鹿と少女。
七条ミル
鹿と少女。
吾輩は鹿である。当然鹿であるから、吾輩に名前は無い。
吾輩などと偉そうな一人称を使ってみたものの、吾輩は吾輩などと云うような器などでもなく、ただそのあたりの山の中を細々と暮らすただの鹿である。
人間と関わると云うと、偶に山の麓に降りたときに、名も知れぬ少女と会う程度だ。勿論、吾輩は鹿であり、その少女と意思疎通を取ることは不可能である。そう、吾輩は鹿であるのだから。
或る日のことである。吾輩は草を食みながら山を下っていた。なんとなくあの少女の姿を目に収めたいと思ったのである。それ以外の理由などない。鹿は、須らく自由であるべきである。――草を食みたければ草を食み、水を飲みたければ水を飲めばよい。だから、少女に会いたければ少女に会いに行けばよいのだ。
夏を目前とする――尤も、夏という概念は人間の作り出したものであるが――この季節は春に咲く花々の落花で足元が滑りやすくなる。特に桜など散ろうものならば、この吾輩でさえも滑ることもある。
まあ、秋になれば蹄に落ち葉が挟まって滑るし、夏は暑いがために眩暈で滑落し、冬は雪が蹄に詰まって滑る。
要するに、吾輩は年中滑っているのだ。――決して、寒い洒落ばかりを考えているわけでは無い。
少女が住むのは、山を下りてすぐの民家である。どうも、山に登ってくるような人間とは違い、和服を好んで着るようである。鹿である吾輩にも、よく語り掛けてくれるのだから、凡そ悪い人間では無いのだろうと、吾輩は勝手に思っている。
古い民家で、吾輩が小さな頃に山から滑り落ちてここまで来た際には、既に立派に建っていたと思う。もしかすると、今とは違う建物だったのやもしれぬが、兎角ここには既に建物が存在していた。その頃の少女は、今とは違って随分と小さかった。勿論吾輩も小さかったわけであるが、それはどうでもよいことである。
民家の山に面した部分には、柵なども設けられては居ない。歩いて進めば勝手に敷地内に入ることが出来るから、もしかすると人間の約束事では、吾輩の住む山は此の家に住む人間の所有物となっているのやもしれぬ。――吾輩は鹿であるので、勿論そんな人間の約束事など知ったことではない。
少女はいつもの如く、民家の縁側に一人座りこけていた。吾輩が山を下りると、大抵いつも縁側に座って遠くを見ているのだ。何をしている人間なのかは知らぬが、恐らく学生とか云うものなのだろうと思う。見た目は十代中頃といったところである。
吾輩が間の抜けた顔で庭に入っていくと、少女はこちらを向いて、また来たのか、と云った。どうやら吾輩を個体として認識することが出来るらしい。
また来たのか、と云われたところで、吾輩が少女に対して言葉を伝えることはインポッシブルなわけであって、吾輩はどうこの感情を伝えたものかと毎度首を捻ることしかできない。
ところが人間というのは面倒な生き物で、吾輩が首を捻ると、それはそれで今度は、人の言葉など分からぬよなあ、などとぬかすのである。吾輩は、そういうことを思っているわけではないのだから、やはり意思疎通というのは難しいものである。
そもそも、鹿同士でさえ確りと意思疎通の出来ぬことさえあると云うのに、人間と意思疎通を図ろうなどと云うのは、土台無理な話である。
お前は自由でいいね、と少女は云う。山を登る人間の言葉と少女の言葉は、どこか違う空気を感じる。
吾輩は少女のことを知らぬ。当然、少女も吾輩のことなど知らぬのだろうが。
少女は靴を履き立ち上がると、白いワンピースとやらをひらひらとさせながら吾輩の近くまで来た。君にあげられる食べ物は無いよ、と少女は云う。吾輩は、決して食料をたかりに来たわけではないのだが、そんなことを思う吾輩の気持ちは少女には伝わらぬ。
少女の細い手が吾輩に触れる。少女は線が細い。あまり食事をとっていないのか、生来太らぬ質なのか、吾輩にはよくわからぬが、しかし少女が吾輩を振れる手はいつでも細いのである。
初めてこの少女にあったときから、少女は吾輩を恐れるような素振りを見せない。吾輩は所謂野生の動物と云う奴であるから、当然吾輩が気を違えてこの少女に襲い掛かることだってあり得るわけである。何とも、不用心である。もしかすると、吾輩が凶暴な野生動物であることを理解していないのかもしれない。――だからと云って少女を襲撃しようなどと思うことは無いわけであるが。
