第16話 終わらせてたまるかよ

三人は並んで宮殿の残骸に向かって歩き始めた。行く手を阻むように堆く積み重なる残骸は、三人が近付くと共に静かに白砂となって崩壊し、進むべき道を指南した。

 不思議な事に、白砂は舞い散ることなく静かに路面に落ちると、更には堆積せずに左右に流れ、石畳の路面を覆い隠すことは無かった。

 やがて、崩壊する残骸の向こうに、何やらきらりと光る造形物が浮かび上がった。

 まるで、卵を立てたような形状の造形物。数メートルの横幅に対し縦方向は十メートル強と言ったところか。

 やがて、全ての残骸が白砂と化し、それは全貌を露にした。

 透明なクリスタルの卵。その中に、膝を抱えて蹲る人影があった。

 瀬里沢賢人だ。

 学生服姿の瀬里沢が、俯いたまま眼を閉じている。

 眠っているのだろうか。これだけ周囲で騒ぎ立てているにもかかわらず、彼は身動ぎもせずにずっと沈黙を守っていっる。

「近付かないでっ! 」

 香純の絶叫が木霊する。

 卵型の造形物の傍らに、白いワンピース姿の香純が立っていた。髪は乱れ、憔悴し切った表情で爽達をじっと見据えていた。

「私から賢人を奪わないでっ! 」

 目に涙を浮かべながら懇願する香純を、小夜は冷めた目つきで見つめた。

「・・・よく言えたものね。この子を私から奪っておいて」

 小夜の声が震えいていた。言葉の一つ一つが氷の刃の様に香純を切りつける。

「何馬鹿な事を言ってんのようっ! この子は私が生んだのっ! 私の大事な息子なのよっ! 」

 香純は泣き叫んだ。瞳から大粒の涙を滝のように流しながら、彼女はいとおしそうに巨大な卵に頬擦りをした。

「あなたが生んだからって、あなたの子とは限らない。そうでしょ? 」

 小夜が力強く言い放った。

 一瞬、香純の表情が強張る。

「私ね、離婚してから考えたの。色々と納得いかないことがあったから。それで裏を取るために、あなたの勤めていた病院に看護師として勤めることにしたによ」

 小夜の言葉を、香純はじっと聞いていた。小夜を睨みつける瞳には、暗い情念の焔が揺らめいていた。

「私が不妊治療であの病院に通院していた時、あなたは産婦人科のナースだったよね。いつも笑顔で話し掛けてくれて、いい人だなって思ってた」

 小夜は吐息をついた。表情が苦悩に歪む。言葉を発するのも苦痛なのか、彼女は台詞を呑み込むと苦し気な呼気を繰り返した。

「あの時、覚えてる? 担当の先生が受精卵がいい感じだから、今度こそ大丈夫ですよって。あなたも喜んでくれたよね? それが手術の直前になって、駄目になったって・・・」

 小夜が言葉を詰まらせた。

「覚えてる。あの時、残念だったよね」

 香純が小さく呟く。

「瀬里沢と関係持ったの、あの頃よね? 」

 小夜は香純を見据えた。

「だって、あなたは治療の結果が思わしくないと死んでしまいたいとか離婚したいとか言ってあの人に絡んだんでしょ? だから、慰めてあげようと思って・・・」

 香純は小夜から目線を逸らすと、俯き加減に答えた。

「それで関係を持ったの? 本当にそれだけ? 」

「本当よ! 」

「私はもっと可哀そうだったんだよっ! 」

 小夜は泣き崩れた。大粒の涙が石畳に落ちる。

 美津帆は小夜の傍らに寄り添うと、震える背中を優しく差すった。

「小夜、よく頑張った。後は私が話す」

 美津帆の言葉に、小夜は泣きじゃくりながら頷いた。

 爽は驚きの表情で美津帆に声を掛けようとしたが、彼女は手をかざしてそれを制した。

「香純、あなたが瀬里沢の父親と関係を持ったのは、一晩だけよね。近付いたのはあなたの方から。精神が不安定だった小夜を休養させる理由で実家に戻し、彼が行きつけのバーで憂さ晴らしをしていた時、あなたは偶然を装って彼に近付いた。彼の行きつけの店は事前に調べていたんでしょ? 」

