第15話 そして回帰へ。

「着いたぞ」

 抑揚の無い小夜の声に、爽は我に返った。

 果てしなく広がる白い石畳の広場。その向こうに聳え立つ白い石を組み上げて創り上げられた巨大な宮殿。ギリシアの歴史的建造物を模した外観の建造物だった。

 静かだった。巨大な建造物に人影は無く、物音ひとつしない。営業前の住宅展示場ですら、何かしらの人の温かみの様なイメージが感じられるものだが、ここにはそう言った疑似的な生活感ですら、全く、演出されていない。

 生の存在感が皆無の空間。まるで完成即廃墟と化したかのような、無機質で味気無い雰囲気だけが漂っている。

 だが、そんな不自然さ満載の奇異な風景よりも、爽と美津帆の関心は全く別の方向に注がれていた。

 二人は無言のまま、小夜を見つめていた。

 現実界の小夜が身近にいると分かった二人が、彼女に直接話を聞こうとした刹那の異界再来訪。

 今、小夜は眼の前にいる。勿論、この異界での姿で。

 色々と小夜には聞いてみたい事がある。にもかかわらず、二人は話を切り出せずにいた。

 気持ちの準備は出来ていた――はずだった。だが、異界の小夜の姿を目の当たりにした瞬間、極度の緊張が二人を拘束し、声帯を凍てつかせていた。

 聡明な輝きを秘めた瞳。一文字に結んだ薄い唇。これから迎えることになろうファイナルを見据えているのか。それとも、更にその先の運命を垣間見ているのか。安易に声を掛けるのを憚るような静かな闘気と研ぎ澄まされた緊張を全身から解き放っていた。

「私の事、気付いたようね」

 一声を発したのは小夜からだった。

「二人とも、この世界の住民ではないのは分かっている。時々、元の世界に戻っていることも」

 小夜は淡々とした口調で、静かに語った。

「小夜・・・さん」

 爽は表情を歪めながら、かろうじて台詞を絞り出す。

 苦しかった。言葉の一つ一つが、鋭利な刃を無数に埋め込まれた肉塊の様に、喉を切り裂きながら、躊躇う様に伝播していく。

「二人が知り得た事は全て真実よ」

 小夜は落ち着き払った声で平然と答えた。

「壁を跳び越えてここに来るまでの間に、あなた達の魂の様子が見て取れた」

 小夜の声に、不快を示す感情の起伏は現れてはいなかった。内心、爽は慌てていた。現実界では当の本人がいない事をいい事に、彼女の過去に深々と探りを入れていたのだ。

 自分の過去を探られて平気な人ってそうそういないと思う。絶対人には言いたくない、封印したま来世に持ち越してしまいたい記憶が、全くの見ず知らずの者に垣間見られたとしたら、不愉快極まりないのが当然だろう。それが例え顔見知りであっても同じ事だ。

「ごめんなさい・・・」

 美津帆は目を潤ませながら小夜に謝罪した。彼女に順じて爽も慌てて小夜に頭を下げた。

「気にしないで。いずれ二人は知るはずの事だと思っていだから。私の方こそ二人の魂を勝手に覗いてしまった。ごめんなさい」

 小夜は笑みを浮かべていた。

「小夜さん」

「小夜でいいよ」

 まるで告ろうとしているかのような思いつめた爽の表情に、小夜は苦笑を浮かべた。

 爽はほっとした。不思議なもので、最初は近寄り難いオーラの様なものに包まれていた小夜が、今の一言で急速に身近な存在に感じられた。

 目に見えない壁が砕け散った――様な気がした。

「小夜は何故、不思議な力が使えるの? 」

 爽の問い替えに、小夜は優しく目を細めた。

「うーん、そうねえ・・・目的があるから、異界が私に力を貸してくれているんだと思う」

「目的? 」

「そう。私は昔の記憶に囚われ続けている瀬里沢賢人を目覚めさせること。その思いが、私に力を覚醒させてくれる。爽が哺乳瓶のお化けを蹴り倒したり、妖牛を雷で焼き尽くしたりしたでしょ? あれと同じよ。私達を助けたいと爽が思う信念に、異界が答えたのよ」

