第17話 そして・・・

 爽は我に返った。目の前には見慣れた街並みが広がっている。週末には必ずと言ってよいほど訪れている町中華の店に向かう歩道に、彼は佇んでいた。

 あの時と同じ風景だ。

 彼はスマホを取り出すと時刻を確認した。

 間違いなかった。

 彼は異界に初めて踏み込んだその瞬間の時に舞い戻っていたのだ。

 爽は恐る恐る右足を踏み出した。

 あの時のこの一歩が、異界への扉を開く最初のきっかけだったのだ。

 だが、彼の僅かな期待を裏切るかのように、街並みの風景にそこ師も変化は生じなかった。更に確かめるように数歩進んでみたが、代わり映えしない街の風景だけが、味気なく彼の視界を埋め尽くしていた。

 あの時、異界から現実界に戻った所で、爽は現実の美津帆と出会ったのだ。

 だが、行き交う雑踏の中に、美津帆の姿は無かった。

 爽の記憶を使わしてもらった――ついさっき、異界で美津帆が爽に言った台詞。その言葉の意味を、爽は漸く理解した。

 異界と現実界の行き来を繰り返していたのではなかったのだ。現実界だと思っていたエピソードも、実は異界のワンシーンに過ぎなかったのだ。

 だから美津帆は、俺との絡みの中でどうしてもプライベートな面に関わる際には、俺の記憶から吸い上げて構成していたのだ。例えば、俺の家族とか、実家でのシーンとか。

 爽は回想した。まーさんの手打ち蕎麦や、松坂牛祭りって、今思えば、あの時、過去にも同じ様な事があったような気がしていたのだ。

 耐えきれない悲壮感と寂寥感が、重苦しく爽の意識を呑み込んでいた。

 絶え間なく行き交う見知らぬ人達。独自の音階を奏でながらも不思議と調和している自動車のエンジン音や通行人の足音。コンビニのドアチャイム――見慣れた風景と街に溢れる様々な雑音が、爽の五感に逃避出来無い不可逆な現実を刻み込んでいた。

 現実界に存在するという事実を、爽は哀しくなる程に実感していた。

 総天然色の世界でありながら、彼の眼には色褪せたセピアカラーの風景に書き替えられていた。

 爽は歩みを止めた。


 何しているんだ、俺

  

 美津帆の姿を追い求めて雑踏の中を彷徨う自分に、爽は問い掛けた。

 爽は気付いた。彼は肝心な事をすっかり忘れていた。

 こんな街中を彷徨ったところで、美津帆がいる訳ないのだ。

 爽は踵を返すと、来た道を駆け足で戻り始めた。

 美津帆は病院にいる。

 爽が務める大学の病院に入院しているはず。

 彼の中で、停止していた時間が再び動き始める。

 猛スピードで後方に過ぎ去る風景も、本来の色彩を取り戻していた。


 美津帆

 逝くんじゃない

 絶対に帰って来い

 

 激しく脈打つ心臓の拍動と苦し気に喘ぐ呼吸音が、爽の頭の中で響き渡る。

 彼の魂の叫びだった。

 むしろ、懇願に近かった。

 復活した彼の気力を後押しするかのように、止めども無く溢れ出るアドレナリンが全身を駆け巡る。

 行き交う通行人を巧みに避けながら、爽は歩道を疾走した。

 大学の門を抜け、いくつもの校舎を過ぎると押し迫る闇に浮かぶ白亜の建造物が現れた。

 大学病院だ。入院病棟は症状からしてたぶん八階。後はナースステーションが頼りだが、感染症対策で面会を許してもらえるかどうか。

 病院に飛び込むと、アルコール消毒と体温測定の検温センサーでのチェックを秒殺。運よく一階で停止していたエレベーターに真っ直ぐ乗り込んだ。

 ドアを閉め、降りる階を選択。上昇する感覚と共に、エレベーターが動き始める。

 爽は息を整えながら階上へと移動するオレンジ色のランプをじっと見つめた。

 じれったかった。決して遅いスピードではないのだが、自分で対処出来無い事案だけに、やり場の無い苛立ちを隠せずにいた。

 漸く、八階に到着。エレベーターのドアが静かに開く。

 と、爽の目の前を慌ただしく走る集団が過ぎる。

 若い医師とナースが数名。うち一人の横顔に見覚えがあった。

 小夜だ。齢を経た大人の姿の。異界で最後に見たそのままの彼女が、脇目もふらずに通路を走っている。

 何かあったのか


 まさかっ! 

 

爽はその集団を追いかけた。

 嫌な胸騒ぎが爽の意識を容赦無く苛む。

 目前を走る集団が、病棟の一室に吸い込まれるように消えた。

 爽も其の後に続く。

 刹那、爽は驚きの表情を浮かべた。

 ベッドの上には笑顔を浮かべる瀬里沢の姿があった。

 その傍らには、爽達の高校時代の担任、二階堂祥子の姿があった。

 瀬里沢の手を握りしめ、話し掛ける彼女の眼は歓喜の涙が輝いていた。

 爽は気付いた。彼女の薬指には指輪が光っている。その手を握りしめる瀬里沢の薬指にも、同じ指輪が輝いていた。

 そんな二人を微笑みながら見詰める小夜の眼からも涙が止めども無く流れ落ちていた。

「咲良じゃないかっ! 」

 立ち竦む爽に気付いた瀬里沢が驚きの声を上げると、上半身をゆっくりと起こした。

「瀬里沢・・・大丈夫か? 」

 爽は緊張と驚愕で貼り付いた唇をゆっくりと引き離しながら、言葉を綴った。

「ありがとう、俺は大丈夫だから、早く先生――保住の所へ! 」

 瀬里沢は深刻な表情を浮かべると、爽にそう叫んだ。

 どうして瀬里沢が爽と美津帆の関係を知っているのか。

 誰もがそう思う様な素朴な疑問だが、爽は少しも不思議には思わなかった。。

 知っていて当然なのだ。異界を通じて彼とも繋がっていたのだから。

 美津帆が仕掛けた思念のシナプスが、卵の中で眠っていた瀬里沢に、ありとあらゆる情報を送っていたのだから。

 爽にはそれが分かっていた。

「分かったっ! 」

「あ、待って! 」

 慌てて病室を出ようとした小夜が、爽を呼び止めた。

「827号室よっ! ここを出て右手に真っ直ぐ」

 小夜は爽を見つめると、口早にそう伝えた。

「ありがとう」

 爽は小さく会釈すると病室を後にした。

 病室の番号を目で追いながら、爽は通路を走った。

 部屋番号の順番から察するに、美津帆の病室は、爽が乗ってきたエレベーターを挟んで反対方向の棟にあるらしかった。

 エレベーターの前を通過し、更に談話室を通り過ぎる。

 そろそろだ。

 前方に扉の空いた病室が見える。

「ここかっ! 」

 爽は迷わず病室に駆け込む。

 同時に、彼は息を呑んだ。

 病室は一人部屋だった。

 だが、LEDの明るい光に照らされた部屋には、布団がきれいにたたまれた空のベッドがあるだけで、美津帆の姿は無かった。

 自分がここに来る前に彼女は目覚め、何かしらの用を足しに部屋を開けているのではないのか――動揺する意識を、少しでもポジティヴな解釈へ必死に方向転換を試みる。

 でも、ベッドには名札が無く、荷物らしきものは何も残されていない。ただ点滴をぶら下げる器具やいくつかの生命維持装置らしき医療機械が傍らに放置された状態になっていた。

「どうされました? 」

 呆然と佇む爽に、一人の若い女性の看護師が、怪訝そうに声を掛けて来た。探るような目つきで、爽をじっと見ている。歳は爽よりも少し下くらいか。ショートヘアーの黒髪が照明の明かりにを受けて艶やかな光沢を放っていた。

