名前も知らない街で
石造の建物に囲まれた狭い路地を歩いていた。冷たい地面を打つ自分の足音が、吹き抜ける風とともにどこか遠くへ運ばれていく。太陽はまだ高い位置にあって、じんわりとした暑さが額に汗を滲ませている。それなのに、妙にしんとした感じがするのは、ここが名前も知らない街だからだろうか。
昔から知らない場所を歩くのが好きだった。名前も知らない街の、どこへ繋がっているのかもわからない道を歩いていると、その時だけは自分という存在が希薄になって、単に世界の観測者と成れる気がしていた。
剥き出しの石壁や擦れる木々の葉、時折聞こえる懐かしい小鳥の鳴き声に耳を傾けるけれど、そのどれもが僕という人間と何ら関係性を持たない。
すれ違う子連れの夫婦やベランダからはみ出した衣服たちも、道端は吐き捨てられたチューインガムも、目の前に存在しているすべてが、絵画の中に広がる世界のようにはっきりとした隔たりを持っている。
しかし、そんな妄想が保たれるのはほんの一瞬。水溜りを踏んだ足に勢いよく泥水が跳ねて、僕はそのねっとりとした不快感によって現実に引き戻される。
たとえどんなに遠く、名も知らぬ街にやってこようとも、そこは僕たちが暮らすあの灰色の街と繋がっているのだ。
そうして、きっとあの街では、今日も何ら代わり映えのしない日常が繰り返されている。
だから僕は、あの全能感にも似た空虚な幻を追い求めて、また遠くの街へ向かう。一秒でも長く、世界との乖離を感じるために。
いつか見た海辺の白い街の絵と同じ景色を探しながら。
夜行日記 紙野 七 @exoticpenguin
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。夜行日記の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます