第6話
雪国の遅い春の闌が集落へとその足音を聞かせるようになり、畦道に生える御形がやっと花開いた時節に、清助ら教練に遣わされていた若者達が帰郷を果たした。喜び勇んで帰郷した彼らは、教練の途中のあの突発的な戦にも駆り出されることはなく、そのほとんどが息災無瑕にて故郷の地を再び踏むことができた。だが、清助らは、戦へ駆り出されずとも、理由は明かされなかったがその帰郷にしばしの足止めを食らい、結果として半月ほど教練が延びていた。それでもおよそ三月にもわたる長い教練の中で、彼らが何か害を被ったというようなことはつゆもなかった。畢竟、彼らに損耗がなかったことは即ち、この集落にとっても損耗がなかったということだった。今年初めて集落の口に到った時に彼らが浮かべた表情は、まことに醇なるものであった。
ここで殊に、彼らの様子や立ち居振る舞いにこの長きにわたった教練の苛烈さを偲ばせるものを見出そうとするならば、それはおそらく二つ挙げることが出来よう。
一つは、この教練の前に比べて見違えるほどに一回りも二回りも大きくかつ逞しくなった彼ら若人の体躯である。平生から農作業や閑期の狩猟によって絶え間なく鍛え上げられていたはずの彼らの筋骨は、実戦に備えた特殊な鍛錬を積むことを強いられた結果、平生の隆隆たる様とは明らかに異なった様相を呈するようになっていた。彼らは悉皆、背に阿修羅を降伏するかのような気概を負っており、それは彼らの、ただでさえ鋼のようであった筋骨を、生活に必要な分を超えてさらに強く締め上げていた。
そしてもう一つは、今述べた彼らの頑強な体躯を外殻として、その内側にてひそかに涵養され、内に秘められながらも彼らが何か言動をなす度ごとに外へと滲み出て来ることを禁じ得ない悃篤の情であった。
はたから見れば、今や一廉の地侍として心身共に調された彼らは野においては一様に凛然として、自己及び他者に対しても相応の鍛錬の成果を誇っているかのようであった。
帰還した兵達は取りも直さず、彼らが出立する前までは実質的なこの村の首であった徳田惣一が病み死にしたとの報せを聞いた。そして、帰還した時分にはもはや惣一が歿してから大分時が過ぎ去っていたものの、清助を始めとする、彼らのうち多くの者が、自発的にせよ強制的にせよ、豪勢な造りを誇りながら今やどこか侘びしさを漂わせた徳田家の屋敷へと弔問に訪れたのであった。次いで彼が向かった場所は、徳田家の屋敷とはあたかも対比するように新造された、完成してまだ日の浅い小綺麗な惣一の墓所であった。惣一の墓は、その周囲に多くある、風雨に曝されたままの平凡な村民達の墓や、風雨のために朽ち果て欠けている卒塔婆によって、いっそうその壮麗が際立たされているように思えた。そこで清助達は惣一の冥福を真摯な気持ちで祈っていた。
だが如何せん、彼らは帰郷から今まで延延と、その親族の者達から息災無瑕での帰還を寿ぐ祝詞を浴びせ掛けられ続けていたために、惣一の病歿を過去の一事としてしか認識することができないでいたことも事実であった。無論、彼らが惣一の死を軽視していたというようなことはありえなかった。それでも、惣一の墓を目の前にして暫時黙祷を捧げた後に彼らが見上げた先には、まるで惣一の墓石や周りの卒塔婆から勃興するかのように蒼穹高く翔け上がる美しい雲雀が朗らかに飛んでいた。
そして日は幾たびか繰り返し改まった。
今日はというと、諏訪大社のいわば神領とも見なされるべき当地にても至極小規模ながら、しかと根を張って営まれている禅寺で、法会が催される予定の日に当たっていた。前もって触れられていたことには、今日のこの法会は、この集落における死歿者を分け隔てなく追福することが主たる目的であるという。しかし、実際にはこの法会は先の冬にあえなく病歿した徳田惣一の霊に奉ずるための法要であることは誰の目にも明らかであった。
現に、今日の法会には北陸道は越前国永平寺よりある禅師が特別に招聘されていたが、越前国から信濃国までの路銀は勿論のこと、法会の開催に掛かる費用、さらには吉祥山の勧進に応じての奉加に到るまで、大半を徳田家が負担していたのだった。他所からの拠出に頼っていたのは、ごくわずかであった。
