第7話
今の季節、氷の路は春陽と東風を受けて徐々にではあるが縮小に向かいつつあり、周囲には春泥を多く産出していた。そして、人の交通にとっては塞がっているものの、こちらと同様に氷の路の彼方にも瀰漫している春の清気は、氷の路を通って自在に流れて行き来していた。その様は、自然中万物の栄え繁る春の盛りにもかかわらず、人と人との間ばかりが遮断されているかのようであった。
家を出た清助は、羊腸として氷の路へと続く山路を急いだ。幸運にも、彼は歩む山路の途中で他の村人と擦れ違うことはなく、そのため清助はその土気色に変じた顔相を誰にも目撃されることはなかった。彼は路傍に繚乱たる蒲公英などには脇目も振らずに山路をたどり、ついに山路の終着地に到った。そこは、目の前には山あいの沢が流れる宏大な山間の野であった。季を待つ菜の花や柳絮有さぬ柳が、東風に揺らいでいた。
氷の路のすぐ前を流れるこの沢に架かった太鼓橋を、清助は大股で駆け上った。そして眺望の開ける太鼓橋の天辺に到って立ち止まった。朱塗りの欄干の下には、春の雪解け水によって水嵩がわずかに上がりながらなお澄み渡った沢と、大小様々混じりつつ石瀬を造形する石が、明媚な風光を織り成していた。しかし、清助にとってはこれも見馴れたものであったためか、それとも一刻も早く氷の路の塩梅を閲したいと逸る気持ちによるものか、彼は橋下に一瞥さえもやらなかった。
清助は太鼓橋の上の、傾斜して足場の悪い場所にしかと立ち、その目は氷の路だけを見つめていた。逸るならば止まらずに氷の路へと駆け寄ればよいものの、そこからでも彼には氷の路がほとんど手に取るようにして見えた。確かに、冬の間あれほどまでに雪と氷で堅牢に塞がっていた氷の路は、この春の爛漫が日ごとに近付く今に到っては、日々溶解と縮小を積み重ねており、今や極々小さいものとなっていた。それでも長い冬の間に蓄積された雪と氷は、上辺に堆く積もった雪のみ淡く消えただけであって、氷の壁は依然として人の交通を許してはいなかった。このことは、清助の立つ太鼓橋の天辺から目視しただけでも容易に分かった。
ただ、これは近付いて初めて分かることではあるけれども、氷の壁にその冷たさを冒して顔を寄せて目を凝らせば、ほんのわずかばかり、路の彼岸を朦朧とではあるが垣間見ることは出来そうだった。橋の上にいながらにして、まだ路は閉塞しているという現実を知らされた清助ではあったが、それでも何か義務を遂行するかのように、彼は沈鬱な表情を呈して橋を下り、氷の路の此岸の詰めまで来た。そして彼は薄くとも硬い氷にその両の掌を添えた。そのまま少しの間手を添えていたが、手から氷へと伝わる清助の体温によって解け出した氷が凜冽な水となって手を刺激した。当然、氷に触れ続ける彼にはすぐに我慢の限界が近付いてきた。だが、清助はなかなか氷から手を離そうとしなかった。清助は、氷の路の氷中を覗くように、目を接するほどに近付けた。春になって確実に解け出しているはずの氷ではあったが、氷の向こうの世界は朦朧としてはいるが物の輪郭さえまだ判然としなかった。
清助はというと、氷壁の向こうを朦朧とでもうかがい知り得ることに喜ぶかと思えば、焦躁に駆られた今の彼にとっては、それでも到底満足のゆくことではなかったようだった。ここで、このような行為をしている彼の脳裏には、氷の路と諏訪の神を結び付けて共に崇高なるものとして天然のままに奉ずる当地の信仰に対する畏怖と、それに悖ることへの禁忌が同時に萌していた。このような思想は、この集落ではもはやたどることも出来ないほど長きにわたり民衆の間で涵養されてきたもので、今の清助の精神をも当然のことながら支配していた。したがって、彼に残された選択は、氷の路が解けて開通するのをひたすら待つこと以外、最初から無かったのだった。