「あの・・・ここに入院してた・・・」

 爽は乱れる呼気を整えながら、看護師に尋ねた。

「ああ、ここの方なら、今朝お亡くなりになりましたよ」

 静かに語る看護師の声が、爽の魂に突き刺さった。

 全身の力が抜けるのを、爽は感じていた。

 異界が閉じられる時の美津帆の満足げな微笑みが脳裏に浮かぶ。

(いくら自分の目的を果たせたからって、自分が逝っちまえばハッピーエンドじゃないだろっ! )

 こみ上げてくる涙が溢れ出すのを、爽はぐっとこらえた。その看護師に見られたくなかったのもあるが、むしろ美津帆に涙を見せたくなかったのがその理由だった。よくやったと、笑顔で送ってあげたいと思ったのだ。

「泣いたっていいんですよ。恥ずかしい事じゃないですから」

 看護師が爽に気遣い、そっと彼に囁いた。

 まるで天使の様な彼女の囁きだった。

 彼女のその一言で爽の涙腺は一気に崩壊した。

 看護師は優しい微笑を浮かべながら、爽を見つめた。

「容体が急変して、家族の方も間に合わず、一人で眠る様に旅立たれました。でも安らかな最後でしたよ」

 看護師は寂しそうにぽつりぽつりと言葉を綴った。

 爽には白一色の病室の風景が、とてつもなく切なく、苦しい程にまでに色褪せて見えた。

 厳格で冷酷な現実が、無情なまでに研ぎ澄まされた鋭利な刃物となって、肉体から遊離してむき出しになった爽の感情に容赦無く突き刺さっていた。

 爽は恨んだ。

 今この瞬間に自分を放り出した運命の賽に。

 もし、この世界の創造主が運命の悪戯に翻弄される自分の強さを確かめているとするならば、それを甘んじて受け止められる程強くはない。爽は、痛烈にそう実感していた。

 死は、誰にでも訪れる。それは理解出来ている。

 でも。

 それが今じゃなくてもいいのではないのか。

「神」に問いたい。

 決められた運命の地図があったとしてもだ。

 ちょっとした匙加減で、切れかけた運命の糸を紡ぎ足す事くらい出来てもいいんじゃないのか。

 その人の生き様を配慮して、ちょっと下駄履かせたり補修をしてもいいんじゃないのか。 

 回答が得られない問い掛けであるのは承知の上だった。それでも、爽は問い掛け続けた。

 美津帆には何もしてあげれなかった。彼女が聞いたら、きっと『そんなことないよ』って笑いながら答えるに違いなかった。

 出来ることならば、あの頃――高校生の時に、彼女の魅力に気付いておくべきだった。

 あの頃気付いていれば、あの頃から付き合っていれば、また違う運命を歩んでいたかもしれない。

 でも、もう、どうにもならない事なのだ。

「あのう・・・」

 涙を流したまま無言で立ち竦んでいる爽に、看護師が申し訳なさそうに声を掛けた。

「はい? 」

 爽は涙を袖で拭うと、看護師を見た。

「ひょっとして、お孫さんですか? 」

「へ? 」

 爽の思考回路に?が大挙して押し寄せる。

「お孫さんさんじゃないんですか? 亡くなったおばあちゃんの」

 看護師が探るような目つきで爽を見つめた。

「おばあちゃん? 」

 爽は看護師の言葉に愕然とした。

 ひょっとして、あの世界で出会った美津帆は、実は爽の知っている美津帆ではなくて、ずっと大昔の卒業生で、たまたま同姓同名の別人だったのか。あの世界では高校生でも、香純や小夜は現実では彼よりも年上だったし。

 いや違う。それでは彼女が語っていた高校生時代の話とつじつまが合わない。

 爽は気付いた。もう一つの馬鹿恥ずかしい選択肢に。

「あのう、保住さんの部屋って・・・」

 眼を泳がせながらおどおどと尋ねる爽を、看護師は鳩が豆鉄砲喰らった様な表情で見つめた。と、瞬間、彼女は状況が呑み込めたのか、口元をひくひくさせながら落ちついた声で答えた。

