がそうであっただけ」

「それにこのカタチの祭祀は、あなた達の代でそろそろ終わるしね」


 ───?


「あなたの他にも、この時代の漫画家の中にはたくさんの巫女がいたんだけどねえ。

 この先は、どんどんそんな存在ひとも減っていくの。

 漫画家も編集者も、皆が皆、便利に合理的に作品を作っていく流れになっていくから」

「魂を削るような物は、そうそう生まれなくなっていくから」


「漫画は、殆どが十年も保たずに忘れられてしまう作品ものばかり。特に、合理的で便利な道具に慣れた後世の漫画家のものに多いのは、仕方がないよね。

 皆、自分の身を守ることを優先するから。

 才能と体力、気力、そして魂を削ってまで作品に打ち込むことはないから」

「祀られたあなた達の作品は、時が経っても繰り返し繰り返し復刻される。集合無意識にその根を張っているから。

 その代わり」


 にっこりと、そっくりな人形めいた貌が笑う。

「神を降ろす巫女が、長生きなんて出来るはずなんてないよねえ?」

「残念だけど、たぶん穏やかに逝くことも望めそうにないけど」


「本望でしょ? あなたは呆気なく消えるけど、あなたの託宣さくひんは長く長く残るんだもの」

「もちろん、あなたのこの託宣さくひんが最後まで伝達されることを願ってるわ。我らが主も、喜んでいてよ?」

「だから、この託宣さくひんが終わるまでは待っていてあげる」



「そうしたら、迎えに来てあげるわねえ」



 ぼんやりと少女達を見返し続けていた彼女は。

 やがて、何事もなかったかのように再び紙上に視線を戻した。

 ペンが紙の上を滑る。紙の上を削る。


 焦点の合っていない瞳でそれを追いながら、その口元がゆっくりと歪んでいった。




参考文献 『地霊の王国』 鎌田 東二

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