その法会はこの日の午下がりには終結し、清助と彼の祖母を含む列席者多数は皆、長い拘束の末に禅寺から解放されたかのように慌ただしく足早に各々帰路についた。
その帰途、絶えて人気のない辻、あるのは路傍の残雪と、斑に苔むしてちょうど真中のものだけが大きく破損している道祖神の列ばかりと言った光景の辻に到って、清助は自らの前をゆく祖母におもむろに話し掛けた。
「惣一のことは、気の毒じゃったなあ・・・。おれも惣一の吐いた血は見たが、まさかそこまで悪いもんじゃったとは」
清助は、お小夜をめぐる顛末はあれど比較的親しく付き合っていた惣一の死を、自分が里に不在であって直接に看取ってやれなかったことを悔やんでいた。祖母は立ち止まって振り返ることはなかった。ただ、清助に後ろ姿を向け歩き続けながら、
「ああ、病はほんに怖いものだて。おぬしも重々気をつけるがええぞ」と答えた。
「分かっとる。おれは昔から気が弱い方じゃから、少しでも体に変なことがあったらすぐお婆に泣きつくさ」
清助は快晴の春の空を仰いで、戯れるように言った。そして彼はこの言葉を発した後、咄嗟にその歩を緩めた。自らは祖母の後ろを行く身でありながら彼が歩を緩めたのは、自分の弄した冗談に、祖母が振り向いて快活に反応してくれるだろうと無邪気に予測してのことであった。
ところが、祖母は依然として家路を急いだまま、清助を顧みることも笑顔を呈することもなく、
「そうか、それなら心配はないのう。わしもおぬしの健康にはじゅうぶん気を配っとるつもりじゃ。体に少しでも悪いところがあれば、何でも言うんじゃぞ」と言った。
さすがの清助も、祖母のこの、丁寧な言葉とは裏腹な素振りに不自然さを感ずるに到った。彼はまず、祖母のこの態度は何か祖母自身の体調に患いがあってのことではないかと思った。患いに苛まれているために、その心理状態もまた不安定なものに陥っているのではないかと思った。確かに清助が帰郷を果たしてから今に到るまで、彼と祖母の間には、心理上、何かぎくしゃくとしたわだかまりが存在しているようであった。そしてそれは、清助のせいではなかった。彼は、先の冬にこの里を出るまでと何も変わらぬ真心をもって祖母と相対していた。当然、清助の教練からの帰還に際しては、祖母は溢れるように出づる祝いの言葉を述べて、その欣欣たる様は清助が面喰らってしまうほどであった。
しかし、それから幾許かの時が過ぎ、村での以前と同じ生活が再開されると、教練の前後でも清助の方は昔と変わらなかったのであるが、片や祖母の方では、少なからず心境の変化や動揺があったらしく、それはいよいよ祖母の清助への態度にも片鱗を見せ始めていたのだった。
柳の下に参差として並んだ道祖神はもはやすっかり遠のいていた。すると突然、清助達とすれ違うようにして天かけた一羽の目白が、その道祖神の石塚の頂点に留まった。そしておもむろに喉笛を微動させ、柳を仰いで今にも果敢なく啼こうとした。
「やっぱり、惣一の病ってのは、本当のことだったんじゃなあ。おれが村を出てから間もなく重篤になったとはな・・・」
清助は不意に、祖母の憂慮の核心をつくことを口にした。勿論、こう言った清助に何らの悪意もあるはずもないことは、これまでの彼の言動に顕著であった誠に鑑みれば容易に見当がつく。両者においては、祖母だけが清助に対して一方的に負い目を感じていた。そして、祖母の清助に対する態度にまでも影響を及ぼしていたものは、まさに、先の冬に二人の間に繰り広げられた、徳田惣一の病の真偽に関するやり取りであった。
祖母としても一応は、惣一の患いを孫の清助可愛さから疑ってしまったこと自体を、清助が責めるようなことは決してないことは分かっていた。しかし今や徳田惣一の死という証明を掌中に収めた現実それ自体が、清助の祖母の心中に広く濃い影を落としていた。
ここで祖母はついに立ち止まった。だがまだ清助を振り返ることはしなかった。ややあった後、祖母はようやく半身だけを孫へと向けた。そして、野道の脇から彼方まで広がる杉林の深みを無言で見つめていた。自らの前を歩んでいた祖母のこの姿を見て、清助が少し遅れて立ち止まると、彼からかろうじて見える祖母の横顔が動き出した。