「あ、先生ならお隣りですよう、ぐふっ♡ 」

 看護師の眼が波目状態になる。笑うのを必死でこらえいているのがはっきりと分かる。んで、とうとう耐えかねたのか、彼女の語尾は巨大パワードスーツの排気音の様な妙な音を立てていた。

「ごめんなさい、部屋間違えましたあっ! 」

 爽は看護師に頭を深々と下げると、慌てて部屋を出た。

 恥ずかしさは無かった。恥ずかしく無かったと言えば嘘になる。でもそれ以上の嬉しさが恥ずかしさを上回っていた。

 爽は隣の病室の前に立った。この病室も一人部屋のようだ。

 緊張を生唾と共に嚥下した彼の喉が大きく鳴った。

 彼はハイペースで刻む心音のリズムをを顔で感じていた。心臓が半端ない心拍を記録している。今、彼の脈を計ったら恐らく即入院レベルだ。

 扉を開け、中に入る。

「遅い! 」

 美津帆の声に、爽は飛び上がった。

 ベッドの上に、美津帆の姿があった。上半身を起こし、苦笑を浮かべながら爽を見つめている。

「美津帆・・・」

 爽は美津帆の傍らへ駆け寄った。

 彼の眼から、涙が滝の様に流れ落ちる。さっきを遥かに凌ぐ水量に、爽は何度も袖でそれを拭った。

「先生、たった今、保住先生の意識が戻りましたああっ!」

 さっきの看護師が慌てて担当医らしき相手に携帯で連絡を取っている。確か院内用の医療機器に影響の出ない特殊なやつだ。

「何泣いてんのよ」

 美津帆が人差し指で爽のお腹を突っついた。

「そりゃあ、うれしいから・・・よかった」

 爽はずずっと鼻を啜った。

「死ぬって言ってないっしょ」

「でも、逝くねっていったから」

「私が言ったのは、ギョウニンベンの方、こっちの世界に先に行くねって意味で言ったのに。漢字が違うよ」

「感じ悪~っ! じゃあ何、俺が勝手にバッドエンディングになるって思い込んでた訳? 」

 爽が気抜けした感じでベッドの蕎麦の丸椅子に腰を降ろした。

「縁起でもない」

 美津帆は顔を顰めると首を横に振った。

「いつ目覚めたの? 」

「今さっきよ。通路をドタバタ走る音で目が覚めた。あ、爽の足音だと思って。でも通り過ぎてくしさ。そしたら隣の部屋でがたがた音がしたから、私の勘違いかと思ってたんだけど、ひょっこり現れるし。ひょっとして、部屋間違えて隣に行ったの? 」