 香純は答えなかった。ただ、顔面蒼白のまま、美津帆をじっと見つめていた。

 美津帆は何故それを知っているのか――香純の顔に浮かぶ疑念と驚愕の表情が、言葉を発せずともそれを明白に物語っていた。

 驚きを隠せなかったのは香純だけじゃない。爽自身も、困惑の表情で美津帆を見つめていた。今までの二人の会話の中で、瀬里沢の父親と香純が関係を持つまでに至った経緯など、少しも触れたことは無かったのだ。

 無言のまま動揺を露に立ち竦む爽に気を留めることも無く、美津帆は香純に語り掛ける。

「その後も、あなたは瀬里沢の父親にアプローチし続けた。だけど、彼は断り続けたんだよね。彼は罪悪感に苛まれていた。一夜限りとは言え、小夜が苦しんでいる最中に不貞を働いた自分を責め続けていた。そんなある日、彼はあなたから妊娠したことを告げられた」

「その結果、彼は私を選んでくれた。仕方ないじゃない。それは私のせいじゃない。彼が決めた事だから」

 香純はかっと眼を見開くと、嚙みつくような口調で美津帆に言い放った。

「彼、あの夜避妊してたんでしょ? 」

 美津帆が香純を見据えた。

「そんなのしたって百パーセント避妊出来る訳ないっ! 現に私は妊娠したんだからっ! 私は彼を愛していたわ。彼も私を愛してくれた。だから私はその事実を受け入れたし、彼も喜んでくれたわっ! 」

 香純は顔を紅潮させながら美津帆に激しく抗議した。

 だが、そんな彼女を美津帆は無視して唇を開く。

「あなたが瀬里沢の父親に近付いた目的は同情でも愛情でもない。財産と権力でしょ? ブランド品が大好きで、金遣いの荒さは病院でも有名だったんだよね? それにやたらと『出来ますオーラ』を出して振舞ったり、自分よりも少しでも劣るナースがいたら見下していじめてたらしいじゃない。そんなにしてまで、少しでも自分が優れている様に見せつけたかったの? 挙句の果てには何人もの新人がやめたんだってね」

 香純は答えなかった。ただ無言のまま、じっと美津帆を睨みつけていた。

「瀬里沢の父親が経営する会社の業績が傾き始めた時、あなたはここぞとばかりに会社経営に口を出すようになっていった。瀬里沢の父親はストレスの余りに、次第にうつになっていくの。ある日、彼はふと、ある違和感を感じ始めた。それは長男に対してね。彼の顔立ちが、自分でも母親でもなく、親しい別の誰かに似ている事に気付いたの。誰だと思う? 」

「誰って・・・」

 美津帆の問い掛けに、香純は言葉を濁した。

「小夜よ。そう気付いた時から、彼はあなたへの猜疑心が黙々とこみ上げて来る。悩んだ末、彼はDNA鑑定を依頼したんだ。その結果を見ると、彼と息子のDNAは一致するが、母親とは一致しないことが分かった。けど他に一致する人物が出て来た。それが小夜よ。たぶん彼は気付いたんでしょうね。隠された真実に。それで小夜への罪悪感に押しつぶされ、自ら命を絶った。表向きは会社の経営状態を悲観してって事になっているけど」

「何よっ! 隠された真実って! そんなの嘘よっ! いい加減な事言わないでよっ! 確かにあの頃、あの人は思い悩んでいた。でもそれは仕事の事でよっ! 」

「彼は私が初めて受け持った患者さんだったの」

 美津帆の一言に、顔を真っ赤にして喚き散らしていた香純の表情が一転して凍てついた。

「今、話したことは、直接彼から聞いたの。私にそう告げた次の日に、彼が亡くなったのを聞いたのよ。とてもショックだった。それから一年後、今度は彼の息子、賢人が患者としてやって来た。彼は悩んでいたわ。自分の行動が原因で父親を死に追い込んでしまったって」