そういえば、人間は成人をするまで両親と暮らすものなのだと、少女が前に云っていたが、その両親と少女が一緒に居るところを、吾輩は見たことが無い。仲が悪いのか、或いは最初から両親が居ないのか。人間にしてみれば、それは大層プライヴェートなことであるらしいし、吾輩は鹿であるから少女にそのことを問うことは出来ない。
少女は、暫く吾輩の身体に触れたのち、少し待ってと云って家の中に入っていった。少女は毎度、あげられるものは無いなどと言いながら、林檎なんかを持ってくる。今日も、いつもと同じように、赤い少し小振りな林檎を持ってきた。
こんなもんしかあげられないよ、と云って少女は林檎を吾輩の口元へ近づける。貰わぬ理由も無いので吾輩は少しばかりの感謝の気持ちを心に浮かべながら林檎を丸まる一つ口に入れた。
少女は、林檎を咀嚼する吾輩を見て、満足そうな顔をした。吾輩も、ついつい微笑んでしまう。微笑んでしまうと云っても、吾輩の微笑みは心の微笑みである。
少女の白いワンピースは、相変わらず風を受けてひらひらと動く。吾輩は鹿であるから人間の様にわざわざ服を着替えたりするようなことは無い。けれど、あのひらひらと動く裾は面白いものだと思っていつも見ている。鹿は、毛皮の裾がひらひらと揺れたりはしない。
林檎を丁度飲み込んだ頃、少女はぽつりとため息を吐いた。悩みがあるのならば、相談に乗りたいところではあるが、吾輩は鹿であって、鹿は人間の相談に乗るものではない。吾輩に出来るのは、この少女の独白を聞く程度のことである。
そう思い、吾輩は腰を下ろした。要は、他所の庭で寝そべったのである。道理ではない。いや、そもそも鹿に道理などあってたまるものか、と吾輩は思っている。
少女は邪魔そうに、髪を耳に掛けた。前に山に登っていた人間の男が、その動作が好きだなどと云っていたが、成程綺麗な動作であるとは吾輩も思う。
ねぇ鹿、と少女は吾輩に話しかける。吾輩は当然返事など出来ない。
鹿は、私の友達だよね、と云う。友達か否か、というのは、吾輩にとって判断できるものでは無いのだが、少女がそうだと云うならば、吾輩は少女の友達ということになるのだろうと思う。
吾輩が少女を見ると、少女は少し憂えた目をして、微笑んだ。
独りなんだよ、と少女が云う。吾輩とて、独りで生きている。それは、鹿であるからなのかであろう。吾輩が、鹿である様に、少女は人間である。鹿には鹿の、人間には人間の道理があるのは、至極当然のことである。
人間という生き物は、面倒なものだと思う。
少女が縁側に座り、吾輩がその近くの地面に座るなどしていたら、いつの間にやら雨が降り出していた。遠くの方では雷もなっているようである。吾輩としては、雨が降っているときに下手に動きたいとは思わぬ。しかし、あまりこの民家に長居するというのは、それはそれでリスキーなものである。吾輩は人間ではない。人間は、人間以外の動物が民家に居るのを見ると、すぐに警察とやらに通報し、捕まえ、そして殺そうとする。
成程それでこそ頂点に君臨する生物である。鹿である吾輩から見れば、ただ迷惑なだけなのだが。
雨は次第に強くなっていった。これでは下手に吾輩も動かぬ方が好い。ただでさえ吾輩は常日頃から滑っているのだ。荒れた天気で斜面を登ろうものならばすぐに滑り落ちて死んでしまうやもしれぬ。
吾輩はこのところ思うのだ。吾輩は鹿には向かぬ。所謂運動神経という奴が欠如しているのである。
吾輩は考えるのを止めた。どうせ何をしても生きていけるときは生きていけるし、死ぬときは死ぬのだ。吾輩には、未練などというものも無い。
鹿、と少女がか弱い声を出す。
――今は、そこに居て。
人間というのは、縋るものが必要なのであろう。吾輩は、只の鹿である。遠くでなる雷を何とかすることも出来ぬ。この冷たい雨を止ますことも出来ぬ。まして一人の人間を支えることなど、到底出来ぬ。
吾輩は鹿である。
しかしながら、吾輩がこの少女に世話になっているのも、又事実である。
雨は水を被ったことを思い出すから厭なのだと、少女は云った。目には少しだけ、涙が浮かんでいた。
吾輩には、少女の傷を癒すことが出来ぬ。
それでも、吾輩が居ることで、少しでも助けになるのならば。
吾輩がこの少女と共に少しの時間を過ごすことも、また鹿としての役目なのかもしれぬ。鹿とは何たるか、吾輩にはとうとう分からなくなってきてしまった。
ただ一つ、解ることがある。それは吾輩が鹿であり、この少女が人間であるということである。それだけは、万古不変の、絶対の理である。
鹿と少女。 七条ミル @Shichijo_Miru
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