「てへっ! ご察しの通りで」

 美津帆は呆れた表情を浮かべると、大きな吐息をついた。

「私さあ、目覚めた時、絶対爽が来たんだって分かったから、まだ意識が戻っていないふりして目をつぶって待ってたんだよ」

 美津帆は不満げにぶつぶつ呟いた。

「驚かそうと思って? 」

 爽が笑いながら答える。

「爽ならきっと、眠れぬ森の美女を目覚めさせようとしてキスするかなあって思ってさ。そしたら目覚めましたってなれば、超ロマンチックだし感動的じゃん! 」

「何だよそれ――」

 爽は照れ笑いを浮かべた。

「何よお、私なりに最高の感動の再開を――」

 刹那、爽は彼女を抱き寄せた。

 美津帆は言葉を失った。

 爽の唇が、言葉を綴ろうとした美津帆の唇に重なっていた。

 美津帆は眼を閉じた。爽の温もりを感じながら、彼女は彼の不器用ながらも優しい抱擁に身を預けていた。

「お取込み中、申し訳ないんだけど」

 顔を真っ赤にして直立する若い看護師の横で、担当医と共に病室に来た小夜が、困った表情を浮かべながら二人に声を掛けた。






「お世話になりました」

 瀬里沢夫婦が爽と美津帆に深々と頭を下げた。

「そんなあ、私何もしてないってえ、あはは」

 美津帆は照れ笑いを浮かべながら体をくねくねさせた。

 あれから二週間後、大学附属病院のだだっ広い待合室の一角に、四人はいた。

 瀬里沢からこれから退院するとラインで連絡を受けた爽と美津帆が、仕事を抜け出して慌てて駆け付けたのだ。美津帆はまだ本調子じゃないとは言っていたが、ずっと寝たきりだったので足の筋肉が落ちてしまったらしく、リハビリがてら動かなきゃと、自ら申し出て戦線復帰を果たしていた。

「保住、巻き込んじゃって本当にごめんなさい」

 瀬里沢が表情を曇らせながら再び美津帆に頭を下げる。

「あ、いえ、まあ助かって良かったよ。私がもう少しちゃんとしてれば、瀬里沢をもっと早く助けられたんじゃないかと思うと、こちらこそ申し訳なくて・・・」

 美津帆は目線を伏せると言葉を詰まらせた。

「いえそんな、こっちこそ父の事でご迷惑を掛けた上に、俺が更に輪をかけて迷惑かけちゃって。それに母のことも」

 瀬里沢は恐縮しながら美津帆に再び頭を下げた。

 爽は驚きを隠せなかった。クラスの、と言うより下手すりゃ学校のヒエラルキーの頂点に君臨していた彼がここまで腰が低い人物だったとは。まああれは祭り上げていた周囲の者達に問題があったのかもしれない。

「二人とも、いつでも遊びにおいで。あ、これ社交辞令じゃないからね」

 瀬里沢の妻、祥子は両手をパタパタ振りながらけらけらと笑った。

「先生、何か瀬里沢と結婚したらかわいくなったね」

「やだもう、そうお? え、じゃあ昔はかわいくなかったてこと? 」

「いえ、昔は美人で今は更にかわいくなった」

 爽は慌てて変な言い訳めいた言葉を口走った。が、祥子は何故か嬉しそうに眼を細めた。

 人ってこうも変わる者なのか。瀬里沢の愛情の賜物か、それとも結婚が彼女に魔法をかけたのか。爽の潜在意識に貼り付いていた能面の様な冷たい顔のイメージが、ぐすぐすと崩れていく。

「瀬里沢、もう奥さんに心配かけちゃ駄目だよ」

 美津帆は笑いながらそっと瀬里沢をたしなめる。

「うん、もうあんな馬鹿な事はしない。祥子を泣かせたりしないよ。それに――」

 瀬里沢は頭を搔くと、さり気なく祥子のお腹に目線を投げ掛けた。

 爽と美津帆は驚きの表情で顔を見合わせる。

「そっかあ、おめでとうございます!」

 美津帆が深々と頭を下げる。

 と、爽も慌てて美津帆に倣った。

「お待たせ、車まわしてきたよ」

 正面口から小夜が小走りで近付いて来る。十代の頃の容姿と比べると、縦横に少々成長はしたものの、顔に面影が残っているし声も昔のままだ。

「ありがとう、お母さん」

 瀬里沢は振り向いて小夜にそう声を掛けると、再び爽達を見た。

「咲良、今度皆飯食おうぜ」

「いいよ。瀬里沢のおごりか? 」

「割り勘で」

「その方が気を使わなくていいや」

「そう言うと思った。じゃあまた連絡する」

「了解! 」

 瀬里沢達が立ち去るのを二人はずっと見送っていた。祥子に寄り添い歩く瀬里沢の姿に、そして祥子を気遣い話し掛ける小夜の姿に、二人は温かいほんわかしたものを感じていた。