 爽は無言のまま美津帆の顔を見つめた。彼は思い出した。前に小夜が同じようなことを呟いていたのを。だがそれ以上に、彼は更なる戸惑いを覚えていた。彼の知らない情報を語り続ける美津帆の姿に、何かしらの疑念すら感じ始めていた。

 ひょっとしたら、美津帆は全てを知っていたんじゃないか。

 じゃあ、何のために知らないふりを?

 美津帆に今すぐにでも問いただしたいと思った。

 でも彼は感じ取っていた。今はその時じゃないと。

「父親がDNA鑑定を依頼した頃とほぼ同時期に、瀬里沢もあるきっかけでDNA鑑定を依頼しているの。両親と自分とのね。理由は母親の態度だった。昔からそうらしかったんだけど、愛情の注ぎ方が他の兄弟とは明らかに違うような気がしてたそうよ」

 美津帆の表情が曇る。瀬里沢の思い悩む心情に同調しているのだろうか。

 大きく見開いた彼女の眼には、溢れんばかりの涙が揺らめいていた。  

「極めつけは偶然父親の書庫で見つけた古い写真だった。見た事の無い女性と父親が仲良さそうに寄り添って写っている写真を見た時、彼は衝撃を受けたの。その女性の面影が、余りにも自分に似ていたからよ。そして、届いたDNAの鑑定結果を見て、彼は確信したわ。自分の本当の母親は、写真の女性かもしれないって」

「ちがーうっ! 違う違う違うっ! 賢人は絶対に私の子よっ! いい加減にしてよっ! お前に何が分かるのっ! 」

 香純の顔つきが変わった。彼女は、まるで開き直ったかのようなふてぶてしい仕草で、顔を顰めたくなるような暴言と呪詛を吐き続けた。

「よく言えたものよね。あなたは瀬里沢が依頼したDNAの鑑定結果を見つけ出して、これが原因で父親が自殺したんだって攻め立てたのよね。挙句の果てには彼から全てを奪って家から追い出した。それが今になって、どうしてこうも彼に執着するの? 」

 香純は答えない。まるで美津帆の言葉を掻き消そうとするかのように、口汚い言霊を吐き続けた。

「あなた、彼に負の遺産を追わそうとしたでしょ! 力量も無いくせに会社経営に手を出して膨らんだ負債を、全部彼に押し付けるために復縁しようとしたんだよね」

「違うわっ! あの時、私も彼を亡くして取り乱していたから・・・はっきり言って普通じゃなかったから、後で賢人には申し訳ない事をしたって思ったの。だからもう一度家族で力を合わせてやり直そうって。母親として、もう一度、家族の絆を取り戻そうと思って」

「あなたは瀬里沢の本当の母親じゃない」

 美津帆の一言に、小夜は眼を見開いた。

「母親よっ! 」

 香純は声を震わせながらは激高し、叫んだ。

 そんな彼女を見据えながら、美津帆は大きく息を吸い、そして吐いた。

「小夜の受精卵を盗んだでしょ」

 時が凍り付く。

 一瞬、あらゆる動が静に転じ、何もかもが静寂に沈んだ。

「小夜の不妊治療が漸くうまくいきそうな兆しが見えた時、あなたは焦ったのよね。このままじゃ彼を自分に振り向かせることが出来ないって。それで、当時小夜の担当だった医師を唆した。小夜の受精卵を自分の子宮に着床させるようにってね。万が一疑われても、DNA鑑定すれば瀬里沢の父親のと一致するように仕向けたんでしょ? その医師には、自分がうまく玉の輿になれたら、独立開業の援助をするって言ったんだよね」