 小夜はそう言うと、眼の前の宮殿をじっと見据えた。

「瀬里沢の、昔の記憶? 」

 美津帆が首を傾げる。

「うん。彼が恐らく人生の中で最も充実していた頃の記憶」

 彼が人生で最も充実していた頃――そうか、学校では彼を敬い慕う取り巻きに囲まれ、父親の事業も順調で、全てが潤っていた――高二の時。

 彼の時間は、あの時で止まってしまっているのか。

 ということは、この世界は彼の願望が実体化したものと言う事か。

 目的があれば、それを実現しようとしている強い信念があれば、具象化してくれる世界――それが、この異界なのだ。用意された素材を脚色するのは、そこに住む人々の思い。本来は何もない混沌とした時空に、希望や信念、あるいは欲望や野望を凝縮した鉾で、攪拌して創り上げた理想郷なのだ。

「じゃあ、小夜が倒した取り巻き達は、瀬里沢の記憶が生み出した虚像なのか・・・」

 爽は唸る様に呟いた。

「そう思うかもしれないけど、あれは虚像じゃない。瀬里沢の願望の強さに異界が呼応し生み出した者達。その場しのぎの傀儡ではなく、実際に存在していた異界の住民」

 小夜はあっさりと爽が打ち立てた仮説の誤りを指摘した。

「この世界は瀬里沢が創り出したの? 」

 美津帆が小夜に問い掛けた。

「そうじゃないと思う。瀬里沢はこの世界に取り込まれただけ」

 小夜の答えを聞きながら、爽は空を見上げた。厚い雲に覆われ、どんよりと曇った空は、見る者の心に重くのしかかり、隙あらば浸透し苛むように感じられた。

(意識すれば力を貸してくれる異界の法則って何なんだろう。異界そのものが、人の気持ちを汲み取り、具象化してくれるなんて・・・だとすれば、この不快な空模様は誰かの心象風景を異界が実体化しているのだろうか)

 爽は、得られた情報を、フルスピードで整理しながら考察をまとめ上げていく。

「行こう」

 小夜が歩き出す。石畳を闊歩する足跡が、地表すれすれを低く響き渡る。

 美津帆と爽も慌てて彼女のあとを追う。

 誰もいない。近衛兵1人存在しないなんて・・・それだけここのセキュリティーは完璧だなと言う事か。

 兵士に頼る必要は無いのだ。自分の思考に異界が共鳴すれば、幾らでもトラップを仕掛ける事が出来るのだから。

 ただ、瀬里沢が攻撃を仕掛けて来るかどうかは疑問だった。小夜も爽達も、彼の命を狙っているわけではない。取り巻き達が彼らの行く手を阻もうとしたのは、瀬里沢が昔の記憶に依存しなくなったら自分達の存在が危うくなるからだ。

