第5話
「惣一様、大丈夫かえ。惣一様。だ、誰か来てくれろ。誰か」
雪景色の中にも浅き春の去れる園生を落ち縁の向こうに眺める、徳田家の奥座敷に、お豊の懸命な声が響いた。お豊は先刻より独り、寝込む惣一の顔を潤んだ悲しげな目で見つめていた。今日の午前中、いつも通り洗濯をなしに山沢へと赴いていたお豊は、その帰路、徳田家の使い人の一人に突然声を掛けられた。そして、静かにそのままついて来るように請われ、徳田家の屋敷の裏手より、ひそかに邸内へと到ったのであった。
今までお豊は、徳田家の家の者からは僻目もて疎まれこそすれ、今日のように呼び止められて屋敷へと具して行かれるようなことは無かった。だが一方で、それだけお豊は惣一の病状に凶なるものが到来したことを熟熟と感じた。家の者が、嫡子惣一の末期をいよいよ予期し、自分と惣一を面会させることで彼の死に目を飾ろうとしているのだろうと思われた。と同時に不謹慎ながら、惣一の末期の立ち会いに、おそらくは惣一自身の要望によってであろう、自分が選ばれたことに彼女は満身の幸福を覚えていた。洗濯の復路ゆえ水を吸って往路よりも重くなって籐籠に収まる荷が、それを担ぐお豊のたおやかな両の肩を虐げていたが、彼女はそんなことも意に介さず一目散に徳田家の屋敷へと辿り着いた。
「どうしました、惣一様に何かございましたか」
先程のお豊の叫び声を聞き付けて、あわてて厨女か何かの端女が座敷へと馳せて来た。その端女がうつろな折敷を抱えたままであったことからも、蒼惶の様がありありと分かった。端女が黄染んだ襖障子を開けて、つまづき掛けながら座敷へ入ると、それと同時に目に飛び込んで来た光景を前にして端女は少時凍り付いてしまった。そこには、寝床の脇に置かれた脇息に肘をつき、前のめりになって咳き込む惣一と、それを抱くようにして支えるお豊の姿があった。ただし、それだけならば病人と彼を介抱する女の姿であったのだが、端女の見たものは、惣一の咽喉から口吻にかけて、さらにはお豊の着る野作業の粗末な厚手の衣にまでほとばしって散った鈍色の吐血であった。それは、今日に至るまで惣一の主たる看病を続け、咳から喀血まで大概の病状を看取ってきたこの端女にとっても、一目見ただけで竦竦としてしまうほどの大患だった。
「素水を、早く。そうじゃ、あと、惣一様の母様と叔父様、他にも家の皆をここへお連れするんじゃ」
お豊は、血に染まった自分及びその四辺にも全く動じることなく、きわめて沈着に端女へ言いつけた。しばらく不動のままであった端女はこれを聞き届けたが、即時には行動を起こすことはできないでいた。その間にも惣一は瞑目したまま気息奄々として、その生命の燈火を儚く揺らめかせていた。
端女は、もはや言葉の慎重な選択や敬語の駆使も忘却の彼方、
「分かった。じゃが、このところ安静な日が続いたもんで、今日という日に限って皆屋敷を留守にしてしまっとる」と、困じ果てて投げ出すように言った。
「そんなこと言っとる時でないんじゃ。いいから、とにかく呼んで来てたも。この場は何とかしとく」
お豊は自分でも不可思議なことに、こう言いながら、前栽において雪を白無垢のようにまとって枝垂れる黄梅を見ていた。そして、その黄梅を共に賞翫し、時折こちらを振り返っては優しく微笑み掛けてくる惣一の横顔を夢想していた。お豊の心中でどうしても結びつかないでいた、瞼の裏の惣一の笑顔と、今の眼下の鈍色の血海が初めて結びついた時、彼女にとっては後者もまた愛おしむべき対象と化した。
ここでようやく、端女は襖障子の整然たる桟に衝突しつつ、奥座敷から躍り出ていった。にわかに浅春の座敷に重篤の惣一と、彼の血にまみれながら彼を抱き締めるお豊だけが取り残された。
「じきに皆も来るぞえ。惣一様、何とか気張るんじゃ」
お豊は、自分の胸へと喀血している惣一の耳に、自らの口吻を接するほど近づけて言い聞かせた。いよいよどす黒い血を吐き始めた惣一は、息つく間もなかなか与えられずにおびただしい数の咳を連続して為す中でも、必死で言葉を発しようとしていた。そして、辛うじて言葉の形を留めた音を、のどから血と共に絞り出した。
「お豊、お豊、ここにおるのか。わしは、おぬしに嘘ばかりつき通しじゃった。ゆるせ、ゆるしてくれ」
惣一は依然瞑目したままであって、今口走っていることも、既に臨終のたわ言に近いものであった。しかしながら、そのたわ言には、生前の言葉の海よりも天山深淵で真理をつき留めるところが確乎としてあった。惣一は苦しみながらもなお続けた。
「せ、清助はわしのために泥をかぶってくれたんじゃ。実のところは・・・わしこそが愚か者じゃった、わしこそが・・・。お小夜に卑しいまねを・・・」
命からがらにここまでは言いおおせた惣一は、ついに言葉を途絶えさせた。その後は少しの間、口も利かず、呼吸もしていない状態でただ時間だけが流れ去った。見かねたお豊は、
「惣一様、惣一様。もうしゃべらんでええから、ただ息をしててくれろ」と、惣一の呼吸を促そうとして彼を強く強く揺さ振って言った。この時、お豊自身の体の揺れによるものか、先程から彼女の目の堰を越えず惣一の血の海へと流れ落ちることはなかった涙が、とうとうその堰を越えた。
「お、お豊。まだ、まだじゃ。まだ続きがある。おるか。行かないでくれ」