「わしぁ惣一に悪いことをしてたんじゃろな・・・。惣一は確かに死に至るほどの病だったのを・・・疑っておった・・・」
祖母は清助に対して半身の構えのままでこぼした。祖母のこの、懺悔の色が濃く滲んだつぶやきを聞き取った清助は、先日来の祖母の心にわだかまっていたものの正体がやっと眼前に姿を現したのだと感じた。そのわだかまりを雲散させるには今が千載一遇の好機であると、鋭く、そして優しく悟った。
彼は半身に構える祖母にあと一歩近付いて、
「お婆、今更そんなことを悔やんでも、せんかたないことじゃ。誰にだって思い違いはあるんじゃからなあ。今は惣一の冥福だけを祈ってやってくれ」と、皺くちゃな横顔を正面に見据えて言った。
かよう清助に言われて、祖母の心中の一障害は今ようやく解消されたのであろうか、祖母は遂に清助と正面向いて相対するようになった。そして、まるで独り言つようにして、
「清助、おぬしは優しい。おぬしなら、どんな苦難も一足飛びじゃよ・・・」と、清助にはその意図がよく解せない言葉を発した。祖母はこの孫とのやり取りの間中、もう一つ重大な事柄を心に抱えていたのだった。そしてそれは、清助にとっては過去だけにとどまらず現今の世界にまで波及しているという点で、惣一の死と比べて万鈞の重みを有していると祖母は考えていた。
祖母はこれまで独断で、お小夜から清助へと宛てられた文の存在を彼に隠し通していた。他の家族の者も、家で一番の年長者たる祖母の意向に従った。祖母は家族の中で最も長く生き存えている身として、あるいは最も長く氷の路と共に生きて来た身として、お小夜の文の末尾に申し訳程度に添えられた文言の意味する所を明察していた。それはつまり、今年お小夜が氷の路を通ってこの集落へと到来することができないということが、清助とお小夜両者の関係に及ぼす影響、取り分け清助の心にとって寄せ来る怒濤となり得ることを恐れていた。無論、祖母の解釈が正しい等という保証はどこにもなかったが、既に祖母の頭中はお小夜の操の黒白に支配されていた。
そして今、ここまでの清助の様子を参照した祖母は、従来の清助の誠実がさらなる鍛錬を経た結果、厳然として至誠にまで研磨されたと判断したようだった。それは、海を見たことのない祖母にも、怒濤を砕く荒磯の岩礁の揺るぎなさのようにも感ぜられていた。
「苦難か。どんな苦難が待っているんじゃろか。今から不安でたまらんぞ。ははは」
先のようなことを思考して惚然としていた祖母の意識を、清助が快活な声で再度呼び戻した。祖母は孫の粛然とした様子を改めて確認した。そして、いよいよお小夜から送られて来た私書の存在を打ち明けようと決心したのだった。今の清助ならば、如何なる難局や葛藤が押し寄せようとも手ずから解決出来るだろうと思った。
祖母は一度、自らの落ち着きを確かめるように呼吸してから、
「清助や、今だから言う。お小夜の故郷が戦で焼けたことと、お小夜が幸いにも助かったことは前に言ったじゃろ。だが、実はのう・・・それからしばらくして、お小夜からおぬしに宛てて、文が運ばれてきたんじゃ」と言った。
「えっ、何じゃと。そ、それは本当か。お婆、何ですぐ言わなかった」
清助は、祖母の声の末尾を掻き消すように素早く尋ねた。こう言う清助の姿勢はやや前のめりになっており、祖母には直視することができなかったが、彼の瞳孔はその見張った眼と共に突如として散大した。
「おぬしに言おうとは思うたが、文の内容が内容じゃったからの」
「とにかく、その文は今いずこにあるんじゃ。一刻も早く中身を知りたい」
清助はもはや、祖母に詰め寄りながら問いただしていた。祖母は清助の顔を見上げた。清助の背後では、春陽が麗らかな光を地へと注いでいた。小刻みに動き続けている清助に合わせて、その春の陽は彼を障りとして祖母に対し隠顕した。そしてその度に、祖母の皺くちゃな容貌には陰日向が生じた。
ちょうど、その顔が日向を迎えた時、祖母は、
「教えるが、これだけは聞いてくれろ。書かれてることは、決して悲しむようなことではないんじゃぞ。それが分かったらええ」と諭すように言った。