だが彼は行動せずには居られなかったのでここまで来た。そしてここで詮方をまったくもって失った。
氷の冷たさを忘却したかのようにしばらく沈思した後、清助はとうとう氷の路から手を離した。そして、それと同時に自らの体も氷の路より幾分退けた。彼の目には名ばかりの春、ともすると秋の愁いに近いものが到来したと見え、見る見るうちに多くなってゆく瞬きの中、彼の目は雪解の始まった路傍の雪のおもてのように、徐々に潤み出していった。しかし、ここで清助はぐっと瞼に力を込めて、潤いが集まり、ついには雫となって土の上にこぼれ落ちることは必死になって防いでいた。彼は太鼓橋の袂まで退いて、うつむいたままその場に立ち尽くした。
孤独に沈黙する清助は、禍しかもたらすことのない戦乱に巻き込まれたというお小夜の身の上を非常に深刻に案じていた。だがそれは、彼女の人身の安否ではなかった。お小夜の人身の安全は既に文の中に記されており、いまさら清助がこれを疑うこともなかった。では、彼の案じつめてなお、答えの見出せないでいたものは何かといえば、それは畢竟、お小夜の操をめぐる攻防であった。彼がこのようなことを真剣に懊悩するには明確な理由があった。お小夜の文の末尾に添えられた文言を、清助は文読む者の常に則って、その意味を決め込んで解釈していた。それによれば、お小夜が今年は訳あって氷の路を通りこの村を訪れることができないかもしれないということは、すなわち、お小夜が巫たる資格かつ氷の路を通る資格であるものを喪失したことと直結していた。そして、大いにその原因となり得る兵乱という条件が揃っていたことも、清助の焦躁に鞭をあげているようだった。
清助は冬の間の先の教練で一緒になった他の地方の兵達を思い返した。特に、清助が営所で辟易とした、雑兵足軽らの淫猥で乱倫な醜態が脳裏にありありと蘇った。お小夜の故郷を襲い、村を焼き、物を奪い、人を戮したのがあのような連中であると思うと、お小夜を清らに想う清助の心は苦悶を伴って大きく揺さ振られるのであった。
午後のまだ日が高い時分に、太鼓橋の袂にたたずんで氷の路と足もととを交互に見ていた清助は、先述の如き懊悩を繰り返しているうちに時の過ぎゆく長さを忘れた。いつの間にか四辺には斜陽が差し込み始め、彼は静かに橋の袂の同じ場所に腰を下ろした。お小夜を案じ続ける清助の思考は、黄昏の中、止まるところを知らなかった。清助がもはや自分でも数え切れない堂堂めぐりの幾度目かを終えた時、氷の路に夜が訪れた。
清助は暗闇の中、氷の路が見えなくなっていることに気付いた。果たしてこれがいつからのことであったかも分からない。ただ猛烈な眠気に見舞われていた。そして深更、彼は静かに目をつむった。辺りは春宵に包まれていた。雪国の遅い春の夜も今日日冴え返ることは稀で、橋の袂の野辺にて清助が眠る間も、生温い風が夜通し氷の解を促し続けていた。
* * *
清助は朝明けと共に目を醒ました。ちょうど、野に瀰漫した春霞がだんだん晴れてゆくところであった。今朝の空模様からは、今日一日がまた雲一つない快晴で煦煦たる春の日となることが推し量れた。清助の眠れた時間はさほど長くはなかった。それでも彼は寝穢い性質ではなかったため、一晩中わずかばかりの動きだけで橋の欄干にもたせていた背中が凝り固まって、いささかの違和感を覚えた。彼は起きてまず、自分が家族の者に無断で外泊をなしたことに罪の意識を感じた。しかも、いくら春といえども野宿とは、かなり危険なことをしてしまったと思った。今頃家族の者、就中、村からは遠方に当たる氷の路という自分の行き先に見当がついているであろう祖母の心配の度合いなど、並大抵のものではなかろうと推測し、申し訳ない気持ちになった。
