平望:短編集

平望

若人と老人

 7月中旬。真夏日。午後4時半。

 俺は額に浮かんだ脂汗を袖で拭い、眼前に広がる海を眺める。間もなく日が沈むとあって人の気配はなく、浜は閑散としていた。

 何故俺がひとりポツンと砂浜に佇んでいるかというと、今日で交際7年目の記念日を迎えた恋人との待ち合わせのためである。約束の時間はとっくに過ぎているのだが、人身事故で電車が遅れているとの連絡があった。最初は綺麗な貝殻を探して暇を潰していたがそれも飽きてしまい、ただ茫然と、沈みゆく夕日を眼鏡越しに見つめていた。



「お兄さん、ちょっとお時間よろしいかな?」

 突然呼ばれて後ろを振り返ると、ひとりの男性が慌てた様子で立っていた。見た目からするとおそらく60代。腰は曲がっているが杖を突いてはいない。

「大切なものをここで落としちまってな。ジジイの物探しをちょっくら手伝ってはくれないだろうか?」

 大切なものなんだ、ともう一度念を押して言われた。

「ええ、全然構いませんよ」

「本当か、恩に着るよ」

 断る理由もなく、丁度いい暇潰し程度の感覚で了承した。それに、彼女が来るまでまだまだ時間があるはずだ。多少長引いても問題はない。

「何をお探しで?」

 俺がそう尋ねると、老人は手で四角を作った。皮が厚く、シワシワの手だ。

「このくらいの大きさの赤い箱を探している。ここで落としたことは間違いないんだが、老眼が酷くてなかなか見つからんのだよ」

「赤い箱……」

 確かに夕日に照らされた砂浜で赤いものを探すのは困難だろう。だが、俺にはなぜか既視感があった。どこかで一度見たことがあるような、それもついさっき。

「……思い出した。ちょっと待っててください」

 そう言って俺は走り出す。波打ち際から少し離れた、貝殻がたくさんある場所。目を凝らしながらゆっくり歩いていると、それはすぐに見つかった。手のひらサイズの四角い箱を持ち上げて砂を払い、また走って老人の元に戻る。