 でも、そう考えると古い記憶に浸る瀬里沢にとって、そこから引きずり戻そうとしている小夜は脅威の存在なのかもしれない。

 瀬里沢がどんな行動に出るか。

 それは全く見当のつかない賭けの様なものだった。

 その答えを求めるには、あえて進撃するしかない。

「小夜さんは何故、そこまで瀬里沢に関わるの? 」

 爽は小夜に尋ねた。自分の子供じゃないのに――爽は、台詞の後に続くはずだったその言葉を慌てて嚥下した。

「あの子、父親が亡くなったのは自分のせいだと思っているから」

「えっ! 」

 小夜の答えに、爽は驚きの声を上げた。

 意味が分からない。

「それって・・・」

 美津帆が小夜に問い掛けた刹那、彼女は険しい表情で前方を見据えた。

「気をつけて! 何か来る」

 小夜は剣を抜いた。

 爽達も慌てて前方を凝視する。

「何、あれ? 」

 美津帆が震える声で呟く。

 宮殿まで続く白亜の石畳。その先に、無数に並ぶ石柱が、宮殿への入り口に暗い影を落としている。

 その脊柱の前に、黒々と渦巻く無数の影があった。十、二十じゃきかない。見た感じでは、恐らく百以上はあるだろう。

 影は厚みを帯びると、次々に人の形を成し始めた。

 人形を模した影に色彩が生じる。

 白い長袖のカッターシャツ、黒いスラックス、物憂げに顔にかかる前髪、血の気の失せた薄い唇、白い肌――瀬里沢だ。それも無数の瀬里沢が、じっと佇んで爽達を見つめていた。

