察してよ
「紗栄子?」
背後から私の名を呼ぶ声が聞こえた。本当に一瞬だけ、私の心は躍った。何故ならその声の主が彼氏だと思ったからだった。
けれど声の方を振り返ると、そこに居たのは顔には見覚えがある程度の知人だった。やっぱりな、とこんなことで心が落ち込んでしまう私は、どこまで彼氏に心を支配されれば気が済むんだと自分に呆れた。一瞬でも彼氏に会えるかもしれないと思い、浮かれた自分の気持ちになんて気が付きたくはなかった。
自分への苛立ちは声をかけてきた奴へと向きそうだった。
「俺のこと覚えてる?菊池だけど。」
「あー、久しぶり。」
私はその菊池という男がいつの知り合いなのか思い出してはないが、何かを思い出した素振りをした。てきとうにあしらってしまおうかとも思ったが、自分の性格上、わざわざ声をかけてくれた人につっけんどんな態度をとるのはいかがなものかと思ってしまうため、私は無意識的に笑顔を浮かべて外面を上手に作り出した。
「元気?」
そう言いながら菊池の視線は私の靴に行った。
「そんなにおかしい?」
私は自分の足元を見た。
「なんか歩き方がおぼついていなかったから。靴紐が切れてしまってるよ?」
「うん、知ってる。」
「新しい靴紐買わないの?」
何故そんなにもこの菊池という男は私の靴を気にかけるんだ?そんなにも私の格好が滑稽であったのだろうか。ただただ靴の浮遊感を気にしながら歩いているだけでただ靴紐が切れているだけなのに。
「もう帰るだけだから。」
「そっか。」
そしてしばらく沈黙が起きた。なんだろう、このなにか話さなければいけない程の重い空気は。大体、話しかけてきたくせに何故私に話題を探させるような間を作るんだ?話題がないならさっさとこの場から去ればよいのに。
表情は一切崩さずに私は若干イライラしていた。その笑顔すら威圧感になっているかもしれない、なんて気遣いすらも無駄で、彼の様子を見ると私の苛立ちになんてちっとも気が付いていないようだった。
「紗栄子は彼氏いるんだっけ?」
「うん、いるよ。」
「今日はデートじゃないんだ。」
日曜日だと言うのになぜお前は彼氏とデートしてないのか、そう菊池は言いたいのだろう。そんなこと、私だって聞きたいぐらいだった。
「そうね、長く付き合いすぎて滅多にデートなんてしなくなった。」
「それ付き合ってるって言わなく無い?」
「でも」
そう言いかけて私はやめた。性行為はするから付き合ってる、なんて言おうとしたがこんな街中でそんな恥ずかしいことを私は言えるような人間ではない。
あたりを見渡せば、幸せそうにおめかしした彼女を幸せそうに眺める彼氏のデートの様子が目に入った。私たちだって4年前ぐらいはそうだった。
どうせあなたたちもいずれ冷めきるんだから。そんなくだらない嫉妬心を馬鹿らしいと一蹴し、私は唇をぐっと噛み締めた。
「寂しくないの?」
可愛い女なら、寂しいと甘えることも出来るだろう。けれど私は寂しいと認めることをしたくはなかった。認めてしまえばまるで私ばかりが彼を好いていて、私は相手にされない彼女ということになってしまう。違う、そうじゃない。私は自ら進んで彼と距離をとっているんだ。デートなんてしなくたって平気。
だってもう5年も一緒にいるんだから。
「もう慣れちゃった」
けれど嘘だ、そんなことは無い。本当はいつだって私は彼が傍にいてくれないことを恨めしく悲しく思っている。でも、それを認めたくはなかった。
「ふーん。」
菊池はニヤニヤしながら私を見ている。その様子はかなり気色が悪かった。
しかし、男という生きものは不思議な生き物だ。女は共感していれば良いようなところはあるけれど、男は意地でも共感しようとしない。自分の意見の方が正しいのだと主張してくる。どこか女を見下しているようで、腹立たしい態度ばかりとる。
「俺さぁ、紗栄子のこと好きだったんだよね。」
突然の菊池の告白に私は、少しも驚きも動揺もしなかった。
「そうなんだ。ありがとう。」
私は告白されるという状況に陥ることは度々あった。けれど私は自分が好意を抱く人間以外にはあまり興味を持てないので、その度に相手に心にもない謝罪をしていた。
しかし今日は少し違った。このふわふわと浮ついた浮気心はきっと靴の浮遊感のせいだった。
「これから暇なら遊ばない?」
そんな提案、いつもの私ならすぐに断っていた。けれど今日はほんの少しだけ、遊ぶだけならいいかなと思った。満更でもない様子の私を見て勝ちを確定させた菊池はスマホを取り出した。
「行こう。」
菊池は歩き出す。
「どこいくの?」
私は菊池を追いかけて言った。歩くスピードが早いと自覚した菊池は私に歩行のペースを合わせる。
「俺さ、高校生の時ずっと紗栄子のこと好きだったんだ。でも紗栄子は俺の友達と付き合ってたし奪うのも気が引けて。」
私は高校生のとき、合計で二人の人間と付き合っていた。そう言えばどちらも菊池の友人であったことを私は今思い出した。
「そっか。」
「俺、本気だよ。めちゃくちゃ紗栄子のこと好きだったんだ。俺の傍にいて笑ってくれるだけでいい。」
菊田は私の目を見て言った。
私は久しぶりに感じる胸の高鳴りを抑えることが出来なかった。人から好意を抱かれることがこんなにも幸せな事だったなんて。なぜこんな幸福感を忘れてしまっていたのだろう。むずむずと心臓がこそばゆく、じわじわと自己肯定感が湧いてくる。
「ほんとに愛してる。高校生のとき、毎朝おはようって声かけることだけが俺の幸せだったんだ。」
照れながら菊池は言った。私には挨拶された記憶が1ミリたりとも残っていないかった。
「何故そんなに私のことを好いてくれているの?」
「何故って…」
菊池は自分の頭を抑えて私をちらっと見た。
「察してよ。」
察するも何も、ヒントが少なすぎる。だって私たちは(私にとって菊池は)ほぼ初対面だ。
「とにかく好きなんだ。」
日本人の男性は愛情表現が苦手だと聞くが本当にそうだよなぁ、私は自分の彼氏や菊池の言動や行動を振り返って思った。
「そう。」
もったいぶって応えようとしない菊池の態度で、私は面倒くささとわずかな苛立ちを覚えもう聞くのをやめた。他人が自分の良さを認めてくれると期待するのは本当に馬鹿らしい。それは彼氏じゃなくても同じのようだ。
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