「そんな出鱈目――」

「出鱈目じゃないわ。その医師は自分のした事が恐ろしくなり、罪の意識に苛まれ、病院を去ることになった。彼は精神的に相当追い込まれてしまっていたようね。結局、自分で自身の命を絶つことになった。でも、あなたにとっては好都合だった。唯一真実を知る者がこの世からいなくなったのだから」

「何、訳の分からないこと言ってんのよっ! そんな証拠、どこにあるのっ! 」

 香純は半狂乱になって叫んだ。だが、美津帆は冷笑を浮かべると、凍り付くような冷たい眼で香純を見据えた。

「亡くなった医師が遺書を残してた」

「そんなはず――」

「彼がパソコンに写真を残していたの知ってる? 院内の知り合いにもメールで送ってたよね。看護師さん達と一緒に取った記念写真。退職の文章と一緒に貼り付けてあったでしょ」

「あれは・・・でも、特に遺書らしいものは書いてなかったはず」

 香純にも心当たりがあったらしく、眉を潜めると、訝し気に美津帆を見た。

「書いてあったんだ。画像の下に。一見何もないようだけど。実はテキストボックスがワークシートいっぱいいっぱいまで貼り付けてあった。こいつをどかしたらPDFで取り込んだ文章が出て来たんだ。直筆のね。彼は全部告白してた。香純に唆されて、大変な過ちを犯したってね」

 淡々と語る爽の言葉に、香純は口を弱々しく動かすだけで、反論の声を発するだけの気力が失せているようだった。

 この世界に舞い戻る少し前、美津帆は眉間に皺を寄せながら、パソコンとにらめっこをしていた。彼女は思いつくままに、非表示になっているシートが無いか、画像の中に何かメッセージ的なものは無いかと問題の画像が貼り付けてあるエクセルのワークシートを弄繰り回していた。そして画像をずらしてその下のセルを調べていた時に、あることに気付いた。ワークシート全体がテキストボックスでカムフラージュされていることに。これを恐る恐るずらしてみたら、驚きの文章が現れたのだ。

 自殺した医師の遺書だった。遺書と言うよりも、むしろ懺悔に近いものだった。己が犯した過ちを事細かに、しかも関係者の実名入りで。直接文字を入力せずに、わざわざ手書きの文章をPDFに取り込んだのは、より信憑性を持たすためだろう。

 このことを小夜に知らせようと、食事中の彼女に凸しようとした直前、二人はこちらの世界に戻ってきてしまったのだ。

「もう瀬里沢に関わらないで」

 美津帆が、静かに言霊を綴った。それは決した懇願でも依頼でもなく、命令に近い口調だった。

 香純は無言のままじっと美津帆を見据えた。

「賢人は渡さない。賢人には瀬里沢グループの再興に尽くして貰わなければならないの」

 香純は哄笑を上げた。彼女の中で、何かが切れていた。今まで隠し通してきた黒歴史を白日の下に曝け出された挙句に、自分を庇護するかのように、無様なくらい開き直っていた。

「私はいつも輝いていなきゃならないの。地位と名声と財力が私には必要――そう、私に相応しい必要不可欠なものなの。だからさ、みんなには悪いけど消えてくれる? 私の為に」

 香純の眼が、漆黒に染まる。

 地面に敷き詰められている白い石畳が、空が、一気に漆黒に染まり、暗黒の空間が広がっていく。闇には何かが潜んでいた。ぞわぞわと動く触手の様な輪郭、べちゃべちゃ蠢く粘液質の異音・・・漆黒の空間を埋め尽くすように、それらはいた。

