最終章
第18話
佐一が大阪から帰ってきたのは、二週間後のことだった。その頃にはマスコミの関心はすっかり失われており、月神家の周囲は静かだった。美咲は、祖父に迷惑をかけたことをひたすら詫びた。祖父は何も言わず、美咲の頭にぽんと手を置いた。沙知代は、快適なホテル暮らしについて嬉しそうに語った。
沙知代と楽しそうに会話する祖父を見て、美咲はほっと息を吐いた。祖父の今回の対局はすべて全勝だった。マスコミに追いかけられても、勝敗にはまるで影響なかったようだ。おじいちゃんってやっぱりすごい。どんなに陰陽師がすごかろうと、神様が現れようと、美咲が本当に尊敬するのは祖父だけなのだった。
夕食後、佐一は美咲を部屋に呼んで姉妹人形を差し出した。
「これ、タマに返しておいてくれるか」
美咲は並べられた姉妹人形を見て、ため息をついた。
「やっぱり、玉森さんがおじいちゃんに渡したんだね」
「ああ。速達で送られてきたんや」
玉森は、祖父が行動することも計算づくだったというわけだろう。まったく、おじいちゃんのことまで利用するなんて。浮かない顔をしている美咲を見て、佐一が首をかしげた。
「どうした、美咲。またタマと喧嘩したんか」
「またって何よ。それに喧嘩しようにも、玉森さんはいないじゃない」
祖父はますます不思議そうな顔をして、何があったのかと尋ねた。美咲は、玉森が美咲を眠らせて本家に帰った話をした。祖父は憮然としている美咲を見て笑う。
「はは、それで機嫌が悪いんか」
「だって、ひとに眠り薬を盛るなんて信じられない」
「わしには玉森の家のことはよくわからへんけど――タマはただ、美咲を休ませたかったんちゃうかな」
「おじいちゃんは玉森さんの味方するの?」
「そういうわけちゃうけどな。ところでその頬は、タマの術か?」
祖父に指摘され、美咲は右頬を撫でた。先日、派遣先の後輩と会ったが、美咲の頬からアザが消えたことに気づいた様子はなかった。それだけ玉森の術が自然なのか、みんなアザのことなど気にしていなかったのか、どちらだろう。
しかし、この子たちどうしよう。美咲は二体の人形を抱き上げて見比べる。真っ先に頭に浮かんだのは妙恵寺だったが、和尚は着物のせいで怪我をしている。これ以上妙なものを押し付けるのは気がひけた。うちに置いておくとしようか。そう思っていたら、チャイムが鳴った。誰だろう、こんな時間に。玄関を開けて門に向かうと、小さな人影と大人の影が見えた。美咲は一瞬ぎくりとする。また何か、人間ではないものが現れたのか――そう思った直後、小さな影が口を開いた。
「こんばんは」
ペコっと頭を下げたのはミクだった。傍らに立っているのは、おそらく彼女の母親だろう。美咲は急いで門を開ける。
「体調はもういいの?」
「大丈夫。怪我してるわけじゃないし」
ミクはふるふるとかぶりを振った。美咲はほっとして、どうかしたのかと尋ねた。ミクは母親と美咲を見比べ、こう言った。
「あのね、話したいことがあるの」
美咲はミクと母親を中に招いた。佐一を見たミクは「あっ」と声をあげる。
「会見してたおじいちゃんだ」
「こら、ミク。失礼でしょう。この方は有名な将棋の先生なのよ」
慌てる母親に、佐一がやんわりと言った。
「先生なんて面映い。ぼくはただの将棋好きですわ」
佐一がただの将棋好きだったら、美咲はどうなってしまうのだろう。自分がいると緊張させると思ったのだろうか。佐一はごゆっくり、と言って座を辞した。美咲は母娘に向き直り、改めて用件を聞いた。ミクは美咲のそばに寝かされている人形を指差す。
「これがほしいの」
「これって……人形?」
「うん。元々おばあちゃんの人形だし、いいでしょ?」
しかし、この人形は不要とされて寺に預けられたものだ。美咲は母親の方を見た。母親は困った顔で美咲を見返す。
「一度棄てておきながら、勝手な言い分だとは思います」
「いえ。でも、どうして考えが変わったのか聞きたいです」
「テレビで月神先生の会見を見て……ミクが人形がかわいそうだって言い出して。最近スマホ以外のものに興味を持ったことがなかったのに」
「だって、スマホはおかあさんに取り上げられたもん」
「当たり前でしょう。あんた、あれのせいで誘拐されたのよ」
母親に叱責されて、ミクはむくれた。
「スマホのせいじゃないもん」
「何にしても、あんたにはまだ早いの。だいたいね、親に無断でSNSをやるなんて……」
このままでは論点がずれてしまいそうだ。美咲は慌てて人形をミクの前に並べた。ミクは赤い着物の人形に手をのばす。美咲がすっと人形を引くと、不思議そうな顔でこちらを見る。
「あのね、ミクちゃん。お人形を持っていくなら、二人共にしてほしいの」
「こっちの子も?」
ミクは、山吹色の着物をまとった人形を抱き上げた。彼女はじいっと人形を見つめて、笑顔を浮かべた。
「いいよ。この子がいたら、久美ちゃんと一緒に遊べるし」
「久美ちゃんと仲直りできた?」
「んー。まだだけど、多分大丈夫」
ミクは二体の人形を抱えて、手を振りながら帰っていった。あんなことがあったから心配していたけど、元気そうでよかった。美咲はミクを見送って、家に入ろうとした。すると、クラクションの音が鳴った。そちらに視線を向けると、銀色のセダンが近づいてくるところだった。美咲は心臓を鳴らしたが、あくまで平常心を装った。戻ってきたからといって、歓迎などしてやるものか。セダンはそのまま近づいてきて、美咲の前で停車した。ドアが開き、車から降り立った玉森がにっこり笑う。いつもの通り、黒い着物姿だった。
「どうも、こんばんは美咲さん」
「……何か用?」
「業務連絡ですよ。今日こっちに戻ってきたので。明日からまた、骨董店の営業を再開します」
「へえ、そうなんだ。儲かる仕事が見つかればいいわね」
冷たく言って家に入ろうとしたら、玉森が用紙を突きつけてきた。美咲はそれを受け取って目を通す。バイトを始めるときに書いた契約書だ。
「これが何なの」
「お忘れですか? 僕は雇用主、あなたは雇われの身です」
「薬を盛るような人と働きたくないわ」
「あんなことで怒っていたら、この先やっていけませんよ」
別に怒っているわけではない。呆れているのだ。関係を続けていくつもりならば、何か言い訳の一つでもしたらどうなのだ。美咲は、にこやかな玉森を睨んだ。しかし、彼の表情に変化はない。この男は、何があろうと変化なしか。美咲はふうとため息をつく。
「……わかった。何時集合?」
「おや。えらく素直ですね」
「言い合ってるこの時間が無駄だし」
せっかくいい気分だったのに、台無しだ。早くお風呂に入って寝よう。玉森は十時に集合だと言い置いて、車に乗り込んだ。美咲はピタッと立ち止まり、玉森を振り向いた。
「またね、――くん」
彼の本名を呼ぶと、玉森が虚を突かれた顔をした。その顔を見たら、ほんの少しだけ意趣返しをした気分になった。美咲は微笑んで踵を返し、門をくぐる。
頭上では、夏の星座がまたたいていた。
了
つくもがみ骨董店 deruta6 @satosan
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