ままごと。時の、

森宇 悠

ままごと。時の、

 白崎くんの冷たい指が私の二の腕に触れたかと思うと、もう夏だった。


「……暑いね」


 私の声に眠そうに頷く白崎くん。私は微笑む。

 むわっとした熱気。蝉の声。波の音。目が痛くなるほどの日差し。

 私たちは海岸沿いのベンチで寄り添っている。触れ合うお互いのシャツに汗が滲む。照れくさくて笑うと白崎くんも笑う。彼のそんな顔を久しぶりに見た。

 少し先の浜辺に人ごみがぼんやりと見えた。彼の瞳がそちらへ動く。瑞々しい瞳。


「浜の端の方にみんないるみたい」


 白崎くんは頷くがまだ動きは鈍い。


「楽しそう、ね」


 また静かに頷く。

 私は少し心配をしながら彼に手を伸ばす。彼が私の手を取る。


「行こう」

「……うん、行こう」


 彼の声が聞こえることが嬉しい。

 私たちは歩き出す。

 景色や記憶について、ぽつりぽつり少しずつ話をしながら浜辺を歩く。

 この軽い体よりも、砂浜の感触よりも、彼の笑みと歩く姿、彼との会話の方が何倍も嬉しかった。私はずっとこんな風に彼と過ごせる日を夢見ていた。


「わお、白崎くん、来られたのお!」


 出迎えてくれたのは制服姿の屋都さんだった。

 浜辺の外れには大きなビーチパラソルがいくつも立っていて、クラスメイトが総出でバーベキューの準備を進めている。


「感激だよう! それにマコも! 久しぶりぃ!」


 屋都さんは私たち二人にハグをして大げさに喜ぶ。私も白崎くんも戸惑って顔を見合わせる。


「屋都さん……なんで制服なの」

「そうだよオメー、わざわざ制服引っ張り出して来る事ねえだろ」


 堤くんが炭を持って屋都さんの背後から顔を出す。そう言う彼も学校指定のジャージ姿、お馴染みの格好だ。

 屋都さんはスカートの裾を持ち、その場でくるりと回ってみせた。


「だって高校のみんなで集まるっていうし、ね、結局通信授業ばっかでそんなに着られなかったからさー」

「そっか、屋都さん……この年の秋に」

「そうなの転校! アメリカでしょー! 制服なんてないしさー! しかも日本よりも隔離も自粛も厳しいし!」

「ああ、そうだったっけ、濃い奴だから忘れてたわ」

「んだと、おい!」


 屋都さんが堤くんの肩を殴ると彼はちゃんと痛がってみせる。

 傍らで見ていた白崎くんが大きく笑った。私もつられて笑ったが、それよりもまず白崎くんの大声に驚いてしまって、奇妙な声になってしまった。

 白崎くんのそんな姿を見るのも久しぶりだったし、何より自分自身も久しぶりにこんなに大きな声を出した。

 しかしそれが16歳の私たちにとってはいつもの日常なのだ。そんなことを本当に久しぶりに思い出した。


 見渡してみるとすごい人数が集まっており、挨拶と感激の声はそこかしこで止まず、私と白崎君も見覚えのある顔と何度も叫び合った。その度にあちらは眩しく、くすぐったいような表情でこちらを見る。私たちもまた同じ表情をしているのだろう。まだ16歳の私たちはそんな風に一瞬だけ、何十年も会わなかったような大人の表情で挨拶を交わす。

 

 すっかり慣れた白崎くんは仲が良かったクラスメイトの間を巡り、私は堤さんと屋都さんと、いかにも育ちのいいお坊ちゃんという佇まいの高峰くんと、人ごみの歓声を遠巻きに眺めていた。


「しかしすげえ人だなー」

「ほとんど学年全員集まってるからね……夜は花火も打ち上げる予定だよ」


 高峰くんの言葉に屋都さんは大げさに飛び上がって喜んだ。


「すっごい! 高峰くんが開いてくれたんでしょ! これ!」

「いや僕は別に……正直仕事も兼ねてるし」


 すっかり大人の口ぶりは、まだ初々しい顔の高峰くんには似つかわしくない。ちょっと妙な気分になる。彼が以前はどんな風に話していたか思い出せない。

 人ごみに視線を向けながら彼はしみじみと言った。


「……白崎くん、聞いていたよりも元気そうだね」

「うん、私も驚いてる。疲労も残るから長くはいられないはずなんだけど……いつもより言葉も動きもはっきりしてる。多分この状況のおかげかも」

「それすげえわかるよ! やっぱりこういう形でみんなと会うとさあ、一瞬で思い出すっていうか、身振りも話し方もまるっきり変わるっていうか……俺、こんな話し方してるの久しぶりだぜ?」


 堤くんの言葉に私と高峰くんは笑う。意外にも屋都さんだけは笑わずに、ちょっと声を落として言った。


「私も……制服のせいもあるけど、それだけじゃなくて、結局あの騒ぎのせいでみんなとこんな風に集まるなんてできなかったし……。だからかな、本当に何もかも元に戻ったっていうか……まるで何も起きなかったみたいに……」


