自業自得 2020年夏

くたきえす

第1話

無機質に延々とビートを刻む踏切に阻まれて、私は、汗にまみれた顔で後ろを振り向いた。気配は感じられない。


来ていない、いったい何だったの、あれは。


私の眼前には、黒ずんだアスファルトの道路とそれをぼうっと照らす街灯が、ただ存在していた。「ジーーー」という連続音がそこかしこの茂みから聞こえてくる。


「夏になると聞こえるこの音、蝉ではなくてクビキリギスというキリギリスの声なんだよ。」

彼が言っていたのをふと思い出した。口の周りが赤いから血吸いバッタとも呼ばれているらしい、と彼は付け足した。

血吸いって、、気持ち悪い。私はそう言った記憶がある。


そんなことを取り留めなく思い出しながら私は息を必死で整えていた。むわっとした夏の空気。発汗を余儀なくされるこの空気。私はこの空気が嫌いだ。


私は、そこまで人を傷つけて生きてきたとは思ってはいない。

否、正確にはたとえ人を傷つけてきたとしても、それ相応の理由があったと思ってきた。

彼との関係だってそうだ。私は確かに結婚しているが、彼もそれを分かった上で、私に言い寄ってきた。夫だって私のことを別に気にも留めていなかった。仕方のないことだった。私に非はないのだ。


息が苦しい、吐き気がする。こんなに真剣に走ったのはいつ以来だろう。べたっと張り付いたシャツ。口からだらしなく落ちるよだれ。


恐怖心が落ち着いていくにつれて腹立たしさが徐々に顔をもたげてきた。

デタラメだ、今日のことはすべて。絶対にそうだ。

何かの悪ふざけに違いない。5Gとかオリンピックとか何なのよ。ふざけるな。




今日は彼の家に行くことにしていた。



彼の家は、閑静な住宅街と都会の喧騒の境界線に位置するマンションだった。匿名性の高い地域、少し足を伸ばせば深夜まで開いている雰囲気の良いバーやカフェレストラン。

低所得者層に手が届かないことを認識させる独特のラグジュアリー感がそこにはあった。彼にはその場所に似合う背格好と服装と収入があった。それが私をいつも誇らしくさせた。


背徳感と雰囲気に呑まれただけの関係だったのかもしれない。いつ終わらせるか、お互い話したこともなかった。独身の彼と既婚者の私。彼にとっては気軽な相手だったかもしれないけれど、それはそれで私は構わなかった。夫は彼よりも更に収入がよかった。今の生活を壊す気は私にもなかった。



いつものように合鍵を使って部屋に入った私は、真っ暗な部屋にたじろいだ。

何故なら、駅に着いたときに「もう着く」と連絡を入れたからだ。彼からも了解の連絡はもらっていた。だから、いつもなら、彼は私好みの少しのおつまみとワインを用意して、待っているはずだった。


部屋の奥に気配を感じた。あ、居るんだ。


「どうしたのよ」

少し笑いながら私は部屋の電気を点けた。もしかしてサプライズかしら。そんな期待もあった。



明るくなった部屋の片隅に確かに彼は居た。



コンビニエンスストアなどで買い物をした後に、もらうビニール袋。通称レジ袋。

彼は、それを逆向きにした形で、頭からかぶっていた。持ち手の部分がちょうど耳にかかり耳当てのように見えた。空気が入った状態で頭の部分とレジ袋がピタッとはまっているのだろう、逆さになったレジ袋は膨らんだ状態であった。


「時が来たのよ」

彼は私の方を向いて言った。

頭にかぶったレジ袋を除いては、淡い青色のジャケットとパンツ、白いシャツ。私を満足させるには十分な装いではあった。

立ち上がって彼はいつもの笑みで近づいてきた。私はぎょっとして動けなかった。


「私、チヒロよ。覚えている?」

彼はいつもの笑顔でそう言った。

目鼻立ちのはっきりした端正な私好みの顔立ち。夫にはない清潔感。その顔は全く変わることなかった。でも、全く何を言っているのかわからない。私は口をあんぐり開けたまま硬直していた。



「ぺぴぴ!覚えちゃいないか?だよね!だよね!そうだよね!」

突然、彼が小刻みに飛び跳ねながら大声で叫んだ。


「ズッ友希望のチヒロだよ!久しぶりだよね!もう思い出してくれたよね!そう!正解。高校の時に言ってくれたもんね。2020年まで時間くれるって。もう3つのうち2つは実現したよね!ペップペップ!!」

彼なのか何なのかわからないその人物は嬉しそうに飛び跳ね、阿波踊りのような奇妙なステップを踏みながら部屋の中を回りながら叫んでいた。その際にレジ袋が頭とずれたのであろう、空気が抜けてレジ袋がひしゃげた状態になって不格好であった。

「ひとつは5Gだよ!もう世界は変わる。私がんばったよ。通信通信!それから、もうひとつはもうわかるよね!オリンピック!今年は残念だけどやることにはなったもんね!」


私はまだ固まったままであった。

チヒロ?誰なのそれは?今目の前にいるのは彼だけど、彼ではないの?

