嚙み千切る毛のドキュメンタリー

猿川西瓜

第1話 脱毛のビート流れてるやん

 美容外科クリニックは焦げた臭いが漂う。

 

 清潔な白いタイルの床。ターナーの絵画のレプリカが掛けられた白い壁。やや低い天井。白いソファー席は一つひとつが適度な距離を保ち、テレビのほうを向いている。

 大きなパノラマテレビに阪神タイガースの土曜デイゲーム中継が流れている。

 自動販売機は少し安く設定されていて、レッドブルは二〇〇円だった。

 雑誌はメンズノンノやレオンといった男性誌が中心に並んでいる。そこに、常に漂うのは、燃やされた毛の濃密な臭いだ。

 その臭いが換気扇に流れて、素早く室外に排気されているのだろうが、換気の音は、どこからともなく流れるリラクゼーション音楽によって消されている。焦げ臭さの元は、誰かの陰毛であり、すね毛であり、ヒゲである。客層は二十代から三十代の男性が中心だ。

 俺はソファーに深く腰をおろしながら、施術を待っていた。窓の外から見える土曜日の大阪梅田は、夏の装いと冬服が混ざっていて、さらに混沌としていた。何を着ていいのかわからない春だった。


 俺の施術内容は「ヒゲ」だ。一本一本の毛が濃いのであっという間に刃がぼろぼろになる。シェービングクリーム代も馬鹿にならない。替刃代とクリーム代を考えれば、毛根ごとレーザーで焼いて除去するほうが安いだろうと思った。何より、朝に慌てて剃る時間を節約できるのがありがたい。


 美容外科クリニックにメールを送り、カウンセリングの予約をした。個室に通されると、カウンセラーを兼務する看護師があらわれた。「見てください、この血!」と剃刀負けしたアゴ先を彼女に見せつけた。「あら~痛そうですね~」と看護師は眉をハの字にしていた。マスクをしているので、実際は引いていたのかもしれない。

 ヒゲを、毛の流れと逆に向かって剃刀の刃を立て深剃りをしようとすると、刃が毛がひっぱりあげた皮膚まで削り取ってしまい、皮ごと切り裂いてしまう。深く剃ろうとすればするほど、赤い斑点がアゴ下にできるのだ。血が滴り落ちることもある。血液は刃を痛め、たちまちダメにしてしまう。それに、ヒゲは剃ったその日の昼頃になると、もう少しずつヒゲが生えて来ていて、仕事中に爪で抜こうとする動作がやめられなくなる。


 高校時代に、抜いたヒゲを教科書にならべていたK林君の気持ちがよくわかった。アゴに徐々に湧いて出てくるヒゲを、仕事中に受話器の話す部分に当てて、こすって、じょりじょりと音を鳴らすのが快感でたまらなかった。同僚の人々からすると、俺の動作は不潔で不快極まりないものだろう。


 カウンセリングを終え、いよいよレーザー施術の日がやってきた。


 受付に番号を呼び出され、奥の部屋に通されると、毛の燃える臭いがさらに濃くなった。死体を焼くと、まずはこの臭いがするのではないだろうか。生々しい焦げ臭さ。記憶の奥底に……DNAレベルで覚えている気がした。


 カーテンで簡単にしきられた一室に通される。別のベッドで、リズムよくレーザーの射出音が鳴っている。それが幾重にも重なっているので、少し可笑しくなった。

 もう、これ、ビートやん。脱毛のビート流れてるやん。


 上下紫の施術着に身を包んだ担当看護師はひざまずいて自己紹介をはじめた。こちらを潤んだ目で見上げ、まるで従者か下僕のようだ。

「ようこそお越しいただき、まことにありがとうございます」という挨拶から、一つ一つ丁寧に施術内容の説明をしていく。もし肌に異常が出た場合の同意書も取っていく。

「ちゃっちゃとヒゲ燃やしてや!」が、俺の本音であった。が、どこまでも丁寧に説明しようとする献身的姿勢に心をうたれ、「へーそうなんや」「ほほー!」と大げさに相槌をうった。


 この日のために、ヒゲは、逆さに剃らずに、毛の流れに合わせた。肌に傷ができるとその部分にレーザーを照射できなくなるからだ。ゆっくりと口元を撫でると、手のひらに「ジョリ」とタワシに触れたようなひっかかりがあった。ああ、このアゴのラインを思いっきり剃刀で引き裂きたい。ヒゲを剃る時、いつも俺は田んぼをイメージしていた。田んぼの稲刈ではなく、なぜか田んぼを耕すイメージだ。剃りすぎて出てくる血は、田んぼでいえばカエルやミミズなどの生命の象徴だ。皮膚ごと毛根をえぐり取る妄想に幾度もとらわれた。


 はやく、はやく、この毛を、根元から消してみせて欲しい。

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