しかし、ここまで考えた後、清助はこのような早晨に自家へと取って返すよりも、平生の朝が集落に到来する辰の刻ぐらいまではここに留まっていた方がよいと考え、とにかく氷の路の具合を確認することとした。すると清助は突然、自らの口吻や目もとに、朝目覚めた後の不快な脂のまとわりを知覚した。普段ならば、自家から少し離れた井へ水を汲みに歩いて行くのだが、今朝は太鼓橋の下を流れる沢のせせらぎが、彼に爽快な朝を慫慂しているかのように聞こえて来た。清助は目もとをこすりながら橋詰にある石段を下り、朝の清水を流す沢へと下りていった。
沢にて水を被った清助は、精悍な顔つきを呈しながら元の場所へ戻って来た。そして氷の路をちらりと見ると、その顔には不安げな色がわずかに浮かんだが、ついには意を決したように堂堂と、朝日の影を受けて淡紅に照り始めている氷の路へと歩み寄って行った。近付くに連れて清助の目は、朝日差し込む氷からの照り返しによって強く刺激された。
昨夜や今朝のこの春の暖かさならばもしかしたら、開通とまではゆかないものの、氷壁の一層の薄らぎは期待できるかもしれぬと、清助の胸はにわかに弾んだ。彼は氷の路の前の、昨日とまったく同じ場所に立った。その場所は最も氷壁が薄く、そしていち早く春に解を迎えると見込める箇所に当たっていた。そして、清助の思惑通り、氷壁は今朝になってやっと、依然塞がってはいるが見た目にも明らかに薄らいで来ていた。この調子ならば、甘く見積もって今日の午前中にも、春の陽を受けて薄ら氷にまで変貌を遂げるのではないかと思われた。
清助は内心喜々として氷の路に触れた。彼が手を触れた氷の解けた水は、昨日と同じ凛冽さを有していたが、今の彼にとってはまったく異なった、軽い冷たさに感ぜられた。
ところが、暫時喜んでいるうちに、もはや氷の路の溶解と開通を目前に控えた現在に到って初めて、清助の心にはまた新たなる心配が生じ始めていた。それはつまり、たった今眼前に立ちはだかっている氷壁の消失した後のことだった。氷の路が待望の開通を果たした暁には、差し当たり彼の望んでいたことは叶えられるであろう。だがそれは、必ずしも彼の本当にこいねがっていた本望も同時に叶えられるということを意味しているのではないだろう。女子はおぼこな乙女だけが慣習的に通ることを許される氷の路が開通したとして、従来通りお小夜がそれを通ってこちらに来訪するということは、何によっても保証されていなかった。清助はさらに考えを進めて、よしんば村を訪れる巫にお小夜が含まれていなかったとしても、こちらからお小夜に対して直接に、文に書かれていたことの真相を聞くことは出来ないと感じた。それでは自分の不安定な心は完全に宙に浮いてしまって、決して確固とした地に戻ることはないのではないか。そして、ともすると自分とお小夜との今生の別れがひたひたと、この旦夕に迫っているのではないかと思い、気が気ではなくなった。日はとっくに天高く昇っていた。氷の壁は徐々に、折柄吹く東風によって和らげられ、絶えず灑ぐ春陽に解かされていった。
「おおい、清さぁん。やっぱりここにおったんだなあ。おおい」
出し抜けに清助の背後から聞き覚えのある女子の大きな声が響いた。その声は、初音から大分長い間春を遊んだ鶯の、こなれた、だがどこか哀しい声に似ていた。清助は、氷の路の方を向いたままでも既にこの声の正体が誰か分かっていた。だが彼は、まだ遠くにいる呼び手に対して自らも大音声を発して応答することを意図的に避けた。彼とお豊とは、彼が教練へと出立して以来、帰郷して今に到るまでも、立ち話をすることはおろか、会うこともないでいたのだった。出立前に抱えたお小夜をめぐる惣一との揉め事や、清助が村に不在であった間の惣一の病歿によって、清助のお豊に対する胸の閊えはより一層大きくなり、彼をお豊からあえて遠ざけていた。そしてそれが、彼が惣一を亡くしたお豊を思いやり、労ってできる唯一の選択であった。