しかし清助は何も耳に入らないようであり、静かなうちにも火焔を宿したような重い声で、
「で、いずこにと聞いておる。ええ、お婆」とすがった。
「薬棚の横の壁にある・・・戸棚の中じゃ・・・」
いずれにせよ祖母は清助に手紙の在処を教えるつもりであったが、一応目を伏せ、表情を掻き曇らせながら言った。目を伏せた後は、この季節ところどころに散見される春泥をじっと眺めていた。
すると清助の声で、
「分かった。教えてくれてありがとうな、お婆。じゃあおれは先に行かせてもらうぞ」との声が聞こえた。祖母はこの孫の声を聞いて、それまで漣の立っていた心の安息してゆくのを覚えた。祖母はうつむいたまま、
「だがのう、清助」と話し始め、次いで再度顔を上げると同時に、
「おぬしにとっちゃあ」と続けようとした。
ところが、まだ目の前に清助がたたずんでいると思って話しながら顔を上げた祖母の眼にすぐさま、もはや自分とかなり距離を隔てて驀然と自家へ疾駆している清助の姿が映った。彼は東風を切って走り、疾駆のために風を孕んで空を泳ぐ衣の背を祖母に見せながら遠ざかって行った。
「おぬしは優しい・・・。きっと大丈夫じゃ・・・」
色を正した祖母は、みるみる遠ざかってゆく清助の背に向けてこうつぶやいたが、この小声は彼までは届くべうもなく、煦煦たる春陽に当たってたちまち解けてしまったようだった。
* * *
清助は自家へと躍り入るようにして帰って来た。彼の意識のうちでは、祖母から離れて自家へと帰って来たまでのことはすべて、瞬目の中に行われたことであった。乱暴に躍り入って来た清助の、変わり切った血相を見て、兄夫婦は互いに顔を見合わせた。だが清助はそれに構うこともなく、祖母に言われた通りの場所へと矢の如く走り寄り、薬棚脇の戸棚を必要以上の力を込めて開け放した。引き戸は反対側の桟に衝突して乾き切った音を立てた。
彼は戸棚より隠されていた文を取り出して、まだ唖然としていた兄に、
「兄さん、お願いじゃ、これを読んでくれ。この文には、お小夜の言葉が書かれとる。おれぁ何としても知りたい」と、哀しいほどに深刻な表情を呈して頼んだ。蒼惶もあってか、文に書かれた文字をよくよく改めもせで兄へと渡した清助は、書かれたものがお小夜の手によるものか否かを閲することをまだしていなかった。文盲とは言え、祖母と同様に清助にもお小夜の手を判別するくらいのことは可能であったのだが。もっとも、その文の手がお小夜のそれでないということは特段何か情由の存在を示しているわけではなかった。
兄は祖母を探して四辺を見渡したが、無論いるはずもなかった。観念したと見え、彼は一つ小さく溜息を吐いてから清助の手より文を受け取った。そしてそのまま、お小夜の文の内容を、嘘偽りなく清助に読んで聞かせた。
兄が文を読み上げる間の清助の表情は、お小夜の無事を記す箇所に到っては今更ながら安堵したものとなった。しかし、文の末尾に添えられた、お小夜がもはやこの集落を訪れることはないかもしれないということを記した箇所では、やはり、清助の眉間に急に深い皺が顕れた。兄は文を読み終えたが、要求する清助の迫力に圧され、合わせて三度、同じ内容を繰り返し読み上げることとなった。そして清助は三度、同じ表情の変遷をたどった。
「兄さん、どうもありがとう。書かれとることはよく分かった」
こう言うと同時に清助は、兄に対して顔を背けた。明らかな弟の泣き顔を、兄は弟の隠すままにしておいた。言葉を掛けたりすることもなく、ただ、弟の肩に温かな手をのせた。そしてその手で一度だけ、強く弟の肩を下方へと圧して、おもむろに手を離した。兄のこの動作が、果たして彼の思い通りに清助への慰藉となったか否かは分からない。ただ、清助は自然と前へと歩を進めていた。そのまま彼はとうとう家を出た。
行き先を明確には定めてもいなかったはずであるのに、彼の繰り出される脚は、何かに押し出されるようにして氷の路へと向かっていた。
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