止まった時間
山田沙夜
第1話止まった時間
西へ傾き沈もうとしていた下弦の月を雲が隠した。
真昼の太陽も雲のなかにあって、雲間からヤコブの梯子を下ろしている。一人じゃないときわたしは天使の梯子と呼び、一人のときはヤコブの梯子だと思う。
雲間から射している陽の光を見るたびに、わたしは彼岸への梯子を一段上ったような気になった。上りきるとそこはあの世、彼岸に行き着く。
三〇歳になった今、ヤコブの梯子を何段上ったのか憶えていないけど。
わたしにとって、梯子を上りきったそこはただあの世だし、彼岸だ。天国という言葉は使いにくい。わたしはキリスト者ではないから。
父方の伯母は小さいわたしを日曜学校へ連れて行きたがった。うろ覚えだが、父は根負けして、ときどきわたしを伯母に貸したのだ。
教会には子どもも何人か来ていて、独り身の伯母はわたしを連れているのが嬉しそうで、わたしも嬉しかった。帰りにはお菓子を買ってくれたし。
でも教会へいくたびに、わたしだけ白くて丸くて薄い小さいパンをもらえなかった。
「有希ちゃんは洗礼を受けていないから」
伯母は言った。「キリスト者ではないから」
大人になってもはっきり憶えているのは、あのときのわたしは寂しかったからかもしれない。みんながもらって、わたしはもらえなかった白くて丸くて薄い小さなパン。聖体。
もうあのころの自分のほんとうの気持ちはわからない。
俺もキリスト者じゃないから、そのときは隣の寺の坊さんを呼んでくれ。従兄は笑ってそう言った。
真昼なのに西の空は暗く、東の空も半分ほど雲が隠した。夕方には雨雲に追いつかれてしまうだろう。天気予報を確認して、わたしはちゃんと折り畳み傘を持ってきている。
今日も車を使っていない。最寄りの駅からバスに乗り、絶滅しかけている田舎道の名残りの風景を見つける楽しさを覚えたから。
今は五月。田植えが終わったばかりの、青々と稲が並ぶ田んぼを風が渡っていくのを見ることもできる。
バスを降りてすぐの四つ角を左へ入る。時間が止まったかのように古い家が並ぶゆるい登り坂を歩く。
正面に医往寺が見えてきて、T字路に出る。ゆるい弧をえがく先を見通せない道だ。
医往寺の右側にある隙間としかいえない通路を少し歩くと、従兄の家があるのだけれど、五月のその隙間通路は寺の桜の枝が張りだして、新緑の今、毛虫が頭や肩に落ちてきそうだし、地面に落ちた毛虫を踏んづけそうだし、正体不明の虫に刺されたりしそうだ。
これだから虫出ずる初夏は嫌いだ。とうぜん夏も嫌いだ。
しかたがない。遠回りになるけど舗装された道を歩いて、真っ当に玄関から従兄を訪ねよう。
道の右側には用水路があって、アヒルとガチョウが放し飼いになっている。いつも騒がしい。
ガチョウは用水路から道へ出ているときがあって、追いかけてくるし、通行人にケンカを売ってきては遠慮なく手や足を咬む。咬まれると痛いから気をつけるように、と伯母は口癖のように注意した。
ガチョウに慣れた人は咬まれないように手荒に堀へ放り込むのだ。アヒルが道に出ているのは見たことがない。
道の左側は黒い塀がしばらく続く。従兄、加納薫が一人住む家だ。
黒い塀はじつは八畳の離れ家の壁で、六〇年ほど前は牛小屋だったそうだ。南側に窓がないから蛍光灯を点けなければ昼でも薄暗い。
「泊まっていけ」
と言われても、うつむいて首を振るだけだ。一人離れ家で寝るなんて、どうしたって怪奇な夜になりそうだ。それでも離れ家は築三〇年ほどだけれど、母屋は申請すれば市の登録文化財になりそうな古い百姓家なので、怪奇な夜にもってこいだ。