惣一は、肺腑そして咽喉から殷殷たる音をもたらす病状の中では不自然なほど静かに、息を吹き返すかのようにして言った。
「わしは余りにも愚かで、お小夜に劣った心を・・・。じゃが、始めから終わりまで、今この時もじゃ・・・本当の心はずっとおぬしのもとにあ・・・」
この尻切れの言葉を聞いたお豊の目元から、今度は幾多の涙が雫となって落ちた。
「嘘ばかりのわしでも、これだけはどうか信じて欲しいんじゃ。頼む、お豊、信じてくれるか」
惣一は、意識は戻らなくとも、苦悶のなか、お豊の着物をつかんで離さなかった。
「分かっとる、分かっとるよ」
彼女は胸に抱く惣一を、体を折り曲げながら優しく見守っていた。お豊の涙は彼女の柔和な頬を伝うことなく、溢れ出て直接に惣一の血の海へ融け込んで行った。惣一の絶え間ない咳が急にやんだ。しかし、やんだといえども依然彼は苦悶しつつ、咽喉を飄飄と鳴らして肩で息をしていた。惣一の咳が一時的とはいえ、やんだために、それまで大きな咳の音に馴らされ切っていたお豊の聴覚はかえって、座敷をおとなう浅き春を研ぎ澄まされたように鋭敏に聞くことができるようになった。彼女の耳をしては、徳田家の奥座敷ならびに園生はようやく早春にふさわしい長閑さを得たかのように聞こえた。惣一を見つめるお豊の目にはその姿は見えなかったけれども、前栽のどこかで谷渡る鶯の初音が細やかに彼女の耳に入った。
未の下刻になってやっと、鎮守の社で臨時に催されていた寄合から、徳田家の人々が屋敷へと帰ってきた。その時には既に、お豊は大いに未練を残しながらも、迫り来る徳田家の人々の帰還に焦る奉公人によって、追われるようにして徳田家の屋敷を出されていた。そして、お豊に代わって端女に看取られていた惣一はもはやかなり深刻な危篤に陥っており、垂死の際にまで到っていた。
その日の半宵、徳田惣一は鬼籍に入った。集落はことごとく喪に服した。
輓近信濃の国に突如として点いた兵火はまだ、峻嶺の稜線に護られたこの村へ拡がるような様相を呈してはいなかった。そのために惣一の葬礼は、平時同様厳かに、悲しみのうちに執り行われた。
人々の墨染めの袖が洗濯されて乾かぬうちに、お豊の絞り尽くしてもなお涙に濡れたままの忍ぶ袖がまだ乾かぬうちに、先に氷の路の彼岸を襲った兵火を報せた村より、再度の使者がこの集落を訪れた。この時にもたらされた文には、目下懸案であった戦が四辺若干の村落を烏有に帰さしめながらも、つい先達て、諏訪両家及び高遠氏による停戦の合意相なって無事収束した旨と、よってひとまずは安心なされたしと言った文言が記されていた。
この使者は、以上のような公式な便りをこの集落に伝えたのと別に、滞在中ひそかに、免田という姓をもつ家の所在を自らの脚で尋ね歩いた。そして、ある朝未き、人目を忍びながらその家へと到り、例によって夙に起きていた免田家の媼に人知れず、お小夜から清助へと宛てられた私書を手渡したのであった。ところが、その私書の筆跡は、受け取った清助の祖母が意味は解さずとも形から確かめるに、見覚えのあるお小夜の手とは明らかに異なっていた。
お小夜はその奉職のために早くから文字を教えられており、成長と共に彼女の知識はますます博くなっていった。一方で、祖母と孫の清助はというと、先祖代々にわたる実際の生活上の経験から、それらを覚えるということはなさずに現在に到った。祖母は、病床に臥している自らの長子を除くと家で唯一文字を解する孫、つまり清助の兄が起きるのを待って、文の大意を解説してもらった。
それによるとその文には、文字はお小夜自身の手ではないとは言え、大まかな意として次のようなことが記されていた。お小夜の故郷はある冬の暁方、突然高遠氏の兵勢に侵攻された。集落へと雪崩れ込んできた足軽雑兵の類によって物は奪われ、村は焼かれ、人々は戮された。お小夜自身はかろうじて、村の要人や生残の者が組織した一隊に加わることができ、戦禍を命からがら逃れて落ち延びた。その後は、弊衣のままたどり着いた近郷の村に仮寓させてもらっていたが、この早春に戦が終わりを告げると、避難民達の中では故郷へと戻ろうとする気運が高まった。人々のこの思いが天へと通じたか、折良く、諏訪惣領家と高遠氏の交渉の末にようやく彼らの故郷から敵兵が撤し尽くした。そして彼らは念願であった帰郷を遂げた。しかし、帰った故郷はほとんど焦土と同じであり、復興には今しばらくの長い時間を要するであろうほどに頽廃した有り様であった。とはいえ、戦の後初めて氷の路が開かんとするこの春の盛りには、平年のごとくこちらから、巫らによる使いがそちらへと参るはずである。ただし、訳あって、自分は巫の一員としてそちらへはゆくことができぬやもしれぬ、というような意味のことがその文には記してあった。
肝心の清助はまだ教練から帰って来てはいなかった。幸いにも、この村より徴された若人の一団は先の戦へ動員されることはなかったということだけが、この集落へもはつかに風聞されていた。清助を含む若人らはもう少し先、まだ浅き春がいよいよ闌けて来る頃に、故郷へと帰還することになっていた。
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