 否、空間そのものが異形の集合体だった。

「させないっ! 」

 小夜が叫ぶ。

 剣を素早く抜くと猛スピードで侵食する闇に切りつけた。

 剣が刻む軌跡から、白い光が零れる。

 優勢を誇っていた闇は、その一条の光を受けて一気に怯むと、苦悶の素振りを露にしながら退却し始めた。

「そんな・・・」

 かっと眼を見開き立ち竦む香純を、行き場を無くした闇が呑み込む。

 闇は互いに捕食し合いながら急激に縮小すると、消えた。

 風景が再び色彩を取り戻した。

 ただ、香純の姿はない。己が生み出した闇に呑み込まれ、挙句の果てにはそれもろとも消え去ってしまったのだ。

「賢人・・・私の子・・・」

 小夜が、ゆっくりとクリスタルの卵に近付いた。彼女の手から、握られていた剣が掻き消すように忽然と姿を消す。

 もう、必要でなくなったのだ。

 小夜は卵の外殻に触れると、いとおし気に頬擦りをした。

「爽」

「うん」

 爽と美津帆は息を呑んだ。

 瀬里沢の眼が開いた。

 彼は眩しそうに眼をしばたかせながら立ち上がると、目前に佇む小夜を驚いた表情で見つめた。

 瀬里沢の眼に、揺らめく輝きが浮かぶ。

 涙だった。

 瀬里沢は小夜をじっと見つめたまま、ゆっくりと彼女に歩み寄った。

 小夜は唇を震わせながら、頭一つ分程上の瀬里沢を見つめた。

 卵の外殻越しに、二人は手を触れあった。

 瀬里沢の唇が、ゆっくりと動く。戸惑いと躊躇いが交差する時の狭間で、彼は意を決したかのように言葉を紡いだ。


 おかあさん


 クリスタルの卵が瞬時にして無数の光の粒子となり、消えた。

 それは無声映画のワンシーンの様に、音一つ立てることなく静かに飛散すると、空間の中に溶け込む様に消えていった。

 二人は感涙にむせびながら抱き合った。

 小夜の姿に、変化が生じた。

 僅かに背が伸び、体が丸みを帯び始める。肩までだった髪が背に届くまで伸び、幼い少女の面立ちが、様々な経験を積んだ大人の女性の面立ちへと変化した。

 ナース服の似合う清楚な大人の女性が、そこにはいた。

 そして瀬里沢も、スーツ姿がりりしい、優しい表情の青年へと成長を遂げていた。

 もう、二人を引き離そうとする者はいない。

 いつまでも抱擁し合う二人の姿が、爽にはぼやけて見えた。

 爽は泣いていた。人の幸せに喜び感動して涙を流すなんて、今迄生きてきてあっただろうか――爽はふと感慨深げにそう思った。

 不意に、美津帆が彼に腕を絡めて来る。

 彼女も大粒の涙をぬぐおうともせず、瀬里沢達の幸せの瞬間に心を震わせていた。

 小夜と瀬里沢の姿が、白い光に包まれていく。 

 終わったのだ。

 異界で起きた一つの物語が。

 そしてまた、新しい物語が始まるのだろうか。

 光は、二人をその神聖なヴェールで覆うと、大地を、そして空を白一色に染めていく。

 これでまた、現実の世界に戻るのか。

 爽は何となく言いようのない寂寥感を覚えていた。

 もう、この世界には戻れない――そんな予感がしたのだ。

「爽、ありがとう」

 傍らで微笑む美津帆を、爽は驚き慌てた。

 美津帆は、今の彼女の姿になっていた。メタリックなフレームの眼鏡をかけ、白衣を羽織っている。

「美津帆、その恰好・・・」

「この異界もそろそろ閉じちゃうから」

「え、閉じるって――まさか? 」

「そう・・・そのまさかなの。この異界のクリエイターは私」

「そんなこと――」

 高ぶる感情と驚愕に搔き乱されて、爽は言葉を詰まらせた。

 信じられなかった。この異界を創りだしたのは、美津帆だなんて。

 それも、瀬里沢が本当の母親と再会するためのストーリー?

 それだけのためになのか?