加納の家はもともと本家なのだけれど、男児が生まれにくいのだそうで、昔は嫁いだ娘の子を養子に迎えることもあったようだ。
戦後はそういうことをしなくなり、寂れるにまかせてでもいるかのようだ。
薫さんの父と祖父もまた一人息子だった。薫さんのおとうさんは穏やかな人だった、とわたしの父と母は口をそろえる。
この家の男子は丈夫な身体を持ち得ず、四〇をいくつか数えて亡くなってしまうのだそうだ。
薫さんのおかあさん、望都子さんが亡くなって三年、薫さんは一人のままだ。
一人暮らしには広すぎる家に、ひ弱な三九の男が暮らすという親戚筋が心配しそうな構図だが、薫さんにそんな親戚はいない。
親戚といえば、薫さんの叔母である母と兄と姉とわたし、たった四人。父方は絶えているという。もしかしたら音信不通か行く方知れずなだけかもしれない。
伯母が亡くなってすぐ、母はわたしを運転手にして月に一度薫さんを訪ねていた。
「かあさんだって運転できるんだから、一人で行けばいいと思う」
わたしは心にもないことを言ってしまう。
わたしが一人で行けばいい、それがわたしの正解。
そういう気持ちが母に伝わっちゃったせいでもないだろうけど、いつの間にかわたし一人で薫さんを訪ねることになっていった。
「だって甥を孤独死させるわけにいかないでしょ」
「もしもし、元気? とか電話すりゃいいでしょうが」
「だってさ……」
「だってさって何よ」
「だってさはだってさなの」
母にしてみれば、望都子さんはたった一人の姉だ。
「ねえさんが死んだだけでも辛いのに。……薫ちゃんにどう接したらいいか、なんだか気が重いのよ」
ほどなくわたしは週に一度は薫さんの家に行くようになった。
そういえば母方の親戚筋も加納家に似ている。
母方は男子が生まれず、婿をとるなんてことをあえてしなくなっていった。年賀状のやりとりもない遠い親戚がいるにはいるそうだ。
父方の親戚がワイワイガヤガヤしてるから、そんなこと気にしたこともなかったけど、伯母が亡くなってじんわりと心のすみで、絶えていく母方の家系という現実にうろたえる。
父方のやかましい従兄弟姉妹たちを大事にして、わたしもうるさい従兄弟姉妹になっていこう。
薫さんのたたずまいは、わたしの心をくすぐり続けてきた。若いころの伯母がせっかく採用された地方公務員の職を辞して、親の反対をものともせず、薫さんの父、悟さんのもとへ走った気持ちを肯定できるほどに。
角を曲がり、離れ家の奥行きの六メートルほどを黒い塀づたいに歩くと、白い小さい蕾をわんさかつけた南天がこれでもかと葉を繁らせている。
車が出入りできるだけの場所を残して、南天と対になるように紫陽花がある。冴えない白っぽい青とピンクの入り混じった花をこんもりつけて、これもおかまいなしに繁っている。
紫陽花から向こうへ高野槙の生垣が母屋と裏庭をぐるりと囲む。
家の前を通る細い道の反対側は用水池で、枯れたのや新緑の葉をつけた蔓草が、転落防止の金属製のネットに絡んでいる。水面に点々と見える赤いかげは金魚だろうか。
無用心にも庭扉はなく、飛び石が母屋の玄関まで無駄にくねりながら続いている。
離れ家の横は駐車スペースになっていて、白い軽トラックが停まっている。ちゃんと洗車してある。夜は軽トラで庭への入り口を塞いでいるらしいが、役目を果たしているのだろうか。
伯母が亡くなってすぐ、セダンは売ってしまったそうだ。
「有希ちゃん」
縁側で薫さんがペットボトルのお茶とグラスと寿司桶を持ってわたしを呼ぶ。
「こんにちは。まだピンポンしてないのに」
「ずっと一人でいると、人の気配がよくわかるんだ」
「毎回、じつは防犯カメラをつけてあるのかと思って探しちゃう」
