第2話 血
ベッドに横になる。
目の上に小さなアルミのゴーグルを乗せられた。
看護師が「痛かったら休憩をはさみながらしましょうね、ではいきます。はい、はい、はい」とリズムよく照射していく。
体がしなるほどの激痛だった。
特に、ちょうど鼻の下。いわゆる人中部分では「いっつ……!」と声を出してしまった。痛みで、目から涙が勝手に漏れてくる。痛さで泣くなんて小学校以来だ。
毛穴が焼き殺されていく。火炎放射器に焼かれる人々の姿が目に浮かんだ。
バシ、バシ、バシとゴーグルの隙間ごしに赤い光がまたたく。
施術は十五分ほどであっさりと終わった。顔の周りに、真っ赤なやけど痕が泥棒ヒゲのようにできていた。マスクを持ってきていなかったので、手渡されたアイスノンで一時間ぐらい冷やし続けた。外に出ると、重く湿った空気と夕日がまぶしかった。明日、日曜日は雨だろうか。鼻が慣れてしまい、毛の焼ける臭いは、帰りにはほとんど気にならなくなった。
翌日、人生が変わった。
「ヒゲが……ない……。つるつるや……。太ってる女が、たまに黒いヒゲ生やしてるときあるけど、それよりもずっと薄い。俺は……女の子みたいや。女の子みたいになってる!」
日曜の朝、つるつるのアゴがあらわれた。口元からほうれい線にかけてのふくらみを触るとざらつきが一切ない。
青いヒゲによってあきらめていた、憧れの美肌。いきつけのゲイバーのタケさんにもぜひ見て欲しかったし、触って欲しかった。
だが、どうせ触って貰えるなら、肌を徹底して美しくしておきたい。
美肌にこだわりはじめた俺は、試しに化粧水と乳液を買ってみた。人生ではじめての購入だった。手のひらに化粧水をためて、顔に塗り付ける。母の動作を思い出し、パシパシと、しみこませるイメージで水を叩き込む。それから、乳液をしたたるほど塗り込んだ。朝、起きてみると、肌はさらに滑り良くなっていた。
俺はそれにとどまらず、馬油にも手を出した。ほんのわずかな量ながらも二千五百円もする。それから化粧水は粘性の高いイソフラボン。最後にそれらを閉じ込めるための乳液。
夜、その三つを顔に塗り終えると、「明日、いい日になる気がする」と思えて、安眠効果まであった。
タケさんのゲイバーは心斎橋と難波のちょうど間にある。
「久しぶり~」と出迎えられたあと、すぐに「あら」と驚いた顔をされた。
「きれいな顔しちゃってまあ~」
「でしょ?」
俺は微笑みを浮かべて、席についた。
「学生さんですか」と若いバーテンが言った。
「えへへ」とアラサーの俺はビールを注文して、一気に飲み干した。
「肌に気を付けはじめたもんで」
「すごいじゃない~モテモテよ。それ系が好きな人にはね」
隣に座ったタケさんが言った。
タケさんは眼鏡をかけた好青年で、アゴにおしゃれヒゲを残したゲイだった。ジャニ系の男にもてる人で、プレイに五時間かけるという。五時間もプレイするというところが、俺が惹かれたポイントだった。俺が誘いを仕掛けると、元カレを次々と紹介された。客を食わない人なのだ。
客は客。そこも好感が持てた。機嫌の良い俺はゲイバーに設置されてあるカラオケで、アニメ「攻殻機動隊」の歴代オープニング曲を裏声で歌いまくり、店を出た。
タケさんと別れ際、キスをしようとすると、「あら」と言われた。
「どうしたんすか」
「いや、首に……」
首?
タケさんが俺の首に手をやり、俺も同じようにする。薄く、長い毛がふわふわとたまっていた。俺は青ざめて、慌てて抜こうとした。しっかりと根をはっていて、容易にとれない。
「ここもちゃんと剃らなきゃね」とタケさんは笑った。俺は酔いが一気に醒めてしまった。
首の毛は、剃って二週間は生えてこないが、忘れたころに、目に見えてそこに「ある」のだった。今まではなかったところからの毛の出現に、俺は戸惑った。
喉元に、刃を当てる。喉仏のふくらみにくすぐったい刃が触れる。動かし方を間違えると、キスマークのように、血の跡があらわれる。シェービングの泡を首回りに塗りたくり、剃刀を下から上に動かす。喉をごくりと動かすたび、刃がかすっていく。強く押し付けると、喉の動脈を切ってしまいそうで、手が震えた。息を止める緊張は、やがて剃ることへの苛立ちに変わった。まもなく、俺は首の脱毛もクリニックに予約した。
除去後、タケさんから何も言われなくなった。ただ、俺の首元にキスをすると、決まってとてつもなく渋い顔をした。体から、何か苦味のようなものが出ているのだろうか。自分の腕を舐めてみると、いつも通り皮膚のうっすらとしょっぱい味がするばかりだった。
喉にレーザーを当てられる時、冷たい感触が少し怖かった。喉の毛穴を焼き切るのである。その皮の一枚向こうには、動脈があり、喉仏があり、頚椎がある。
首を、レーザーでさらさらにする。馬油と、化粧水と、乳液を塗る範囲が首まで広がった。薬局に通うペースが早くなったように思った。
夏の朝、汗でじっとりした寝起きの体でシャワーに向かった。風呂場に備え付けられている鏡に、中年に差しかかる手前の俺の体が映る。すると、胸や乳首に、長い毛が、渦を作っていた。
「は?」と、風呂場で大きな声を出した俺は、草をむしるように、乳首に手をやった。なかなか抜けず、爪を立てる。ぬるく設定したシャワーがずっと出っぱなしで、水の音を聞きながら、毛を抜き続ける。会社に遅刻しそうになった。
胸毛は、ワイシャツ越しにも、うっすらとわかるほどの濃さだった。タケさんの誕生日飲みが迫っていた。俺は、ゲイバーに向かう前に、体に刃を立てた。筋肉質でない胸板に刃をそわせる。毛が刃に巻き取られていく。乳首の付近まで向かう。剃り落としてしまわないよう、ぎりぎりまで近づける。チタン合金のその刃の感触と緊張感で、乳首が余計に立った。少しだけ刃が当たった。
「っ」
わずかだが切ってしまう。血は垂れていないが、指先でそっと触ると血がついた。「……」
俺は回復魔法を頭の中で唱えつつ、湯気の中で乳首を大事に触り続けた。
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