「私って、学生時代ラノベにはまってたでしょ? そんで色々空想しては一人遊びするのが好きだった」

「まあ・・・そんな感じはしたよな。」

 爽は頷いた。一生懸命平静を保とうと、ぐらぐらと揺らめく意識と感情を必死に抑え込もうとしていた。

「そのせいかな、この異界をイメージ出来たのも」

 動揺する爽にはお構いなしに、美津帆は嬉しそうに語ると、眼を細めて微笑んだ。

「何故、こんな事を・・・」

 爽は緊張に凍てつく声帯を震わせながら、漸く脳内にどしんと居座る大きな疑問符を吐き出した。

「大切な患者さんを救うためよ。さっきも話したと思うけど、私が一番最初に担当したのは、瀬里沢の父親だった。でも、私は救うことが出来なかった。だから、せめて彼は救いたいと思ったの」

「彼が初めて診察に来た時、驚いたわ。私の知っている自信と気力に満ちあふれた高校の時の輝きが消え失せて、生気の失せた暗い翳りが表情を取り込んでいたの」

 美津帆は大きく吐息をついた。

「一目見て、危ないと思った。何しろ、クラスメートだった私の事に全く気付かなかったからね。まあ、医師と患者の関係は、その方が良かったんだけど。私は彼の相談に耳を傾けた。話を聞いて、その闇の深さにはびっくりしたわ」

「じゃあ、さっき香純を責めてたことは・・・」

「すべて事実。彼の話やこつこつとこっそり調査をしていた小夜に話しを聞きながら、私が調べたの。彼の父親が生前話してくれたことも含めてだけど」

「そう、なんだ」

「私なりに調べて分かったのは、瀬里沢がDNA検査の結果を受け取る前に、彼の父親は自分も依頼していた検査結果を受け取っていたの。だから、もし鑑定結果が彼を追い詰めたのだとしたら、それは父親自身が依頼したもので、彼が依頼したものではなかったのよ。香純は多分その両方の結果を見つけたんじゃないかな。彼女はそれを自分の都合の良い様に利用したのよ」 

「人は見掛けによらないんだな」

 爽は表情を歪めた。香純の第一印象は、好感度が高く誰にでも好かれるようなイメージだったのを覚えている。

「瀬里沢は香純から最初のDNA鑑定は間違っていたっていう書類を見せられ、父親にわびるつもりがあるなら会社の再建に力を貸せってしつこく責められてた。私の調査で香純の書類は偽造されたものだってわかったから、彼に伝えようとしたんだけど――」

 美津帆は言葉を呑み込んだ。

「もう、限界だったのね。彼は病院の屋上から飛び降りたの。柵を越えようとする彼を慌てて引き留めようとしたんだけど、私も一緒に落ちちゃって」

「えっ! じゃあ、自殺しようとした患者を止めようとして巻き込まれた医師って美津帆だったの? 」

「うん。一瞬、死んだなって思った。けど、運良く建屋のすぐそばに植えてある木の枝に引っ掛かって、それがクッションになったのね。直接地面叩きつけられなかったから、何とか二人とも命は取り留めたんだ。と言っても意識不明の重体だけど」

「大変だったんだ」

「不思議な感覚だった。私自身は自分の事を自覚しているのに、体が全然動かないし、私自身も何て言うのかな・・・体の中で魂が体育座りしている状態? てのかな」

「臨死体験に近いのかな」

「どうだろう。とにかく私は意識があることに気付いてもらおうと必死になって体を動かそうとしたら、視界がどんどん広がって、この異界にいたのよ。始めはこんな状態だった。何もなく、ただ白い光に満ちているだけのね」

 爽は周囲を見渡した。彼が今見ている風景が、まさしく彼女が語る異界の初期の風景なのだ 

「私は瀬里沢の容体が気がかりだった。彼はどうなったのか――そう考えた途端、クリスタルの卵の中に身を潜め、外界からの全ての情報を遮断している彼の姿が現れた。それも、高校生の時の姿で。その姿を見て、何となく分かった。彼は自分が一番充実していた頃に戻っていたのよ。私がどんなに声を掛けても、卵の外殻を叩いても、彼は目覚めなかった。でも生きているってのは分かった。何とかして、彼を助けたい。どうすれば彼を目覚めさせることが出来るのだろう。そう考えてるうちに、私の中でひとつのストーリーが浮かび上がった。それが、この異界での物語よ。彼を追い込んだ原因を取り除きながら、彼の覚醒を促すためのね」