「おお、これだよこれ! 助かった。ありがとう」

 俺がこれかどうか確認する前に老人は嬉しそうにそれを手に取った。慎重に中身を確かめ、ホッと胸を撫で下ろしている。

「もしかしてですけど、その中身って」

「見るかい?」

 確信はしていたが、老人がこちらに向けた箱にはちゃんとあるものが入っていた。

「これはね、わたしが幸せだった証のようなものなんだ」

「幸せ、ですか?」

 過去形だったことに疑問を抱き、そこだけを強調して訊くと老人は驚いたようにこちらを見るとすぐに優しく微笑んだ。


「今日ここで出逢えたのも何かの縁だろう。せっかくだ、少しだけ老い耄れの無駄話に付き合ってはくれないだろうか?」



 ~~~~~



「今、なんて……」

 自分の声が震えているのがわかる。

「残念ですが、余命は2年程かと」

 医者の口から淡々と事実だけが告げられる。頭が追い付かないわたしは、ただ阿呆な面を下げることしか出来なかった。



 あと2年でわたしは死ぬ。あまりにも突然で、理不尽な話だと思った。温かな家庭も、やりがいのある仕事も、付き合いの長い友人たちも、全て手放さなければならない。その絶望感は、今まで経験したことがない強さでわたしの胸を握りつぶしてきた。

「ただいま……」

「あ、パパおかえり!」

 重い足取りでアパートの一室に帰ったわたしを出迎えてくれたのは、まだ幼稚園に入園したばかりの娘だった。満面の笑みで近づいてきて、わたしの手を引いてリビングまで連れていく。

「パパ帰ってきたよー」

「わかってるわよ。おかえり。今日も仕事お疲れ様」

 キッチンから妻が顔だけこちらに見せる。病院に行ったことを伝え損ねたわたしは、曖昧に頷くことしかできなかった。

 この日常とも、あと2年でお別れ。いや、もっと短い可能性だってある。実際にわたしはその後何度も体調を崩した。死が想像より遥かに近いところまで来ているのだ。それでもわたしは誰にも病が深刻であることを打ち明けられなかった。倒れれば貧血は怖いなとおどけてみせ、吐き出しそうになった血を口に含んだまま何度もトイレに駆け込んだ。

「貴方、ちょっと痩せたんじゃない?」

 ある日の夕食中、妻がそんなことを言ってきた。医者の言葉が正確であれば、余命1年半の時である。

「パパ元気ないの?」

「気のせいじゃないか?」

 心配そうにわたしを見る娘の口元に付いたご飯粒を、指でつまんで自分の口に放り込む。実際は気のせいなどではなく、確かにわたしの体重は少しずつ減ってきていた。だんだん食事が喉を通らなくなってきているのだ。

「ダイエット中なのか知らないけど、食事制限はあまり意味ないわよ?」

「……バレちゃったか。同僚に腹の肉を弄られて、ついな」

 苦笑いだったと思う。どうか勘違いしていてくれと、願わずにはいられなかった。それはあっさり叶ってしまい、妻が鼻で笑い飛ばす。

「諦めてちゃんと食べなさい。作った料理を美味しそうにたくさん食べてくれる貴方のほうがあたしは好きだし、きっとこの子も元気なパパが好きよ」

 それに、と妻は付け足す。

「今の貴方、なんだか死にそうな顔してるわ」

 冗談っぽく言う妻にわたしはちゃんと笑顔を返せていたのか、それは今でもわからない。



 翌日、わたしは銀行から貯金を全て下ろした。一方的に職場に退職すると連絡を入れ、私物をほとんど売り飛ばした。

 家を出る。それがわたしの決断だった。誰も知らない、どこか遠い場所でひっそりと息を引き取ってしまおうと考えたのだ。わたしが居なくなってもふたりが生きていけるように、できる限りの準備をした。携帯電話も解約し、連絡が入らないようにする。ここまできて、ようやく自分がひとりぼっちになった気がした。不謹慎ではあるが、誰にも内緒で秘密の冒険に出掛けるような気分だった。

 大金の入った封筒をバレないように鞄の底に隠して帰宅し、夕飯は吐きそうになるくらい食べて逆に妻を心配させた。腹を休めてからのぼせる程長い間娘と湯舟に浸かった。全部が全部、本当に今日で終わりなのだ。今まで意識せずに過ごしてきた1分1秒を、瞬きの間すらも大切に記憶に刻んだ。

「ママ、これなに?」

 丁度食器を洗い終えキッチンから出てきた妻に、まだ髪が乾ききっていない娘がテレビを指差してそう訊いた。テレビに映されているのは、最近よく流れているCMだ。画面の中でタキシード姿の男性とドレスを身にまとった女性が手を繋いでいた。

「これは結婚式ね。ママとパパも昔したわ」

 懐かしむように妻は目を細めた。もう10年以上前の話だが、鮮明に覚えている。純白のドレスは、彼女によく似合っていた。緊張し過ぎたわたしが大勢の人の前で転びそうになったことも、今では笑い話だ。

「いつかバージンロードを歩く時が来れば、パパが隣を歩いてくれるかもね」

 妻の言葉に娘は目を輝かせていた。きっと、妻と同じ純白のドレスが似合う素敵な女性に成長することだろう。

 少しだけ、決意が揺らぎそうになった。



 ふたり分の寝息を聞いて、寝室の扉を後ろ手に閉めた。リビングに置きっぱなしにしていた鞄から封筒を取り出し、テーブルの上に置く。最後に手紙でも書こうとしたが、何を書いていいものかわからず白紙をクシャクシャに丸めてゴミ箱に捨てた。着替えを鞄に詰め込み、妻から貰ったシャツを着て、娘と遊びに行った先で買ったズボンを履き、最後に履きなれた靴に足を入れる。毎朝しているように、ポケットを叩いてハンカチとティッシュがあることを確認した。

 もう、行ってきますの準備が整ってしまった。

「……」

 あとは玄関の扉を開けて出るだけ。たったそれだけの、いつも通りのことを拒んでしまう自分が情けなかった。手はドアノブを掴んではいるものの、それ以上動くことはない。早く行かねば起きてしまう可能性だってあるのに、まだここに居たいと願ってしまう。何よりも大切な場所だから。

 せめてもう一度顔を見ようと振り返ったその時、下駄箱の隣の棚の上のあるものが目に入った。わたしはそれを手に取り、徐に胸元に引き寄せた。

 四角く小さな、赤い箱。わたしが確かに幸せだった証。これがあれば、大丈夫な気がした。これも売ってしまえば少しは足しになったかもしれないが、悩む間もなく鞄に突っ込む。これだけは手放せない。

 深呼吸をしてもう一度ドアノブを掴む。今度は躊躇わなかった。しっかり鍵をかけ、夜の世界に旅立つ。振り返ってはいけない。走って、今すぐここから離れなければ。遠くへ、誰も知らないところへ、息が切れても、脚を休めるな。

 太腿に、腕に、地面に、水滴が幾度となく垂れる。頬を伝う雫を拭うことさえ忘れ、口から流れるものが唾液か血か確かめることすらしない。

 わたしと同じひとりぼっちの満月が見守る夜の世界に、嗚咽混じりの雄叫びが響いた。



