第一話 四
『甲子夜話』という江戸時代後期の随筆がある。
筆者は肥前国平戸藩第九代藩主の松浦静山。
甲子夜話は、彼が藩主を退いて隠居した後の文政四年十一月十七日――
その卷之一の二十九に「
「弓の良作と云は、其打出す處より筏にして水下げするに、にべ離れず。濕暑の患なきを以て良作と爲と云」
これだけだと、ほとんどの方には意味が分からないので、少々解説を加える。
江戸前期の弓師に「伊丹庄左衛門」という者がいた。
彼は摂津国伊丹城主、
その子孫も代々弓師として紀州藩に仕えたが、その伊丹家の作る弓が「雁金弓」と称され、名弓として名高かった。
名前の由来は、二羽の雁が上下に並んで飛んでいるような焼印「雁形」が弓の下のところ、今でも製作者名が記されている部分に押されていたことによる。
さて、弓を製作する過程は別名「弓打ち」と呼ばれている。
その材料は竹と木だが、甲子夜話の記述は「弓を打つ前に材料を筏に組んで、水中に置いておく」という意味だろう。
「にべ」というのは、鹿の皮から採れる
夏になるとにべが緩んで弓が歪むこともあったが、伊丹家の雁金は夏でもその誤差を生じさせなかったということらしい。
素材を水中に沈めることで保湿効果を狙ったのではないかと思われるが、その辺は私もさだかではない。
「ほう、即答とはね。正解だよ。今まで日本の弓を探してここにやってきた客は一人もいないから、どれだけ難しい問題なのか私には分からないがね」
店主が感心したように言うと、急に眉を潜める。
「売れればそれなりの仲介手数料は貰えるんだが、元値は分からない。こんな店だから、売れ筋というよりはマニアックな装備を専門に扱っているんだが、こいつは正直扱いに困っていた」
SBさんはそんな店主の様子を見て小さく苦笑すると、少しだげ前のめりになって言った。
「これを作った方のことを教えて頂けませんか?」
店主はさらに眉を潜めた。
「その、私も詳しくは知らないんだよ。ともかく自分のことは殆ど何も語らずに、金はいらないからこれを置かせてくれ、そして名前を言い当てた者がいたらすぐに連れてきてくれ、と言われただけで」
ということで、俺達は店主に連れられて雁金の製作者を訪ねることになった。
*
「すみません。お仕事中なのに」
「どうせ客なんかほとんど来ないからいいんだよ」
じゃあなんで店なんかやっているんだ、というツッコミをしたくなる会話をしながら、SBさんと店主が前を歩いてゆく。
その道すがら、SBさんから雁金の由来について説明された店主は、目を白黒させた。
「あれがそんな大それたものだったとはね。江戸時代後期の名高い逸品か」
「いやあ、仮想現実世界の弓ですからね。現実世界では既に製造されていないものですし、しかも弓は刀と違って竹と木でできているので、経年劣化で後年まで残りませんから。私も実物は一度も見たことがありませんし、どれだけ似せて作られているかも分かりません」
「では、それっぽい焼印を押しただけの単なる模造品ということなのか?」
「いえ、そういうことでもないのです。少なくとも現実世界の竹弓と変わらない構造になっていることは、見ただけで分かります。それに弦を張っていない時の弓の反りが、なかなかに美しい。これは分かっていて作っている方の作品ですよ」
そこまで、SBさんと店主の話を黙って聞いていた俺は、ふと思いついた疑問を口にした。
「どうしてそんなに現実に忠実に作ったんでしょうかね」
SBさんは、意外という顔をした。
「それはどういう意味でしょうか」
それで俺は、SBさんがゲーム初心者であることを思い出した。
「ああ、SBさんはご存じないんでしたね。例えば、俺が背負っている大剣ですが――」
俺は剣を鞘から抜いて、SBさんのほうに握りを向けて差し出した。
「持ってみてください」
「なんだか重そうな剣ですね。ちょっと失礼します」
そういってSBさんは柄を握る。
そして、剣を持ち上げる時に少しだけバランスを崩した。これは重かったからではなく、想像以上に軽かったからである。
「おや。随分と軽い」
「そうでしょう? しかもこれはアダマント製です」
「アダマントですか? 聞いたことがありませんが、ギリシア神話でペルセウスがメドゥーサの首を刎ねるのに使った剣の素材、アダマンティンに似た語感ですね」
「俺はギリシャ神話のほうを知りませんけど、アダマントはザ・ワールド・オブ・メイズで使われている架空の物質です。ダイヤモンドよりも硬い」
「ほう。架空の物質ですか。しかも、ダイヤモンドよりも硬いと……」
そこでSBさんは怪訝な顔をした。
「おや、ではどうやって加工したんでしょうか?」
「やはりそう思われますよね。ザ・ワールド・オブ・メイズにも武器の製造を担当する『生産職』という職業があるのですが、さすがに現実世界と近い作りになっているこのゲームでも、武器製造まで現実通りにしてしまうと無理があるんです。こんな架空の物質が使えなくなりますしね」
俺はSBさんから剣を受け取ると、それを背中の鞘に収めながら言った。
「この剣も、生産職の技術者が素材であるアダマントを必要量集めて、『創造』というスキルを使って形にしたんです。道具を使って加工したわけではなく」
「ふうむ」
SBさんが腕を組んで首を傾げる。そして、すぐにこう言った。
「つまり、アダマント製の弓を想像力で作り上げることが可能、ということになりますね」
「まあ、そうなりますね。ただ、アダマントに弓として使うための柔軟性があるかどうかが問題になりますが」
「素材の性質は影響するのですね。ふむ、これは実に興味深い」
レベルワンからの弓使いライフ 阿井上夫 @Aiueo
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