 言葉は次第にすすり泣きへと変わる。気遣った堤くんが近くのパラソルの下へと彼女を連れていった。

 高峰くんがぽつりと呟いた。


「……かえって悪いことしたのかな」

「なんで、そんなことないよ」

「でもこんな風に……こんなの残酷じゃないかな。もう元に戻らないことをわざわざ引きずるような……」

「違うよ」


 思ったよりも言葉は強く出た。


「これが私たちの2020年8月の、正しい姿なんだよ。あんなことが起きなければみんなこうして集まって、いつも通りに過ごしてるはずだった。私たちはみんな、あの時の8月を取り戻そうとしてるだけ。私たちのものを私たちの所に」


 高峰くんはしばらく考える素振りをしてから、時間を一歩一歩進んでいくかのようにゆっくりと確実に老けながら言った。


「僕ね、あの騒ぎがなくて、この年いつも通りに花火大会が開かれていたら、そこで屋都さんに告白しようと思ってたんだ」

「知ってるよ、噂になってたもん」

「はは……恥ずかしいな。でも花火大会どころか、ほとんど通信授業になって学校で会うことすらなくなって、彼女に告白する勇気をどうにも振り絞れないまま、気が付いたら彼女は一家で親戚の所へ移住だろ。結構引きずったなあ……数年間は……いや本当のところを言うと今も引きずってる」


 彼は自嘲気味に笑う。そこにはもう16歳の高峰くんはいない。私たちは20年の時間を経て36歳同士として話している。


「ひどい話だよ、妻も子供もちゃんと愛してるのに、それでも僕は屋都さんのことを時々考える。あの年、花火大会で告白できていればどうなったんだろうって。でもね、実際にこうして当時の姿のまんまで会って、僕がずっと引きずっていたのは屋都さんのことじゃなかったってわかった……多分、あの頃の時間そのものだったんだな。いま言われて気が付いたけど、僕もずっと、あの頃本当は過ごせただろう時間を奪われたように感じてたんだ」

「……だから今、こうやって2020年に戻ってきてるんじゃない」

「いや、でも時間は逆さまには戻らないんだ。僕たちは自分の今を生きるしかない……これは空しいタイムトラベルもどきだよ。2020年を装う、時のおままごとだ」


 私はもう高峰くんに何も言えなかった。ただ16歳の高峰くんの中の36歳の高峰くんに、憐れみと共感の視線を差し向けるしかなかった。


 会話の終わりを待ったかのように視界の端で赤いアラートが浮遊して点滅した。

白崎くんの異常を報せるアラートだ。


――白崎くん? 大丈夫?


 通信は返ってこない。少し先に見える彼の体はピクリとも動かず硬直している。


――疲れた? 休もうか?

――う……そうだ、ね。


 ノイズがかった彼の声に私は限界を感じる。思ったよりも早かった。

 いつの間にか傍らに戻ってきていた堤くんたちを振り返る。


「ごめん、白崎くんが限界。戻らなきゃ」

「……そっか、残念だな」


 屋都さんは涙を流し、私の手を掴んでくれる。私も目を潤ませる。


「また会えるから、ね」

「うん……あたし……あたし……」


 別れの言葉を送りたかったけど、アラートは更に激しくなっていた。すぐに戻るべきだった。

 私はそっと目を閉じて、2020年の8月のすべてをそこにまた置いたままにした。

 最後に見えた高峰君の表情には、先ほどの私と同じ憐れみと共感が含まれていた。


 ネット接続を切って、VR装置を外す。2020年8月の浜辺は消え去り、病院内の空気が戻って来る。二の腕には白くやせ細った老人のような白崎くんの指が触れたままだ。


「大丈夫? すぐ外すね」


 私は大きな声でそう呼びかけ、端末のスイッチを切る。ベッドの横のモニタに通信遮断の表示が出るのを待って、彼の首からプラグを抜いた。

 白崎くんの息は乱れていた。浅く軽すぎるいつもの息の感覚が、さらに軽く短くなっている。


「吸入器つけようか」


 返事はない。


「みんな懐かしかったね……久々に会えて楽しかった」


 目の前の白崎くんはわずかに視線をこちらに向けただけで言葉を発することはなかった。ヴァーチャル空間での溌剌としていた16歳の彼の記憶は上書きされ、私にとっての白崎くんは横たわったままの枯れ枝のような白崎くんに一瞬で戻る。

 処置をして、彼が落ち着くのを待ってから私は病室を出た。

 先ほどまでの軽い体の余韻がまだ残っていて、いつもより足取りは重かった。

 看護師にヘルパーレポートを提出しながら白崎くんの奥さんの来院予定を尋ねる。看護師はいつも通り首を振る。私もいつも通りに頷く。

 ロッカーで着替え、病院を後にした。


 駅までの道のりは寒い。さっきまでいたあの浜辺の熱気が嘘のようだ。

 いや、実際にあれは嘘だった。

 空しい、時のままごと……。

 高峰くんの言葉を思い出す。

 あの空間が、時を捻じ曲げたままごとに過ぎないなら、仕事という建前で白崎くんにまとわりつく今の私だって同じだ。これは空しいままごとでしかない。

 むしろ、すべてが手遅れな中でまだ何かを取り戻したいと願っている私は、高峰くんよりもずっとずっと空しい。


――まこ、と。ありが、と、う。


 ヴァーチャル空間から出る直前にノイズ混じりに聞こえた声。

 本当に聞こえたのか、それが白崎くんの声だったのかもわからない。私がそう聞きたいと思ったからそう聞こえただけかもしれない。

 だけど私は、その幻にすがり、明日もこのままごとを続けるのだろう。

 終わらない2020年の中に、私はまだいる。

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ままごと。時の、 森宇 悠 @mori_u_you

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