ところが、今のお豊の声色を聞くに、清助にはわずかばかりであるが以前の親しさを自らの心に取り戻せるような気がした。もちろん、お豊特有の、美貌という裏付けを有した老獪に警戒することも、彼は怠ってはいなかった。ともかく彼はお豊に振り返ることだけは振り返ろうと思った。
清助が太鼓橋の方を顧みると、反り返る橋の天辺にちょうど、春風にそよぐように揺れるお豊の豊胸から上、嫣然たるかんばせまでがのぞいていた。その美しい娘は、
「清さあん、昨日家に帰らなかったらしいのお。皆、心配しておったぞ」と天衣無縫に叫んだ。
お豊は清助から見て橋の左側を、朱色の欄干の上に柔な手を辷らせながら上り、橋の天辺まで行き着いていよいよその全形を顕した。お豊はもはや長いこと笑顔を浮かべ通しであったが、清助には、お豊との長い付き合いの中で自然と育てられた観察力をもってか、彼女の満面の笑みのうちにどこかこしらえの感じを受けた。
彼女が橋を上り詰めた後、事態の進行は速やかだった。清助がかようなことを考えつつ、全形を顕わにしたお豊の容姿からさらなる揣摩の緒を得ようとしているうちに、お豊はまるで翔るかのようにすぐさま彼に近付いて来た。
「皆、心配してるぞえ。なるべく早く帰ってやった方がええよ」
「ああ、分かっとる。でもちょっと、まだおれはここに居なくてはならんのじゃ」
お豊は清助のかたわらに来りて、いつぞやの秋の草刈り時分の如く、今にも彼に寄りすがるのではないかと思われた。往時と一つだけ異なっていたのは、やはり彼女の顔にほのかに浮かぶ哀しみの色を、清助が見ていたことだった。お豊の表情を一目見た後、清助は彼女の目を避けて、彼女のまとう旧い紫紺の小袖と、春風の巻き上げた土埃を宿した褶へと目を落とした。そして、
「そう言えば、よくここだと分かったなあ、お豊。心配はありがたいが、おれぁ、もう少しひとりでここに居たいんじゃ」と微笑みながら言った。
「なんだい、清さん。こっちもせっかくこんな遠いところまで来たんじゃから、もう少し居させてくれろ」
お豊はますます笑ひ栄えて朗らかに言った。その様子はまるで、笑みを防壁として自らの心の核を守る本能的な行動のようにも見えた。
清助はおとなしく、
「ああ・・・そうか・・・。だが本当に少しの間な・・・」とつぶやいた。
そう言う清助の目には、誰の目にも眉目良いものとして映るお豊のかんばせも、以前とまったき同じ様には映らなかった。彼は、お豊が過剰とも思えるほど明け透けに投げ掛けた笑笑ひに、彼女の心時雨るる奥底を垣間見るような思いだった。そしてそれは、まさにお豊の衷心に他ならなかった。
あの惣一との死別の日から今朝この瞬間までも、お豊の惣一に対する哀惜はやまないであり続けていた。そればかりか、彼女の惣一に対する恋慕も、惣一の葬礼や法要が了した現在でさえやむ時を知らなかった。ここでお豊は、
「この様子じゃあ、氷の路はもうそろそろ開くじゃろな」と、東風に緑の黒髪を舞わせてつぶやいた。次いでお豊は清助の横顔へ向き直った。向き直った彼女は、先刻までの嫣然たる様子とは違い、真剣に相手を見詰める表情に変じていた。
「うん、ここらへんの気候も、この通りすっかり春らしく、暖かになったからな。もういつ開いても不思議はありゃせん」
清助は氷の路を見詰めており、まさかお豊の真顔が自分に向けられているなどとは思いも至らないでいた。
「・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・」
春の午前の天が下、並んで氷の路を眺めていた両者は、互いに互いへ掛くる言葉を失った。そのまま、暫時春の長閑が場を支配した。そして、これを破ったのは、やはりお豊であった。
