後編 夢と現

 ある時、先生は奇妙なことを問いかけてきた。


「もし、今の自分が眠っている本当の自分の見ている夢だったらどうする?」


 時刻はもうすぐ夕食の時間。使用人達によって窓もカーテンも閉じられ、部屋や廊下にはランプの明かりがいくつもともされている。


「夢のはずないわ。だって、つねったら痛いし、お腹もすくもの」


 先生は「もしもだよ」と笑う。いつもと同じ柔らかい笑みのはずなのに、火に照らされたその顔は、一瞬だけ違和感を抱かせた。


「夢にだって、痛みも空腹もあるかもしれないよ」

「夢だったら……」


 もしも、今が全て夢だったら。厳しいお父様も、優しいお母様も、最近剣の扱いを習い始めた弟も、従順な使用人達も、このお城も、みんな本当は夢だとしたら――。


「先生、やめて」


 夢はひと時のものに過ぎず、目が覚めれば泡のように消えてしまう。悪夢なら覚めた方がいいけれど、この世界はやや窮屈ではあっても悪夢ではないと思う。消えてしまうのは嫌だ。

 真っ暗な洞穴を覗くような気分だった。目を背けたくなる、得体の知れない恐ろしさを感じたのだ。


「怖いわ」


 私の悲壮な表情に先生は心配になったのか、肩にそっと触れて「ただの作り話だよ」と諭した。


「安心して。もし夢だったら私もただの登場人物ということになってしまうからね。それは悲しいな。……今日はつまらない話をしてしまった」


 謝罪する先生の声は、何故か耳を上滑りする。私は初めて先生のお話を聞いて胸を躍らせた時のように、自分の中で何かが変わってしまったのを感じていた。



 翌朝。目が覚めて、私は愕然とした。

 あの話を聞いて以来、見るもの触るもの聞くもの食べるもの、とにかく全て灰色がかった、よそよそしいものになってしまったのだ。


「私、おかしくなってしまったのかしら……?」


 暗闇の中、ベッドに入って枕を抱きしめる。ふかふかとした羽毛の感触も、石鹸やお日様の残り香も、どこか空々しい。

 もうお父様に叱られても胸が苦しくならないし、お母様に髪を褒められても暖かい気持ちになれない。


 大事にしていた櫛を喧嘩した弟に割られても怒りがわいてこなくて、眩暈めまいがするほど困惑した。確かなのは、そんな自分が悲しくてこぼれる涙だけ。

 他は皆、ヴェール1枚向こうの出来事のようだった。


 もしかして、本当にここは夢の世界なのだろうか。いつしかそう考えるようになった。虚ろな感覚は、夢から覚めようとしているきざしなのかもしれないと。

 未来に見る夢は希望だけれど、寝て見る夢は単なる嘘だ。もしも全部が嘘なら何をしても無意味ではないか。段々とそう思えてきて、余計に私は無気力になっていった。


 かつては生き生きと輝いていた髪のつやも失い、今はもう澄んだ水面色のドレスも似合わない。

 周りのみんなは心配してくれた。笑わなくなり、食欲を失い、部屋から出ることさえやめて痩せ細っていくお嬢様を。


 両親は方々から医者を呼んで私を診せたが、異常は認められなかった。病気ではないと私が言っても、また新しい「名医」を連れてくる。


「お嬢様、良い天気ですよ」

「美味しいお菓子が焼けました。召し上がってください」


 前の私なら飛びついていたものにも、生返事を返すのが精いっぱい。いくら麗しい花の香りをいでも、宝石のきらめきを目にしても、胸の奥が枯れてしまったように何も感じない。

 最初はそれが悲しかったはずなのに、最近はその「悲しみ」さえも良く思い出せず、ヴェールの向こう側に行ってしまった。


「先生、私、消えてしまうのかしら……」


 床についたまま、見舞いに訪れてくれた先生に問いかける。先生は噴き出すように笑って「何を馬鹿なことを」と言ったけれど、少しわざとらしくも見えた。


「大丈夫。ちょっと疲れてしまっただけだよ。しばらく寝ていれば治るさ」

「……世界がこのお城だけだったらどうしようって思うの」

「私は外から来た人間だよ。お医者様だってあちこちから来ているじゃないか」


 確かに窓からはお城の外の町並みだって見える。でも、あれが本物だってどうして証明できるだろう?


 これまでは先生のお話が私を魅了していたから平気だっただけで、自分を騙していただけなのかもしれないと唐突に気付いた。

 夜空を埋め尽くす銀河の如き幻想も、すでに色褪せたただのがらくた。使い古されて転がった玩具に過ぎない。


「ねぇ先生。ほんとうってなあに?」

「些細なものだよ。さぁ、リンゴを剥いてあげるから、召し上がると良い」


 慣れた手付きで、しゃりしゃりと皮が細く長く剥けて垂れ下がっていく。旅人だった先生には、それくらいお手の物だ。


「……」


 私はあるものから目がらせなくなっていた。それは皮でも、先生の筋張った指の動きでも、ましてや素肌を晒しつつある真っ赤なリンゴでもない。

 どくどくと脈打つ音が耳の奥で大きく響き、久々に感じたことのないほどの現実味が全身を震わせる。


「おっと」


 緊張からか手が滑ったらしく、薄く切ってしまった指先から細く血が溢れ出る。生々しい、赤。こんなに鮮やかな色は、これまで見たことがないと思った。


「……どうかしたかい?」


 心臓の音は、今やはちきれんばかりだ。様子をいぶかししんだ先生の優しい問いは鼓動にかき消され、私はゆるゆると痩せ細った手を伸ばした。


「見つけたわ、『ほんとう』を」


 鋭く研ぎ澄まされたそれは、己をむしばむ想いを断ち切って余りある輝きを放つ。指先が固い柄に触れると、私は甘美な喜びに思わず笑んだ。

 顔の筋肉を使うのはしばらくぶりで、引きつれて痛かったが、そんなことはどうでも良かった。


 ああ、これで確かめられる。私が私であるかどうかを。家族の存在を。世界が夢か現実かを。悦びが足の先から頭の天辺までを貫くようだった。


「あら、先生。どうかしたの?」


 何故か恐ろしいものを見るような顔をして立ち尽くす先生に、私は小首を傾げる。


「お、お嬢さん?」

「ねぇ、一緒に喜んでくれるでしょう?」


 ぼとん、とその手から剥きかけのリンゴが零れ落ちる。

 すると、くすんで暖炉の中のようだった部屋がリンゴを中心にして一気に色を取り戻した。瞳がそれについていけず、鈍く痛むくらいの変化だ。


「『ほんとう』を確かめる方法が、ようやく分かったの」


 ベッドから足先を滑らせると、長い間歩くことを忘れていた足がもつれた。寝間着の裾をたくし上げると、こちらも棒切れみたいに細くなってしまっている。これでは確かめるどころではない。


「誰か、誰か。食事を持ってきて頂戴」


 私の元気そうな声に、お城は活気づいた。すぐに暖かい食事が届き、知らせを聞いたお父様達がやってくるだろう。

 先生は蒼ざめたまま、私を見つめ続けている。その大きく開いた瞳には、果物ナイフを片手に握ったまま酔ったように微笑む女性が映っていた。


 あれは誰かしら。それも確かめなくてはね……。

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夢の中の夢―令嬢が見付けた「本当」― K・t @kuuuuu

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