 ~~~~~



 老人は手元の赤い箱を撫でると、ひとつ溜め息を吐いた。

「25年も前の話さ。医学が発達したおかげで余命ギリギリのタイミングで手術を受けて完治したものの、あのアパートに帰る頃には妻も娘もどこかへ引っ越してしまい、連絡はずっと取れていない」

 俺は何も言葉をかけてあげられず、ただ黙って彼の話を聞いていた。

「ありがとな、お兄さん。老い耄れの身勝手で最悪な話はつまらんかったろう」

「いえ、そんなことは」

 こういう時に気の利いた一言も出てこないのは考え物だと思う。正解のない問題を解く感覚で、足りない頭から文章を捻り出す。

「俺の身近にも、片親しか居ないって人が居るんです。それでも、離れていった親を『大好き』って言ってます。貴方が愛した家族も、絶対貴方を忘れてません」

 俺が言えるのはその程度のことだった。老人は力なく笑って、そうだといいな、と呟いた。珍しく波がない海辺に、かすれた声が消えていく。

「そういえば数日前誕生日を迎えたはずだから、娘はもう29歳か」

「俺と同い年ですね。もしかしたら意外とどこかで会ってるかも」

 俺が冗談めかしてそう口走ると、老人は何も言わずに微笑んでくれた。

 そこで胸元から聴きなれた音楽が鳴る。いちいちスマホの画面を確認せずとも相手がわかった。

「もしもし」

『待たせてごめん! もうすぐ着くから!』

「わかった。焦って転んだりすんなよ」

 電話を切って大きく息を吐く。見ると砂浜のずっと遠くにワンピース姿の女性のシルエットがあった。まだ俺に気づいてはいないようで、時折辺りを見渡しながら近づいてくる。

「さて、邪魔になる前にジジイは立ち去ろうかね」

 含み笑いをして、老人が少しずつ後退っていく。まるでこれから起こることを知っているかのような口振りだった。いや、間違いなく知っている。

「君もこれを持っているんだな」

「ええ、色も形も違いますけど」

 俺は確かめるようにポンッとズボンのポケットを叩く。そこに、四角く硬い感触があった。老人はにやけた顔で頷き、俺に背を向ける。少しずつ距離が開いていった。

「そうだ、お兄さん。わたしの代わりに伝えておくれよ。『愛してる』と『お幸せに』をね」

「それは無理かもしれないです。俺は貴方の家族なんて知らない」

 ありのまま、事実を口にする。不可能だと思ったが、老人はハッキリこう言い切った。

「いや、君なら伝えられるさ」

 そのためにわたしがここに来たのだから、と。



「お待たせ。何見てるの?」

 彼女の声に、スマホに落としていた視線を上げる。暫く声が出なかったが、大きく息を吐いて平静を装った。

「ちょっと調べものをね」

 背中に隠したスマホには、今日の人身事故の記事が映されていた。画面左下の写真とその人の苗字に、俺は驚きを隠せなかったのだ。

「それに呼び出しのメールも『俺が告白した場所に来てくれ』だなんて、いったいどういうことかしら?」

「つい遊び心でね。それと、ちゃんと覚えてくれてるのかなって」

「当たり前じゃん。わすれるわけないっつーの」

 小首を傾げる彼女は、7年前とあまり変わらない。少しだけ美人になった気はするが、性格は昔のままだ。

「なあ、父親のこと、好きか?」

「え、大好きだよ。まあ、4歳の頃に会ったのが最後だけどね。それがどうかした?」

 わけがわからないという表情に、俺は曖昧な作り笑いを返す。理解が追い付かないことだらけだが、やることはもう決まっている。なるほど。俺の前に姿を現した彼は、これを望んでいたのか。

「愛してる」

「ちょっと、どうしたのよ突然?」

 まんざらでもなさそうに照れる彼女に、もうひとつ言うべきことがあった。

 ――『お幸せに』と。

 すみません。それは奥さんにだけ伝えますね。そう心の中で謝罪してから、俺はポケットから小さな白い箱を取り出し彼女に見えるように開く。彼女が息を呑むのがわかった。


「幸せになろう」


 結婚式は純白のドレスを着せてあげよう。きっと似合う。

 子供が生まれたら、絶え間なく愛情を注いであげよう。

 もし死が近づいても、最期まで家族と共にいよう。

 そんなことを考えながら、涙を流して何度も頷く彼女の頭を撫でる。




 瞳に浮かんだ涙が夕日に照らされるその顔は、指輪なんか霞んでしまうくらい綺麗だった。

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平望:短編集 平望 @Taira_Nozomu

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