 彼らなら大丈夫。誰しもがそう感じる安心感が三人から醸し出されていた。

 二人の後ろを歩いていた小夜が、正面口のドアの前で徐に立ち止まり、踵を返すと二人に深々と頭を下げた。そしてすぐに二人の後を追い掛ける。

「あの親子なら、うまくやっていけそうだな」

「嫁姑関係も問題なさそうね。でも、小夜って異界じゃ先生を思いっきりぶった切って無かったっけ? 」

 美津帆がやや不安げな笑みを浮かべた。

「甘えてばかりいないでしっかりしなさいって事じゃね? 」

「納得」

 涼しい顔で宣う爽に、美津帆は腑に落ちた表情で頷いた。

あれから色々あって、小夜は瀬里沢の母親になった。本来の元の鞘に戻ったと言うべきか。だが、ここまで来るのには、法的手続きもさることながら、色々と大変だったのだ。

 香純のしでかした受精卵奪取は残念ながら時効を迎えており、刑事事件として罪を問うことは出来なかった。但し、時効とは言えその事案が瀬里沢に齎した精神的苦痛と、DNA鑑定結果が父親を死に追いやったとして瀬里沢を攻め立てた香純の虐待行為を争点として、民事訴訟を起こしたのだ。

 最終的には和解となったのだが、これで晴れて瀬里沢は本当の母親と暮らせるようになった。

 苗字は今は瀬里沢だが、近々母親の苗字を名乗るらしい。

「これで、一件落着だな」

 爽は美津帆にに微笑み掛けた。

「私も早く苗字変わりたいなあ」

 美津帆が悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「えっ・・・」

 爽は動揺した。異界での出来事を含めれば半年近く付き合っていることになるけれど、実際には現実界での時間軸で見るとまだ二週間しかたっていないのだ。

 冷静に考えれば、出会いから半年ってのも短いだろう。とは言え、高校時代の時間を加算すれば長くはなるが、あの頃は少なくとも爽はそこまで意識していなかった。

 いやそんな事よりも。

 美津帆の方から告られたと言うか、プロポーズされたと言うか――どちらかと言うとこっちの方が衝撃的展開だった。

 そんな絶頂の時に水を差すかのように、爽のデニムのポケットに無造作に突っ込まれている携帯が、聞きなれた着信のメロディーを奏でた。

 爽は携帯に伸ばし掛けた手を止めた。。

 彼は躊躇していた。実はこの音は目覚まし時計で、出た瞬間に目が覚めてちゃんちゃん――なんでえ、夢落ちかよ・・・。

 て、ジ・エンドを迎えるんじゃないかと言う、味気無い恐怖の妄想に、鳴り続ける携帯に出られずにいた。

「何躊躇ってんのよ」

 美津帆は爽の態度を訝し気に思ったのか、彼の携帯をさっと取り上げると躊躇いなく相手に呼び掛けた。

「あ、間違えてないですよお、え、爽ならすぐそばにいます。代わりますね」

 美津帆は複雑な表情で爽に携帯を手渡した。

「誰? 」

 尋ねる爽に、美津帆は不機嫌な表情を浮かべた。

「若い女の人」

 爽は、ふくれっ面の美津帆から恐る恐る携帯を受け取る。彼に電話を掛けて来るような若い女性に心当たりは無い――いや、いた。一人だけ。

「もしもし・・・あ、姉ちゃん? 何? あ、そうだよ。うん、そのつもり。本当?分かった、今週末だね。じゃあ」

 爽は大きく吐息をついた。

「お姉さんだったの・・・?」

 ほっとした表情を浮かべる美津帆だが、探るような言葉尻から察するに、何となくまだ爽の事を疑っているようだった。

「うん、姉ちゃんだった。親父の知り合いがいい牛肉を大量に送ってきたから、週末に家に帰って来いって。嫁ちゃんも一緒に連れて」

「やたー♡ 」

 美津帆は人目をはばからず、にっこにこ笑顔で爽に抱きついた。

「お、おい、人が見てるって」

 照れ笑いする爽の眼に、目が牛になっている美津帆の笑顔が映る。

 


 



 


 


 

 


 

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異界散策は日帰りで しろめしめじ @shiromeshimeji

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