 彼らは右手に両刃の長剣を携えていた。刃はぞっとするような冷気を孕み、無機質な銀光を放ったいる。

「ありえねえ・・・」

 爽は呟いた。驚愕に震える呼気が不穏な旋律を奏でる。

「これって、瀬里沢が私達に向けた答えなの? 」

 美津帆の声が震えている。

「違う。これは瀬里沢の意志じゃない。私が彼に接触するのを最も嫌っている人物の仕業よ」

 小夜はゆっくりと剣を構えた。

「それって、まさか? 」

 爽が小夜につめ寄る。

「香純よ。奴らは香純が生み出した傀儡」

「香純に、そんな力があったのか・・・」

 小夜の言葉に、爽が驚きの声を上げる。

「あなた達が体育館で最初に見た瀬里沢も、あの時に彼をさらっていった巨大な手も、みんな香純が創り上げた傀儡よ」

「そんな・・・」

 小夜の言葉に爽は動揺を隠せなかった。

 香純の意図が分からなかった。

 香純は何故そんな手の込んだ演出をしたのか。

 小夜と対決するための味方が欲しかったのだろうか。まるで小夜が瀬里沢を奪ったかの様に見せかけて、爽達の同情をひこうかと思ったのか。

 でも、これだけの傀儡を操る力があるのなら、爽達の協力などなくても十分の様に思えるのだが。

「心配するな。奴らは私が始末する」

 小夜はそう言い残し、剣を振りかざしながら身を翻すと、瀬里沢の傀儡軍団に身を投じた。

 小夜は雄叫びを上げながら次々に瀬里沢達を切り倒していく。小夜の刃を受けた瀬里沢の傀儡は一瞬にして黒い灰と化し、地面に崩れ落ちた。

 だが、多勢に無勢だ。小夜の剣技を逃れた瀬里沢の傀儡達が、無防備な爽と美津帆にターゲットを変えると、一斉に襲いかかる。

「香純、やめろっ! その二人は関係ないっ! 」

 小夜が叫ぶ。だが瀬里沢の傀儡達は彼女の声を無視し、剣先を爽達に向けた。

 爽は美津帆を庇う様に彼女の前に立ちはだかると、かっと眼を見開いた。

 不思議と恐怖心は無かった。恐怖心以上に、爽の意識は猛狂う感情の炎に支配されていた。

 怒りだった。

 余りにも意味不明な香純の行動に、押さえきれない憤りを感じていた。

 瀬里沢の母親であることを隠して爽達に近付き、小夜の証言が本当ならば、偽りを語って彼らを自分に都合の良い方向へと導こうとしたのだ。

 瀬里沢達の剣先が迫る。

 刹那、香純の余りにも理不尽な行動への激高の波動が、彼の中で膨れ上がる感情のトリガーを引いた。

 白い閃光が爽の視界を埋め尽くす。

 爽の身体が、白い光に包まれていた。

 白い光は彼と美津帆を包み込み、迫り来る瀬里沢達を拒絶していた。

 予期せぬ事態に戸惑ったのか、瀬里沢達は動きを止めた。

 同時に、爽達を包み込む白い光から無数の稲妻が迸る。

 稲妻は瀬里沢の傀儡達を次々に貫いていく。

 稲妻に射抜かれた傀儡達は瞬時のうちに黒塵化し、石畳の白い路面に降り注いだ。

 更に稲妻は小刻みに軌跡を描きながら、小夜の両脇と股間をすり抜け、対峙する傀儡を一気に一掃する。

 ほんの一瞬き、だった。

 ほんの一瞬きで、瀬里沢の傀儡達は全て黒塵と化していた。

「凄いな」

 小夜は驚きの声を漏らすと、剣を鞘に納めた。

「爽、凄いじゃない! 」

 美津帆が満面に笑みを浮かべながら爽に抱きついた。

「え、あ、あああ」

 爽は困惑顔で曖昧な返事を返した。

「今のどうやってやったの? 電撃か何かイメージしたの? 」

 美津帆が興味深げに爽を見つめた。

「それがさあ、自分でもよくわかんねーの」

「え? 」

 爽のとぼけた回答に、美津帆がきょとんとした表情で首を傾げた。

「ただ香純に無性に腹が立って、気が付けば稲妻が体から迸ってたんだよな」

 爽には実感が無かった。ありったけの怒りを込めて傀儡を一瞥したものの、白い光を生み出したのも、無数の稲妻を放出したのも、彼自身は全く自覚していない。

 感情が意識を裏打ちして「我」の叫びを吐き出しただけなのだ。

「最初はそういうものよ。慣れればコントロール出来るようになるから」

 小夜が苦笑を浮かべた。

「いいなあ。私も何か必殺技使えないかな」

 美津帆が羨ましそうに呟く。普通に破壊力のある蹴りや拳を使う空手家の彼女が、更に超人的な力を得たとしたら・・・もはや誰にも止められない最強の攻撃力を誇る闘将と言うか魔人と言うか、神的な存在にメタモルフォーゼするに違いない。

 美津帆が味方で良かった――と、しみじみ思う爽だった。

「気をつけて。香純はたぶんまた仕掛けて来ると思うから」

 小夜は、猛禽類の様な鋭い目つきで、周囲を見渡しながら慎重に歩みを進める。

 先程まで行く手を埋め尽くしていた瀬里沢の傀儡は、痕跡一つ残さず彼らの前から消滅していた。

 静かだった。ほんのつい先程、目の前で繰り広げられた攻防戦が、まるで幻覚ではなかったかと思える程、辺りは静寂の顎に吞み込まれていた。

 だが油断は出来ない。小夜の言う通り、香純が何かしら策を打ってくるかもしれないのだ。

 でも、本当にそうなのだろうか。

 小夜は、さっきの傀儡師団の出現を香純の仕業だと言ったが、それも推測でしかない。関係者をふるいにかけてみると、確かに残るのは香純。それと瀬里沢本人。

 考え方によっては、瀬里沢自身が俺達を拒絶しているのかもしれないのだ。彼にとって安住の空間を土足で踏みにじり、更にはそこから引っ張りだそうとしているのだから。

 いやそうじゃない。引っ張り出そうとしているのは小夜だけで、爽と美津帆は、ただ話をしたいだけなのだ。

 この異界での彼の存在そのものについて。

 もし彼が、小夜の言った通りこの異界のクリエイターではないのならば、話はそれほど広がらないかも知れない。

 だがそれは、結局のところ瀬里沢本人でしか分かり得ないことなのだ。

 瀬里沢に会って話がしたい――小夜と行動を共にすることになった理由の九割九分はそれだった。

 爽自身はこの異界のクリエイターが誰であっても、どうでもよい話だった。

 ただ不思議なのは、この異界でのストーリーが全て瀬里沢中心に進んでいるという事だ。

 彼がクリエイターでないのなら、何故彼中心に時間が進んでいるのか。

 そこまでに彼の意志が強烈で、この異界の構成分子を次々に喰らい続け、今に至っているのか。

 あくまでもそれは爽の推察に過ぎない。

 それが事実なら、彼をそこまで追い込んだ要因は何なのだろう。小夜が言っていた彼の父親の死に関してなのか。

 瀬里沢の父親は自ら命を絶っている。それは会社の業績不振が原因とされてはいる。確かに、経営状態は悪化の道をたどっていたが、再起不能にまで陥ったのは彼の父親が亡くなった後の話だった。