人は想定外の急激な変化に対応できない時は息が吸えないと聞いたがまさにそうであった。私は呼吸困難になった。肺が苦しい。


「ちょっとびっくりくりくりかな?!」

「私の気持ちはすでに世界に少しずつちりばめられているの!すごいでしょ!」

「私、やるときゃやるぜー!いえーい」

時折叫びながら彼らしき人物はまだ部屋を回っていた。



息苦しさに身悶えながらはっと思い出した。チヒロ。思い出した。高校生の時だ。


私の周りを衛星のようにちょろちょろと取り巻いていた不細工なクラスメートだ。

別に気にも留めていなかった。私は私を上昇させてくれる友人を望んでいて、そのカテゴリーの中にチヒロはいなかった。

チヒロは、ニキビ面で髪の毛にも全く潤いがなく、頬骨はいびつに出っ張っていた。服装は一度休みの日に見かけたことがあるが、ゴスロリファッションというのであろうか、正直気持ちが悪かった。


「覚えているかな?ぱんぱん!お互い30歳になる2020年まで待つって言ってくれたもんね!」


あれは確か卒業間近の高校3年生の時だ。チヒロが突然私たちグループを掻き分けて入ってきたことがあった。その目線は私の方をじっと見ていた。

「ねえ、高校卒業してもズッ友でいてくれるよね?」

唐突にチヒロに言われ、私たちは笑い転げた。この女は何を言っているんだろう。私たちは全員そう思ったに違いない。ズッ友って。。そもそもダサいし、お前は友達ではないし。


「は?こいつ何?」

私は嫌悪感むき出しでチヒロと対峙した。正直気味が悪かった。が、周りの友人もいる中で私は必要以上に気丈にふるまいたかった。


チヒロはひるんだ様子もなく、続けた。

「修学旅行の時必死でカバン探してくれた時に言ってくれたよね?ズッ友って。」


ああ、そうだ、修学旅行の時だ。私たちは、彼女のカバンを隠し、中身をすべて捨てた。泣きじゃくりながらカバンを探す彼女を、私たちは笑いながら眺めていたのだ。その後、空のカバンにふざけてズッ友と書いてチヒロに返したのだ。探したふりをして。


それは異物を除去しようとする仕方のない事象であったと思う。青春の残酷さを私は悪いと思わない。私たちはそういう残酷さもひとつのコミュニケーションツールとして活用することを十代のうちに覚えて、大人になっていくのだ。


そのことを卒業間近まで覚えていて今私に向かって話しかけているのか?

この女は怒っているのか?わざとバカを演じて何か言いたいのか?

私の物差しではまったく答えが出なかった。


「ええ、じゃあ、歴史に残るようなことしてくれたらズッ友でいること考えてあげてもいいかも」

私も私でふざけた感じをキープしながら言い返した。

「え?何?何?」

チヒロは目を輝かせて聞いてきた。それがさらに嫌悪感と気味悪さを増加させた。


「自分で考えてほしいけど、、そうだね、一瞬でインターネットできるみたいな世界作ってよ。あとオリンピック日本開催とか!」


でも叶えてほしい願いって普通3つじゃない?と誰かが言った。

「うるせえよ」心の中で毒づき、私はもう一つ適当に願いをチヒロに伝えた。


その後、チヒロは頷き上気した顔で去っていった覚えがある。

「だけどその願い叶えるのは時間かかるから私たちが30歳になる2020年まで待ってね」と一言残して。


なにあの女、気持ち悪いね。そう友人たちと言い合ったのも思い出した。


もう10年以上も前の話。




「あとひとつ!あとひとつ!」

ひしゃげたレジ袋を頭にかぶりながらくねくね身体をひねりながら彼が私に向かってきた。

私は声にならない声を上げて、一目散にマンションから逃げ出した。




いまだに踏み切りは無機質なビートを刻んでいた。


少しずつではあるが息が落ち着いてきた。

落ち着いて、私。

今まで大きなミスなくここまでやってきた。夫とも彼とも関係は良好だし仕事も順調だ。


今日のことはどう考えても幻覚だ。大丈夫よ。落ち着いて。

チヒロってそもそも何?

あれ以来ずっと忘れていたし私にとって何の存在価値もなかった女でしょ。


深呼吸をした。だいぶ落ち着いた。

2020年の夏は例年より少し暑いようだ。だからこんなおかしな幻覚を見るのだ。




うん?ちょっと待って。

暑いというよりも熱い。




ふと顔を上げたら真っ赤に燃え盛る塊が無数に東京の空に降ってきていた。


空襲?


隕石?


そういえば、私がふざけて言った最後の願い思い出した。


最後私がふざけて適当に言った3つ目の願いは

「地球全部滅ぼして」

だった。



青春時代のある種反抗的な攻撃性を伴った破壊的な発言を私は悪いとは思わない。

だが、さすがに今回は後悔している。

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自業自得 2020年夏 くたきえす @tsueki

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