「あはは……。防犯カメラを設置して一日中カメラ映像の番をしてろっての。勘弁してよ。……吸いものを持ってくる」
寿司桶は松を頼んでくれたみたいだ。焼き穴子から食べようかな。
縁の下には電池式の虫除けが二つ置いてある。
一年草を植えていない庭は、どの季節も花を楽しめるように花木や果樹が植えてあって、伯母が丹精していた。
「昔は鶏小屋があったり、野菜を干したり、選別したり、漬けこんだりと農作業をしてた庭でしょ。わたしには広すぎるの。でも広いぶん、せめて花がないと寂しいわ。花が咲いて、実が成るならなおのこといいでしょ」
伯母の庭は「植えっぱなし」が基本だった。手入れは庭師さんにお願いするからと、むだ使いをしなかった。
広い庭の手入れは費用もかさむ。広いからよけいに手入れが要る。なので季節ごとに苗を植えかえなきゃいけない一年草の草花を避けていたんだと思う。
伯母はわたしに庭に植えた多年草や宿根草の花のなまえを教えてくれた。
「薫を看とることになるかもしれないわね」
その言葉をなんどか聞いた。伯母はなんどもそう自分に言い聞かせて、覚悟をしていたのかもしれない。母は「ねえさんからその言葉を聞いたことはない」と言った。
伯母は息子の死を覚悟しながら、息子より先に逝ってしまった。
石榴の花が咲いていている。枇杷の実が黄色くなっていて、桃は袋がかけてある。それから……。
お吸い物は寿司屋のものだ。小鉢で並んだ漬物や煮物は、「通販だよ。品揃えもいいし、なにしろ玄関まで運んでくれる」
薫さんがキーボードを使うように指を動かす。
「八百屋も魚屋も店を閉めちゃって、一番近いスーパーはあの大型スーパーなんだ。けっこう遠いだろ。おまけに広すぎて買い物するのにひどく疲れるからね」
「じゃあ軽トラは使ってないの」
「あれは戸締りの代わりだよ」
わたしはアハハと笑い、薫さんも笑った。
「薫さん……結婚しないの?」
訊いてはいけないことだったかもしれない。でも訊かずにいられない。
薫さんはニコッとして、「しない」と言った。
「うん」
わたしの頬は緩んでいることだろう。眼をそむけていた自分の本心を見つめた。
美味しくいただいて空っぽになって邪魔になった寿司桶を移動させて、こそっと薫さんに近づいて、腕が触れるほど横へならんだ。薫さんが立ちあがったら、わたしは元気よく立って「お寿司、ごちそうさま」と言って帰ろうと思いながら。
薫さんの腕がわたしの背中からわたしを抱きよせた。わたしはそのまま薫さんにもたれた。
今年もたくさん実って摘み残した金柑の実を見ながら、薫さんが砂糖漬けにした金柑をもらって帰ることになり、桃が食べ頃になったら欲しいだけもらうことにしたり、秋には裏庭の柿を箱詰めにして送ってくれる約束をしたり、食べる話ばかりした。
薫さんは大きく息を吸ってゆっくり吐いた。とちゅうでコホンと咳をした。
「親父が亡くなったとき、俺は二十歳だった。じいさんが死んだのは親父が二〇のとき。ひいじいさんが死んだのは、じいさんが二〇のときだ。ああ、うちはそういう家系なんだと思ったし、俺も二〇をすぎたあたりから自分の体調として納得せざるをえなくなってきた。生まれながらの体質とはこういうことなのかと」
なにを言ったらいいのだろう。
「俺がなにもせず静かに暮らしていけるぐらいの蓄えを、父と母は残しておいてくれた。だから俺は終止符になることにしたんだ」
なにも思いつかないし、なにを言っても的外れになりそう。
わたしは肩にのった薫さんの手に頬ずりした。ものたりなくて、肩にのった手にキスをしようとしたら、薫さんの指が動いてわたしの唇に触れた。その指先にキスをしてちょっとだけ噛んだ。