 彼が自責の念に責められるのは、どこかしっくりこなかった。

 その点も当の本人に尋ねるしか方法はない。

 爽は空を見上げた。空は相変わらずどんよりと厚い雲で覆われ、地上の景色をモノトーンに染め上げている。

 不意に、爽は視界に違和感を覚えた。空に浮かぶ雲と自分達のいる地上との中間地点で、妙なものが突如として現れたのだ。

 白い塊。

 それはゆっくりと形を変えながら爽達に近付いて来る。

 手だ。巨大な手。それも見たことがあるような。

 体育館で瀬里沢を攫った小夜の手の巨大オブジェだ。

「一度使った傀儡の使いまわしとわね。香純、もうネタ切れなの? 」

 小夜は無表情で香純を愚弄すると、鞘から剣を抜いた。

 迫り来る巨大オブジェに、小夜は顔色一つ変えずに果敢に切り込んでいく。

 勝負は一瞬のうちについた。小夜が刀を鞘に戻すと、巨大な白い手のオブジェは音を立てて崩れ落ちた。 

「行きましょ」

 路面に散在した傀儡の成れの果てを一瞥する。

 刹那、小夜の表情が凍り付いた。かっと見開いた両眼が、小刻みに震えている。感情をほとんど顔に出さない彼女が、明らかに動揺しているのが見て取れた。

 小夜だけじゃない。

 美津帆と爽も同様に、驚愕に顔を歪めたままの状態でフリーズしている。まるで異形の妖に魅入られ、抜魂されたかの様な表情だ。

 彼らが目の当たりにしているのは決して妖の類ではない。

 赤ん坊だった。小夜の攻撃で粉砕した巨大オブジェの破片が、次々におむつを付けた赤ん坊に変貌を遂げていく。

 赤ん坊はにこにこと笑みを浮かべ、懸命にハイハイをしながら小夜に向かって近付いて来る。

「赤・・・ちゃん」

 小夜は立ち竦んだまま、か細い声で小さく呟いた。剣の柄を掴み右手の指が、ゆっくりと緊張を解いていく。

 剣は拘束を失い、石畳に接触すると無機質な金属音を奏でた。

 小夜の身に起きた異変は、誰の眼から見ても明らかだった。この世界の虜となった瀬里沢を覚醒させるという目的を果たすために、頑なに守り通してきた強靭な意志が、まるで基礎を失った塔の様にぐらぐらと揺らいでいた。

 小夜の身体から、闘気が消えた。小刻みに打ち震える彼女の姿に、先程までの勇猛な装いは想像もつかない程に変貌を遂げていた。

 赤ん坊は甘えるような声を出しながら小夜の身体に次々としがみ付いた。

 小夜は腰をかがめると、赤ん坊達を両手でぎゅっと抱きしめた。

 小夜の眼から大粒の涙がこぼれる。それは決して悲壮感に苛まれたのではない。その証拠に、彼女の顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。