 爽は言葉を発せずにいた。驚愕と言う言葉では単純に表現できないような究極の衝撃的な事実に、彼の思考は完全にフリーズしていた。

 この異界は美津帆の意識の中で作られ、脚色された世界。

 でもどうやってそんなことが出来のか。

 否、それよりも。

 ここにいる自分の存在は、いったい何なのか。

 彼の思考はその地点で足踏みをしていた。

「たぶん、理屈で理解しようとしても無理だから。そうなんだって分かってもらえればいいよ」

 夥しい不条理な情報を整理出来ずに困惑する爽の気持ちを察したのか、美津帆は彼に優しく声を掛けた。

「ひょっとしてだけど、俺もこの異界の住民なの? あ、でも現実界に戻ったりしてるし 」

 爽は不安げに美津帆に尋ねた。

「安心して。爽は現実に存在している本人だから」

 爽の困惑している本当の理由に気付き、美津帆は白い歯を見せて愉快そうに笑った。

「でも、何故俺が? 」

 爽は何処か腑に落ちずにいるのか、不思議そうに美津帆に尋ねた。

「あなたが適役だったから。高校の時、気になってたんだ。どのグループにも属さず、偉ぶっている奴にも従わず、うまく距離を置きながら自分のスタイルを守り通している爽の姿が」

「まあ、俺ってさ、人から干渉されたり、自分のペースを崩されるのが嫌だから」

「私もそうだけど、私は完璧に結界張ってたからね。殻に閉じこもっていた瀬里沢みたいに。でも爽は違った。風の流れをうまくかわしながら生きているって言うか。私みたいな見た目もボッチの人じゃなく、凄いなってさ。ある意味羨ましかった」

「ひょっとして褒められてる? 」

「そうよ。あの頃、爽からは同じ匂いを感じたんだけど、私以上に進化した憧れの存在だったんだから。このストーリーは私と小夜が主体に動いてもうまくは回らない予感がした。自分を見失わない強い意志を持ちながら、人と人とを繋ぐ役回りを演じてくれる存在が必要だった。だから、街中を歩く爽を見かけた時、あなたに絡んでもらうしかいないと思ったの」

「そうだったんだ」

 爽は頷いた。彼女の話に不快感を抱くことは無かった。むしろこそばゆいような恥ずかしさと照れのようなものを感じていた。

「ごめんなさい、勝手に巻き込んじゃって。それに、爽の記憶を少し使わしてもらった」

「とんでもない! 巻き込んでくれてありがとう。俺なんかが役に立ったのならうれしいし」

 爽はぺこりと頭を下げた。爽なりに美津帆への敬意の表れだった。人に頼られることの誇らしい気持ちは、何物にも代えられない最高の御褒美だと、爽はしみじみ感じていた。

「多分、今頃瀬里沢は意識が戻ってるはず。何とか後悔せずに済んだよ」

 美津帆が、満足げに微笑んだ。

 彼女の姿が、ゆっくりとぼやけ始める。

「美津帆・・・?」

「ごめんね」

「? 」

「嬉しかった・・・生まれて初めて告られたし、色々経験出来たし・・・私、そろそろ行くね」

「行くって、どういうことだよっ! 」

 彼女は答えなかった。優しく微笑むその眼から、涙が零れ落ちる。

 爽は察した。それが、どういう事なのか。

「戻って来いっ! 絶対に戻って来いっ! いいな、約束だぞっ! 」

 爽は美津帆を抱きしめた。そして、がむしゃらに唇を重ねる。

 ムードもへったくれも無かった。

 荒々しくも一直線な爽の愛情表現だった。

 爽の腕の中で、美津帆は静かに消えて行った。彼の腕に、仄かなぬくもりを残したまま。


 


 



 

 





 

 

 


 

 

 


 


 


 


 


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