薫さんは「噛むなよ」と笑いながら、すこしだけつよくわたしを抱きよせた。
わたしたちはキスをした。唇が触れただけのキス。それだけで時間を止めた。
ポツリ、ポツリ……シランの葉っぱに雨が落ちる。雨にうたれた花が頭をさげる。
可憐なピンクの花のヒルサキツキミソウの群生は、自生で居ついた野良だと望都子さんが嬉しそうに言っていた。ヒルサキツキミソウの花々が雨にゆれている。
これからはチェリーセージにタチアオイなどなど、この庭は夏に向けてさわがしくなっていく。
だいじょうぶ。今日の雨はひどい降りかたをしないでくれそうだ。
「タクシーを呼ぶよ」
「傘を持ってきてるからだいじょうぶ。この時間なら二〇分に一本バスが来るし」
「なら、バス停まで見送る」
薫さんが軽トラで庭の入り口を塞ぐ。とはいうもの、誰でも留守を狙って出入りできる隙間がありすぎる。
わたしは傘をバッグに入れたまま、薫さんの傘に収まった。
あの五月から二度五月を迎えた秋の終わり、薫さんは逝ってしまった。
土曜の朝、わたしが窓を半分開けた軽トラを運転して、隣で薫さんが髪を風に遊ばせながらうとうとしていている夢を見た。眼が覚めると外は暗く、まだ五時だった。
ひどく胸騒ぎがして、大急ぎで身支度した。
出かける寸前、母が起きてきて、「ねえさんの夢を見たの」と言った。
「うん」わたしは大きくうなずいた。
「わたしは今から薫さんのところへ行ってみる。なにかあったらメールか電話するから、かあさんはとうさんと来て」
なにかあったら、なにかあったらそのときは、わたしは一人でいたい。薫さんと二人でいたい。
軽トラが庭への入り口を塞いでいる。庭は朝を迎えていた。
縁側の雨戸はもう戸袋のなかにしまってあって、薫さんは縁側に腰かけていた。わたしを見て、右手をちょっとだけ上げた。
おはよう
「おはよう」
軽トラを離れ家の車庫に入れ、乗ってきた車を庭に入れる。車がすこし触れただけで、赤くなった南天の実がパラパラ落ちた。
はやる心をなだめながら、さりげなさをよそおって薫さんの横に座った。
薫さんの身体がもたれてきて、そのままくずれるようにわたしの胸に倒れた。
薫さんがうっすら眼を開けわたしを見たように、かすかに微笑んだように、唇が「おはよう」と動いたように……見えた。
「薫さん」
薫さんの身体は温かい。けれど身体はだらりと力がなく、胸は動かず、息もない。
「薫さん、おはよう」
わたしは救急車を呼び、それから薫さんを抱いてその胸に顔をうずめて泣いた。
加納家の菩提寺はお隣の医往寺で、お葬式は天国から梯子が下りてくる余地などない天気のいい日だった。薄いすじ雲がところどころに流れていた。
わたしは梯子を何段登ったんだろう。ヤコブの梯子などそうたびたび見られるものじゃない。見るたびに「一段上がった」と思うだけで、その一段が何段めの一段だったかなんてほんとうは気にもしてこなかった。
止まった時間のなかで梯子だけは消えてしまった。薫さんはや天国への梯子を上がったことがなかったのだから。
加納の家を市へ寄贈しないかと内々の打診があって、母は承知した。資料館になり、地域のコミュニティセンターとしても使われる予定だそうだ。
わたしは庭の樹木と草花はできる限り残してほしいとお願いした。
薫さんとわたしが止めた時間は、動きはじめたわたしの時間が内包し、止まったまま在り続けている。(了)
止まった時間 山田沙夜 @yamadasayo
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