 小夜は全てを理解していた。

 これは香純の策略だということを。不妊症に悩み、子供が欲しかった小夜の心の隙間を利用した香純の仕掛けたトラップなのだ。

 赤ん坊から、優しいミルクの匂いがした。

 この子達は傀儡なのだ。自分がこの子達に魅了されている隙に、香純は必ず仕掛けて来る――焦燥と苦悶と苛立ちが小夜の思考を鷲掴みにする。

 不意に、乾いた風切り音が響く

 矢だ。

 猛スピードで空に刻む奇跡の先には、しゃがんで赤ん坊を抱く小夜の額があった。

 現実は非常で、無機質な後悔に満ちている。

 小夜は、一瞬き後には自分を貫く鏃を身じろぎもせずに見つめていた。四肢と体に群がる様にしがみついている赤ん坊が、彼女から逃避する術を剥奪していた。

 このまま消えてしまうのも、幸せなのかもしれない。夢にまでみたこの柔らかくて温かい感触に包まれて消えるのだから。

 例え、憎悪を抱き続けた相手が創り出した傀儡であっても。

 だが。

 矢は彼女の額を射貫くことは無かった。

 地面にしゃがみこんだまま動けない小夜の前に立ちはだかる人影があった。

 美津帆だった。両手を広げ、小夜を庇う様に立っている。

 美津帆の身体が、ぐらりと揺れた。彼女の胸には矢が深々と刺さり、白いブラウスを赤く染めていた。

「美津帆っ! 」

 爽は慌てて美津帆に駆け寄ると、崩れかけた彼女の身体を抱え込むように支えた。

「何無茶してんだっ! 」

 爽は顔を真っ赤にしながら美津帆を叱咤した。

「ちょっと、格好つけたくて・・・」

 美津帆は荒い呼気に唇を震わせながら、仄かな笑みを浮かべた。

 無機質な風切り音。

 爽は宮殿に背を向けたまま、無造作に右手を伸ばした。

 彼の手の中に、一本の矢が囚われていた。

 矢は彼の手の中で紅蓮の炎を上げて燃え上がると、一瞬にして黒い燃え殻と化した。

 爽の手から、燃え尽きた矢の成れの果てが零れ落ちる。

 爽は、そっと美津帆を路面に横たえると、傍らに転がっていた小夜の剣を手に取った。彼は剣を振りかざすと、大きく空を薙いだ。軽い金属音と共に、三本目の矢が真っ二つに避けて地に落ちる。

 爽には見えていた。

 瞬時に空を駆る矢の軌跡が。そして、黒い影を落とす宮殿入り口の闇から矢を番う香純の姿が。

 爽は路面を強く蹴った。

疾風を巻きながら、爽は路面を滑る様に駆ける。

 許せなかった。

 この異界で出会い、最初は仲間だと思っていた。

 彼女の過去を垣間見、どろどろとした情念の渦巻く禁忌の匂いに好奇心をかりたてられたものの、部外者の爽には踏み込めない禁足地の様なその存在に、一歩踏み出す勇気と決断が出来ずにいた。

