だって私には性欲はないし
そんなことよりもこれからの行先の方が気になった。
「どこいくの?」
私は菊池にもう一度聞いた。すると菊池は驚いた顔をしている。何故そんな顔をするのだろうか。私に行き先をまだ伝えていないことを菊池は忘れているのだろうか。
菊池は立ち止まって上を見た。私も釣られて上を見上げると、その建物の名前で全てを悟った。
「…私彼氏いるんだよね。」
Hotel fabulousと書かれた建物の前で私はもう伝えたはずの事項をもう一度菊池に言った。男の身体の60%は水分ではなく性欲なのではないかと呆れて、私はため息をつきながらも自分のムダ毛の処理の甘さを思い出した。
4年前はいつでも彼氏と性行為が出来るようにムダ毛の処理を徹底していたが、今はそんな気力すら私には無いのだな、と自分の腕をちらっと見て思った。
「彼氏そんな厳しいの?」
「私好きな人としかそういうこと出来ないし…。」
やけに菊池の距離が近くて気持ちが悪い。少し触れている部分から全身に鳥肌が立ちそうだった。私は自分のムダ毛の処理の甘い腕を敢えて菊池の目に入るようにしたが彼はそんなことはお構いなしのようだった。
「そんな人間いるの?浮気なんてばれないから大丈夫だよ。」
菊池の言葉に私は興ざめした。私は菊池とキスをすることすらも生理的に受け付けない。浮気はばれなければ良いのではなく、好きでもない人と性行為をすることが私には良くないことなのだ。
「無理。」
私は菊池から距離を取った。
「は?」
そう言い放った菊池の私の胸元を見る邪な眼差しで、私は全てを悟った。
どうやら菊池は私が自分の性的欲求を感じ取ってくれていると勘違いしていたらしい。
だから先ほど私が「どこいくの?」と尋ねると驚いた顔をしていたのだ。
やらせてくれそうな私を菊池は好きだと言ったんだ。そして菊池の好意を断った私は菊池にとってどうでもいい存在なんだろう。
「じゃあ何で着いてきたんだよ。」
「やらせてくれなんて頼まれてないわ。」
「だいたいそういうものは女が汲み取って生きていくもんだろ?」
私と菊池の価値観のズレは私の中では信じ難いものだった。いや、もしかすると私と世間の価値観のズレなのかもしれない。男が女をデートに誘ったら女は体を要求されることを危惧しなければいけない、そういうことなのか?
「とにかくごめんなさい。私はあなたとは出来ないわ。」
菊池は舌打ちをして、私に背を向けた。
私は靴の浮遊感を忘れ、今度は靴が重くなったように感じた。
男というのはみんなあんな感覚なんだろうか?
今日の話を彼氏にしたら彼氏も菊池と同じことを言うのだろうか?
絶対にそんなことは聞けないが、なんだか私の彼氏も菊池と同じような感覚な気がする。女という性別に生まれた劣等感が私の中に生まれた。
男の欲求を満たさなければ女は愛してもらえないんだろうか?
先ほど私が感じていた好きだと言われる喜びは、体を提供しなければ受けられないのだろうか?
無条件に与えられる愛はこの世に存在しなのだろうか?
それなら私はもう、誰にも愛され無くていい。だって私には性欲がないし、この靴だってもう捨ててもいいと心のどこかで思っている。
私は私の人生も体も心も、私のためだけに使いたい。
私は靴紐の切れた靴を写真に収め、彼氏にLINEで送った。
関係を切りたい、そう文章を添えて。
靴紐 狐火 @loglog
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