「清さん。お前さん、まさか氷の路を通ってお小夜さんの村へ行こうとは思ってないだろな。通るのは、神様に許されんことじゃぞ。いや、まぁ思い過ごしならいいんじゃが」
お豊は小さい声で、しかし相手には確実に届くように図られた声で清助に問うた。この問いは、それまで春風に優しく当てられていた清助の横顔と直接にかち合ったらしく、声を聞いた彼はほとんど同時に、横にいるお豊へその驚く顔を向けた。彼女の発したこの問い掛けに、清助は大いに狼狽させられた。
「え、何を言うとるんじゃ。氷の路を通れるもんの掟は、おれだってしっかり心得ておるよ。いくら何でも、そんなことは思いもしとらん」
余りにも率爾たる疑問だったゆえ、清助にはこう答えるのが精一杯だった。
「そうかあ、それならいいんじゃ」
お豊は何故か安堵の表情を浮かべていた。この瞬間、清助にはお豊の顔に、先までの美しさと哀しさに加えて優しさといったものを新たに発見したような気がした。清助はたちまち、自分の狼狽する姿を冷静に客観視して、果たして自分が今お豊の言ったようなことを本当に考えていなかっただろうかとの疑念を懐くようになっていた。氷の路を通ってお小夜に逢いに行くということを、彼自身が言葉として意識していなかったことは事実である。しかし、自分が村の禁忌を破って氷の路を通ることは、お豊の口によって言葉として表されるよりも前に、既に清助自身の心の中で感覚や衝動にも似た意思として存在していたのではあるまいか。だから自分はお豊の問いにこれほどまでに蒼惶としたのではないか。そうだとしたら、それはまことに恥ずべき、そして神をも畏れない悖逆な所業である。
ここまで考えて清助は、自らの精神を守るためであろうか、本能的に思考を停めた。清助は何かを韜晦するように、
「そんなこと・・・できぬわ」と言い放って、以後黙りこくった。
清助はいくらお小夜の身を案じていたといえども、この村に彼より禁忌やしきたりに忠実な者はないと言ってよかった。そしてそれは、素朴、誠と直結して、清助の人格に対してさらなる昇華を与えていた。清助達、この集落の村民にとって氷の路は、先のような掟や巫の往来の慣習を有して今に伝えることで、過去と現在を結ぶ一種の象徴であった。
清助は心の落ち着きを取り戻そうとするかのように、再度口を開いた。
「何でそんなことを尋ねるんじゃ。おれがそんな振る舞いに出る奴だと考えたか」
清助はまことに純然たる気持ちで、抱いた疑問をお豊に向かって聞き返していた。
ところがこの清助の問いに対して、お豊は言葉を用いずに、潤みながら春の日差しの光沢を留めたような目で答えた。言うまでもなく、お豊のこの返答は清助にとってまったく予想外の椿事であった。彼はつくろうように、
「いや、おれは怒っとる訳ではないんじゃ。ただ聞いてみたかっただけなんじゃ。悪かった」と、自分でも何故か分からないうちに謝っていた。ところがここで、お豊の口から、これもまた意外な言葉が発せられた。
「いんや、こりゃあ清さんのせいではないわ。ちょっと・・・思い出してしまって・・・」
「じゃあ、何で、そんな」
こう言ってしまった後、清助は、この問いはまことに迂闊だったと思った。せっかくお豊が短い言葉で答えてくれたにもかかわらず、再度自分が蒸し返してはならなかったのだと悟った。しかしお豊は、彼女の意思とは無関係にただ羞恥のためだけに催された微笑を一瞬浮かべた後、潤みを増す目もとに手をあてがいながら、
「もしもお前さんが居なくなったら、婆様が不憫でならぬからな。婆様にとって、清さんは居なくてはならん者じゃから。何もこれは婆様に限ったことじゃあない、お前さんの家族、周りの者、皆そうじゃ。大切な人が居なくなるんは、誰だって、かなしい・・・」と漏らした。続くお豊の歔欷は、四辺の春容と余りに対照的に存在していたために、かえって清助の胸に透明な槌の一撃を直接にもたらすかのようだった。