 だが、今は違う。

 敵なのだ。

 自分達に危害を加えようとしているのだ。。

 香純は怯えた表情で爽を見つめる。その表情とは裏腹に、彼女の指は迷うことなく弓に矢をを掛け、近付きつつある戦慄を断とうと弦を思いっきり引いた。

 誰にも邪魔はさせない。

 香純の瞳の奥で蠢く情念の焔が、無言の言霊を紡いでいた。

 香純の指が、弦の緊張を解いた。

 放たれる矢。

 空を裂く風切り音とともに、矢は標的目掛けて真っ直ぐ軌跡を刻む。

 憤怒に満ちた闘気を纏い、近付いて来る爽目掛けて。

 爽は剣を掲げると大きく振り下ろす。

 乾いた金属音と共に、矢は真っ二つに割れると黒塵と化して中空に舞う。

 爽の剣撃はそれだけに留まらない。

 剣の軌跡が波動となって時空を大きく両断した。

 石畳の床面に切れ目が生じ、宮殿が中央部から大きく縦に裂ける。

 宮殿はまるでドミノ倒しの様に中央部から両サイドへと一気に崩落した。

 香純はどうなったのか。

 そして、恐らく宮殿の奥にいるはずの瀬里沢は無事なのか。

 爽は肩で大きく息を吐いた。

 震えが止まらなかった。

 彼は今までこんなに怒りを露にした事がなかった。

 自分は温厚だと思っていた。

 いくら腹が立っても、人や物に当たったりはしたことが無かった。多少不愉快な思いをしても、感情を荒立てることなく、さり気なくスルーさせていた。

 自分には怒りを昇華させる力がある――そう思っていた。

 だが、実際には、様々な怒りや不条理に満ちた受け入れられない要因が積み重なり、深層心理に厚く堆積していたのかもしれない。

 美津帆を撃った香純への怒りは、単純な感情の爆発ではなかった。

 自分自身に潜む闇の不純物を一気に吐き出したかのような感覚だった。ありとあらゆる怒りと不満が混沌する封印された心の扉を、香純は解放してしまったのだ。その結果、彼女を戦慄のどん底に突き落とすような激高となって、爽の感情を爆発させたのだ。

 爽は我に返ると慌てて振り返り、美津帆を見つめた。

 美津帆は上半身を起こして爽を見つめていた。胸を射貫いた矢は消え失せ、赤く染まったブラウスも元の純白を取り戻していた。

「美津帆っ! 」

 爽は美津帆に駆け寄ると傍らに跪いた。

「大丈夫か? 」

 爽が心配そうに美津帆を見つめた。

「うん、大丈夫。痛みもないし、出血したはずなんだけど、血の出た後も消えちゃったし。傷も無いみたい、ほら」

 美津帆はブラウスのボタンをいくつか外すと、胸元をはだけさせた。

 傷一つ無い白い肌が、爽の目に飛び込んで来る。

「良かった・・・」

 爽は安どの吐息をついた。

「たぶん、爽の放った一撃で香純の弓が壊れたんだと思う。あれは彼女の思いが現実化した呪物だから、呪力を失ったんだ・・・でも凄いな、この破壊力は」

 小夜は静かに語ると、一瞬にして廃墟と化した宮殿を見つめた。

「ひょっとして、香純はもう・・・」

 爽が悲し気な目線を宮殿の残骸に向けた。香純が身を隠して矢を射かけていた付近を見ても、崩れ落ちた柱の残骸が横たわるだけで、彼女らしい姿は見えなかった。

 耐え難い罪悪感を爽は感じ取っていた。

 今まで彼自身が取り巻き達に反撃したり、小夜が奴らを剣で切り倒したりしても感じなかった寂寥と苦悩が、爽の意識を鷲掴みにしていた。

 一時的とは言え、行動を共にしていたからか。それとも、瀬里沢の母親だからなのだろうか。

 爽は複雑な気持ちを呑み込んだまま、廃墟を見つめた。

「香純は消えてはいない。瀬里沢賢人もね」

 小夜は爽に微笑みかけた。

 優しさに満ちた、温かい笑みだった。爽の心情を読み取り、さり気なく添えた彼女の一言に、彼は肩が軽くなるのを覚えた。

「剣、貰っていいかな」

「あ、ごめん」

 爽は慌てて小夜に剣を渡した。

「これ見て」

 小夜の声に爽は彼女の手元を見た。

「えっ・・・」

 爽の喉から驚きの声がこぼれる。

 刃が、白銀色の光沢を放っていた。闇を凝縮させたかの様な漆黒の刃が、透明感のある光沢を放つ刃に変貌を遂げていた。

「爽の一撃が禊になったんだと思う」

「禊? 」

 小夜の言葉に美津帆が首を傾げた。

「ええ。この剣はね、私が抱いていた怒りや恨みを込めて具象化した呪具なの。剣のの呪力が爽の荒ぶる怒りの感情とシンクロして、一気に迸ったのね」

 小夜は剣を鞘に納めた。

「行きましょうか。この物語に決着をつけるために」

 小夜の言葉に、美津帆と爽は無言のまま頷いた。

 

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