お豊による、清助の祖母をはじめとする周囲の人々への斟酌は、同時にお豊自身の、惣一に後れた心情を鏡となしているということに、清助は気付かねばならなかったし、彼もまた直感的に気付くことができた。お豊は以前の、美しさを誇ってややもすると倨傲にも映る様から、今では愛人との永訣を経て哀しさと優しさを兼ね備えてなお美しい一人の娘となっていた。そして、そのようなお豊たればこそ、清助の赤心に響く音色を奏でることができたのだった。
清助はつらつら自らを情けなく感じた。かつて祖母から讃美され、自分でも先の教練を経てより強固なものになったと思っていた心が、所詮は成心に基づくものでしかなかったのだと思い知らされた気持ちであった。内省した彼は、今度こそ真摯にお豊に答えようと言葉を探した。ところがその刹那、お豊はまるで清助の内省の了するのを見計らってその意を遂げたかのように満足そうな様子で、
「おれぁそれだけ伝えられれば、もうええ。もう清さんはどっかに行ったりせんじゃろ。なあ、婆様んとこ、早く帰ってやりなよ。じゃあ」と一口に言い切って、続く清助の返答も待たずして太鼓橋へと踵を返した。
彼は初めのうちはお豊を追って自らも太鼓橋へと向かっていたが、その途中、振り向き様のお豊の顔がまだ泣き顔であったのを思い出して立ち止まった。今度は彼が、気丈にかく言ったお豊に対して斟酌をする番だった。彼は瞬時にこれを悟り、お豊をそのまま行かせるべきだと判断した。果たして清助の考えは正しかった。
お豊は太鼓橋の天辺に到ってから、再度振り返った。走った甲斐があり、もはや涙は乾いていた。後ろには、最初自分を追おうとして止めたのであろう、氷の路から少し離れてたたずんでいる清助が見えた。目には沢からの春陽の照り返しが差し込み、耳には沢のせせらぎが聞こえていた。
にわかにお豊の目は、氷の路の解けかけの氷壁に映る、人か馬か、とにかく大きな影の揺らめきを認めた。彼女は満面に歓喜の色を浮かべながら清助に対して氷の路を指し示した。
「清さん、やったな、来たぞお」
清助は突然のお豊の振り返りにそぞろいていたが、続いて飛び込んで来た声と手振りに誘われるようにして、背後にある氷の路を再度振り返って注視した。橋の上なるお豊の目には、振り返った清助の雀躍する様が遠目にもありありと見えるようであった。清助はお豊に手振りで返事をすると、先刻お豊を追って離れた分の短い距離を氷の路へと駆けて行った。清助の背中を見送っていたお豊は、あえて太鼓橋を渡ってその場を後にした。両者は互いに相反する方角へと向かっていたが、その思うところのかわらかなことは、まさに趣を同じにしていた。
春の日の午前はいよいよ終わろうとしていた。天より煦煦として灑ぐ春陽は、駆ける清助が氷壁の前に着くか着かないかのうちに、脆くも路を塞いでいる薄ら氷を解かし終えるであろう。
急ぐ清助が、解けつつある氷を徹して見た先には、馬上に横乗りになって揺られる娘の影が確かにあった。こちらから見るのと同様に、氷の向こうからでも清助の影しか認めることはできないはずであったが、氷の向こうの影はこちらへ親し気に手を振っているようであった。
「おうい、お小夜か。おれじゃ、清助じゃ。おれぁ、ちゃんと待っとったじゃろ。なあ、お小夜」
したたる薄ら氷に映じた影に向かい、彼は叫ばずにはいられなかった。
そして清助は懐かしいお小夜の朗らかな声を聞こうと、風光る春の山の中で静かに耳を澄ました。
了
【小説】薄ら氷(うすらひ) 紀瀬川 沙 @Kisegawa
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